このサイトでは普段は私は映画やドラマの感想を書いているのですが、皆さんもそういう感想やレビューに触れているとたまにこの言葉に出くわさないでしょうか。
「ポリティカル・コレクトネス」です。「ポリコレ」と省略して用いられることもしばしばです。
私もたいして知識も無かった頃、この「ポリティカル・コレクトネス」という言葉を何度か目にして「どういう意味なんだろう?」と思ったものです。人によってはこの「ポリティカル・コレクトネス」という言葉を意気揚々と使いこなして感想を語っていたりするので「これは私も使うべきなの? 知らないと変だと思われるのかな?」とあれこれ不安になりもしました。
しかし、意味も正確に理解せずに言葉を用いると墓穴を掘るのは私も経験上よく知っています。そこで「ポリティカル・コレクトネス」について私なりに整理をしようと思い、ずっと勉強を続けてきたのですが、その整理が今回の記事です。
「ポリティカル・コレクトネス」の歴史
「ポリティカル・コレクトネス」の定義は…ない!?
「ポリティカル・コレクトネス(political correctness)」とはそもそもどういう意味なのでしょうか。これがわからないと話になりません。
しかし、これが最大にして最悪の難問です。
現在「ポリティカル・コレクトネス」とは何かと一般の人に聞けば、たいていは「差別用語を使わないこと」「全員にリスペクトを示すこと」「多様性を認め合って推進すること」といった答えが返ってくると思います。辞書にもだいたいそんなようなことが載っています。
しかし、その表面的な理解のしかただと足をすくわれます。
英語史を専門とする“ジェフリー・ヒューズ”は自著『Political Correctness: A History of Semantics and Culture』の中で、「ポリティカル・コレクトネス」を題材に取り組むことは「ヒュドラの頭」(困難な障害が多岐にわたることのたとえ)と言う人もいると前置きしながら、その歴史はシンプルではないと言い切っています。
どんな言葉にも歴史があります。例を挙げれば、「進化(evolution)」。「evolution」という言葉は1660年代からすでに「個々の生物の成熟・成長・発達」の意味で広く用いられていたそうですが、チャールズ・ダーウィンが1859年に『種の起源』を出版して以降、「進化論」という概念が確立し、「進化」は生物学用語となりました。しかし、その後、「進化」は生物学の意味を逸脱してまた広く用いられ始め、今の私たちは「新製品のスマホは従来よりもはるかに“進化”した」とか「ポケモンの新しい“進化”」とか、わりと好き勝手に使うようになりました。といっても「進化」という生物学用語としての意味は健在で、しっかり学術的に定義されています。
私も無知だった頃は「ポリティカル・コレクトネス」という言葉もそうなんだと思っていました。つまり、何か特定の学術分野できちんと定義されているのだろう…と。
ところがどっこい、その考えは甘かった…。
「ポリティカル・コレクトネス」の煩雑な広まり
では実際に「ポリティカル・コレクトネス」という言葉は私たちの社会でどんなふうに歴史的に用いられてきたのでしょうか。
起源をたどるのは骨が折れますが、「Harvard Political Review」では1793年の裁判の判決でこの言葉が用いられていることを紹介しています。そこでは、言葉遣いを正す些細な意味合いの用い方で、エリート層の社会的慣習における言及でした。
またこのフレーズは、1930~1940年代にアメリカ共産党のコミュニティ内でも広まり始めました。当時は「特定の問題に取り組む際に使用する適切な言語または適切な立場」を意味する単純な用語でしかなく、小難しい用法でもありません。
さまざまなメディアも使っていました。さまざまな政治家も当然使っていました。「Washington Post」はアメリカの”リンドン・ジョンソン”大統領が1964年に話した以下の言葉をピックアップしています。
“I’m here to tell you that we are going to do those things which need to be done, not because they are politically correct, but because they are right.”
1950年代、1960年代、1970年代、1980年代と移りつつ、公民権、フェミニズム、LGBTなどの社会運動が盛んになり始め、その現場でもこのフレーズは散発的に使用されていきます。
しかし、どの場においても共通の定義のようなものは見い出せません。
各自みんなてんでんばらばらに使用していたのです。当然です。「ポリティカル・コレクトネス」は日本語に直訳すると「政治的正しさ」となりますが(日本語では「政治的妥当性」とも訳される)、何が「政治的」で何が「正しい」かというのはみんな考えが違うからです。
例えるなら「ポリティカル・コレクトネス」という言葉は「おいしいごはん」という言葉と同じくらいにアバウトなワードです。何が「おいしい」のか、どんなものを「ごはん」とみなすのか、それは人それぞれ違うと思います。だから「“おいしいごはん”を思い浮かべて」とみんなに促してもみんな連想するものが異なるし、「みんなが“おいしいごはん”を食べられるようにしよう」と一致しようにも個人の味覚も嗜好もバラバラなので何が“おいしいごはん”なのかで揉めるでしょう。
「ポリティカル・コレクトネス」は「左と右の対立」の象徴に
上記で簡単に説明した歴史の中で、「ポリティカル・コレクトネス」という言葉は少し皮肉を交えて使われたこともありました。つまり、相手に「あなたはポリティカル・コレクトネスだね」とレッテルを貼るという使い方で、相手の主張や立場を揶揄したいときです。
フェミニズムやLGBT運動内でも一枚岩ではないので、広い意味では同じコミュニティに属するも主張や立場の異なる相手を「ポリティカル・コレクトネスだ」と揶揄したりしたということです。興味深いのは人権活動家や左派内でも互いにそうしたレッテル貼り目的で(時には皮肉、時には冗談で)この言葉を用いていたという一面(これは後述する2010年代以降の惨状を知ったうえで振り返ると非常に滑稽な話ではありますが…)。例えば、1980年代当時、フェミニストたちはポルノやBDSMを認めるか否かで対立し、ポルノやBDSMに否定的なフェミニストに対抗するべくポルノやBDSMに肯定的なフェミニストは「ポリティカル・コレクトネスではない自分たち」と自らを表現したこともありました(The Guardian)。
とは言え、この時期は「ポリティカル・コレクトネス」は左派の用語でも右派の用語でもなく、それぞれが自由に使っていました。みんなそれぞれの“正しさ”がありましたから。誰の用語でもないのです。
しかし、1980年代後半から1990年代前半にかけて情勢が変わりだします。教育の改革の中で「ポリティカル・コレクトネス」を掲げて活動する人たちが現れ、「PC」という略語も用いられました。ところがこの教育改革(アファーマティブ・アクションなどのリベラル教育)は教育組織の保守性を重んじる人たちから反発にあい、「ポリティカル・コレクトネス」という言葉自体が本格的に政治問題へとステージを移しました。
当時の”ジョージ・H・W・ブッシュ”大統領は、「ポリティカル・コレクトネス」という言葉を公然と敵視し、保守的な空間や観念を脅かすものとして位置づけました。
要するにこの瞬間、「ポリティカル・コレクトネス」は「左派」と「右派」の分断を象徴する言葉に不本意ながらなってしまいました。留意点として思い出してほしいのですが、この「ポリティカル・コレクトネス」という言葉は別に左派の用語ではありません。しかし、保守派の政治家はこれを左派を象徴するダーツのマトとして設定することで、上手い具合に「あれが敵だ!」と対立を煽ることに成功しました。
「ポリティカル・コレクトネス」は、左派が自身の運動内の独断的傾向をチェックするために使用したレトリックだったこともありましたが、それは完全に風化し、この1990年代に意味も裏返って右派の御用達ブランドへと転身したわけです。
ほとんどのアメリカ人は「ポリティカル・コレクトネス」という言葉をそれまで聞いたことも見たこともなかったものの、1990年代にこの言葉が盛んにメディアに載り、認知度を高めたと「The Guardian」は説明しています。
当時のメディアのライターやコラムニストの一部はこぞってこの「ポリティカル・コレクトネス」を批判しまくりました。また、1990年代は、ケイトー研究所を始めとする多くの保守もしくはリバタリアン系のロビーグループも「ポリティカル・コレクトネス」批判へと力を注ぎました。「Literary Hub」では、保守系シンクタンクであるヘリテージ財団が1990年代初頭のウェブ黎明期に平均して年間461件(つまり1日あたり1.3件)の反「ポリティカル・コレクトネス」な投稿を繰り返し、日常的に大量生産していたことを伝えています。当時を知らない人にも、尋常ではない数の反「ポリティカル・コレクトネス」言説がこの時代は飛び交っていたことが想像できるでしょう。
この教育を舞台にした「ポリティカル・コレクトネス」論争は一瞬火がついたのですが、いったんは沈静化します。
でも終わりではなかった…。これはさらなる混沌の幕開けの前兆にすぎず…。
揶揄の道具から陰謀論へ
底が抜けたのは、ドナルド・トランプのような存在を中心とするオルタナ右翼の台頭が背景にあります。いや、オルタナ右翼という言葉ではもう表現しきれないかもしれません。リバタリアン、トランピアン、MAGA、インセル…どの言葉が適切かもわかりません。とにかく有象無象の混沌とした集団です。
この集団の特徴は「自分たちは世の中の“正しさ”に基づく取り組みのせいで損な目に遭っている!」という強烈な被害者意識、もっと言えば劣等感を持っていること。その「損な目に遭う」というのも、仕事がないとか、金持ちになれないとか、モテないとか…そういう“勝ち組になりたい”という願望の次元の話なのですが、冷静に考えればそれはケースバイスケースで事情が違うので一律で何かのせいにはできないのですけど、とにかくこの人たちは全部“正しさ”のせいだということにしています。“正しさ”が無くなればこの人たちが救われるわけでもないですが、今はとりあえず“正しさ”に鬱憤をぶつけたくてしょうがない…そういう負の感情の染まりきっている集団。
なのでこれらの集団は「ポリティカル・コレクトネス」という言葉を自分たちの憎い相手に当てはめ、ものすごく極端に敵視しています。もはや「左と右の対立」を煽るためではありません。恨みをぶつける相手が欲しいのです。
批判もかつてのように教育にとどまりません。何でもありです。あらゆる分野で「ポリティカル・コレクトネス」なるものが自分たちを脅かしていると批判します。「ポリティカル・コレクトネス」が何なのかと定義を考える必要もないです。自分の気に入らないものは「ポリティカル・コレクトネス」なのです。
「The Guardian」ではこの2010年代に変貌した「ポリティカル・コレクトネス」という言葉の用い方を「エクソニム(exonym)」であると表現しています。エクソニムというのは「外名」とも呼ばれる修辞学用語で、命名の主体となった民族・言語に内生した呼称に対して外来の言語における呼称のことです。簡単に言えば、「自分で自分を指し示さない、自分以外の言葉」のこと。「ポリティカル・コレクトネス」を名乗る人はいません。常に他者に向かって「ポリティカル・コレクトネス」という言葉を揶揄のためにぶつけます。
「NPR」の中で、ミシガン大学でアメリカ政治を専門とする“ヴィンセント・ハッチングス”教授は、「ポリティカル・コレクトネス」という言葉は、相手の議論を強引にねじ伏せて無効にする「kind of linguistic jujitsu(言語的な柔術の一種)」だと述べています。要するに「ポリコレだ!」と言ってしまえば専門的な議論をすっ飛ばして相手を論破できるわけです。子どもの喧嘩に例えるなら「ば~か!」と嘲るのと同じ。「ば~か!」と大人が言うとさすがに言った側が本物のバカっぽく見えてしまうので「ポリティカル・コレクトネス!」と言い放てばかっこがつく…(つくのか?)。
大統領選に立候補したドナルド・トランプは2015年8月に檀上でこう言い放ちました。
「”I think the big problem this country has is being politically correct,”」(ポリティカル・コレクトネスこそこの国の大きな問題だ)
これが混沌の蛇口を無制限にこじ開けるオープニングとなりました。
ポリティカル・コレクトネスを敵視したのは、25年前のジョージ・H・W・ブッシュ大統領と同じですが、本質は全く違います。ジョージ・H・W・ブッシュ大統領はあくまでライバルの左派を揶揄するためにポリティカル・コレクトネスを用いただけであり、教育のイシューを論じるという目的も明確でした。一応は最低限の礼儀をわきまえて政治論争する姿勢というわけです。
しかし、ドナルド・トランプはそういうものでは全くありません。ドナルド・トランプは気に入らない女性を「豚」、移民を「レイプ魔」などと公然と中傷し、自分を批判する者は全部「ポリティカル・コレクトネス」だとして片付けました。いうなれば、自己正当化と敵の悪魔化を同時にやってのけたのです。
このように書くと全てドナルド・トランプが悪いみたいになってしまいますが、そうではなく、この傾向は何十年も前から顔を覗かせていました。
例えば、保守派のアラン・ブルームは1987年の著書『The Closing of the American Mind』で「ポリティカル・コレクトネス」という言葉は使わなかったものの、多文化主義と多様性の批判を拡大しました。この本はベストセラーとなり、後の1990年代のメディアによる「ポリティカル・コレクトネス」批判の思想の土壌づくりに大いに貢献しました。「ポリティカル・コレクトネス」パニック神話はこうして数多くの論客によって熟成されていったのです。
その90年代の跡を継ぐ者もいます。もともとは心理学者であったジョーダン・ピーターソンも2010年代の「ポリティカル・コレクトネス」批判の急先鋒でした。彼は男性の権利支持者であり、気候変動懐疑派の二酸化炭素支持者であり、なかなかに手広く息巻くYouTuberへと変身し、一世を風靡。
これ以外にも数えきれないほどのデマゴーグな論客が出現しています。勢いを取り戻したい保守派、新しいフードを手に入れたいネオナチや白人至上主義者、中立を気取る冷笑主義者、単におカネを稼ぎたいだけの便乗者…。多くがこの一大「ポリティカル・コレクトネス」批判ムーブメントに乗っかったのです。
そしてこうした論客は支持者をかき集め、今はネット上で独自の言論空間を築き上げています。これは「インテレクチュアル・ダークウェブ(Intellectual Dark Web)」と呼ばれたりしています。ドナルド・トランプはあくまでその大物のひとりです。
なぜ2010年代に反「ポリティカル・コレクトネス」が底が抜けるほどに闇に堕ちたのか。その背景を考えると、ちょうどこの時期に「ブラック・ライヴズ・マター(Black Lives Matter)」や「#MeToo」といった平等や差別撤廃を求める運動が活性化したことがあるのでしょう。そのバックラッシュとして「黒人や女ばかりが贔屓されている!」という劣等感が高まり、そこにデジタル・ジャーナリズムとソーシャルメディアが燃料を投下しました。こうして「ポリティカル・コレクトネス」に反抗することは新しい男らしさの証にもなりました。スポーツができるとか、筋肉があるとか、背が高いとか、美人の彼女がいるとか、そういうことを抜きにして男らしくなれるお手軽な方法なのです。
このような経緯で、2010年代後半、「ポリティカル・コレクトネス」をめぐる事象はついに陰謀論の領域に到達してしまいました。「ポリティカル・コレクトネス」は「ディープ・ステート」と同じ、特定の集団にとっての仮想“敵”概念となり果てました。「ポリティカル・コレクトネス」はもう陰謀論用語です。
陰謀論に変貌する気配は1990年代の頃からありました。いわゆる「文化的マルクス主義」です。これは反ユダヤ主義に紐づく陰謀論で、マルクス主義が「ポリティカル・コレクトネス」などと共に西洋文化を転覆させようとしていると危機感を煽ります。この陰謀論的思考が2010年代後半にさらに過激化した結果がこのありさまです。
元は何の変哲もないただの言い回しにすぎなかったのに、ずいぶんと遠い世界に来てしまいました…。
ちなみに、こうした混沌とした集団が好んで利用する「ポリティカル・コレクトネス」という言葉以外だと、「ソーシャル・ジャスティス・ウォリアー(Social justice warrior; SJW)」という言葉も一時期もてはやされました。これは人権や平等を求めて声をあげるネット上の人を揶揄する言葉です。しかし、この言葉は今はあまり流行っておらず、2020年代初めは「ウオーク(Woke)」という言葉がもっぱら用いられています。意味はだいたい同じです。この「Woke」という言葉はもともと黒人の権利の活動家が用いていたのですが、その言葉を蔑視的な人たちが奪い取り、揶揄の意味で使用するようになってしまいました(The Advocate)。
「ポリティカル・コレクトネス」という言葉もいつかこの混沌とした集団の人たちの間で廃れる日が来るのかもしれませんが、その時はきっと新しい言葉が登場していることでしょう。
今、「ポリティカル・コレクトネス」と検索してもこうした集団による「ポリティカル・コレクトネスはいかに恐ろしく、社会を壊すのか」という陰謀論ばかりが表示されます。書籍でもそんな本がいくらでも販売されています。
もちろんこうした「ポリティカル・コレクトネス」という言葉の変移の歴史を踏まえて、あらためてその用語を研究題材にしようという学術的視点の書籍もゼロではないですが…(例えば清水らの『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』)。
なお、「ポリティカル・コレクトネス」という言葉は、当の人権運動の中では今はほとんど使われていません。ほぼ死語です。これらの運動では現在は自分たちの立場や主義を示す他の固有の用語をもっぱら愛用しています(例えば「Black Lives Matter」「LGBTQ」「Intersectional Feminism」など)。
これが2023年時点の「ポリティカル・コレクトネス」の現状です。あらためて整理すると、今の「ポリティカル・コレクトネス」は以下のような使われ方をしていることになります。
●上記の行動や姿勢を嫌う人たちが、自分の気に入らない仮想“敵”概念を示すのに用いる陰謀論的な用語であり、揶揄や犬笛の効果を発揮する言葉。
反「ポリティカル・コレクトネス」は日本でも流行りだす
上記の歴史は主にアメリカの話です。「ポリティカル・コレクトネス」は英語圏の言葉ですが、日本にも輸入され、認知が広がり、案の上、2010年代にはすっかり海外と同様に反「ポリティカル・コレクトネス」が流行り出しました。
現在の日本でもアメリカとそう変わらないかたちで陰謀論的に「ポリティカル・コレクトネス」という言葉が仮想“敵”概念として用いられてもおり、ネット上ではそれこそ「ポリコレ」という短縮語で嘲るように使っている光景がそこらじゅうにあります。「ポリコレ棒で殴る」(「人権や多様性の観点で批判すること」を一部の人がそのような表現で揶揄する)というネット上で使用する人もいるこの言い回しはまさに被害者意識を丸出しにしており、仮想“敵”概念の存在を強調しています。
一方で、日本にいるとその言葉の歴史を知らない人がやはり多いのか、「ポリティカル・コレクトネス」をフォーマルかつカジュアルな用語のようにかなり無頓着に使用している事例も散見されます(当然、そんな用語では全くないのですが、日本人のカタカナ用語への認識はそんなものなのかもしれません)。
あっちではインターネット・ミームな揶揄の言葉として遊ばれ、別のあっちでは普通の用語のように使われていたり、日本の「ポリティカル・コレクトネス」用語の定着の現状は、アメリカと違って歴史的な知識の欠如も加わって、余計に雑然としていると言えるのではないでしょうか。
日本における「ポリティカル・コレクトネス」の言葉の定着具合を見ていると、「コンプライアンス」という言葉と重なっていることがよく観察できます。「コンプライアンス」という言葉は「ポリティカル・コレクトネス」と違ってちゃんと定義があり、もっぱら「企業コンプライアンス」の意味でビジネス用語としてよく使われてきました。これは「企業が法令やルールを遵守すること」を意味し、例えば、製品開発で安全基準に合格するとか、メディアが捏造報道をしないとか、個人情報を適切に管理するとか、そういう話です。しかし、この「コンプライアンス」という用語は日本では「コンプラ」と短縮語となって一般に使われ出しているうちに、いつの間にか「コンプラ無視」などという表現で「ちょっと過激なことをする」とか「怒られそうな挑戦的なことをする」みたいなニュアンスで解釈されるようになり始め、言葉が形骸化していました。
この形骸化した「コンプラ」の用い方がそのまま「ポリコレ」へとスライドしている面もあるのかもしれません。
それにしてもなぜ日本でも陰謀論的な反「ポリティカル・コレクトネス」がアメリカと同様に定着できたのでしょうか。もちろん日本にも右派も保守派も存在しますから、アメリカのように対立を煽る目的で活用していこうという流れが1990年代からあったのは推察できます。でもそれだけで全部説明できるのか。日本では「ブラック・ライヴズ・マター(Black Lives Matter)」や「#MeToo」も無かったのだから、そのバックラッシュも少なくともこの2015年付近には盛り上がらないはず…。
考えられる理由はいくつかあります。
ひとつは、バブル崩壊以降、90年代~00年代の間で「氷河期世代」「引きこもり」「ニート」「オタク」といったいわば劣等感を強く内在させる言葉が盛んにもてはやされ、まさしくその社会の空気に圧迫され、重度の劣等感をこじらせた人たちが生じてしまったこと。現在の反「ポリティカル・コレクトネス」の原動力は劣等感ですから。そういう人たちに政治的な支援があればよかったのですが、政権はそれを怠り、一方でそういう人たちは政治に声をあげるという慣習が育っておらず、結果、「勝ち組」や「リア充」と表現される人たちへの敵意へと向かい、今はそれは「マイノリティという奴らはポリティカル・コレクトネスで“パイ”を独占している」という妬みへと形を変えている…。
もうひとつは、いわゆる「chanカルチャー」の存在で、「2ちゃんねる」に象徴されるインターネット文化がアンダーグラウンドから一般に拡大するにつれ、冷笑の習慣が固定化してしまったこと。「正義の暴走」「お花畑正義感」といったインターネット・ミームが以前から支持を集めており、反「ポリティカル・コレクトネス」と相性は抜群だったでしょう。「論破カルチャー」もここに油を注ぎました。
こういう事情もあるので、日本の反「ポリティカル・コレクトネス」と、アメリカの反「ポリティカル・コレクトネス」はその歴史も性質も微妙に細部が異なるという点は留意しておくべきことでしょう。
とは言え、双方が無関係でもなく、日本の反「ポリティカル・コレクトネス」的な文化と、アメリカの反「ポリティカル・コレクトネス」は相互に補完し合っています。ドキュメンタリー『Qアノンの正体 / Q: INTO THE STORM』でも詳細に解説されているとおり、日本の「2ちゃんねる」発祥の「chanカルチャー」はドナルド・トランプの勢力に最大の力を与えました。そして、アメリカの反「ポリティカル・コレクトネス」と重複することで日本の反「ポリティカル・コレクトネス」的な文化の中でネタのつもりで楽しんでいた人たちの中には自覚ないままに陰謀論に洗脳されて差別主義を植え付けられてしまった者もでてきています。
日本では「ポリティカル・コレクトネス」に関する客観的な資料も乏しいので、この反「ポリティカル・コレクトネス」に安易に手を出してしまう人も珍しくないでしょう。日本では反「ポリティカル・コレクトネス」は最も警戒されていない簡単な陰謀論の入り口になっていると言えるかもしれません。
作品と「ポリティカル・コレクトネス」
アンチの新しい手法としての「ポリティカル・コレクトネス」
ここまで「ポリティカル・コレクトネス」の歴史を長々と整理しました。まだ続きます。というか、ここからが本題、私の書きたかったメインです。
映画・ドラマ・アニメ・漫画・小説などの創作物作品をめぐる、「ポリティカル・コレクトネス」言説の話題です(私は映画が好きなので主に映画を中心に話しています)。
作品があれば、その感想があります。評価もあります。
別に作品がつまらなかったら普通に「面白くなかった」とか「私の好みじゃない」とかで表現すればいいのですし、昔はそうしていたはずなのですが、最近はこんな言葉も聞かれます。
「この作品はポリコレだ」と…。
これはもっぱらネガティブな意味で用いられます。基本は嘲笑・不満・呆れです。どういうときにこの言い回しが飛び出すかといえば、主にその作品内で「多様性っぽさ」が見られたときです。
例えば、「以前は白人だったキャラクターがリメイクで黒人に変わっている」とか、「これまでは男性の主人公だったのが女性になっている」とか、「LGBTQの描写がある」とか…。場合によっては白人以外の人種のキャラがでてきただけで「ポリコレ」扱いになったりします。
「多様性っぽさ」と言葉を濁して書いたのは、この作品を「ポリコレ」と批判する人たちの多くは自ら批判しているにもかかわらず「多様性(diversity)」に関する専門的な知識に乏しく、場合によっては多様性を誤って認識している実態もよくあるからです(例えば「diversity」と「variety」の区別がついていないなど)。
実際のところは、別に作中にマイノリティな人種や女性などのキャラクターがいたからといって即座に「多様性である」とは評価できず、もっと踏み込んだ批評が必要のはずですが、このポリコレ批判者はそこまでしません。あくまで表面的な「多様性っぽさ」に目をとめているだけです。
なお、作中で「正しさ」を描く作品は無数にあるでしょうし、それこそまさしく「ポリティカル・コレクトネス」に該当しそうではあるのですが、何でもかんでも「正しさ」の描写に「ポリコレ」と文句を言うわけではないようです。アンパンマンがお腹をすかした見ず知らずの人に自分の顔を食べ物として分け与えても、ルフィが権力と暴力で支配する奴をぶっ飛ばしても、プリキュアが力は人を傷つけるものではなく守るためにあると力説しても、「ポリコレだ」と嘲笑する人はほとんど見かけません。ただ、『アンパンマン』に同性カップルが登場したりすれば、「ポリコレだ」と非難する声があがるのは想像できます。
また、この「ポリコレだ」という批判は人気ブランドのフランチャイズや企業に集中する傾向にあります。主に「ディズニー」「スター・ウォーズ」「マーベル」「DC」、他にも有名なタイトルなどです。逆に批判を受けない作品もあります。例えば、クリント・イーストウッド監督が『クライ・マッチョ』や『インビクタス/負けざる者たち』でマイノリティな人種や平等を描いてもあまり「ポリコレだ」という揶揄は観察できません。
要するに「自分がこの作品は気に入らない」ということを言いたいだけ、つまるところ「アンチ」としての新しいアプローチが「ポリコレだ」批判であるというケースが大半でしょう。
そしてその「気に入らない」の範囲はかなり偏向しており、「多様性っぽさ」に集中的に向けられます。要するに「ヘイトスピーチ」の一種にもなっています。直接的に「同性愛は嫌だ」と言えば差別主義者そのもなので「ポリコレだ」と言うことでボヤかしつつ溜飲を下げているような感じです。
「The Mary Sue」では、(アメリカでは)保守派の間では「裕福で屈強なシスジェンダー・ヘテロセクシュアルな男性を崇拝しない」作品に対して「ポリコレ(woke)」という言葉がぶつけられると説明しています。
「ポリティカル・コレクトネス」は押し付けられている?
こうした作品の「多様性っぽさ」に対して「ポリコレだ」と嘲笑・不満・呆れを表す現象。その言説の当事者の背景にある主張が「ポリティカル・コレクトネスが作品に押し付けられている」というものです。
「以前は白人だった主人公がリメイクで黒人に変わっている」のも、「これまでは男性のキャラクターだったのが女性になっている」のも、「LGBTQの描写がある」のも、多様性を推進するのが狙いだ…と。つまり、プロパガンダ的なものであるという主張です。そして「多様性ではない作品」は不当な扱いを受けている…これは「表現の自由」の侵害である…とも。
実際、ポリティカル・コレクトネスが作品に押し付けられているのでしょうか?
確かに現在は「作品の表象はもっと多様であるべきだ」という声も多くあがっています。でもこれは批判や批評なのであって、別にポリティカル・コレクトネスを押し付けているわけではありません。作品に文句を言うのは個人の「言論の自由」です。
対して、実際に作り手がどういうつもりでその作品の性別・人種・LGBTQなどを扱っているのかは個々で違うでしょうし、表向きはわかりません。それこそ「表現の自由」です。
100年以上の映画史において、多様な表象は常に規制されて抑圧されてきました。同性愛を描けず、異性愛でも規範的な結婚観に沿った描写になるように修正されました。性の描写は禁止され、妊婦をわかりやすく描写することすらできませんでした。理想的な顔立ちの整った白人ばかりが主役の仕事を与えられ、他の人種は酷く差別的に描かれていました。
多様な表象を観客や製作者が望むというのは、その曲がりくねった映画史を考えれば、「表現の自由」を獲得しようという闘いでもあります。最近はその成果が少しずつ現れてきたと言えるのかもしれません。逆にまだまだ「多様な表象を描こう」とするクリエイターを邪魔する業界の保守的な体質はたくさん見受けられます。政治家によって妨害されることさえ、いまだにこの2020年代も起きているのです(PinkNews)。現在、作品を「多様な表象で描け!」と押し付けるような実効性のあるルールはありませんが、「その多様な表象は消えろ!」と圧力をかける動きは業界内にあるということです。
にもかかわらず、いざ作品に多様な表象が少しでも描けるようになったと思えば、今度は「ポリコレだ」と批判される…。あげくにはむしろ多様な表象が弾圧されている現実を無視して、「ポリティカル・コレクトネスが作品に押し付けられている」という正反対の考えに染まる。
これぞ上記で解説した陰謀論的な反「ポリティカル・コレクトネス」の政治的な言論がそのまま作品批判へと流用されている状態です。現実ではなく自分の脳内ストーリーを絶対視しています。
「私の気に入らない要素があるのは、ポリティカル・コレクトネスとやらのせいなんじゃないか?」「ポリコレはクリエイターも消費者も望んでいない。みんな謎の力に嫌々従わせられている」
そんな思考が一度染みつくと、脊髄反射的に「多様性っぽさ」な表象に「ポリコレだ」という言葉をぶつけたくなってしまうというのが実情なのかなと思います。
一方で、自分の気に入った作品が何か高評価を獲得したとき、「これはポリコレじゃないから良いんだ」と謎の理論で自画自賛する人もいます。実際のところ、その作品はよく見なくても作品内に多様な表象や多様なクリエイターが確認できたりしても、「ポリコレではない」ことにされていたりします。
どちらにせよ、やはりポリティカル・コレクトネスは中身のない便利な言葉として濫用されています。
業界の「ポリティカル・コレクトネス」への反応
以上は全て作品を楽しむ側の「消費者」の姿に関する話でした。では作り手など業界関係者は「ポリティカル・コレクトネス」をどう思っているのでしょうか。
俳優や監督の中にも「ポリティカル・コレクトネスは嫌いです」と公然と語る人もいます。ただこの「ポリティカル・コレクトネス」はその用語の歴史で解説したように、今や意味のない空っぽな言葉なので、俳優や監督が「ポリティカル・コレクトネスは嫌いです」と発言しても具体的に何が嫌いなのかはよくわかりません。
そもそも「私の映画はポリティカル・コレクトネスです!」とか「ポリティカル・コレクトネスな演技をしています!」なんていう人物はひとりもいません。
クリエイターというのはときに斜に構えた態度をとりつつ、己の独創性をアピールするのが仕事なので、こう言ったときの意味は「私は他とは違う。オリジナリティがある」くらいのニュアンスかもしれません。もちろん根っからのトランプ支持者とかであれば話は別ですが…。
企業としてはどうなのでしょうか。基本的に企業は意味のない空っぽな言葉と化した「ポリティカル・コレクトネス」という言葉を用いて何か表明していることはまずないでしょう。しかし、企業なので「コンプライアンス」は当然順守します。そこには「差別は許さない」といったことは含まれます。
では評論家は? 映画評論家として非常に著名なロジャー・イーバートは、民主党の支持者でありながら、典型的な反「ポリティカル・コレクトネス」の言論者であり、それを90年代のファシズムと一蹴していました。一方で、マイノリティな人種の映画を支持する姿勢も示してもいました(2013年に亡くなったのでトランプの反ポリコレ狂騒の時代を見ずにこの世から去ったのですが…)。
このことからもわかるように“ある人物”が「ポリティカル・コレクトネス」に反対しているからといって「多様性」に反対しているとは限りません。何度も言うように「ポリティカル・コレクトネス」という用語は空虚な言葉なのでそれが何を指し示しているか曖昧で、その曖昧さが格好の材料になっているのです。
一般的に大手のレビューなどで「ポリティカル・コレクトネス」という言葉を積極的に使っている風景はあまり見られず、あったとしても揶揄で使う程度。しかし、その揶揄としての利用も、レビュー自体が幼稚に見えたりしますし、批評の才能が見受けられない文章になってしまうので、やはり使用は避けられる傾向にあるのではないかと思います(ただし根っからの極右サイトなどは除く。そういうところは羞恥心も無しで使いまくっていることは普通にある)。
作品が「ポリティカル・コレクトネス」そのものを題材にしているものも少ないながらあったりします。『サウスパーク』は、とあるシーズンで「ポリティカル・コレクトネス」に狂乱する世の中を風刺したことがありました。
アメリカでは「ポリティカル・コレクトネス」という言葉の政治的な歴史は知られているので、業界もやすやすと反応したりしない、「触らぬ神に祟りなし」な振る舞いなことが多いですが、日本はやはりそもそも無知なせいか、安易に企業やクリエイターが「ポリティカル・コレクトネス」に(主に反ポリコレの揶揄的な方面で)手を出して墓穴を掘るという事例があったりもします。
「ポリコレ無視の作品」って何のこと?
すでに少し言及しましたが、これは日本にやや際立って見られる気がする特徴なのですが、「ポリコレ無視の作品」といった表現がたまに観察できます。
具体的には、その作品が残酷表現やエロ表現を惜しげもなく描いている際にこの言い回しが用いられます。ポジティブな評価をするときに使っているわけです。
この表現は「ポリティカル・コレクトネス」という言葉の歴史を踏まえれば、相当に滅茶苦茶な用い方で、ほとんど誤用なのですが、わりとこれまたカジュアルに日本では受け入れられています。
さらに「アメリカはポリティカル・コレクトネスのせいで表現が後退している! でも日本はポリティカル・コレクトネスを気にしていないので表現が自由で進んでいる!」という、ナショナリズムな思想を追加した「日本はスゴイ!」という自国賛美へと発展した主張も目撃できます。
そもそも「ポリティカル・コレクトネス」と残酷表現やエロ表現は無関係です。それどころか残酷描写やエロ描写をもっぱら規制しようとしてきたのは「保守派」や「宗教右派」なので、「ポリティカル・コレクトネス」の揶揄の対象となってきた「左派」とは真逆です。
現在、2010年代後半から2020年代のハリウッドの作品では、暴力描写やエロ描写は規制されるどころか、歴史上で一番盛り上がっているくらいに描かれまくっています。実際に幅広く海外の作品を見ている人ならすぐに実感できる話ではあるのですが…。
おそらく前述したように「ポリティカル・コレクトネス」を「コンプライアンス」と混同した結果、このような誤用的な言い回しが誕生したのだと思われます。「コンプライアンス」すらも誤用しているので、誤用の誤用で二重の状態です。
厄介なのは、レーティングや広告の規制の問題と混同する人もいるということです。これはゾーニングや(本来の正しい意味での)コンプライアンスの論点なのでまた別の話になってきます。
日本では「作品」というものに向けられる、あらゆる批判・規制・マイナス評価…全てを「ポリティカル・コレクトネス」というやたらとデカい箱に大雑把に分類してしまっている人が少なくないのでしょう。
暴力的だったり性的な表現があっただけで文脈を考えずに「ポリコレ無視!」と喜ぶ人たちがいて、過激な表現があれば即「反”ポリコレ”作品」と短絡的に判断される状況は、クリエイターにとっても嬉しくもないのではないかと思います。
脱「ポリティカル・コレクトネス」言論
上記の日本で蔓延する「ポリコレ無視の作品」という言い回しに関して、さらに厄介さを加速させているのが、「いや、この作品はむしろポリティカル・コレクトネスだよ」という擁護的な主張です。
確かにそのとおりではあるかもしれません。ただ、すでに説明したように「ポリコレ無視の作品」と呼ばれるものは「ポリティカル・コレクトネス」という用語をそもそも誤用しているので、そこに「この作品はポリティカル・コレクトネスだ」と応酬するのは、同じ穴の狢というか、あまりやっていることは変わらないような気もします。
反ポリコレ言説に対抗するように反・反ポリコレ言説を安易に重ねてしまうと、意味論的な無限ループに陥るだけです。今回のこの記事もその負のループに陥らないように、わざわざ言葉の歴史からじっくり説明しました。
こういう「この作品はポリコレか否か」の議論の二極化は、本来は多様な感想や批評が存在しうるはずだった世界を、極めて単純な二項対立に変えてしまっています。こうなってしまうと感想を語り合う文化も消滅しかねません。
私は昔はなんとなく目にする「ポリティカル・コレクトネス」という言葉にそわそわしていた時期もありましたが、今は「ポリティカル・コレクトネス」という言葉を作品の感想で使わないように気をつけています。使う必要は最初からなかったのです。
感想を言いたいのであれば、自分でも意味もわかっていない言い回しをコピペするのではなく、もっと感じたままに表現する方が楽しくてラクじゃないですか? ジェンダーの視点で分析してもいいし、クィアな表象に励まされてもいいし、脚本の秀逸さに痺れてもいいし、映像の美しさに惚れてもいいし、俳優の名演に浸ってもいい…。
そんな詳しくない? 大丈夫です。下手糞な自分の言葉でも、「面白かった」とか「面白くなかった」とか、そんな単純な表現でもいいんです。
「それってあなたの感想ですよね」と誰かに冷笑されても気にしないで。自分の言葉で表現する感想は拙くてもとても意義がありますよ。
【ネット】
●2015. A Phrase in Flux: The History of Political Correctness. Harvard Political Review
●2016. How ‘politically correct’ went from compliment to insult. The Washington Post.
●2016. ‘Politically Correct’: The Phrase Has Gone From Wisdom To Weapon. NPR.
●2016. Political correctness: how the right invented a phantom enemy. The Guardian.
●2020. 人の正義を笑うな。SNSに蔓延する「冷笑主義」はなぜ危険なのか. Forbes JAPAN.
●2021. Generation Grievance: How the Political Correctness Myth Was Born. Literary Hub.
●2021. 歴史修正主義を扇動した「論破」文化 感情に訴える言葉の危険性. 朝日新聞.
●2022. ポリティカル・コレクトネスはなぜ必要か~セサミプレイスと国土交通省. wezzy.
●2022. キング牧師は「行きすぎ」ていたか キャンセルカルチャーと呼ぶ前に. 朝日新聞.
●2022. Dead End: Paranormal Park creator on upsetting Republicans and the power of trans characters. PinkNews.
●2023. Majority of Americans Think Being ‘Woke’ Is a Good Thing: Poll. The Advocate.
●2023. Conservatives Are Melting Down At ‘Indiana Jones and the Dial of Destiny’s Dig at Their Favorite Thing. The Mary Sue.
【本】
●Geoffrey Hughes. 2009. Political Correctness: A History of Semantics and Culture. Wiley-Blackwell.
●清水晶子, ハン トンヒョン, 飯野由里子. 2022. 『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』有斐閣.
【ドキュメンタリー】
●2021.『Qアノンの正体 / Q: INTO THE STORM』