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ドラマ『恋せぬふたり』感想(ネタバレ)…この作品の構造的な問題点を指摘する

恋せぬふたり

アセクシュアル・アロマンティックを主題に描く…ドラマシリーズ『恋せぬふたり』の感想&考察です。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。

原題:恋せぬふたり
製作国:日本(2022年)
シーズン1:2022年にNHKで放送
作:吉田恵里香
性暴力描写 LGBTQ差別描写 性描写 恋愛描写

恋せぬふたり

こいせぬふたり
恋せぬふたり

『恋せぬふたり』あらすじ

人を好きになったことが無い、なぜキスをするのかわからない、恋愛もセックスもわからず戸惑ってきた女性に訪れた、恋愛もセックスもしたくない男性との出会い。「私と恋愛感情抜きで家族になりませんか?」…恋人でも夫婦でもない? アロマンティック・アセクシュアルの2人が始めた同居生活は、どこへ向かっていくのか…。

『恋せぬふたり』感想(ネタバレなし)

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アセクシュアルやアロマンティックのドラマがNHKに!

日本でも性的少数者(セクシュアル・マイノリティとも呼び、その連帯を「LGBT」「LGBTQ」と呼んだりします)を題材にした作品は少しずつ手探り状態ではありますが作られ始めています。そんな中でこの2022年に放送されたドラマシリーズは特異な一作となったでしょう。

それが本作『恋せぬふたり』です。

この全8話のドラマの制作が発表された2021年10月、インターネット上でも一部界隈で話題となりました。というのも本作は「アセクシュアル」「アロマンティック」を題材にしたものだったからです。

大雑把に説明すると「アセクシュアル(アセクシャル;asexual)」というのは他者に性的に惹かれないという性的指向であり、「アロマンティック;aromantic)」というのは他者に恋愛的に惹かれないという恋愛的指向です。言葉の詳細について知りたいときは以下の私が別個で作った専門サイトなどを参照してください。

このアセクシュアルやアロマンティックが映画やドラマで登場することはこの2000年代になっても滅多にありませんでした。それくらい描かれにくい性的少数者(セクシュアル・マイノリティ)だったのです。

そういう背景もあり、本作『恋せぬふたり』は注目を集めるのも当然です。これがアセクシュアルやアロマンティックを描いた初のドラマというわけではありません。海外では先例がありますし、日本でも2020年にはAbemaTVで『17.3 about a sex』というWebドラマが配信され、こちらではメインキャラクターの女子高生のひとりがアセクシュアル&アロマンティックでした。

ただ、今回の『恋せぬふたり』は日本の世帯視聴者数も圧倒的に多いNHKがドラマの題材にし、しかもアセクシュアル・アロマンティックを主題にしているということもあって、アセクシュアル・アロマンティックのレプリゼンテーションとしても大きな出来事になりました。

物語は、20代で会社員をしている女性が他人に恋愛感情や性的関心が湧かない自分にモヤモヤしつつ、ある時「アセクシュアル」「アロマンティック」という言葉に出会って自分を見つめ直すきっかけを得て、とある家に住む同じくアセクシュアル&アロマンティックの男性と一緒の家に住み始め、「恋愛や性愛で繋がらない“家族”のカタチ」を模索する…というもの。

本作はNHKの「よるドラ」枠で放送され、もともとこの枠のドラマは挑戦的な題材の作品が多く、その流れということなのでしょう(若手社員が関与し、若い視聴者をターゲットに据えて企画する枠のようです)。『恋せぬふたり』の脚本は「チェリまほ」の愛称で人気を集めたBLドラマ『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』を手がけた“吉田恵里香”。主演は”岸井ゆきの”“高橋一生”、さらに“濱正悟””小島藤子”など。

とりあえずアセクシュアル&アロマンティックを題材にした作品が増えるのは歓迎したいところですが、当事者であればいろいろな不安も生じてきます(詳細は以下の記事を参照)。

一応、ネタバレ無しで当事者向けに事前参考となる情報を伝えておきましょう。

  • 主人公の男女がやっぱり恋愛感情が芽生えて付き合いだすというようなオチではないので安心してください。
  • 主人公が恋をすることはありませんが、物語としては「ラブコメ」のフォーマットに沿っているので、ラブコメのノリが苦手な人は観づらいかもしれません。
  • 専門家の考証が入っており、根本的にアセクシュアルやアロマンティックの描写が間違っているということにはなっていません。
  • 作中ではアセクシュアル・アロマンティックの当事者である登場人物が差別や偏見に基づく言葉を浴びせられるシーンがいくつもあるので、その点はご注意ください。

とはいっても『恋せぬふたり』を鑑賞してどんな感想を持つかは人それぞれ。私もアセクシュアル&アロマンティックの当事者ということもあり、本作の感想を忌憚なく後半は書いています。当事者だから踏み込みやすいこともあるだろうと思うので、あえて本作の問題点にも言及してみました(ただ絶賛するのも簡単すぎるので)。よろしければ続きを読んでみてください。

オススメ度のチェック

ひとり 3.5:当事者でも気になるなら
友人 3.5:素直に語り合える人と
恋人 3.5:互いの関係を考えるきっかけに
キッズ 3.5:そこまで教材的ではないけど
↓ここからネタバレが含まれます↓

『恋せぬふたり』感想(ネタバレあり)

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あらすじ(前半):恋愛をしないのが普通の2人

「恋するフェア」と掲げられた野菜売り場を満足そうに見つめる女性。兒玉咲子はスーパーまるまる本社営業戦略課勤務で、今回は自分の企画が通ったので現場に見に来たのでした。後輩の丸山は「先輩、あらためてお礼させてください。感謝しているんです」と告げ、隣にいた上司は「2人は仲良しじゃないか」と囃し立てます。咲子は「弟がいたらこんな感じです」とひと言。

上司はこの「恋するフェア」企画を褒めます。「ターゲットも広い。だって恋しない人間なんていないもんね」と饒舌。その言葉に後輩も「ですよね」と相槌を打ちます。その間で何とも言えぬ表情で無言だった兒玉咲子に対して、上司は「兒玉も仕事一本ではなく、恋愛もな。そういう経験が人を成長させるわけよ」と熱弁を奮ってきます。

そのとき、キャベツを落としてしまい、店員の男性と手が触れる兒玉咲子。その店員の名前は高橋羽。咲子は「ここの野菜の配置、いいですよね」と絶賛します。その2人の相性の良さそうな会話を見ていた上司が「なになに、恋、始まっちゃった~?」と揶揄うと、高橋羽はなんてことはないように口にします。

「いると思いますよ。恋しない人間」

その夜、社内で同僚に恋愛感情をぶつけられ、困惑する兒玉咲子。

その話を高校時代からの友人である門脇千鶴に打ち明けると、「咲子ってあれだよね、恋愛関連苦手っていうか」と言われ、高校の時に恋バナに入ってこなかった過去などを語ります。「私が悪いのかな」「そんなことないって、あんたは最高」と門脇はおごってくれます。「そのうち出会うでしょ、咲子も。私も恋とかいいかなって」と言うので、兒玉咲子もテンション高く話に乗ります。

家では2人目を妊娠中の妹の石川みのりに“子どもを産むこと”の期待の話をされ、母の兒玉さくらとの会話も聞いて、気まずい気持ちに…。

門脇とのルームシェアが安心の居場所になると考えていた兒玉咲子でしたが、門脇が元カレとよりを戻すことになり、ルームシェアの未来は消えてしまいました。「咲子も早く誰か運命の人に出会えるといいね」と言い残して去る友人。

意気消沈で夜の公園で佇み、「恋愛 しない わからない おかしい」とスマホで検索。そこでふと「羽色キャベツのアロマ日記」というサイトが目につきます。そこにはこう書かれていました。

「アロマアセクの知識に関わらず恋愛しない方がおかしいという方がおかしい。恋愛しないことはおかしくない」

“アロマアセク”という言葉が気になり、さらに検索すると「アセクシュアル」「アロマンティック」という言葉が表示され、どんどん夢中で調べていく兒玉咲子。共感し、肯定感を得ていく兒玉咲子に新しい世界が開かれていきます。

そしてそのサイトを書いている人は意外に身近にいました。スーパーまるまるの青果部門勤務の高橋羽。こうして恋しない2人は出会いました。

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当事者の“あるある”体験で啓発と共感を刺激する

『恋せぬふたり』の一番の良さは「身近」ということなんじゃないでしょうか。本作にはティーンや高齢者の当事者はでてきませんが、主人公となる兒玉咲子と高橋羽は一般的な社会人の庶民。とくに日本の視聴者層にとってはすごく身近な存在です。日本のごく普通の日常が舞台ですし、海外の作品よりも自然と親近感が湧きやすい利点を最初から持っています。まさに「Representation Matters」ですね。

本作でキャラクターがアセクシュアルやアロマンティックであるという設定をどう描くのか。作中では1話目から兒玉咲子と高橋羽が自らアセクシュアルやアロマンティックという言葉を使って自認してみせますが、本作ではその性的指向や恋愛的指向をより強調する“ある方法”をとっています。

それが当事者にとっての差別や偏見の体験を描くということ。

例えば、作中で兒玉咲子は家族や同僚などからことあるごとに恋愛伴侶規範を前提とした言葉の投げかけを受け、ずっと疑問や苦しさを抱えている描写が全話を通して続きます。高橋羽もそうです。

これらは「aphobia」(アセクシュアルの場合は「acephobia」、アロマンティックの場合は「arophobia」といったりする)と呼ばれる、アセクシュアルやアロマンティックに対する特有の差別や偏見の形態です。

「aphobia」「acephobia」「arophobia」というこれらの言葉をどう使い分けるかは当事者によって考え方が違ったりします。

『恋せぬふたり』はこうした「aphobia」のシーンを繰り返し積み重ねることで、非当事者に「これが当事者の受ける差別です」と普及啓発する効果を与えています。アセクシュアルやアロマンティックという見慣れないものを非当事者の視聴者に見せるにあたってのかなり入念な導入構成を私も感じました。

同時に当事者にとっては「そうそう!こういう目に遭ってきたんだよ」「わかる!私もこうだった!」“あるある”体験をもたらし、共感を与えやすくなってもいます。当事者が本作を楽しむ方法のメインはこの点になるでしょう。その差別や偏見の描写も、作り手が当事者の聞き取りなどを基にしており、監修もあるので、とても正確な描写になっていたと思いますし、そのリアルさが当事者の共感性の刺激材になっていました。

製作チームや考証チームのブログも公式に掲載されていますが、そこから謙虚な姿勢も窺え、ドラマ自体もオリジナル企画ながら手慣れた製作陣の手腕もあってウェルメイドでした。

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問題点:トラウマポルノによる当事者格差

一方でこの「aphobia」描写の多用が『恋せぬふたり』の欠点にもなっていると感じます。

それを説明するのに取り上げたいのが「トラウマポルノ」です。他の作品の感想でも私はよく使っている用語ですがこれはどういう意味なのか。簡単に言ってしまうと「特定の当事者にとってトラウマとなるような差別や暴力のシーンをストーリーで多用する作品」のことです。

あえてタイトルは挙げませんが、日本のLGBTQ作品でもそういうトラウマ描写を用いる作品は珍しくないです(イジメや自殺といった描写もあり得ます)。

ではトラウマポルノの何が問題なのか? 実際に当事者はそういう経験をしているのだからリアルな描写ではないのか?

トラウマポルノの問題性というのは以下の記事にも詳しく語られていますが、海外では最近はこれを問題視する論調も目立ってきました(The Mighty)。

このトラウマポルノの問題性にはいろいろな側面があるのですが、この『恋せぬふたり』に関係してくる点で言えば、「当事者の中にもトラウマポルノを楽しめる人と楽しめない人が生じる」「弱い立場の者をさらに弱い立場に追い込んでしまう」という問題が挙げられます。

一般的にLGBTQ作品は「非当事者は楽しめる or 当事者が楽しめない」の構図で語られがちですが、そうではなくトラウマポルノは当事者の中でも「楽しめる or 楽しめない」の分断を生むのです。別にそれくらいいいじゃないかと思うかもしれないですが、これは当事者の中でもとくに弱い立場の人をさらに追い詰める悪影響があります。ある当事者は作品の場面を見て「”あるある”体験の共感の場」としてスカっとしながら満喫できるけど、別の当事者(たいていはメンタル面で弱っている)は同じ描写を見てショックを受け、心の傷を悪化させます。当事者でも比較的優位な人だけが作品の思考実験的な面白さを独占できます。

実際に『恋せぬふたり』の鑑賞者の反応を見ると「登場人物が差別的な言葉を浴びせられるシーンを見ていて辛くて観るのが苦痛だった」という声もあります。「観るのをやめた」という当事者の声も。

もちろん映画やドラマにはトラウマ描写を用いることは普通です。ホラーやスリラーなんてほぼトラウマ描写ありきで成り立っています。でもこの『恋せぬふたり』はそういうジャンルではありません。ましてや「当事者を描く作品です!」と大々的に宣伝して当事者を呼び込んでいるわけで、それでショッキングなシーンを前振りなく見せられるというのは余計に衝撃も大きいものです。

普及啓発のためなら仕方ないという意見もあるでしょうけど、例えば教習所の交通事故防止ビデオでひたすら轢死体を映した映像を繰り返し流すでしょうか。

もちろんながらこの『恋せぬふたり』を楽しめた当事者は“トラウマを一切気にしていない調子のいい奴”だと言いたいわけではなく、トラウマポルノについての考慮の議論が意味するのは常に当事者間の中でも弱い立場の人(声をあげにくい人)を軽視しないようにしましょう…ということです。

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問題点:ハウジングの格差

しかしながら、LGBTQを扱っておいて差別や偏見の描写を全く入れないというわけにも…。無論、そういう描写を挿入するのも表現の自由。ではそういう時に大事になってくるのが、登場人物がトラウマを受ける状況に陥ったとき、適切な対応策を描いているのか…です。

その適切な対応策として一般的に筆頭となるのが専門家によるメンタルヘルスに基づくケアです。最近の海外のLGBTQ作品(例えば『Love, ヴィクター』『セックス・エデュケーション』など)では専門家のメンタルヘルスがトラウマで傷ついた登場人物をサポートする姿を描くのが定番です。これはそもそも現実社会におけるLGBTQ支援もメンタルヘルスを土台にするのが海外では当たり前になっているからです。近年はスーパーヒーローさえもメンタルケアを受ける時代ですからね。

では『恋せぬふたり』はどうなのか。本作では差別に苦しむ兒玉咲子の前に専門的なメンタルヘルスは登場しません。その代わりに何が兒玉咲子を助けるのか。それは高橋羽です。

本作では兒玉咲子は高橋羽という「味方」を見つけたことになっており、表面上は対等な当事者仲間というふうに見えます。その出会いは兒玉咲子の孤独感を埋めます。

しかしどうでしょうか。「表面上は」と濁して書きましたが、私は本作の兒玉咲子と高橋羽は当事者ではあるけど全く対等ではないと思います。そこが本作のもうひとつの致命的な問題点です。

私は本作を観る前はこの2人はてっきりルームシェアでもするのかなと思っていたのですけど、実際は違って兒玉咲子は高橋羽の家(元は祖母の家)にあがりこんで居候するんですね。

兒玉咲子は本人は気丈に振舞っていますが、実は客観的に整理するとかなり追い詰められているのがわかります。まず職場で差別を受けています。家庭でも差別を受け、家に居づらくなってしまいます。あげくに同性友達さえも失ってしまいます。つまり、雇用・家庭・住居・友人関係の4項目で同時に黄色信号が点滅しており、生存権が危ういです。

一方の高橋羽は、安定した住居はある、家庭は縁が切れており影響なし、雇用は店長昇進の話もあってキャリアに希望はある(店長になればハラスメントは受けづらいでしょう)、友人はとくにいなくてもわりとやっていけてる…。ということで全然OKなのです。

しかも、ここが最重要ですが、高橋羽のあの一戸建ての家。立地からいってかなり高額資産です(どうやって相続したんだろう…)。なんでも撮影に使ったあの家は価格が6億円以上だそうです。兒玉咲子の貯金額は知りませんけど片や住宅資産ゼロ、片や住宅資産だけで数億円保有ですよ。

つまり、兒玉咲子と高橋羽は同じ当事者でもそれぞれが抱えている状況は雲泥の差があるのです。

とくに「ハウジング(housing)」という住居の問題はLGBTQにおいてはかなりトピックになるのですが、私も『恋せぬふたり』の高橋羽ほど優遇環境のLGBTQキャラクター、この手のフィクションでなかなか見ないですね。

最終話では、高橋羽が家を出て兒玉咲子が家に単独で住む別居家族のカタチをとるという(なかなかにアクロバティックな)展開になるのですが(莫大な贈与税とか生じるんじゃないのかな…)。これが法的な家族だったら単身赴任みたいな扱いで問題視もされないでしょうけど、まさにそれこそLGBTQにありがちなハウジング問題なんですけどね。本作はそういうリアリティは低いです。

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問題点:男女の不均衡への無自覚

この住居問題にも関わるのですが、「兒玉咲子と高橋羽は当事者ではあるけど全く対等ではない」と言える大きな違いが性別です。男女です。

『恋せぬふたり』は兒玉咲子と高橋羽を同じ当事者としてざっくり扱っていますが、その男女の違いを論点にすることを一切しません。結果、男女の不均衡にものすごく無自覚な作品になってしまっています

先にも言及したように、兒玉咲子は高橋羽の家に住まわせてもらいます。家事を役割分担とかしていかにも対等そうな雰囲気をだしていますが、兒玉咲子の生存権は高橋羽の手に握られています。現実的に考えるとこれはほぼ「シュガーダディ」の状態とそう変わりありません。兒玉咲子は29歳、高橋羽は40歳だそうですし…。

加えて高橋羽は無害な男性像と化しており、これはこれでアセクシュアルやアロマンティックの男性ステレオタイプだと思います。こういう無害化はアセクシュアルやアロマンティックの男性が抱える加害性を不可視化するので私はあまり好きではないです。日本人にありがちな物静かで温厚な男性の中にあるトキシック・マスキュリニティにももっと批判的視点はあるべきだと思うし…。

そしてここが私もとくに引っかかるのですが、高橋羽は妙に立ち居振る舞いが論客っぽいんですよ。社会の恋愛伴侶規範や性愛至上主義にボソボソと苦言を呈す、傍から見れば心地いい正論を言ってくれる論客的な存在感。兒玉咲子はそんな高橋羽という男性論者に「言いたいこと言ってくれる」と傾倒していく。でも高橋羽は全くジェンダー構造には無関心で自身の男性特権を自己批判することもしません。それってすごく冷笑的なマッチョイズムだと思います。ことさら作中では松岡一(カズ)という若い男性キャラクターが高橋羽の論調にすっかり陶酔していく姿が描かれ、これなんか私は典型的なホモソーシャルな男性同士の馴れ合いだと思いましたし、率直に「気持ち悪い」と感じました。

ましてや高橋羽は祖母から譲り受けた家を守るという信念が強く、それ自体は家父長的態度と何ら変わらないです。

『恋せぬふたり』は、抑圧に苦しむ無知な若い女性が論客的な男性に救われるという、非常に危ういシンデレラ・ストーリーが主軸にあるのではないか。終盤になるにつれ高橋羽に芽生え始めている「家族(仮)」の概念は結局は家父長的居心地よさじゃないか。そもそも性的指向や恋愛的指向の教育や啓蒙は論客的な男性に頼らないと成し遂げられないことだろうか。そういうことを考えずにはいられません。

高橋羽は最終話では家を出て野菜王国で理想の暮らしを送るのですが、なんだか特権に最後まで気づかずに余生を過ごす高齢ジジイのようだった…。

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問題点:性的被害への認識不足

アセクシュアル&アロマンティックの男性は基本はその性的指向や恋愛的指向に関連する差別を受けるだけですが、アセクシュアル&アロマンティックの女性はそれにプラスして女性差別も受けるという複合的差別の被害者です(Feminism In India)。

『恋せぬふたり』はその認識がすっぽ抜けるように欠如しており、とくにそれが最も悪いかたちで表出するのが、兒玉咲子の過去の性体験が明らかにされる場面だと思います。

兒玉咲子は過去に恋人がおり(本人は恋愛と認識していないけど、わりとモテる人柄のようです)、性行為経験もあることが判明します。本作で非当事者の存在として象徴的に描かれ、兒玉咲子に“純真な”恋愛・性愛感情を向ける相手の代表として描かれるのが、同じ職場の松岡一(カズ)です。兒玉咲子はアイドル好きという趣味が一致してカズと気が合うのですが、その流れでいつの間にか交際していることになり、半ば押し切られるように性的関係を生じます

作中ではこの兒玉咲子の一連の性経験をアセクシュアル&アロマンティックによる無理解が生んだ可哀想な事故…といった具合であっさり片付けているのですが、私はこれは明確な性的被害であると思います(なお、第3話開始時に「ドラマの中で性的接触の描写があります。あらかじめご留意ください」という注意文章が表示されますが、性的被害の描写であるという注意はありません)。

そもそもこの兒玉咲子の経験したその性的な“それ”は、アセクシュアル&アロマンティックの視点で論じることではなく、まず何よりも「性的同意」の観点で議論しなければいけないことであり、「セクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」の範疇です(言葉の意味は以下の記事を参照)。

しかし、兒玉咲子は高橋羽という“男性”に出会うことで、アセクシュアル&アロマンティックの差別を受けていると自覚することはできますが、女性差別、それにともなう性的被害を受けているという自覚に至ることはありません

それどころか“加害者”のカズが家にまであがりこんできて人間関係は続いていく。しかも本作はそんなカズを「根は良い人だ」という扱いで愛嬌のあるマスコット男性化しており、非常にヒムパシーな描写です。高橋羽さえも「(カズと)付き合うのも悪いことじゃないのではないですかね」と放言。

本作の構図は嫌味な言い方をするなら「アセクシュアル&アロマンティックの女性がアセクシュアル&アロマンティックの男性と非当事者の男性に挟まれて上手く丸めこまれているだけ」であり、下手したら「ガスライティング」的ですらあると思います。

「いや、これを性的被害と呼ぶのは大袈裟だ」という主張には私は全く支持できませんし、何よりも憤りを感じるのはこういう当事者の女性は日本社会に多いからです。アセクシュアル&アロマンティックという言葉にやっと辿り着いても女性差別を考える機会を与えられず(それどころかフェミニズムを忌避する感情を植え付けられることも)、自分の苦しみを全てアセクシュアル&アロマンティックの概念だけで処理しようともがき、劣等感に苛まれてしまう当事者の女性たち(当然、性的被害を受ける男性やノンバイナリーなどもいますよ)。

内閣府の調査(2014年度)によると、異性から無理やり性交された経験があると答えた女性は15人に1人。しかし、被害を受けた人のうち、警察に相談したのはわずか4.3%。誰にも相談しなかったという人は67.5%にものぼります。どんなかたちであれ、自分が望まない性的な行為は性暴力です。

『セックス・エデュケーション』という海外ドラマでは性に詳しい男性が正論的にアドバイスしていくのですが、女性の事柄には全然理解していないことを痛感し、手厳しく非難されて反省するという展開があります。『恋せぬふたり』もそういう展開があるべきでした。作中でカズはジュリー・ソンドラ・デッカー著の「見えない性的指向 アセクシュアルのすべて―誰にも性的魅力を感じない私たちについて」を呼んでアセクシュアルやアロマンティックについて勉強していますが、蟹食ってる高橋羽も合わせてあの男2人はフェミニズムの本を30冊くらい読んで反省して学ぶべきだったんじゃないですか。

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問題点:難病ステレオタイプと同性愛表象

『恋せぬふたり』は上記にあげた私が致命的だと思う構造上の問題点のほかにもいくつも気になる点はあります。全部は挙げられないのであと2点だけピックアップすると…。

そのひとつが高橋羽は「他者の肌に触れられない」という設定。確かにアセクシュアル&アロマンティックの当事者の中にはそういう人はいます。ただこれに関して、直接的な因果関係はないものですし、病理的な原因があるケースもあるので、医学的なエクスキューズがもう少し必要なんじゃないかとは思います(病気扱いしろという意味ではないですよ)。

一方で作中ではこの設定は極めて「難病」的な印象を与える仕掛けとして活用されており、これはこれでどうなんだとも…。第7話の猪塚遥の指輪のくだりとかはやりすぎな“可哀想”煽りだと思うし…。やはり『17.3 about a sex』でも感じましたけど、アセクシュアル&アロマンティックは視覚的に示せるものが乏しいので、映像映えする異質さを醸し出す描写が用いられやすく、それが結果的に「難病」風に見えてしまっていますよね。

疑ってかかるような見方をするなら、この「他者の肌に触れられない」設定を視聴者に見せることで、高橋羽という本来は特権を持っているキャラに同情心を抱かせるように仕向けていますよね。

本来はこのような「接触恐怖」の症状を明確にもっているなら、人によってはより高度な専門家メンタルケアを含むサポートがいるはずで…。そのケアの役回りを本作は専門知識ゼロのド素人である若い女性の兒玉咲子にやらせているというのも…。

また、もうひとつ気になるのは、門脇千鶴の描写。兒玉咲子の親友でしたが、第5話で門脇千鶴は兒玉咲子に恋愛感情を持っており、ゆえに距離を置いたことが判明し、悲痛な門脇千鶴の表情が映され、以降はとくにフォローはありません。

この描写はかなり「Bury your gays」な同性愛ステレオタイプだと思います。そもそも同性愛が女性の連帯の阻害要因になる、女性同士の友情を唐突に破壊する隠し爆弾になる…というのはさすがに酷いんじゃないか。なぜ本作は同性愛に関してここまで性愛至上主義的な扱いで終わっているのか、甚だ疑問です。基本的に本作は男性と比べて女性同士の連帯が描かれることがほぼないんですよね。

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なぜ問題点があるのか①:レプリゼンテーション

ではなぜ『恋せぬふたり』ではこのような構造的問題点が放置されているのか。製作者は丁寧に向き合おうという姿勢もあったようですし、考証チームからなる監修者だってついているのに…。

その理由を推察するに、本作は監修によってアセクシュアル&アロマンティックの正確な描写をすることだけはおおむねクリアしていても、レプリゼンテーションに関しては失敗個所が多い…つまりレプリゼンテーションの監修が不足しているからなんだと思います。

LGBTQの考証は、歴史や科学の考証とは違います。正確であればいいわけではなく、レプリゼンテーションとして適切かどうかをアドバイスしなくてはいけません。単に物知りな当事者であってもダメで、リアルな当事者体験エピソードを素材にすれば完成度が上がるなんて安直なこともなく、レプリゼンテーション問題に関する広範な専門的知識が問われる、かなり難易度の高い仕事なのです。

アメリカでは「GLAAD」というLGBTQ作品の監修を務めることも多い組織がありますが、これは単なる当事者団体ではありません。多様なレプリゼンテーションのプロフェッショナルが集っています。ゆえに非常に多彩な視点(性別や人種なども含む)で表象を分析するスキルを持っています。日本にはこれほどのレプリゼンテーション監修組織は残念ながらありません。

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なぜ問題点があるのか②:インターセクショナリティ

そして『恋せぬふたり』は制作や考証において明らかに「インターセクショナリティ」の意識が欠落しています。アセクシュアルやアロマンティックの描かれ方が偏向していて一面的、もっとハッキリ言うならものすごく男性社会側もしくは(男性でなくても)優位な人側に立っています。

当事者の目線とは言え、かなり偏向している当事者の目線であり、製作者や監修者は「当事者」という言葉の中に「当事者にも色々な人がいる」という意識はあるのですが「当事者の中に力の不均衡がある」という意識が無いように見受けられます。だからコントラバーシャルなネタは取り上げるけど、ある一線は越えないようになっていて、自身の加害者性という権力勾配に向き合わず、タブロイド的な人間関係の問題は論客っぽく愚痴って触れるけど権力批判の領域には絶対に触れない。そんな日和った構成とも言えるような…。

本作の第6話で当時者の交流会に兒玉咲子が参加するシーンがチラっとだけあるのですが、まるでストーリーに寄与せず、フワっと「色んな人がいるんだよ~」で終わったあの場面を見て、私は今の日本の当事者活動の現実を直視させられた気分になって虚しさを感じましたよ…(もうちょっと上手く作劇に活かす方法はあったと思う)。

どうしてこうなるのかといえば、これは明言しますが、日本の既存の団体や活動家を含むアセクシュアル&アロマンティックのコミュニティさえも男性社会中心的な視点で成り立っており、女性差別が蔓延しているからです。これは内部告発とかではないですし、詳細な言及は控えますけど、アセクシュアル&アロマンティックのコミュニティの中でたくさんの女性蔑視を見てきました。中には活動の中心にいる当事者が女性偏見を露呈する姿もありました。人種差別や他の性的少数者への差別も観察できます。現状の日本のアセクシュアル&アロマンティックのコミュニティはこういう「不均衡・不平等」を積極的に問題視しようという空気が薄いんですよね(まあ、日本だけでなく海外でもそこは内外で批判されている点なのですが)。あくまで同好会みたいになっている…。

おそらく不本意で無自覚であろうと思いますけど、日本のアセクシュアル&アロマンティックの当事者団体・支援コミュニティ・活動家の問題点をこのドラマは如実に浮き彫りにさせているのです。そしてこのドラマが論点にしなかった部分こそ、私たちは意識しなければならないのではないかとも思います。

これに関してメディアを論じるうえで「ゲートキーピング」という言葉があります。これは「メディアが現実社会で発生した出来事から伝えるべきものを選別すること」を言い、その立場を有する「ゲートキーパー」は特権を持っています。『恋せぬふたり』の場合、女性当事者の視点は排除され、男性社会に都合がいい前提の中で当時者間の男女の違いが無いものであるかのように均質化されています。ジェンダーだけではない、色々な要素が均質化され、「みんな違ってみんないい」の思考で停止しています。作り手であるゲートキーパーの無自覚なクリエイティブの結果でしょう。

『17.3 about a sex』の方が男女の不均衡を意識した作り(ちゃんと問題提起する)を随所に窺えたので、やはり『恋せぬふたり』は制作や考証においてその意識が抜け落ちていたのだと思います。『恋せぬふたり』はかなり多数の人が考証に関わったらしいですが、それでもそう簡単にインターセクショナルな作品は作れないということでしょう…。

本作の最終話で兒玉咲子が朗らかに「私の幸せを決めるのは私だけ」とセリフで言っていましたが、実際はこの登場人物の幸せを決めたのはゲートキーパーです。そこは忘れてはいけません。

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まとめ

『恋せぬふたり』の私の感想をかつてない長文で書いてしまったのですけど(読みづらくてすいません)、さすがに長いので整理してまとめます。アセクシュアル&アロマンティックのみならずLGBTQのレプリゼンテーションにおいて私があらためて気にしてほしいポイントです。

①トラウマ描写は本当に必要か

その性的指向や恋愛的指向、はたまたジェンダーはトラウマ的な描写がないと成立しないのでしょうか。いくら普及啓発のためとは言え、ウェブサイトや説明会とは違う、映像表現だからこその(視聴者に与える)インパクトというものを計算に入れているでしょうか。事実だからとか関係者に話を聞いた体験談では理由にならない、映像にすることの副作用を把握しているのでしょうか。一部のトラウマに耐性のある優位な当事者が満足するだけの内容になっていませんか?

②適切なメンタルヘルスが描かれているか

トラウマを抱えた当事者のキャラクターに関して、専門的に正しい対処が描かれているでしょうか。なんとなく良い話ムードで誤魔化していないでしょうか。論客の正論でも解決はしません。もちろんメンタルヘルスは万能ではありません(acesandaros.org)。でも専門的に正しい対処こそ描かれないといけないことであり、この社会で不足しているものです。

③インターセクショナリティを意識しているか

特定の性的少数者を描くとは言え、その交差的な複雑性を捉え、包括的な視点で、最も立場の弱い者を忘れていないでしょうか。各々のマイノリティ性に優劣をつけろという意味ではありません(誰が一番可哀想か合戦をすることを奨励するものではない)。無意識のうちに「映像化しやすさ・キャッチーさ」などの見栄えに引っ張られていないか、作り手が見てみぬふりをしたくなる側面はないか。「私たちはちゃんと多様性を描けている!」という自信がときに自分の目を曇らせることもあります。「多様性だよね」「恋愛にもいろいろな考えがあるよね」というフワっとした同調的な理解に終始していて、当事者内の加害と被害という不均衡の構造を自省することから逃げていませんか?


こんなことを気にしていたら作品を作れないと思うかもですが、別にこれは表現の自由を狭めるものではなく、むしろ表現の幅を広げて深みをだすためのきっかけになると思います。実際にこれらのポイントを満たした面白い作品もたくさん登場していますからね。

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このドラマを観た人へ

最後にこの『恋せぬふたり』を鑑賞した人へのコメントを。

まず非当事者の人。本作で描かれているのは「新しい家族のカタチ」ではありません。アセクシュアル&アロマンティックというのは最近の流行りでもトレンドでもなく、大昔から存在します。きっとアセクシュアル&アロマンティックではない人でも恋愛伴侶規範や性愛至上主義に疑問があったり、それのせいで不快な気持ちになった人は大勢いるはずです。アセクシュアルやアロマンティックでなければ恋愛や結婚に幸福を当然のように見いだせる…という単純な話でもないでしょう。それでいいと思います。それが普通なのです。

次に当事者の人。本作を観てエンパワーメントをもらいましたか? であればおめでとうございます! あなたの人生を肯定してくれる出会いは大切にしていってください。フィクションが心の拠り所や希望になるのはとっても大事です。私は今回の感想記事であれこれ苦言を書きましたけど、このドラマを楽しんだ人を否定したいわけではないですからね。

一方で「この『恋せぬふたり』を観て楽しんでいる当事者がSNSでいっぱい見かけたけど、私はそうじゃない…。私っておかしいのかな…」「私って当事者失格?」…そう思った当事者のあなた。何もおかしくありません。作品には合う合わないがあるのは当然です。大丈夫です。

そして最後は…私。いや、本作を鑑賞して感想を書いていて勉強になったことがありました。そもそもアセクシュアル&アロマンティックのレプリゼンテーションの数が世の中にはあまりにも少なすぎたので、どう批評したらいいのかという要点も整理されていないんですよね。今回のドラマで少しずつそれが見えてきた気がします。

さあ、『恋せぬふたり』の次は何ですか! え、まさかこれでアセクシュアル&アロマンティックを描いた日本の映像作品は終わりではないですよね? これ一作だけで、残りのテレビ局が作るドラマ100作品全部が恋愛伴侶規範ありきの内容なら、何の意味もないですよ!

『恋せぬふたり』
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer –% Audience –%
IMDb
?.? / 10
シネマンドレイクの個人的評価
5.0
どんなかたちでもあなたが望まない性的な行為はすべて性暴力です。性的被害を受けたと少しでも感じたら専門の相談窓口に気軽に頼ってください。
性犯罪/性暴力に関する相談窓口
性犯罪・性暴力被害者のためのワンストップ支援センター – 男女共同参画局
各都道府県警察の性犯罪被害相談電話 – 警察庁
性暴力被害に関する相談窓口・支援団体の一覧 – NHK
DV被害を受けている人のための相談窓口
被害を受けたら、どこに相談すればいいの? – 政府広報オンライン
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作品ポスター・画像 (C)NHK 恋せぬ二人

以上、『恋せぬふたり』の感想でした。

Koisenu Futari (2022) [Japanese Review] 『恋せぬふたり』考察・評価レビュー