あらすじは何処かへ浮かんでいく…Netflix映画『バルド、偽りの記録と一握りの真実』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:メキシコ(2022年)
日本:2022年にNetflixで配信、11月18日に劇場公開
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
人種差別描写 性描写
バルド、偽りの記録と一握りの真実
ばるどいつわりのきおくとひとにぎりのしんじつ
『バルド、偽りの記録と一握りの真実』あらすじ
『バルド、偽りの記録と一握りの真実』感想(ネタバレなし)
自問自答映画を作る
最近の日本の総理大臣は自問自答を重ねて防衛費を増額するために増税での国民負担を決定し、国と戦争の在り方を一変させる決断をしてしまうようですが、本来、自問自答というのはプライベートな自己完結する問題に対して用いられるものです。
例えば、よくありがちなのは自分の人生の進路などです。自分はどちらに進むべきだろうか、あっちがベストか、いや、こっちの方が安泰か…そんな自問自答。もしくは自身の過去の行いを悔い改めたり、現在の悩みにケリをつけようとしたり、そういう自問自答もあります。まあ、別に今晩のおかずは何にしようとか、そういうちっちゃな自問自答でもいいですけど。
いずれも他者にはわからないことで、自身の中にだけ生じる問いとの向き合いです。答えを出してもそれは己しか理解できず、自らでその答えの責任を負うことになります。
逆に自分を越えて広範に影響する問題については自問自答なんてしないで、みんなで合意形成をとりながら判断するのが鉄則ですけどね(わかってる? 総理大臣さん?)。
何はともあれ自問自答は個人史においては避けられないステップです。
今回の紹介する映画は、この自問自答を繰り返す主人公の姿を、凄まじく珍妙な映像センスで表現してみせたトリッキーな作品と言えるでしょう。
それが本作『バルド、偽りの記録と一握りの真実』です。
この映画はまず監督について言及しないといけないです。その人とは“アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ”。メキシコ人で、2000年に『アモーレス・ペロス』で長編映画監督デビューし、高評価を獲得。2003年の『21グラム』、2006年の『バベル』、2010年の『BIUTIFUL ビューティフル』と、その独特の作家性を維持したままアメリカでも活躍を広げ、稀有な才能として突出していました。そして2014年の『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) 』と2015年の『レヴェナント: 蘇えりし者』でアカデミー監督賞の2連続受賞を果たし、名実ともに最も成功した監督のひとりとして立ち位置を獲得します。
その“アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ”監督ですが、最近は2017年にVR作品を手がけるなど、新しい挑戦もしていたようでしたが、2022年になって長編映画に舞い戻ってきました。
それがこの『バルド、偽りの記録と一握りの真実』なのですが、本作は“アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ”監督の自伝的な作品となっています。
とは言え、この『バルド、偽りの記録と一握りの真実』はいわゆる有名になった監督が最終的によく作りがちな自伝的作品とはだいぶ趣が違います。スピルバーグは幼少期の思い出を題材に『フェイブルマンズ』を作ったり、”アルフォンソ・キュアロン”や“ケネス・ブラナー”は故郷愛を胸に『ROMA ローマ』や『ベルファスト』を作ったりしています。
しかし、“アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ”監督の場合はそういうのではなく、これは人生の総決算というよりは、キャリアの過程でこんがらがってしまった自分を解きほぐすような作品なんじゃないかなと。リフレッシュと言っていいのかな。自分自身のメンタルに向き合って、実存的危機を乗り越える。外野の私には“アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ”監督の内心で何があったのか知りませんけど、きっといろいろ思うこともあったのでしょう。
そんなこんなでこの『バルド、偽りの記録と一握りの真実』、ものすっごく変な映画になっています。批評家の間では“フェデリコ・フェリーニ”監督の『8 1/2』に似ていると指摘されていますが、確かに構造は通じるものがあります。“アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ”監督はフェリーニからかなり影響を受けているフィルムメーカーなので、今作でもそれが濃いです。
けれどもそれ以上にこれは“アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ”監督にしか作れない映画になっています。自伝的というか、「私の映画!」って感じですね。
一応、あらかじめ言っておくと、ものすごく癖が強い映像と演出のオンパレードなので、明らかに見る人を選びます。でもこういう奇抜な映画が好きな人は楽しいと思います。今年のヘンテコ映画枠です。
『バルド、偽りの記録と一握りの真実』はNetflixで独占配信中。“アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ”監督の脳内へご案内します。
『バルド、偽りの記録と一握りの真実』を観る前のQ&A
A:Netflixでオリジナル映画として2022年12月16日から配信中です。
オススメ度のチェック
ひとり | :ユニークな映画好きなら |
友人 | :シネフィル同士で |
恋人 | :デート向きではない |
キッズ | :子どもにはわかりづらい |
『バルド、偽りの記録と一握りの真実』感想(ネタバレあり)
あらすじ(前半):映画と人生が交錯する
メキシコ人でジャーナリストからドキュメンタリー映画製作者へと転向したシルベリオ・ガマは長い間アメリカを中心に活動していましたが、久しぶりに母国であるメキシコに帰ってきていました。
メキシコのトーク番組に出演することになり、旧友のルイスが気さくに話しかけてきます。
「最新作は最高だったよ。“偽りの記録と一握りの真実”。だけどコルテスとのたばこのシーンはやりすぎだな。コルテスやエスクティアの考えがなぜわかる? 生きた人間じゃ足りなくなったか?」
「もう次の仕事を?」と聞かれ、「資金集め中で、数カ月は調査で飛び回る」と答えるシルベリオ。
番組セットの椅子に座り、いよいよ生放送開始です。
「さて久しぶりの帰国はどう? 大きな賞だから緊張してるだろうね」
シルベリオは黙りこくります。
対面するルイスは全くお構いなしに続けます。
「君が米国リベラル派に利用されていて、受賞は極右からの攻撃の償いだという声もある。ロサンゼルスのメキシコ・コミュニティを喜ばせるための受賞だと。どう思う?」
「幼少期にプリエトと呼ばれて嫌だったって? 君の肌の色が想定以上に黒いから。母親と祖母も困惑したとか」
「君の初めての恋人アレハンドラによると16歳で君と駆け落ちしたそうだね。だが君はパンツを脱ぐのを拒否した。神の怒りや地獄が怖いって。純潔を守る気だったのか?」
「偉大な彼も元は色黒の洗車係でしがないラジオのアナウンサーだった。今や名誉学位取得者だ。芸術文化勲章も受賞。大学はでてないがね。上流階級を気取ってる。貧困や社会の除け者の悲惨さを描くことが使命だと考えて」
何も口にできず、CMに入り…。
シルベリオは帰宅します。番組はドタキャンしました。番組内ではどうせ侮辱されるだけだと不安ばかりが頭をよぎり、自ら出演を辞めたのでした。
妻のルシアは「ルイスはカンカンよ」と言いますが、シルベリオはもうその気分ではありません。「インポスター症候群ね」と呆れる妻を脇に置き、息子のロレンソの部屋に行きます。
別の日。祝賀会が開かれ、シルベリオと家族は参加。アメリカで生活している娘のカミラとも再会し、楽しく踊ります。ルイスにも出会い、「お前は何様のつもりだ。自分の人生を語れよ」と嫌味を言われますが、そんなものは忘れます。
けれどもトイレに駆け込み、またも不安を押さえつけていると、シルベリオの前にはそこにいるはずのない父の姿があり、シルベリオは子どものように父を見上げるのでした。
自分はこれから何をして、どこへ向かえばいいのだろうか…。
アホロートルとメキシコの歴史
『バルド、偽りの記録と一握りの真実』はメキシコ映画であり、それでいてメキシコの歴史の要素がところどころで説明なしにぶっこまれるので、知識のない観客は一層混乱します。
そもそも主人公のシルベリオは「偽りの記録と一握りの真実」という作品を直前に完成させ、それが好評となって、実績が評価されてジャーナリズムの賞を授与されるまでに至っています。この作品は「エルナン・コルテス」が登場するようで、作中でも街で突然人が次々倒れていき、死体の山がデンと登場するシーンでエルナン・コルテスが現れます。
エルナン・コルテスというのは、アステカ帝国を征服したスペインのコンキスタドールであり、植民地支配によってその地域の文化を殲滅した張本人のひとりです。
また、序盤では「チャプルテペク城」が登場し、これはスペイン植民地時代に造られた建造物。このチャプルテペク城を守るメキシコ軍に対してアメリカ軍が勝利した戦闘がいきなり映像として展開し始め、その戦いで戦死した「ニーニョス・エロエス」という子どもの英雄たちが可視化されることになります。
さらに序盤と終盤を接続する重要な列車のシーンで登場するアホロートル。日本ではウーパールーパーとして親しまれているこの生き物はメキシコ原作のメキシコサンショウウオという動物であり、現地では絶滅危惧種です。このアホロートルの生息が最初に大きく脅かされるきっかけとなったのも、植民地支配でした。なのでアホロートルも犠牲者なんですね。
主人公のシルベリオはメキシコ人でありながらアメリカでキャリアを高みへと築き上げ、作品内でメキシコの歴史を描いているのですが、そこに「自分は母国の歴史をエンターテインメントとして消費し、アメリカ人を都合よく喜ばせているだけではないか」という劣等感を抱えているのが、この映画の中でこれでもかと映し出されていきます。
本作は単なるスランプを描くというよりは、こうした国際的に活躍するクリエイターの人種的な葛藤に焦点をあてており、“アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ”監督もこんなことを悩んでいたのかとちょっと意表を突かれます。
私はメキシコの社会の空気感というものを知らないのですけど、結構辛辣に評価する人も国内にはいるってことなのかな。今のメキシコはハリウッド視点で語られたものばかりなので、こういう切り口で見せてくれるというのは貴重だなとも思います。
ヘンテコ赤ちゃん映像
『バルド、偽りの記録と一握りの真実』の特徴と言えば、見ればわかる珍妙な映像の数々。
冒頭からいきなりのアクロバットな映像で観客を「???」な気持ちにさせてきますが、個人的に一番のツボに入るのは「赤ちゃん」の映像集です。
序盤の妻のルシアが出産している病院で、なぜか赤ん坊が産まれるも「でたくないと言ってます」と医者が告げ、その赤ん坊をまたルシアの股からお腹の中に粛々と戻すという、「え?」となるような行為。その後もシルベリオとルシアがベッドで盛り上がろうとしたとき、またまたルシアの股から赤ん坊がひょっこり「こんにちは」して、それを押し戻すという…シュールすぎる光景。さらには後半では小さな小さな赤ん坊をまるで生まれて間もない海亀の子が海に進むように砂浜に離して波に消えていく…。
一見すると意味不明ですが、実際はマテオという子が産まれて30時間で亡くなっていることが判明し、夫婦の中には心の傷として残っている…それを特殊すぎるアプローチで映像化しているのでした(砂浜で海に返しているのは実際のところは遺灰)。
あと、トイレで父と再会して対話するシーンも象徴的でしたね。ここではシルベリオは子どもサイズの身体に戻りつつ、頭だけが大人のままという、なんとも奇妙なバランスになっており、彼の矛盾した心境が窺えます。
まるで錯乱しているけどいかんせんクリエイティブな人なのでその錯乱すらも芸術的になっちゃってるみたいですけど、現実ではシルベリオは脳卒中で倒れており、これはまさしく脳内の出来事なのでした。
ここでタイトルが鍵になってきます。本作のタイトルである「バルド」とは、仏教において、前世の死の瞬間から次の世に生を受ける刹那までの時期における幽体状態「中陰」のことを言うそうです。つまり、シルベリオはそのバルドのステージにあるんだということですね。
ラストではシルベリオは亡き家族を目にしながら、ひとり砂漠荒れ地を彷徨っています。家族の呼びかけを背にして黙々と歩いてしまっているシルベリオですが、あれはあのまま死を意味するのか、それとも生き返るのか。少なくともこんなタイトルにしているということは、シルベリオには次の生が待っているのかもしれません。それはクリエイティブな意味での「次の生」であり、シルベリオはこの苦難を乗り越えてまた新しい何かを生み出せるようになる…と考えたいところです。
ともあれ相当に個性作を打ち出してきた“アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ”監督。しかし、この内容を察してあげるに、これは監督にとって作っておかないと次に進めない映画だったのかもしれませんし、これはこれでやりたいことをやりきったのではないでしょうか。
“アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ”監督はすっかり一時はアカデミー賞常連になってしまい、それでイメージが固定化された感じもありましたが、今作を新しい土台に「私は私で好きにやる」と揺るがない作品づくりに没頭してくれればいいなと思います。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 58% Audience 72%
IMDb
7.3 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
作品ポスター・画像 (C)Netflix バルド偽りの記録と一握りの真実
以上、『バルド、偽りの記録と一握りの真実』の感想でした。
Bardo, False Chronicle of a Handful of Truths (2022) [Japanese Review] 『バルド、偽りの記録と一握りの真実』考察・評価レビュー