サスペリア
映画『サスペリア』の感想&考察です。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。

原題:Suspiria 
製作国:イタリア・アメリカ(2018年)
日本公開日:2019年1月25日
監督:ルカ・グァダニーノ

あらすじ

1977年、ベルリンの世界的舞踊団「マルコス・ダンス・カンパニー」に入団するため、米ボストンからやってきたスージー・バニヨンは、オーディションで振付師マダム・ブランの目に留まり、すぐに大きな役を得る。しかし、マダム直々のレッスンを受ける彼女の周囲では不可解な出来事が続発し…。

ネタバレなし感想

新生「サスペリア」の開演

子どもにホラー映画なんて見せるべきではないという人がいます。

気持ちはわかります。変にトラウマを抱えて、夜に眠れなくなるなど生活に支障が起きたら困ります(まあ、怖がりな子はそもそもそんなホラーを観たがらないでしょうけど)。ある人は、そういうコンテンツは暴力的だから子どもに悪影響を与えて、非行や犯罪の原因になるんだと主張する人もいます。科学的な根拠があるのかどうかは置いといて、そういう意見も無下にはできません。

でも世の中にはその「ホラー映画を観た」という出来事が強烈な原体験となり、人生における職業の大きな成果につながることだってあるのです。

そんな運命的ともいえる子ども時代の映画鑑賞を経験したのが“ルカ・グァダニーノ”でした。

“ルカ・グァダニーノ”は13歳のときのある晩、イタリアの国営テレビで『サスペリア』が放送されたのを観て衝撃を受けます。そりゃあそうです。ダリオ・アルジェント監督が1977年に手がけたあの『サスペリア』ですよ。一度観れば「なんなんだ、これは」と驚きを隠せない、ショッキングでアーティスティックな前衛的ホラー映画です。大人でさえ「よくわからん」と匙を投げる人だっています。

しかし、ルカ(13歳)はこれで自分のクリエイティブ欲を開花させたのでした。まさかこの子が後にアカデミー賞をはじめとする世界の映画賞を総なめにする作品を生み出す名監督になるとは想像もつかなかったでしょう。

そしてこの“ルカ・グァダニーノ”はその大切な体験から数十年が経った今、『サスペリア』を自分で再映画化するチャンスを手に入れたのです。そうした経緯で生まれたのが本作『サスペリア』

タイトルは同じ。ところが中身が全然違います。よく本作を評するうえで言われているのは「リメイクではなく再構築だ」という表現ですが、監督曰く「“ルカ・グァダニーノ”のサスペリア」だとのこと。まさにそのとおりで自己流のセンスであの怪作を見事に換骨奪胎してしまったのです。

ちょっと抽象的な言い回しばかりになってしまいましたが、ネタバレを避けるにはこうするしかないのでしょうがない。一応、言っておくならば、過去作を観ておく必要はありませんし、本作が初サスペリアだとしてもOKです。でも、オリジナル版を観ている人は序盤から「えっ」と驚く展開だらけで、物語の着地点が読めてこない、なんとも不思議な体験ができます。

“ルカ・グァダニーノ”監督の名は、17歳と24歳の青年同士の恋を甘酸っぱく切なく描いた『君の名前で僕を呼んで』という作品によって知名度が上がったので、その映画から本作『サスペリア』に興味を持った人もいるかもしれません。
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『君の名前で僕を呼んで』は“ルカ・グァダニーノ”監督作の中ではクセの少ない部類だったため、『サスペリア』はびっくりすると思いますが、こういう作家性が本来なんです。『ミラノ、愛に生きる』や『胸騒ぎのシチリア』など過去作に通じる奇抜なセンスがさらにパワーアップしているので、一般ウケは絶対にしないでしょうけどね。

出演俳優は豪華で、主人公を演じるのは最近は『フィフティ・シェイズ』シリーズで若干不評を背負ってしまい不運だった“ダコタ・ジョンソン”。今作では静かな怪演を披露。日本でもファン人気の高い“クロエ・グレース・モレッツ”も出演。今作では心配になるレベルのやっぱり怪演を披露。ただ、もっとも怪演なのは“ティルダ・スウィントン”だというのは、誰もが納得するはず。今作では1人3役を任せられ、“ヤバい”と絶句するしかない全身変貌型の演技を見せます。

オリジナル版と同じキャッチコピーの「決してひとりでは見ないでください。」を採用していますが、いわゆる心底怖がらせる作品ではありません(残酷なシーンは多々あるけど)。私の個人的な感想としては「感動的」と言ってもいいと思いますが…そのへんは個々人でどう思うかですね。

つまり、何が言いたいかというと、自分の子どもに名映画監督になってほしいなら、本作を観せましょう(極論)。

予告動画






↓ここからネタバレが含まれます↓





ネタバレあり感想

オリジナル版の解釈

まずは私がオリジナル版をどう見たのか、その観点について書いておこうと思います。おそらくリメイクである本作は、オリジナル版を鑑賞した人ならば、その原点をどう解釈したかで評価も大きく変容するでしょうから。

困ったことにオリジナル版は明確にこれを描いています…という解答がありません。私はそれこそ夢の世界みたいだなと思ったものです。冒頭から最後まであまりにも現実離れした映像の連続。まるで精神分析学の権威「ジークムント・フロイト」の夢判断を観客がさせられるような感覚です。

夢、フロイト、女性、狂気…これらのワードから私はあるエピソードを思い出しました。それは「ヒステリー」に関すること。実は古来から女性の身体的不調が原因によって起こるのがヒステリーだと考えられてきました(ヒステリーの語源は「子宮」を意味する単語です)。しかし、それに異を唱えたのがフロイトです。ヒステリーは心因性のもとで、男性でも起こるのでは?と、発表。当時はボロクソに批判されたようですが、今は“女性特有”という偏見的な視点も改め、「ヒステリー」という言葉自体が学術的には死語になりました(日常では相変わらず使われていますけど)。「怒る女性=病気」という認識があった事実については『フェミニストからのメッセージ』などのドキュメンタリーを見ると当時の状況が窺い知れます。
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そしてオリジナル版『サスペリア』はまさに女性のコミュニティの狂気を描いた作品であり、ヒステリックな狂気を孕んだ映画です。主人公のスージーはバレエ名門校に入学し、恐怖体験をしますが、最終的にその学校から脱出します。私は、これは当時の社会の考えだった、女性が抑圧から解放される過程(ヒステリーの治療)そのものを映し出しているように思えたんですね。

加えて、オリジナル版はトマス・ド・クインシーの小説「深き淵よりの嘆息」をモチーフしていることが知られていますが、トマス・ド・クインシーは「芸術の一分野として見た殺人」という評論も書いている人であり、映画もまさに残忍な行為をあえてアーティスティックに表現しています。

この組み合わせこそが、当時にとってフレッシュで斬新な『サスペリア』という魔物を生んだ根源だったように思います。

新版で焼き払う抑圧とは…

以上は、私の勝手な考察です。ただそれをベースに話を進めるならば、オリジナル版は“抑圧”、今の視点で言えば“旧時代的なもの”を焼き払うというラストであり、激しい雨の先に新しい人生が待つ希望すら見えます。

では、リメイク版ではどうするのか。当然、同じことを繰り返すわけにはいきません。今の時代に作るなら焼き払うべきは何か、救うべきは何か。ベタに男社会からの女性の解放というフェミニズム全開の映画にしてもいいですけど、そもそも『サスペリア』は男性を排除した女性コミュニティを描いているので、それも作品に合いません。
 
そこで本作は、焼き払う対象を、再び頭角を現してきた差別主義的なナチズム・ファシズムに設定し、それに苦しむ人々を救うべきと捉えた…この視点が本作の土台になっています。

なので、オリジナル版にあった夢のような現実離れした世界観はなくなり、非常にリアルと地続きになっている、1977年のベルリンが舞台です(ちなみにオリジナル版が公開されたのも1977年)。

つまり、フィクションの力で悲惨な史実から人を救済するのが本作の趣旨であり、『イングロリアス・バスターズ』や『パンズ・ラビリンス』に通じる映画なんじゃないでしょうか。

面白いのは、本作はオリジナル版と違って2重構造になっていて、まずスージーがやってくる舞踊団「マルコス・ダンス・カンパニー」という抑圧世界がひとつ、そしてその舞踏団のさらに外、東西に分裂するベルリンという抑圧世界がひとつ、ダブルの抑圧が描かれているのが特徴です。

サスペリア

逆魔女狩り

「マルコス・ダンス・カンパニー」を舞台に繰り広げられる物語では、スージーという少女がアメリカからこの新天地に飛び込んでくるところから始まります。これはオリジナル版と共通。しかし、バレエの名門校だったオリジナル設定から、コンテポラリー・ダンスの舞踊団へと変更されているのが重要です。

まずこのアイディアが上手いです。もちろん、絵的に面白いのもあります。あのブランに魔法をこっそりかけられたスージーのダンスによってオルガという少女が味わうことになる「遠隔ダンス攻撃」のビジュアルの凄さ。吹き飛び、四肢が曲がり、顔も臓物も抉れ、失禁し、ぐしゃぐしゃになる。私はもう大興奮でした(ちょっと語弊のある書き方)。オルガを演じた“エレナ・フォキナ”に拍手を送りたい。

ただ、もう少しコンテポラリー・ダンスにした意味を探るなら、オリジナル版にあったバレエというものは西欧のものであり、モダンダンスは対極にあります。なので、あの舞踏団が外の社会に呼応するように“抑圧する側”になっていることを示す設定としてもピッタリです。

あの舞踏団は、掛け声に「マルコス!」と言わせているあたりからも、ナチスっぽさが漂っています。

冒頭で舞踏団から脱出してきたパトリシアが話すように、あの舞踏団は魔女の支配する巣窟。この事実がいきなり最初に提示されるのが、オリジナル版を知る観客にはびっくりポイントですが、それは本作ではこの舞踏団に別の意味合いを持たせていますよという“お知らせ”も兼ねていることなんでしょうね。

しかし、あの舞踏団はただ“抑圧する側”ではなく、ブランがスージーを解放するような役割も果たします。ブランには、ピナ・バウシュ、マーサ・グレアム、マリー・ウィグマンといった実在のコンテンポラリー・ダンスやモダンダンスの開拓者たちのイメージを入れ込んだとのことで、社会への抵抗を象徴するものだったのでしょう。そこは本作の新鮮さです。

そもそもスージーは、メノナイト派キリスト教徒の家庭で育ったという背景があり、メノナイト派というのは非暴力を貫く宗派です。最初からスージーは抑圧されていたんですね。そのスージーが終盤、自分が何者であるかに気づき、耽美な大虐殺を繰り広げる。そして、抑圧の犠牲になった少女に優しい死の眠りを与える。

魔女のふりをしたナチズム・ファシズムを真の魔女が狩る、“逆魔女狩り”が本作のカタルシスでした。

魔女は世の中にも救いを与える

一方、舞踏団の外界に広がるベリルン。この時代はまさに「ドイツの秋」と呼ばれる激動の時期であり、西側資本主義の打倒を掲げる「ドイツ赤軍(バーダー・マインホフ)」という極左過激組織がテロを起こして社会に不安が満ちていました。作中でも「ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件」のニュースが流れていたように、世界がまたあの過去の忌まわしい時代に逆戻りするのではという恐れに慄いていたのです。

「マルコス・ダンス・カンパニー」の舞踏団も無関係ではいられず、あのパトリシアもドイツ赤軍に関心があったんだと説明されたりしますが、要するに抑圧の逃げ口として別の抑圧世界が“おいでおいで”している。こういうことはよくありますよね。

そして舞踏団に外界から関わるのが、ヨセフ・クレンペラーという初老の男。彼は戦争によって引き裂かれた妻に対する後悔の念が消えておらず、その悔しさが今の時代で苦しむ少女たち(舞踏団のダンサー少女)を救えないかという行動に駆り立てます。ちなみに、ヨセフ・クレンペラーは「ヴィクター・クレンペラー(Victor Klemperer)」という学者がモデルだそうです。

しかし、ヨセフは衰えており、結果を出せません。そこで“私の出番ですね”とばかりに出てきたのが、魔女覚醒モードのスージー。ヨセフの妻(オリジナル版のスージーを演じた“ジェシカ・ハーパー”が演じている)はテレージエンシュタット収容所で死んだことを伝えつつ、その悲しい人生から解放してあげます。

主人公が外の世界にまで波及していくのは、オリジナル版ではありえない飛躍ですが、若い女性が世の中を変えるというのは、今の時代にふさわしいのじゃないでしょうか。

エンドクレジット後のシーンで、スージーが見つめる先には何があるのか。それは1977年よりも未来を生きる私たちで見つけないとダメですね。

ということで、芸術性と社会性を両立した圧倒的なパフォーマンスを見せた新生『サスペリア』はこの時代に無視できない存在を刻み込んだと思います。

私も、ダンスの魔法(物理)で、社会に蔓延る差別主義者をインフルエンザにさせるくらいの力は欲しいものですね…。

ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 64% Audience 74%
IMDb
7.1 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 8/10 ★★★★★★★★

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