シャマラン・ユニバースは君に任せた…映画『ミスター・ガラス』の感想&考察です。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。
製作国:アメリカ(2018年)
日本公開日:2019年1月18日
監督:M・ナイト・シャマラン
ミスター・ガラス
みすたーがらす
『ミスター・ガラス』あらすじ
フィラデルフィアのとある施設に、それぞれ特殊な能力を持つ3人の男が集められる。不死身の肉体と悪を感知する力を持つデヴィッド、24人もの人格を持つ多重人格者ケヴィン、驚くべきIQの高さと生涯で94回も骨折した壊れやすい肉体を持つミスター・ガラス。その意味とは…。
『ミスター・ガラス』感想(ネタバレなし)
映画会社を気にしないシャマラン
インドのマヘという町で“ある男の子”が産声をあげました。その子は生後6週間で一家ごとアメリカのペンシルベニア州フィラデルフィア郊外に移り住むことになりました。ヒンドゥー教の家庭でしたがカトリック系の学校に通っていたそうで、きっと差別や偏見もあったことでしょう。
でもこの少年には夢中なものがありました。それは映画。幼少の頃から映画にハマり、自分で『13日の金曜日』の続編を考えて撮影したりしていました。「医者になったら?」なんていう親のススメも無視して、自主映画を撮りまくり、スピルバーグを目指してまい進。インドからやってきたこの男の子にとって、アメリカという世界での自分の居場所が映画だったのかもしれません。その男の子はスクスク成長して青年になっても、映画だけに専念。大学時代に最初の監督作を作り上げます。
その男の名は“M・ナイト・シャマラン”。
当時はまだまだ白人中心社会だったハリウッドで、このインド系アメリカ人は数々の前代未聞なことを成し遂げていきます。
監督3作目の『シックス・センス』は異例の大ヒットでアカデミー賞にもノミネート。ジャンル映画で、かつ非白人の監督の小規模作品が賞レースにあがるというのは、今考えると時代を先取りしていました。
2002年の『サイン』以降は、評価も芳しくなく低迷期を迎えますが、大手映画企業主導から距離をとり、またもあの自身の若き時代を思い出す自主製作スタイルに戻ると、調子が復活。2015年の『ヴィジット』は久々の“M・ナイト・シャマラン”のヒット&高評価作となりました。やはりシャマランは型にハマらない自由奔放さが大事なんですね。
その『ヴィジット』に続く2017年の『スプリット』。この映画でもまたもや映画界の固定観念を覆すことをやってのけます。ここではハッキリ『スプリット』のネタバレをしてしまいますが、たぶんこの記事を読んでいる人は怒らないはず。
それは『スプリット』のラスト。多重人格の男に誘拐された少女を描いたサスペンス・スリラーだと思っていると、最後のシーンに映るのは、ダンという“ブルース・ウィリス”が演じる男。あるシャマラン映画を観た人にだけわかるサプライズ。これは、2000年の“M・ナイト・シャマラン”監督作『アンブレイカブル』に主人公として登場する男です。つまり、『スプリット』という映画は、『アンブレイカブル』と世界観が共通していた!というびっくり展開でした。
当時の映画ファンは、マーベルなどが「ユニバース」と称して複数の作品をクロスオーバーさせる映画企画が一世を風靡していることに合わせて、この唐突なシャマランの仕掛けを「シャマラン・ユニバース」と表現して騒いだものです。
ただ、この『アンブレイカブル』&『スプリット』のびっくりクロスオーバー。実は話がつながっている以上にもっと凄いことをしているのです。なぜなら『アンブレイカブル』はディズニー、『スプリット』はユニバーサル…全く異なる映画会社の配給だったから。当然、このクロスオーバーはシャマランが独断でやったことで、なんでも当時この『スプリット』のラストのオチを社内試写で観たユニバーサルの偉い人は肝を冷やしたとか(そりゃそうだ)。ユニバーサルはディズニーになんて説明したんでしょうかね…(会社員の気持ちになると可哀想になってくる)。とりあえず、シャマラン、自由すぎる…。
その『アンブレイカブル』、『スプリット』と物語が続くシリーズの3作目となったのが、本作『ミスター・ガラス』です。
やっぱり気になるのは、配給はどうするんだろう?ってことなのですが、製作と全米配給はユニバーサル、それ以外の世界配給はディズニーが担当することにしたようです。結果、ユニバーサルとディズニーというライバル企業同士の仲を取り持つという、割と凄いことをサラッとしているシャマラン。ユニバーサルとディズニーの異例の共同体制…まずこの時点でこの映画、変です。というか、ユニバーサルとディズニーに愛想つかされなくて良かったですよ。
そして『アンブレイカブル』と『スプリット』のあのキャラクターたちが合流する本作。一体、どんな化学反応が起こるのか。シャマラン監督は一体何がしたいのか。それは観てのお楽しみということで。
『ミスター・ガラス』感想(ネタバレあり)
シャマラン・ユニバース、完結!?
『アンブレイカブル』と『スプリット』を引き継ぐ本作の展開にワクワクしながら鑑賞した人は、もしかしたら、最終的なラストで、あれっ!?となったかもしれません。えっ、あいつもこいつも死ん…じゃあ、ここで終わり!?…と。
実のところ、映画ファンが勝手に「シャマラン・ユニバース」と持ち上げているだけで(それにシャマランが楽しそうに乗っかっているだけで)、本作は別にここからマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)のように壮大な展開に発展していくつもりは毛頭ありませんでした。そもそも『スプリット』もあの多重人格のケヴィンというキャラクターは、もともと『アンブレイカブル』に登場させる予定だったもので、入らなかったので別作品にしたとのこと。その『スプリット』が『アンブレイカブル』から16年後の公開になってしまったというだけ。言ってしまえばユニバースというか、3部作と表現すべき映画だったんですね。
だから本作『ミスター・ガラス』で一応のエンドを迎えるのは順当です。
それよりもよくこの3部作をほぼ自主製作の状態で作り上げたなと…そこに驚愕ですよ。『ヴィジット』の頃から製作費を自腹で工面しており、『ミスター・ガラス』は『ヴィジット』と『スプリット』で稼いだお金プラス、自宅を担保にしたという、リスク覚悟の自転車操業で突っ走る“M・ナイト・シャマラン”。文字どおり映画に人生を捧げています。
それでも2000万ドルという、過去作と比べると数倍の予算に膨れ上がった本作ですが、幸いなことに、『ミスター・ガラス』は大ヒットしたようで、シャマラン監督はこれからも映画を作れそうです。きっとこれで稼いだ資金でまた無謀な映画企画を考えるんだろうなぁ…。
意外にピュアなシャマラン
そこまで身を粉にしてシャマラン監督はこの3部作で観客に何を見せたかったのか。
よく“M・ナイト・シャマラン”監督作は「あっ」と驚く“どんでん返し”展開が特徴だと言われますし、そういう風に宣伝されることも多いです。
でも、私は、シャマラン監督作品は表面的なトリックばかりが目立ちがちですが、実は芯にあるものはとてもピュアでシンプルなメッセージを持っていると思っていて、そこが作品の気づかないけど魅力になっているのじゃないかなと思っています。
本作の場合はそのピュアな部分がとても濃く前に出ていたのじゃないでしょうか。
“サラ・ポールソン”演じるステイプルという精神科医の博士が、不死身のデヴィッド・ダン、多重人格のケヴィン、異常に壊れやすい天才のミスター・ガラス(イライジャ)を前に、「スーパーヒーローなんていない。あなたたちのその特殊能力に思えるものも、実際は普通に説明がつくものだ」と言って、ヒーローとしての彼らの存在を否定します。
では、ヒーローとは何なのか、科学的に説明できるのか。
本作はその答えをシンプルに告げる、それだけの映画と言ってもいいでしょう。
これは「自分のことをスーパーヒーローだと思っている」「自分を特別だと思ってきた」…そんな幼少期を過ごしたことのある大勢に響くことだと思うのです。シャマラン監督も、カトリックの白人社会で浮いてしまう子ども時代の中で、映画というフィクションに居場所をもらったように。きっと今、アメコミ映画が映画業界で一番成功できているのも、そういう自分を投影できる存在だからというのが大きいと思います。
ヒーローは誰かの居場所
まさにこれを思い出させるような話をアメコミ関係者が言っていました。マーベル・コミックス編集長C.B.セブルスキーがインタビューで答えていた一部を、少し長いですがまるまる引用させてもらいます。
マーベルの作品はいつも、「あなたの窓の外の世界」を描いています。特殊な能力を持ったヒーローでも補助的なキャラクターでも、どこかに読者が自身の人生を投影できる要素を持たせようと心がけています。ストーリーも受け手の出身や思考に関わらず共感してもらえるようなものを目指しています。マーベルは60年代の非常に早い段階から、スタン・リーをはじめとするライターたちが多様性や寛容さを、作品を通して世に伝えてきました。史上初の黒人ヒーローやゲイのヒーロー、女性のヒーローもそのころ登場しています。そしてその姿勢は今日まで受け継がれています。クリエイターや編集者の思いが常に作品に反映されているのです。ただ多様性は押し付けたり、強要するものであってはいけないと思っています。それは企業の意図ではなくて、クリエイターたちがキャラクターを通して、自然なかたちでファンに伝えていくものですから。マーベルがコミックの出版をはじめた当時、ニューヨークで活動していた作家たちのほとんどが白人男性でした。そういう状況だったので読者の大半も白人の男性でした。ビジネス上の理由だけで言うとそれで成り立っていたんです。しかしそれもあまり長く続きませんでした。 その転換点は、ふたつあったと思います。ひとつめは80年代初頭。何があったかというと、兄弟が持っていたマーベル・コミックを読んで育った女性たちが編集者としてマーベルで働くようになったんです。彼女たちはより自分を反映した、女性のヒーローたちを紹介していきました。マーベル・ユニバースに女性のキャラクターが登場しはじめたのはそのころです。(ふたつめは)読者だった女性たちが、のちにマーベルでクリエイターとして働きはじめる。彼女たちが自分の経験を投影した作品や世界観をマーベルにもたらした結果、自然に女性のキャラクターが増えていったんです。引用:i-D
マイノリティのヒーローが増えている昨今の傾向に対して、「ポリティカル・コレクトネスのせいだ」と批判的に考える人もいますが、事実ではありません。このインタビューで語る歴史経過が示すように、誰かの居場所としてヒーローが作られているだけ。
『ミスター・ガラス』もそういう映画であり、ダンは息子ジョセフ、ケヴィンはかつて拉致したケイシー、イライジャは自身の母、それぞれに“支え”として慕う存在が現れ、居場所になることで存在意義が生まれる。
ヒーローの存在が世界に知られたラスト。彼らは体は滅んでも、きっとどこかで誰かの助けになれることでしょう。ヒーロー(居場所)を求める人がいるかぎり。
ということで、たとえ最悪の超大作とクソミソに罵られたシャマラン監督史上最低作『エアベンダー』だろうと、きっとそれで救われた人がいるんだよ、そう、そういうことにしておこう。
それがこのオチです(台無し)。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 36% Audience 78%
IMDb
7.3 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 6/10 ★★★★★★
(C)Universal Pictures All rights reserved. ミスターガラス
以上、『ミスター・ガラス』の感想でした。
Glass (2018) [Japanese Review] 『ミスター・ガラス』考察・評価レビュー