家父長制を途中下車して…映画『花嫁はどこへ?』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:インド(2024年)
日本公開日:2024年10月4日
監督:キラン・ラオ
DV-家庭内暴力-描写
はなよめはどこへ
『花嫁はどこへ?』物語 簡単紹介
『花嫁はどこへ?』感想(ネタバレなし)
アーミル・カーンは映画で声を上げ続ける
インド映画界の名クリエイターとして名を馳せている“アーミル・カーン”。俳優&プロデューサーとしての才能は国際的に認められています。
そんな“アーミル・カーン”ですが、実は政治的には一部から厳しく非難されてきています。主に保守勢力から目の敵にされているのです。
“アーミル・カーン”はそのフィルモグラフィーを観てきた人ならわかると思うのですけど、常に映画における政治姿勢は一貫しています。弱者に手を差し伸べ、不平等を批判し、多様性を土台にした融和を描いてきました。
2001年の『ラガーン』では、カーストを乗り越えて対権力としてクリケットの試合に一致団結して挑む村人たちを…。2007年の『地上の星たち』では、ディサビリティ(障害)の偏見に囚われず教育を届ける大切さを…。2009年の『きっと、うまくいく』では、大学を舞台に格差・貧困・自死などから目を背けない青春を…。2014年の『PK』では、宗教とは何なのかというテーマをユーモラスに問いかけ…。
その“アーミル・カーン”ですから、現在与党のインド人民党の保守的な政策を問題視することも多かったです。当然、それを目障りとみなす人たちもいました。“ナレンドラ・モディ”政権の長期化が進んだ2010年代後半からは、“アーミル・カーン”に対する極右や宗教ナショナリズムからの酷いバッシングも悪化し…。
でも“アーミル・カーン”は挫けず、映画という媒体で社会に声を上げ続けています。とくに近年は、インドの保守的社会における女性差別というジェンダーの不均衡に焦点をあてた映画を生み出すことに注力していました。
2016年の『ダンガル きっと、つよくなる』、2017年の『シークレット・スーパースター』と、フェミニズムな映画を手がけてきて、2024年、新しい一作が加わることに…。
それが本作『花嫁はどこへ?』です。
本作は“アーミル・カーン”は主演しておらず、あくまで制作プロダクションと製作クレジットでの関与のみです。ただし、監督をしているのは“キラン・ラオ”という女性で、“アーミル・カーン”の妻だった人です。2021年に離婚していますが、この映画を共同で作るくらいには関係は良好な様子。
“キラン・ラオ”は『ラガーン』の助監督だったそうで、2011年に『ムンバイ・ダイアリーズ』という作品で長編映画監督デビューしています。『花嫁はどこへ?』は久々の監督作です。
物語は、結婚の儀式を終えたばかりの2人の花嫁が列車内ですり替わってしまい、さあ、大変…という、それだけ切り取ればいたってシンプルなドタバタ・ロマコメ。でも背景にはインド社会における女性への抑圧がしっかり描かれ、ときにそのトーンはシリアスです。どんな社会問題が取り上げられているのかはネタバレになってしまうので、後半の感想で言及しておきます。
『花嫁はどこへ?』は脚本のコンテストで見つけたシナリオを原案しているらしく、キャスティングでもほとんど有名な俳優を起用していません。そのため、“アーミル・カーン”製作としても相当にインディペンデント映画のような肌触りがある作品になっています。
歌もダンスもありませんから、華やかなエンターテインメントを楽しみたい人には期待外れかもしれません。しかし、地に足の着いたリアルな社会の中で、自立しようとできる範囲でもがく等身大のインドの女性たちの姿は、似たような抑圧に晒されている世界中の女性たちにも重なります。
少し元気をもらいたい人にぴったりな映画です。
『花嫁はどこへ?』を観る前のQ&A
オススメ度のチェック
ひとり | :元気を貰える |
友人 | :女性差別に関心ある同士で |
恋人 | :大切にしてくれる人と |
キッズ | :やや大人のドラマだけど |
『花嫁はどこへ?』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(前半)
農夫のディーパクはプールという女性と結婚することになり、今日はその晴れ晴れしい日。互いにこの日のための衣装で着飾り、田舎にて祝いの儀を執り行います。ディーパクは興奮し嬉しそうですが、プールは落ち着かなくどこか不安げな表情。2人は女性たちに囲まれ、ひとりの女性が花嫁プールの頭にグーンハットという赤いベールをすっぽり被せます。これでもう顔は見えません。
それから2人は移動。このプールの村から、ディーパックの住む村まで行くのです。嫁いだ以上、もうこの村は過去の場所。
バイクの後ろにまたがって、小舟、車の屋根と、いろいろな経路で向かいます。プールは道中ずっと頭をベールで覆っており、ときおり水分補給で顔をみせる程度です。基本的にベールを被っている間は喋りもしません。
続いて列車に乗ります。列車は人でごった返しており、同じような赤いベールを被った女性も何人かいます。インドでは縁起の良い日に結婚式をあげることが多く、このように同日に多くの花嫁・花婿が乗り合わせるのは珍しくありません。
乗り降りも激しく、定期的に席を動かないといけません。ディーパクは少し席を離れ、また戻ってきます。
ふと気が付くとディーパクは居眠りしてしまっていました。揺れで目覚め、もう降りる駅だとわかって、急いでプールとおぼしき赤いベールの女性を手で合図し、列車を降ります。
もう夜です。急かすようにすぐにバスに乗り、真っ暗な中、やっと村に到着しました。
村の仲間たちは今か今かと待っていてくれており、バスが着くと2人を音楽と踊りで盛大に歓迎。両親も笑顔で迎え入れます。そして促されるように花嫁が赤いベールをとって、顔をみせると…プールではありません。
驚きで一同は言葉を失います。花嫁はどこに行ってしまったのか。そしてこの人は誰なのか。
今、ここに立っている女性はプシュパと名乗り、出身地も聞かれて喋ります。気まずそうに立ち尽くしています。実は名前も出身地も嘘なのですが、ディーパクたちは知る由もありません。
こうなってしまってはもう仕方がないので、本来の花嫁を捜し出すしかないです。けれども手がかりはなく、困ってしまいます。地元のマノハル警部補に相談しますが、頼りになるのかやや怪しいです。
一方、プールもうたた寝をしてしまい、気が付くと列車でひとりぼっち。ひとまず駅に降りますが、花婿はいません。いきなり見知らぬ男に「ジャヤ」と呼びかけられるも知らない相手なのでどうしようもできません。誰かと勘違いしているのでしょうか。
必死に花婿のディーパクを探し続けますが、その姿は一切ありませんでした。狼狽えながらトイレで一夜を過ごし、涙を流します。
そしてプールはある人に出会うことに…。
女性は「荷物」?
ここから『花嫁はどこへ?』のネタバレありの感想本文です。
『花嫁はどこへ?』は「2人の花嫁が入れ替わちゃった!」というコンセプトだけ聞くと本当に愉快そうなコメディですけど、作中ではインド社会における女性への抑圧がしっかり根底にあり、単なるギャグの仕掛けでは終わっていません。
プールとジャヤは列車で入れ替わり事件を経験します。でも普通は「人間」がそんな荷物の取り違えみたいなことにはならないでしょう。今回、その主要な原因は花嫁がみんな同じ格好をしていて区別するだけの個性も何もないことでした。
本作で花嫁が結婚の儀から頭に被っている薄いベール。このせいで顔も見えないのですが、これは「グーンハット(ghoonghat)」と呼ばれています。このグーンハットは既存の表象では、ロマンチックなアイテムとしてみなされたりもしてきました。しかし、実際には文化的には「女性の恥じらい」という謙虚さの象徴であり、言い換えれば男社会に決められた「女性はこうあるべき」という抑圧です。本作ではこのグーンハットが女性の“個”をかき消す代物としての側面が強調されています。
顔が見えなくても「私はあなたの花嫁ではありません」と喋ればいいと思うのですけど、女性が自発的に人前で喋ることも制限されているんですね。これでは本当に男性の所有物同然です。
加えて、グーンハット以外に作中で印象的に使われているのが「ヘナタトゥー(メヘンディー)」という肌の装飾。作中ではプールの手のひらにそのタトゥーがあり、そこには夫の名前が記されています。これもまるで荷物の宛名のようであり、女性が男性の所有物になっていることを浮きだたせます。
こういうインドらしい諸々のアイテムや所作を、私たちインド国外の観客は「インドの興味深い風習・伝統ですね」と安易に眺めて楽しんでしまいがちです。それこそオリエンタリズムなのですけども…。
本作はこれらを風習や伝統という言葉で片付けず、ましてや美化もせず、そこにいる女性の当事者を取り巻く現実として描いていました。
素顔で自分の好きにおカネも稼いで…
ではインドの女性の当事者を取り巻く現実として、『花嫁はどこへ?』の主役であるプールとジャヤ、2人の女性は具体的にどんな人生なのか。
プールはあどけなさが冒頭から際立つほどに若いです。10代半ばなのかな(演じている“ニターンシー・ゴーエル”も10代)。村からひとりで出たこともないでしょうし、迷子になって駅に放置されて、見知らぬ男性に囲まれてパニックになる姿は可哀想です。
そのプールにとって未知の世界を教えてくれることになるのが、駅で軽食屋をやっているマンジュという中年女性。やたら豪傑で威勢がよく、社会規範などものともしません。プールの村にはまずいないタイプの女性だったのでしょう。第一印象でびっくりしまくっているプールの心情はまさに「何この人!?」状態だったはず。
そんなマンジュのもとでとりあえず働くことになったプール。そこで作るのは「パコラ」や「カラカンド」といったインドでは平凡な料理。でもこれは無償のケアである家事労働ではありません。対価として給料をもらえ、そのおカネは自由に使っていいのです。これまたプールにとっては衝撃的なこと。
幼なかった(でも10代なんだからもっと人生の可能性を知っていい年齢のはずですけど)プールが、このマンジュによって社会規範的に定められた女性の在り方に縛られない姿を学び、自分に自信を持つ。まさに着地はエンパワーメントです。
ラストでは、もはや薄れ始めたヘナタトゥーを気にせずに、グーンハットも身に着けずに素顔を晒して、堂々と列車に乗り、人目も憚らずにホームでディーパクに駆け寄るプールがいました。この成長に思わずこっちも感動してしまいます。
自分の進みたい道に…
お次はジャヤ。当初は彼女の行動は謎めいています。赤の他人の村に来てしまってこっちも困惑しているだろうと思ったら、意外にも何かこの状況を利用しているようにも見えるジャヤの言動。
作中で明らかになりますが、実はジャヤは粗暴な結婚相手から逃げたいと思っており、本来は故郷の実家の農業に注力したいと考えており、大学で農学を学んでいきたいという夢を抱いていました。
プールと違ってジャヤは明確な「自分はこうしたい」という進路を持っています。でもそのとおりには動けません。結局、女性は自分の進む道を決める決定権を持っていないからです。
また、ジャヤの物語では結婚相手の男性の暴力的支配にまつわる諸問題も浮上します。
とくに「持参財(ダウリー)」の問題。これは花嫁側から夫に支払われるおカネであり、社会的に立場の低い家系の女性が、優位な立場にいる家系に嫁ぐにはより大きな金額の資金が必要になります。この負担は理不尽に重たく、支払えないことも生じます。そうなると資財としてその女性の価値はありません。インドではそうした持参財を払えなくなった女性が夫に燃やされて殺されるという残酷な事件も社会問題化していました。
あのジャヤの結婚相手の男性も、DVだけでなく、かつての妻を焼死させた前科が示唆され、この社会問題ド真ん中を本作は通過します。
ジャヤも良い人で、さっさと逃げればいいのに、プールのために行動してくれます。それがあの似顔絵の捜索チラシというのも象徴的です。ベールに包まれた顔の見えない存在ではなく、ちゃんと顔があるんだということ。ここはシスターフッドがさりげなく輝きますね。
最初はあからさまに無能そうにみえたマノハル警部補が終盤で予想外の善良な権力の行使をみせてくれたり、ダメダメそうなディーパクとその男友達がちゃんと女性の自立性を支える方向に回り始めるくだりといい、本作は男性たちのフォローも良いアシストになります。
エンディングでは、ジャヤは農業を学ぶために車で出発します。もう社会によって決められた線路しか進めない人生はそこにありませんでした。花嫁はどこに行ってもいいのです。自分で決めればいいのですから。
伝統文化を自己批判的に見つめ直し、女性の生き方を広げてくれる『花嫁はどこへ?』。『おかしな子』など、インドでは「結婚したばかりの女性が自己の行き方を問い直す」系の物語がフェミニズムの形式として定番になっているのかな。そのタイプの作品をもっと観たいですね。
シネマンドレイクの個人的評価
LGBTQレプリゼンテーション評価
–(未評価)
作品ポスター・画像 (C)Aamir Khan Films LLP 2024
以上、『花嫁はどこへ?』の感想でした。
Laapataa Ladies (2024) [Japanese Review] 『花嫁はどこへ?』考察・評価レビュー
#インド映画 #結婚