それは嫉妬に、そして暴力に変わる…映画『FEMME フェム』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:イギリス(2023年)
日本公開日:2025年3月28日
監督:サム・H・フリーマン、ン・チュンピン
性暴力描写 LGBTQ差別描写 性描写
ふぇむ
『FEMME フェム』物語 簡単紹介
『FEMME フェム』感想(ネタバレなし)
ドラァグクイーン映画の新鋭
「あなたの好きなドラァグクイーンの歌は何ですか?」…と質問しても、そもそもドラァグクイーンをよく知らないという人もいると思います。百聞は一見に如かず、知らないなら以下の記事を見てみて、世界のいろいろなドラァグクイーンの有名曲に触れてみてください。
ドラァグクイーンというのは、その多くはゲイ男性で(中にはトランスジェンダー女性やノンバイナリーの人もいる)、基本的に「誇張された女らしさ」を身にまとい、パフォーマンスをする人を指します。
「誇張された女らしさ」を身にまとうのはなぜでしょうか。勘違いしてはいけませんが、それ自体を笑いのネタにするためではありません。女をバカにしているわけでもありません。
むしろその逆で、あえて男性が「誇張された女らしさ」を身にまとうことで、男性社会の中にある「女らしさ」に対する嫌悪感や軽蔑心(「女々しい」と表現される)と対峙し、抵抗するというジェンダーの抑圧へのカウンターです。男らしさに固執してしまう男たちに「女らしさを見下すな」「女らしさは誇らしい」と存在自体で誇示しています。女性が女らしさを身にまとっても規範どおりにしかならないので、これは男性がやるからこそ効果を発揮するものです。
ドラァグクイーンはジェンダー二元論を解体し、とくに規範的な男らしさの檻から出られない男たちをもっと自由な世界に誘ってくれます。
今回紹介する映画は、そんなドラァグクイーンが、とあるひとりの男性に出会うことから始まります。
それが本作『FEMME フェム』です。
ドラァグクイーンを主人公とする映画がまだまだ珍しいのですが、その中でも本作は現代のドラァグクイーンのリアルな実生活を土台にして描かれています。
本作はまずドラァグクイーンの主人公が日常で差別的な暴力に遭遇します。残念ながらこうしたヘイトクライムは現代社会ではありふれています。
そして深いトラウマを負うのですが、そこからこの主人公はその加害者の男性に仕返しをしようと企てていくことに…。いわゆるリベンジものの出だしなんですね。典型的な性暴力ではないですが、尊厳を傷つけられるという点ではこれはレイプ同然であり、ある種のレイプ・リベンジのジャンルになっていると言えるでしょう。
そこから何がどう動いていくのかは、あとは鑑賞して味わってください。
陰惨な差別的暴力と心身の傷が生々しく描かれますけど、ドラァグクイーンというレンズを通してジェンダーの抑圧というものに真摯に向き合った物語です。
『FEMME フェム』は2023年にイギリス本国で公開され、英国インディペンデント映画賞にて最優秀英国作品賞・監督賞・脚本賞などにノミネートされる高評価を得ました。
監督は“サム・H・フリーマン”と“ン・チュンピン”のコンビで、これが監督デビューなのですが、素晴らしい期待の新人です。本作は2021年の短編を長編映画化したものとなっています。“サム・H・フリーマン”はもともと脚本家で、“ン・チュンピン”は舞台監督だったみたいですね。
主人公を演じるのは、『キャンディマン』の“ネイサン・スチュワート=ジャレット”。その主人公と対峙する相手を演じるのは、『1917 命をかけた伝令』でも一躍話題の俳優となった“ジョージ・マッケイ”です。
次世代のクィア映画として見逃せない『FEMME フェム』。日本劇場公開も2025年にやっと機会が巡ってきましたので、ぜひどうぞ。
『FEMME フェム』を観る前のQ&A
鑑賞の案内チェック
基本 | 性的マイノリティへの差別的な発言や暴力が生々しく描かれます。 |
キッズ | 性行為の描写があります。 |
『FEMME フェム』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(前半)
イースト・ロンドン。ナイトクラブを仕事場とするドラァグクイーンのジュールズは、今日も仲間と談笑しながらスタイルをバッチリきめ、ステージで観客を魅了する日々です。
ショーの隙間時間にちょっとタバコを吸おうと建物の外に出たところ、ひとりの若い男が目に入ります。夜の暗がりの中で電灯に照らされた黒ずくめの彼は、とくに友人なども周りにおらず、ひとりポツンと佇んで背を向けてどこかへ行ってしまいました。
パフォーマンスは続き、雄大な音楽とともにジュールズはスポットライトに照らされたステージへ。観客は大熱狂でした。
そのショーが終わって、身軽になって外に出ます。近くのコンビニにタバコを買いに行くも、レジは進みません。
そうこうしているうちに、背後から若い男たちの集団が現れます。その中にあのクラブ外でひとりでいた男もいました。明るい店内だとタトゥーだらけなのがよくわかり、プレストンという名のようです。
若い男たちは調子に乗ってジュールズを同性愛差別的な言葉で中傷してきます。ジュールズは彼らの前では気丈に振る舞い、プレストンのほうこそ自分をじろじろ見ていたと落ち着いて言い返します。そして足早に店を去ります。
するとプレストンは仲間を引き連れて追いかけてきて、無防備なジュールズを道端で突き飛ばし、蹴りつけ、刃物で脅してきます。ひとしきり罵倒を受け続け、放置されたジュールズは、着るものも奪われ、よろよろとクラブに帰り着きます。仲間に心配されながら、恐怖で嗚咽するしかできません。
3か月後、ジュールズはすっかりトラウマのせいで外へ出なくなってしまっていました。暗い部屋でゲームをするだけの毎日。友人たちは心配してくれますが、ジュールズの心には届きません。
ある夜、ひっそりとゲイ・サウナで汗を流すことにします。まだここは安全です。少なくとも同性愛差別を言い放つような奴はいません。ここでは体を交えて楽しんでいる人もいますが、ジュールズはそういう気分ではなく、誘いがあってもやんわり断ります。
そのとき、少し離れた席であのプレストンがいるのに気づき、硬直します。ロッカールームまで追うと確かに彼です。ゆっくり近づき、彼の隣に立ちますが、プレストンはこちらを見ても気づいていない様子。
しかし、プレストンが通り過ぎる瞬間、彼は「来い」と誘うのでした。動揺しながら指示に従い、プレストンの少し離れた後ろからついていき、彼の車の助手席へ。
プレストンはジュールズを自分のアパートに招き入れ…。
自己嫌悪が当事者への攻撃となる

ここから『FEMME フェム』のネタバレありの感想本文です。
『FEMME フェム』は、被害者と加害者の間に愛が芽生えるとか、関係性が逆転するとか、そんな単純な話ではありません。確かにキャラクターの立ち位置といい、下手するとご都合的な安易な共依存ロマンスに陥りかねません。しかし、本作は“サム・H・フリーマン”&“ン・チュンピン”監督の丁寧なキャラクターの心情掘り下げによって、そうした安直さを回避し、クィアな当事者の複雑な内面に迫るものに仕上がっていたと思います。
まずプレストンのほうから書いていくことにしますが、彼は初登場時は非常にショッキングな暴力の加害者です。ヘイトクライムとして言語道断の酷い行為を犯します。
しかし、それほどしないうちにこのプレストンもまたゲイであったことが判明します。こういう「クローゼットの(もしくは自覚すらしていない)ゲイ当事者がオープンリーなゲイ当事者を差別し、あまつさえ暴力をふるう」というのは決して珍しい事象ではありません。
いわゆる「内面化されたホモフォビア」というやつで、自分のアイデンティティをアイデンティティとして認識したくないという自己嫌悪感情が、堂々とアイデンティティとして生きている同類への敵意として発露する…そういう心理状態は起きえます。
プレストンは表向きはあからさまに同性愛差別的な男友達の連中とつるんでいるときはストレート(異性愛者)のふりをして過ごしていますが、裏ではゲイ(同性愛者)としてこっそり過ごしているという二重生活を送っています。ゲイとしてのライフスタイルでは親しい仲間もおらず、孤立していることが様子から窺えます。ジュールズの働くナイトクラブ前でひとりふらついていたのも、ゲイ・コミュニティに交じることへの躊躇をまだ抱えていたからでしょう。
そのプレストンが異性愛者モードのときに、たまたまジュールズと遭遇し、ジュールズは無自覚にもプレストンがゲイである可能性をチラつかせる発言をしてしまいます。そして焦ったプレストンは激しい剣幕で「自分はゲイではない」ことを証明するかのように手を汚します。俗にいう「ゲイ・パニック・ディフェンス」です。
誤解のないように強調しておくと、どんな背景であれ、プレストンの暴力は正当化できません。けれどもその背景は物語に深く根差しているということです。
つまり、本作におけるプレストンの物語は、彼がいかにしてゲイである自分を受け入れるかというプロセスであり、それは有害な男らしさからどうやって離脱するかという話でもあります。タイトルのとおり、「femme(女らしさ)」としてみなされがちなゲイネスを受容できるのか…。
どんな性的マイノリティでも自身のアイデンティティの受容は大変だと思いますが、プレストンのような異性愛規範の男らしさに染まり切っている立場にある男性となると、その難易度は跳ね上がります。最もオープンになりづらいポジションのひとつでしょう。
マッチョイズムに埋もれたクィアという…似たような立場の男性を描いた作品としては最近だとドラマ『ハートブレイク・ハイ』などがありました。
『FEMME フェム』はその特定の当事者の心理的葛藤をリアルに映し出していました。
勝ち負けではないゲーム
『FEMME フェム』の本来の主人公であるジュールズはどうでしょうか。
本作がもしプレストンが主人公で、しかも単なる異性愛者だったとして、ジュールズの描写がさほど薄ければ、ジュールズのキャラクターは典型的なマジカル・クィアの型に固定化されてしまいます。
しかし、本作はそうではありません。
本作はジュールズのキャラクターもしっかり心理が描けていると感じました。もちろんお茶らけたドラァグクイーンのステレオタイプでもないです。実生活における最初のプレストンらとの対峙のときの緊張感。当事者なら体感したことのある「あ、これはヤバいな…」という危険察知。そこからの必死の抵抗。そして、ヘイトクライムでトラウマを負うジュールズ。これらの描写は生々しく心理的にも現実味が濃いです。
問題はその後。ジュールズは友人からのケアを拒否し、閉じこもってしまうというセルフ・ネグレクトの状態に沈みます。ゲイ・サウナに行くところからリハビリしているのが切実です。
そこであの加害者であるプレストンに再会し、彼のアイデンティティを知ります。
普通は大人しく警察に通報すれば逮捕くらいはいけそうです。しかし、ジュールズはここで歪んだ復讐心に傾いてしまいます。やりかたとしてはリベンジポルノですが、相手はクローゼットなゲイなのでアウティングとしても機能します。倫理的にダメな行為です。けれどもジュールズは酷いことをされたから酷いことでやり返したいという衝動に当初は染まります。
そしてかりそめの交流を深めるわけですが、ここからのジュールズのプレストンへの感情は言葉に言い表しづらいものです。
見方によっては、ジュールズにとってプレストンは昔の自分を見ているような気持ちだったかもしれません。ジュールズにもクローゼットだった辛い時期があったでしょうから。
この両者の「どちらが優勢となるか」という構図の変化は、前半の緊張感からの転換としても、とても見ごたえがありました。格闘ゲーム(『ストリートファイター』)をその力の逆転を示唆するアイテムとして使っているのも地味に上手い演出でした。最初はジュールズの心の閉じた状態を表すゲームの没頭だったのに、いつの間にか駆け引きの道具に変わっています。
結果、ジュールズは復讐の気分はすっかり失せ、逆にプレストンとの交流を通してトラウマを克服し、ステージで堂々の復帰を遂げます。
一方、プレストンはまさにあの瞬間、最大の自己受容の試練が…。あの終盤の、またショッキングな暴力が繰り返されてしまうのかというところでの、プレストンのあの感情の爆発。私は序盤とのその行動の違いだけで、プレストンは不器用だけど前に進めているんだと思いました。下手糞だろうと無様であろうと、そうやって前進できるならね…。
映画としては悲しさの残る後味ですが、しかし完全な決裂ではない…いや、希望がハッキリあるのではと思える(思いたくなる)絶妙な幕引きでした。
“サム・H・フリーマン”&“ン・チュンピン”監督というクィアの巧みなストーリーテラーが今作で才能を花開かせてくれたので、次も楽しみでなりません。
シネマンドレイクの個人的評価
LGBTQレプリゼンテーション評価
○(良い)
作品ポスター・画像 (C)British Broadcasting Corporation and Agile Femme Limited 2022
以上、『FEMME フェム』の感想でした。
Femme (2023) [Japanese Review] 『FEMME フェム』考察・評価レビュー
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