プライベート・ウォー
映画『プライベート・ウォー』の感想&考察です。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。

原題:A Private War
製作国:イギリス・アメリカ(2019年)
日本公開日:2019年9月13日
監督:マシュー・ハイネマン

プライベート・ウォー

あらすじ

イギリスのサンデー・タイムズ紙の戦争特派員として活躍するアメリカ人ジャーナリスト、メリー・コルヴィンは、2001年のスリランカ内戦取材中に銃撃戦に巻き込まれて、左目を失明してしまう。黒い眼帯を着用し、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみながらも、人びとの関心を世界の紛争地域に向けたいという彼女のジャーナリズムへの思いは強まっていく。

ネタバレなし感想

ジャーナリストという職業

国境なき記者団が発表する「世界報道自由度ランキング」は先進国の中でも最低クラスで、ジャーナリストへのバッシングも絶えない日本では、あまり大衆の関心が向いていないのをヒシヒシと感じますが、そんな無頓着な私たちをよそに、今、世界では「報道の自由」が大きく脅かされています。

科学や歴史を好き勝手に否定するポスト真実の時代に突入した社会、権力者はサウンドバイトを発信して狂乱的に支持を集め、大手マスコミ企業はゴシップ・スキャンダルばかりを追い求めるハイエナと化し、ネットは対立を煽る者が力をつける場所になり…。

そんな時代だからこそ、「ジャーナリズム」を題材にした映画が作られ続けています。

最近の作品を挙げると『記者たち 衝撃と畏怖の真実』『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』『タクシー運転手 約束は海を越えて』、邦画でも『新聞記者』が一部で話題になりました。


しかし、これらの映画では政治的なテーマばかりがクローズアップされ、そもそも「ジャーナリストとは何なのか」という主体者のリアルな存在が目立ちにくいです。先に挙げた映画もジャーナリストのリアルな実像を描いてはいるのですが、どうしても観客の目はもっと作品を囲んでいる大枠の問題に目がいってしまいます。

厄介なことにジャーナリストという言葉は濫用されがちで、それこそ「映画ジャーナリスト」なんて肩書を名乗っている人もいますし、個々人で何をもってジャーナリズムだと思っているのか、その答えはバラバラ。そのせいで、あるジャーナリストが反感を買う事態になったとき、“他の全てのジャーナリストも同類だ”という巻き添え的な批判を受けることさえあります。

こういうときこそ、冷静になってひとりひとりのジャーナリストの姿をちゃんと見つめることが大事だと思います。面倒かもしれませんが、“知る”っていうのはそういうことじゃないですか。

ということで、本作『プライベート・ウォー』です。

この映画は、数あるジャーナリズムを題材にした映画の中でも、ひときわジャーナリスト個人にスポットをあてたプライベートな作品で、政治的な論争や社会派なサスペンスなどは驚くほど最小限にカットされています。

具体的には「メリー・コルヴィン」という実在のジャーナリストの伝記映画です。彼女は隻眼の女性ジャーナリストとして業界では有名で、いわゆる「戦場ジャーナリスト」として紛争地帯に足を運んでいました。そのメリー・コルヴィンは、なぜ戦場ジャーナリストという職業にあれほどのめり込むのか、一体何がしたかったのか…その実態が生々しい映像とともに映し出されます。ひたすら彼女自身の内情に向き合っていく作品であり、戦争映画的なスケールはありません。まさにタイトルのとおり「プライベート・ウォー」ですね。

『プライベート・ウォー』は監督も特筆すべきところ。監督は“マシュー・ハイネマン”です。彼はここ最近で非常に高い注目を集めているドキュメンタリー作家のひとりであり、メキシコ麻薬戦争の実態を追った『カルテル・ランド』、シリアの市民ジャーナリスト集団の活動に迫った『ラッカは静かに虐殺されている』がいずれも国際的に評価されています。これらのドキュメンタリーを観た人ならわかると思いますが、とにかく衝撃的な内容で、単なる教育的な社会問題の解説というよりは、タブーにすらも容赦なく切り込み、一般的な善悪論をひっくり返すことも辞さない、凄まじいリアルの暴力を見せてくる…そんな作家性です。




そんな“マシュー・ハイネマン”監督が初めて長編劇映画に取り組むということで、これは心がザワつくのもしょうがないものです。一体どんなものを見せられるんだと心構えをして臨んでみたら、意外に今回の『プライベート・ウォー』は、“マシュー・ハイネマン”監督の人間味が感じられる、題材に比較的寄り添った(あくまで比較的ですけど)作品になっていました。

“マシュー・ハイネマン”監督のインタビューなどを見ていると、彼自身も今の世界のジャーナリズムの危機を実感しているようで、この作品の製作の動機になっているとか。そうした彼の心が作品に投影されているのかもしれません。

ちなみに製作には“シャーリーズ・セロン”もクレジットされています(出演はしていません)。

主演は“ロザムンド・パイク”。『ゴーン・ガール』で大絶賛を受けた女優ですが、『プライベート・ウォー』では180度異なるスタイルでの熱演を見せており、新しい演技力を見せつけるインパクト。ベン・アフレック程度なら5人は殺せるオーラを放っています(えっ)。ゴールデングローブ賞での主演女優賞(ドラマ部門)ノミネートも納得。

“マシュー・ハイネマン”監督のこれまでのドキュメンタリー作品とはアプローチは異なれど、威力の高い映画であることには変わりないので、爆風に吹き飛ばされないようにしながら鑑賞してください。

オススメ度のチェック
ひとり◎(衝撃作を見たいなら)
友人◯(関心のある者同士で)
恋人△(恋愛気分ではない)
キッズ△(リアルな残酷描写)

予告動画






↓ここからネタバレが含まれます↓





ネタバレあり感想

サーベルタイガーのように

『プライベート・ウォー』は政治や社会問題を扱う映画ではなく、メリー・コルヴィン個人の人生に焦点をあてた作品です。なので、作中で彼女が足を運んでいく紛争地帯がいくつも登場しますけど、そこで何が行われているのかというバックグラウンドはあまり見えてきません。

例えば、コルヴィンが左目の視力を失う事件が起こる2001年のスリランカ。多民族国家であるスリランカでは、シンハラ人とタミル人の対立が激化し、シンハラ人による民族浄化的な行動に反旗を翻すタミル人は「タミル・イーラム解放のトラ」を設立し、武力で抵抗していました。コルヴィンは戦闘の最前線で取材中にこの攻撃に巻き込まれ、自分のすぐそばでRPGが直撃し、重傷を負います。

でもこれらの紛争事情は観客が知らなくてもいいように作られています。少なくとも知らずとも、物語の理解に悪影響はありません。知るべきは彼女が危険な紛争地帯に自ら赴いて怪我をした…という事実だけ。

この非常に冷めた映画の視点によって、コルヴィンがなぜ紛争地帯に行くのか?という問いかけを観客に自然と抱かせるようになっており、これだけでも本作のスタンスがよくわかります。

あんな事件に遭ってもなおもアイパッチで紛争地帯に行くコルヴィン。ここから紛争地帯と日常のシーンが交互に切り替わりながら、時間が進んでいきます。ここで演出として面白いのは、最初はパッと画面が切り替わったり、華やかさが全然違ったりと、明らかに紛争地帯と日常の区別がつくようになっているのに対し、物語が進行するにつれ、その区別が曖昧になっていくという点。

後半になると、爆弾も銃もないはずの彼女の日常さえも、どこか虚ろげで、危険に満ちているような気がしてくる。不安な重い空気に包まれて、こっちの息まで苦しいです。これはもちろんコルヴィンがPTSDを患い、戦場と非戦場の境が崩壊していることを示す演出。

一方で、終盤の2012年、シリアのホムス地区。銃声と爆発音の中、天井がボロボロと崩れて、今にも建物が倒壊するのではないかという環境。普通の感覚だったらパニックになりそうなところ、コルヴィンは黙々とレポートをまとめ、チャンネル4、BBC、CNNへの同時ライブ中継に臨みます。眼帯の彼女は視力だけでなく、目の前の危険さえも感じ取れない人間になったのか、それとも…。

この序盤からラストまでのコルヴィンという人間の姿の変移を見ることで、彼女はジャーナリストとして究極すぎるまでに進化しすぎたんだなという気もしてきます。ゆえに命を落とすことに…。

コルヴィンのそんな最期に至る過程を見ていると、私は「サーベルタイガーみたいだな」と思ってしまいます。この太古に住んでいた肉食獣は、獲物を狩るために上顎犬歯がサーベル状にどんどん巨大化するように進化し、なかなかにギョッとする風貌になったわけですが、そんな極端な進化も功を奏することなく、生存競争に負けて絶滅してしまいました。

それと同じ。進化しすぎると死ぬ。コルヴィンは戦場ジャーナリストのサーベルタイガーです。

あなたの物語を書きたい

結局、コルヴィンはなぜ戦場ジャーナリストになり、戦場ジャーナリストとして死んだのか。別にサーベルタイガーではない、別の動物に進化すれば良かったはずです。どうしてその道を選ばなかったのか。

私たちそういう職業と直接関わりのない一般人は、こうした戦場ジャーナリストに対して、しばしば理解不能な感覚を抱きます。その認識できない存在性があるからこそ、場合によっては「金目当てだ、名声目当てだ」「自業自得の愚か者だ」とジャーナリストを平然と見下すことも、世の中では見られます。

でも、『プライベート・ウォー』のコルヴィンの姿を見ていると私利私欲でも無知でも何でもないことがハッキリ伝わります。作中で彼女はブリティッシュ・プレス・アワード(British Press Awards)の優秀外国人記者に選ばれるなど華々しいキャリアを手に入れていましたが、当の本人はどこか空虚。この賞に盛り上がる周囲と、そんな熱狂にのりきれない冷めたジャーナリスト当人とのギャップを描くシーンは、『ラッカは静かに虐殺されている』でもありましたね。

コルヴィンが戦場に駆り立てられていく理由は彼女自身もよくわかっていません。戦場中毒と呼ぶべきように戦争に依存してしまったのか。

しかし、コルヴィンは明らかに戦争を嫌い、戦争が無くなってほしいとさえ思っていました。そういう意味では依存症なんかとは全然違います。

この『プライベート・ウォー』のコルヴィンの動機に対する答えを示していました。それは彼女が紛争地帯で苦しむ人たち(とくに女性たち)に対して向けるひとつの真摯な言葉。「あなたの物語を書きたい」…この一点に尽きます。

世界には声を出して言いたいことがあるのに、誰もその声に耳を傾けてくれない、もしくは声を届ける手段に恵まれない人がたくさんいます。声が届かなければ、その自分の苦しみや体験した悲惨な出来事は“無かったこと”になります。それを防ぐために彼女は自分自身さえも犠牲にして、危険に身を投じます。

つまり、コルヴィンが戦場に行く理由は、究極的なフィランソロピーに他ならないわけです。私たちも例えば、遊園地でひとり泣きじゃくっている子どもを見かけたら「どうしたの? 迷子?」と声をかけるでしょうし、道端で倒れているお年寄りを見かけたら「大丈夫ですか。救急車を呼びますか?」と心配するでしょうし、野良猫が殺処分されそうになったらなんとか飼い主を見つけるために行動するでしょう。それと本質的には同じ。迷子の子どもも、倒れたお年寄りも、野良猫も、自分で声をあげることができません。だから他者が助ける。それが支え合い。

コルヴィンのその極限の献身は、今の荒んだ排外主義の中で無関心に生きている私たちの心の片隅に押し込めたはずの罪悪感を刺激します。そして、はるか遠くの異国で起こっている戦争を、私たちにとっても“プライベート・ウォー”にさせてしまう。そんな映画が本作なのかもしれません。

プライベート・ウォー

安易な賛美はしない

一方で、こここそ“マシュー・ハイネマン”監督の真骨頂ですが、いくらコルヴィンの献身的な姿が心をうつからといって、安易なジャーナリスト賛美の映画には絶対にしないのはお見事です(その点、日本側の宣伝文句でいけしゃあしゃあと「挑む女は美しい」なんて書かれているのはガッカリですが…)。

『プライベート・ウォー』はとにかく抑制の効いた撮り方をしていて、コルヴィンに安直に感情移入させてはくれません。例を挙げると、紛争地帯でのシーンでは、カメラの動きがそこにカメラマンが同行しているかのようにセットされており、まるでコルヴィンが(実際は役者の演技なのに)次に何をしでかすか本当にわからないかのような錯覚を与えます。ちょっとモキュメンタリーっぽいです。

また、日常パートでは、コルヴィンがPTSDで狂っていく姿を、部屋下に固定したようなカメラでじっと映し出しており、これなんて盗撮映像に見えなくもない。

撮り方がジャーナリストの視点そのものなんですね。だからコルヴィンが生命を脅かす一線をズンズンと越えていくのも、どこか引いた距離で見せられます。

明らかに危険な場所だとわかっているのに突っ込んでいく人物を描くといえば、近い公開時期の作品で『フリーソロ』というドキュメンタリーがありました。これは命綱無しで900mを超える巨大な岩壁を登るクライマーに密着したもので、こちらも撮影者が対象人物の行動を一定の距離でただひたすらカメラにおさめていくという感じで似ています。


しかし、『フリーソロ』はあくまで自己満足の世界。対して『プライベート・ウォー』のコルヴィンは自己犠牲の世界であり、ニュアンスが変われば、見る側の向き合い方も変わってきます。

コルヴィンは取材先で当然のように“嫌なモノ”をたくさん見ます。地中に埋められていた白骨化した死体と、それにすがりついて嘆く遺族。IEDで横転した車と、たくさんの遺体。爆撃で死亡した仲間のジャーナリスト。

普通は取材対象として感情をシャットアウトして割り切るのでしょうけど、彼女はそうはしません。自己満足の世界ならばゴールには上手くいけば幸福が待っていますが、自己犠牲の世界ならばゴールに待つのはのみ。

作中でコルヴィンがアルコールに溺れ、セックスに無心する場面が幾度も登場しますが、たとえ全裸でもその姿は扇情的ではなく、これらは死と隣り合わせの生に必死にしがみついているようにも見えます。

こういう描写ができるのも、自身もジャーナリストとして“嫌なモノ”をたくさん見てきた“マシュー・ハイネマン”監督ならではの視点なのでしょう。

ジャーナリストとしての宿命というか、呪いのような側面も、目を逸らすことなく、真正面から描ききる。『プライベート・ウォー』は、“他人の声を聴き、自分の声は出さない”戦場ジャーナリスト当人の声を引き出す、ジャーナリストを取材するジャーナリズム映画としてのあるべき姿があったといえるのではないでしょうか。

ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 89% Audience 64%
IMDb
6.7 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 7/10 ★★★★★★★

関連作品紹介

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↑『ラッカは静かに虐殺されている』…同じくマシュー・ハイネマン監督作。市民ジャーナリズムの過酷な現実を映し出すドキュメンタリー。
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