人生のあらすじを認知できない…映画『ファーザー』の感想です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:イギリス・フランス(2020年)
日本公開日:2021年5月14日
監督:フロリアン・ゼレール
ファーザー
ふぁーざー
『ファーザー』あらすじ
ロンドンで暮らす81歳のアンソニーは認知症により記憶が薄れ始めていた。娘のアンが手配した介護人とも関係は上手くいかない。そんな折、アンソニーはアンから、新しい恋人とパリで暮らすと告げられる。しかし、アンソニーの自宅には、アンと結婚して10年以上になるという見知らぬ男が現れ、しかも予想外の言葉を耳にすることになる。現実と幻想の境界が曖昧になっていく中、アンソニーは真実を理解できるのか。
『ファーザー』感想(ネタバレなし)
主演男優賞はパン屋の息子に
生命保険文化センターによれば、日本には認知症の高齢者が約602万人もいるそうです。これは高齢者全体の16.7%、約6人に1人が認知症有病者と言えるのだとか。将来的には2060年には高齢者の4人に1人か、3人に1人の割合で認知症が生じるという予測も出ており、なかなかに衝撃的です。
そもそも認知症とは何なのでしょうか。認知症は脳の障害であり、周囲の現実を正しく認識できなくなります。これは物忘れの症状に近いですが、いわゆる「加齢」による物忘れとは全く異なります。
例えば、朝に何を食べたか思い出せない…これは加齢もしくは一般的な物忘れです。一方で、認知症になると朝ご飯を食べたこと自体を忘却し、しかも自分が忘れていることを認識できません。
映画だったら映画館で観た映画を丸ごと忘れてしまうことに…。いや、ちょっとそれも新鮮な体験がもう一度できるからいいかなと頭をよぎったけど、実際にそうなったらかなり大変…なんですよね。
とはいっても認知症は身に降りかかるときには来てしまうものなので、本人としてはどうしようもありません。怖いなぁ…。
そんな認知症を疑似的に映像で体験させるような感覚を与えてくれる映画が登場しました。それが本作『ファーザー』です。
本作は何といっても2020年のアカデミー賞で最もサプライズを与えた作品でした。コロナ禍の中で小規模構成で開催された第93回アカデミー賞の授賞式。通常の編成とは異なり、シンプルな演出で粛々と進行していたのですが、何よりも一番違ったのはフィナーレ。普通は作品賞の発表が最後を飾るのですは、なぜかこの年は主演男優賞の発表が最後になりました。それがわかった授賞式最中、誰もが「あ、今年は亡くなったチャドウィック・ボーズマンが主演男優賞で、最後にその追悼も兼ねてしみじみと幕を閉じるんだな」と推察したものです。
ところがいよいよ主演男優賞の発表。そこで名前を告げられたのは…“アンソニー・ホプキンス”。
…一同、困惑の表情。中継を見ていた映画ファンも「???」状態。確かに『ファーザー』の“アンソニー・ホプキンス”も評判は高く、受賞してもおかしくない名演でした。
ただ、問題なのは“アンソニー・ホプキンス”は授賞式に来ていなかったんですね。当日は出身地のウェールズに滞在していました。老齢ですし、健康を考えて渡米は控えたようです。だったらZoomなんかで顔見せすればよかったのになぜか主催者側はそれを禁止。結局、主演男優賞の発表と同時に何のスピーチもなく、今年のアカデミー賞授賞式は盛り上がりきらないままエンディングを迎えました。最近のどんな映画よりも衝撃的なラストでしたよ。まあ、アカデミー賞にはヤラセがないことを図らずも証明しましたけど…。
まあ、そんなこともあった“アンソニー・ホプキンス”ですが、1991年の『羊たちの沈黙』に続いてのアカデミー主演男優賞、おめでとうございます。83歳、同部門における最年長受賞者とのこと。
“アンソニー・ホプキンス”は実はパン屋のひとり息子なんだそうで、パン好きな私はそれを知ってからというもの親近感を持っています。『2人のローマ教皇』も名演でしたし、『マイティ・ソー』シリーズなど大作にも出演しているし、すっかりみんなのおじいちゃんという感じ。ドラマ『ウエストワールド』でもそうだったように、どこか真意の掴めないキャラクターを演じさせると抜群に上手いです。
なので“アンソニー・ホプキンス”が『ファーザー』で認知症の老人を演じたら、そりゃあもう最高に演じ切るのは当然です。
また、本作『ファーザー』は監督も話題で、“フロリアン・ゼレール”(フローリアン・ゼレール)という劇作家としてすでに高く評価されている人物。フランス人なのですが、今回『ファーザー』で長編監督デビュー。自身の「Le Père 父」という劇をそのまま映画化しており、それで一気にアカデミー作品賞ノミネートですから凄いものです。今後も映画業界で仕事するのかな?
他の出演陣は『女王陛下のお気に入り』『ザ・クラウン』の“オリヴィア・コールマン”、『ビバリウム』の“イモージェン・プーツ”など。
非常にミニマルでコンパクトなストーリーであり、ダイナミックなドラマは何もありません。しかし、認知症の底知れぬ不安感を名演で体験できる時間を味わえます。
映画を観終わった後はパン屋の焼きたてパンでも食べてね。
オススメ度のチェック
ひとり | :名作を見逃さずに |
友人 | :映画ファン同士で |
恋人 | :デート向きではない |
キッズ | :子どもは退屈かな |
『ファーザー』感想(ネタバレあり)
あらすじ(前半):父の認識する日常
アンという女性がアパートにやってきます。玄関を開けて中に入ると、そこは割と広く、いくつもの部屋を覗き、会いたい人を探します。その人は椅子にのんびり座っていました。父のアンソニーです。
部屋が暗いのでカーテンを開けるアン。「何も起きてないよ」といかにもキョトンとした顔で口にする父。高齢になりましたが、雇っていた介護士をクビにしていました。娘のアンとしては心配です。
しかし、そんな心配をよそに「私の腕時計を盗んだんだ」と威勢よく主張するアンソニー。父は呑気にアンの顔をなでます。それでもアンは心配でなりません。
自分の部屋に戻った父は腕時計をつけてまた椅子に座っていました。普通に腕時計はいつもの場所に置いていたようです。
アンは、近々フランスのパリに引っ越しをすること、新しい恋人と一緒に住むことを告げます。それを聞いたアンソニーは、アンがジェームズと結婚していると思っていたようです。でもアンは5年前に離婚したと説明。
アンは帰ります。その後ろ姿を窓から見つめる父。
別の日、アンソニーがアパートのキッチンでうろうろと作業をしていると、人の気配。「アン?」
居間に行って見ると見知らぬ男性が何食わぬ顔でソファで新聞を読んでいました。「誰だ?」
彼は自身をポールだと言い、アンと結婚してこのアパートに住んでいるとごく普通に言い放ちます。「住んでる?」…「夫?」…しかも10年も住んでいるのだとか。「ああ、10年か…」
なんとか納得しようとするアンソニー。自分はここで世話されていると言われ、そうだったのかと認識しようとします。
するとアンが帰ってきました。しかし、その女性は以前にアンソニーを訪れたアンとは全く顔の異なる女性です。「アンはどこだ?」と素直に聞くアンソニー。「ここにいるでしょう」とその女性。
アンソニーは混乱。しばらく後にまたアンは部屋にやってきますが、今度は夫なんていないし、アパートに男性すらいないと言い始め、ますますわかりません。台所には誰もいませんでした。
今度もアンがやってきます。今回は新しい介護士ローラも来ました。アンソニーはローラを見てやけに上機嫌になり、楽しくおしゃべりを始めます。手を繋ぎ、馴れ馴れしいですし、指を鳴らして有頂天。ウイスキーをコップ1杯飲み干してさらにテンションアップ。
かつて自分がプロのタップダンサーであったと自己紹介しますが、アンは「エンジニアでしょ?」とすかさず口をはさむのでした。それでも年を感じさせずに踊り始めるアンソニー。笑うローラ。
また、アンソニーはローラがもう一人の自分の娘・ルーシーによく似ているとボヤキ始めます。「意味もなく愚かに笑うところとか」と失礼なことを抜け抜けと言い放つアンソニーに、固まるローラ。
ルーシーの話をしだす父を前に隣のアンの表情は暗く困惑していました。
そしてアンソニーの日常はさらに自覚なく揺れ動き…。
観客に把握させない
『ファーザー』で描かれる認知症の患者のように、自分自身の認識を喪失しかけている人物を主題にした映画が何かと賞レースで上位にあがることが多いように思います。
若年性アルツハイマーを描いた『アリスのままで』(2014年)や脳卒中を描いた『愛、アムール』(2012年)なんかは国際的に高く評価されました。
『ファーザー』はとにかくシンプルです。主人公である高齢の男性視点で物語は綴られます。しかし、認知症が進行しているゆえに上手く周囲を認識できません。自分がどんな状況でどこにいつからいるのか、周りにいる人間が誰でどんな顔をしていて今はどういう関係なのか、全てがあやふや。
なので意識が少し向くたびに、その情報整理を観客と一緒にすることになります。
これが面白いのは、映画を観ている観客が普段からやっていることと同じだということ。映画鑑賞をするとパンフレットや公式サイトでキャラクター相関図を見ていれば話しは別ですが、基本的にその鑑賞が初見となれば、そのときにキャラクターを把握することになります。この人はあの人とこういう関係があって、過去にはあんなこともあったのか…とか。そうやって世界観を理解します。
『ファーザー』も見始めれば同じことをするわけですが、辻褄が合わないことだらけで一向に世界観の把握が前に進みません。この人がアンで、娘なのね…あれ?次に出てきたら顔が違うのだけど…しかもここに住んでいる?いや住んでいないの? どっち??…と混乱は拡大するばかり。
それはまさに重度の認知症の人が体験しているシチュエーションそのものであり、とても巧妙なストーリーテリングでいつのまにか翻弄される…見事な脚本です。
これはたぶん舞台劇の方がもっと情報が少なくなって混乱するのでしょうけど、外から観ているという立場上、観客側が少し客観的でいられるのかもしれませんね。しかし、映画だとよりリアルに日常が描かれ、観客はその世界に投入されますからますます真偽が不明な状況に困惑する。映画化で面白さに味が追加された感じです。
ローラが笑う理由
そして“アンソニー・ホプキンス”がやっぱり名演すぎて…。
自分で自分を把握できていないのにそれさえも理解できない孤立した老人を実に上手く演じています。混乱しながらもときおり虚勢を張ったり、愛嬌を振りまいたりするのが、微笑ましくもあり、同時に虚しいという…あのバランスはさすがの“アンソニー・ホプキンス”。
とくにタップダンスを踊るシーンは本作の印象を際立てる場面で、要するにおどけている感じですが、明らかに道化になっているともとれ、何もわかっていない無知さが強調される残酷さもある。
あそこで介護士のローラがツボに入ったかのように笑うのですが、そこでアンソニーは露骨に失礼な口調でそれに言及します。単にアンソニーが失言しただけにも思いますが、あそこはローラというキャラクターを通して、認知症で苦しむ老人を嘲笑う世間の目というのが可視化されているようにも思います。
ちょっとおとぼけた老人というわけではないんだ、と。でも世の中はそういう老人を小物扱いして、見下している。それは現実ではよくあることです。
例えば、認知症かどうかは定かではないですが、高齢ドライバーがアクセルとブレーキを踏み間違えたり、道路を逆走したという事件はしょっちゅう日本でも目にします。それを報じるニュース、そしてそれを見る視聴者の反応は「やれやれ」という冷たさですよね。また、お年寄りをクイズに参加させて珍回答を笑ったりもする番組があったり…これは完全に認知が衰えた高齢者をピエロにしているだけですし…。
考えてもみてください。自分が高齢者になってそんな目で見られたらどう思うか。自己嫌悪しかないんじゃないでしょうか。
最終的に本作ではアンソニーは自分が家族にすらも見限られて介護施設に入所させられたという事実を認識します。しかし、すぐに彼は母親に泣きつくように介護士にすがる。
高齢者の精神的孤独にぐっと寄り添う映画の静かな目線だけが救いです。
介護の苦しさと男性性の衰退
『ファーザー』は何が真実かわからないという意味では、スリリングなサスペンス映画でもあります。
不確かな視点を活かした『手紙は憶えている』や『殺人者の記憶法』にも通じますが、もっと日常よりのサスペンスです。言い方を変えれば、認知症の人は常にミステリーサスペンス状態なんですね。
そんな中で本作はアンソニー視点ではなく、アン視点になる箇所がいくつかあります。最初の冒頭でアンが部屋に入ってくるくだりはまだアン視点であり、そこでは観客はアンの立場からこのちょっと心配になってくる老人と引き合わせられます。
そして中盤でルーシーの話題があがり、夜中にひとりでコップを落とすほどまで動揺し、泣き崩れるアンの姿。本作は認知症高齢者の孤独を描いてはいますが、同時にそれを支えることになる家族の辛さも捉えています。介護者の心の苦しみも深刻な問題になっているのは言うまでもなく。
もちろん介護施設での高齢者への虐待もフォーカスされますし…。
その2つが互いにかき消すことのないバランスで収まっており、『ファーザー』はとにかく無駄がないですね。
『ファーザー』という男性を象徴するタイトルがついているのも意味深です。ある種のマスキュリニティの衰退を暗示しているようにも考察できますから。とくにアンソニーはルーシーに家父長的に接していた疑いもありますし…。その男性性が衰えてもなおも女性がケアする側になってしまう構図も浮き上がります。
素晴らしい映画を観た快感もあるのですが、なんか年をとるのが怖くなる居心地悪さの方が上かも…。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 98% Audience 91%
IMDb
8.3 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
関連作品紹介
アンソニー・ホプキンスが出演した作品の感想記事です。
・『ウエストワールド』
・『マイティ・ソー バトルロイヤル』
・『2人のローマ教皇』
作品ポスター・画像 (C)NEW ZEALAND TRUST CORPORATION AS TRUSTEE FOR ELAROF CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION TRADEMARK FATHER LIMITED F COMME FILM CINE-@ ORANGE STUDIO 2020
以上、『ファーザー』の感想でした。
The Father (2020) [Japanese Review] 『ファーザー』考察・評価レビュー