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ドラマ『17.3 about a sex』感想(ネタバレ)…アセクシュアル当事者である私からみた評価

17.3 about a sex

アセクシュアル当事者である私からみた評価…ドラマシリーズ『17.3 about a sex』の感想です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。

原題:17.3 about a sex
製作国:日本(2020年)
シーズン1:2020年にAbemaTVで配信
脚本:山田由梨
イジメ描写 LGBTQ差別描写 性描写 恋愛描写

17.3 about a sex

じゅうななてんさん あばうとあせっくす
17.3 about a sex

『17.3 about a sex』あらすじ

「性」の悩み。それは誰しもが青春時代に直面するものであり、そしてなかなか本音で素直に語れないもの。初体験平均年齢が17.3歳だと知った女子高生3人組。その日をきっかけに彼女たちの性の価値観が揺らぎ始める。本当は知りたいけど、誰も教えてくれない。繊細で、でも確かな意思もある、リアルな女子の本音を隠さず丸めず語り始めた3人は新しい時代への一歩を踏み出す。

『17.3 about a sex』感想(ネタバレなし)

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日本のドラマは性教育を変えられるか

日本の性教育は遅れています…いや、「遅れている」なんて表現は生温いかもしれません。

以下の記事でも指摘されているように、日本社会では「性」の話題は完全にタブーであり、議論自体が封殺されているゆえに、保護者はもちろん教育や医療などに関わる知識人すらもろくに正しい「性」の理解を持ち合わせていません。にもかかわらず「知ったようなつもりでいる」人も目立つ。これはもうモラルが根底から成り立っていないようなものです。

どうしてこんなことになってしまったのか。もちろん大人がこの問題に向き合うことを怠けてきたツケがまわってきているのですが、その犠牲に真っ先になるのは若者たちです。

ティーンの若者たちは思春期に突入すれば否応なしに「性」の問題に直面するのですが、正しいメンターが周囲にいないことが大半です。学校すらも性教育の場として機能していないのなら、子どもたちはオロオロするしかありません。

それでもそんな日本の劣悪な環境を改善しようと努力している人たちがいます。今回紹介する日本のドラマシリーズはそういう純粋な志で生まれた一作であり、変わろうとする日本の未来を見せてくれます。それが本作『17.3 about a sex』です。

本作はAbemaTVで配信されているドラマシリーズですが、その内容は高校生の女子3人を中心にさまざまな「性」の問題をテーマに物語が展開していくというもの。学園青春モノと言えば、素敵な恋人ができて甘酸っぱい恋愛をして(もしくはその逆でモテない人生に悩む)…というお約束が定番ですが、本作はそうではなくリアルな性の話題に向き合っています。「性的同意ってどういうことなのか」「性体験は多いとダメなのか」「性感染症って何だろうか」「自慰って女性もしていいのか」「胸のサイズなど容姿を気にするのは」「生理の苦しさを共有していいの?」「性被害を受け流していないだろうか」「自分と異なる性とどう付き合えばいいのか」…それらに関して赤裸々に葛藤する女子高生の姿。タイトルの「17.3」は世界のセックスの初体験平均年齢が17.3歳であることに由来しています。

本作には性の専門家の監修も加わっていることもあって、非常に真面目に向き合いつつ、ほどよくエンタメにもしています。一部で話題になったティーンたちが性の問題に向き合う姿を描いたイギリスのドラマ『セックス・エデュケーション』という作品がありますが、『17.3 about a sex』は巷では日本版『セックス・エデュケーション』とも呼ばれたりしています。

俳優陣は「Seventeen」専属モデルである“永瀬莉子”、“田鍋梨々花”、“秋田汐梨”が主役を務めており、かなり初々しいですが、それがリアルな女子高生っぽさを全開にしており、良い雰囲気です。音楽は「HoneyWorks」が担当しており、とにかく今のティーン世代にヒットする作りになっています。

ちなみに同じくモデルとしてキャリアをスタートさせた経験のある“藤原紀香”が主役の子の母親役で出演しており、これがまたすごくシニカルな立ち回りをしており、私としては俳優“藤原紀香”への評価が急上昇しました。このキャスティングは最高にハマってますね。

こういう性に向き合った次世代のドラマが生まれることは本当に喜ばしいですし、老若男女問わず多くの人に観てほしいので応援していきたいものです。

一方で、本作ではLGBTQもテーマとして扱っています。そしてなんと「アセクシュアル(アセクシャル)」を自認する登場人物も主要キャラのひとりとして出しています。

これは日本どころか世界的に見てもかなりの異例です。アセクシュアルは最も映像作品に登場しないマイノリティのひとつですから。

そして私事ですが、私もアセクシュアル(&アロマンティック)当時者であり、これがさすがにスルーするわけにもいきません。

ここは素直に「わ~い」と喜びたいのもやまやまなのですが、LGBTQにおける映像作品との関係は複雑であり、当事者たちは常に自分たちが映像作品でどう描写されてきたか、ときに厳しく批評してきた歴史があります。そうやってLGBTQの映像表象を改善もしてきました(例えばトランスジェンダーについては『トランスジェンダーとハリウッド 過去、現在、そして』に詳しいです)。

なので私も今回ばかりは当事者として、『17.3 about a sex』におけるアセクシュアルの描写はどうなのか、その“良かった”と思った部分と“イマイチ”な部分を整理して、声をあげようと思います。あまりこんなことやる人は日本ではいないでしょうからね。

ということで以下の後半感想は『17.3 about a sex』を観たうえで、さらにアセクシュアルについて知る捕捉として読んでもらえると嬉しいです。

オススメ度のチェック

ひとり ◎(自分のためにも観る価値あり)
友人 ◎(話題のネタにしよう)
恋人 ◎(互いに考えるきっかけに)
キッズ ◎(ティーンは必見)
↓ここからネタバレが含まれます↓

『17.3 about a sex』感想(ネタバレあり)

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そもそもセックスってしなきゃダメ?

「私は誰かと付き合ったことがない。というより好きな人ができたことがない。羨ましいと思うこともなければ、それの何が楽しいのかもわからない。映画だったら絶対に主人公にならないタイプ。だって人を好きにならない人間なんてつまんないでしょ」

高校2年生で仲の良い清野咲良皆川祐奈原紬の3人。

清野咲良は最近付き合い始めたカレシと初セックス(ポッピングチェリー;ポプチェ)を間近にしてパニックになったり、性経験の少なさで騒動を起こしてしまうことも多い、ウブな子。けれども根は優しく、真面目で、自分の非を素直に謝れるし、困っている人を放っておけない。

皆川祐奈は性経験が豊富で、マッチングアプリを駆使してガンガンに男を探していく積極性全開な子。やや口が軽いこともあるけど、こちらも素直な性格で、持ち前の明るさを武器に相手にハッキリとモノを言う。性器ヘルペスにかかっても、その自分らしさを曲げることはしない。

2人ともそれぞれ自分なりの恋愛との向き合い方をしていました。しかし、原紬は違います。原紬は恋愛にもセックスにも全く興味がありませんでした。

原紬はいつものファミレスで2人の友人を前にその考えをぶちまけます。

「思うんだけど、そもそもセックスってしなきゃダメなわけ?」「さっきからするのが普通みたいな前提になっているけど」と原紬。

皆川祐奈は「普通、するでしょ? 人間だし」といとも簡単に答えます。

「なんで」「私、全然したいと思ったことがない」「逆になんでセックスしたいの? あんな裸で寒そうなこと。キモイ」と原紬は頑なです。

「紬はしたことがないからそう思うんだって、してみたらわかるから」と言われても「してみないから」と論外です。

「一生? 超もったいない、絶対人生損するわ」「まずカレシだな」…目の前の2人の友人は原紬の主張はさっぱり理解できないようでした。

そんな女子トーク全開の中でとある男子が原紬にふいに話しかけてきました。それは幼なじみの青木康太で久々に出会いました。向こうからLINEを交換しようと言われ、応じる原紬。彼が立ち去った後、「イケメンじゃん」と2人はお気楽に囃し立てます。

それから家にて原紬は青木康太とLINEします。「大人っぽくなってたね」と言われ、「今付き合っている人いるの?」と何気なく聞かれ、「いないよ」と送ると「映画を見に行かない?」と誘われます。

原紬は回答を少し保留にしました。そのことを清野咲良に話すと彼女は「恋したら絶対楽しいって、紬、可愛いんだしさ、ちょっとオシャレして行ってきなよ。応援してる」と無邪気です。

断る理由もなく、行くと返事をします。2人で映画館へ。観た映画は恋愛映画でした。

その後、夜景の見える場所で語り合う2人。原紬は「恋愛映画って微妙」と呟きますが、急に青木康太は思いきった行動をとります。原紬にキスしました。

「俺、やっぱ紬のこと、好きだわ」「付き合ってほしい」

返事は今度でと言ってそそくさとその場は別れます。しかし、原紬は…ドキドキ…していません。体調を悪化させるまでに気分を害していました。

友人2人にそれを話すと、キストークに盛り上がる2人。しかし、まるでそれが良いことであると決めつける2人の態度に原紬は不快感を露わにします。

「嬉しかったって言ってないじゃん」「私は映画が観たかっただけだし」

「じゃあ男の友達とただ喋るのも、ただ遊ぶのも、ただ映画を観るのもありえないってこと? その先には必ず付き合うとか付き合わないとかキスとかセックスとかそういうことがなきゃいけないってこと?」

「絶対に恋をしたら楽しいとか、普通はセックスするとか、ほんと地獄」

原紬はひとり悩みます。アセクシュアルの自分が理解されない孤独さの中で…。

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周縁化のリアルな怖さを描く

『17.3 about a sex』は、群像劇ながらも原紬というアセクシュアルのキャラクターが主要人物として登場し、なおかつそのセクシュアリティと向き合うドラマが展開される(主に第2話)という意味では、前述したように世界的にも珍しい先駆的な映像作品です。

なお、本作における「アセクシュアル」は、いわゆる「性欲がないor性的関心を人に向けない」という本来のアセクシュアルの意味だけでなく、「恋愛感情がないor恋愛をしない」という「アロマンティック」と呼ばれるものも含めて用いています。本来は別物で区別しますが、日本では「アセクシュアル」という言葉にアロマンティックも含めて用いることがしばしばあります。

『17.3 about a sex』のアセクシュアル描写で何よりも良かったと当事者である私が思ったところ。それは当事者が受ける差別や偏見をリアルに描いている点です。

LGBTQの人々は残念なことに差別や偏見と常に隣り合わせで生きなくてはいけないのですが、その内容はジェンダーやセクシュアリティによって個々で異なってきます。

例えば、第5話にて朝日悠という男子高校生がゲイであるとアウティングされてしまい、校内で噂が流れてしまうという事件が発生します(朝日悠は自身でパンセクシュアルであると後にカミングアウト)。他の生徒から「迫られたらどうしよう(笑)」など散々酷いことを言われますが、こうした直接的な侮蔑&嘲笑の言葉の暴力を受けるというのは、同性愛やトランスジェンダーの人がよく経験することです。

一方、アセクシュアルの人はそんな差別用語をぶつけられることがあまりありません。というか、定番の差別用語みたいなものがそもそもほぼないです(ゼロではないですが)。じゃあ、マシなのかというとそうではありません。

アセクシュアルが受ける最大の差別は「周縁化(marginalization)」です。要するに「無かったことにされる・いないものとして扱われる」というものです。

原紬は親友である清野咲良と皆川祐奈の2人からさえもアセクシュアルとしてのアイデンティティを理解してもらえません。これは実際に経験したこともある私も嫌というほど味わっていますが、本当に精神的にツラいです。友人は差別をしているという自覚がなく、善意で「恋愛やセックスをしないアセクシュアル当事者」を“慰めよう”としてきます。いわゆる「マイクロアグレッション」という行為ですが、笑顔でナイフで刺してくるようなもので、やられる側は絶句するほど恐怖と絶望を感じます。

また、原紬は女性ということで女子高生らしい恋愛トークという、本来であれば一種の“連帯”というポジティブ性を有するものが、アセクシュアルゆえに有毒に変わる。そういう一面も描けていて、そこもいいなと思いました。第7話ではアセクシュアル女性の生理問題(生理は大半の女性にとっての悩みですが、アセクシュアル女性の多くはなおさら必要のないものとして邪魔でしかない)を描いており、低容量ピルの活用含めてその付き合い方を自然に後押ししてくれるのも好感の持てる描写でした。

これがアセクシュアルの受ける差別の全てではないですが、当時者ではない人(ちなみにアセクシュアルではない人のことを「アロセクシュアル(allosexual)」と言います)でも少しはその実情を理解してくれたかな、と。

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加害者意識を持つことの重要性

また、『17.3 about a sex』のアセクシュアル描写において私が一番に良かったと納得できたのは、無自覚にせよ差別をした人たち(清野咲良や皆川祐奈など)がちゃんと「加害者意識を持つ」という描写があるということです。

残念ながら世のLGBTQを題材にした日本の映画などはこの「加害者意識を持つ」というステップをすっ飛ばしている面が多々目立ちます。そこを描かずに、体裁の良い「多様性って大事だよね~」「普遍的な愛だよね~」なんて綺麗事をマジョリティ側がのたまうだけで終わっていることも…

なかなか加害者意識を持つことはハードルが高いです。性の問題に限らず、歴史問題でもそうですが、自分が加害者であると自覚するのに抵抗を持つ人は普通にいますし、その気持ちもわかります(惨めな気分になりますからね)。

でもLGBTQを題材にする以上はその「加害者」の側面は避けるべきではありません。「被害者」がいるなら「加害者」がいるのです。被害者が勝手に救われることはないです。

本作では清野咲良が「アセクシュアルのこととか全然知らなくて、無神経なことばっかいって本当にごめん」と原紬に謝ります。そして態度を変え、学ぶという姿勢を見せます。第5話では朝日悠がマジョリティが持つ特権の話をします。

ちょっといかにも教育的でベタな起承転結ではありますが、けれどLGBTQ当事者が求めているのはこんな普通のことです。別に特別扱いが欲しいわけではなく、「傷つけたら謝る」「互いを尊重する」…それだけの世界。こんな些細なことでいい。

本作を観ることで、「加害者意識を持つ」ということの抵抗感が下がればいいのですが…。

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無視できない本作の問題点

ということで『17.3 about a sex』のアセクシュアル描写をいろいろ褒めましたが、逆に「これはちょっとイマイチだなぁ」と思った部分もあったのも事実ですので、そこも素直に書いておこうと思います。

結論から言えば、本作の原紬のキャラクター描写はアセクシュアルのステレオタイプを助長するのでは?という危惧を随所で感じるものでした。ハッキリ言ってしまうと、本作を観ると結局「アセクシュアルとは何か?」という本質を誤解する人も出る可能性も軽視できないと思います。

作中では原紬は明らかに恋愛やセックスには興味がありません。それはいいのですが、恋愛を楽しむ友人にも「恋愛やセックスのどこがいいのか」と疑問を呈し、恋愛映画なども嫌っている描写もあります。

いうなれば原紬は「恋愛嫌悪=恋愛アンチ」として描かれています。

しかし、アセクシュアル(アロマンティック含む)は決して恋愛アンチとイコールではありません。アセクシュアルの人の中には恋愛はしなくても、嫌悪感は持ってない人は普通にいます。かくいう私も恋愛映画は普通に観て楽しみます。逆にアセクシュアルではない人の中でも、恋愛映画は好きじゃない人も普通にいるでしょう(例えば『ロマンティックじゃない?』の主人公のように)。

混乱しがちですが、恋愛アンチであることはあくまで主義・思想であって、セクシュアリティではありません。私ももし「恋愛をしている人や恋愛映画が嫌いなのですけど、私はアセクシュアルですか?」と他人に聞かれたら、「いや、それはアセクシュアルと判断する材料にならない」と答えます。

『17.3 about a sex』はどうもアセクシュアルと「“恋愛・セックス”アンチ」を混同しかねない部分があります。アセクシュアルは「他者に性的に惹かれない、性的関係を持とうとしない」ということであり、それ以上でもそれ以下でもないです。

別にアセクシュアルの中でも恋愛嫌いはいるんだし、描写しても目くじらを立てることはないじゃないか…そう思うかもしれませんが、それは言ってられません。

なぜならアセクシュアルのコミュニティではこの混同を否定するのが明確なスタンスだからです。例えば、アセクシュアル最大のコミュニティとして有名な「AVEN」ではサイト上でわざわざ「AVEN does not agree with anti-sexual viewpoints.」と明記しています。

基本的にアセクシュアルは誰でもウェルカムな、受容性の高いコミュニティです。にもかかわらずどうしてここまで「“恋愛・セックス”アンチ」に対して賛同はしないのか。

その理由のひとつはアセクシュアルの中にもセックスしたり、デートを楽しんだりする人はいるので、コミュニティの多様性を尊重するためにもその方針は徹底しているということ。また、アンチというのは結局のところ特定のジェンダーやセクシュアリティを差別することに繋がりかねないので、当然それらには同意できないということもあります。深刻な憎悪を助長するわけにはいかないのです(インセル・テロリズムのような凄惨な事件の後押しになりかねない)。

マジョリティの人が恋愛嫌いでも別に勝手気ままですが、マイノリティであるアセクシュアルが恋愛嫌いであるというイメージを張られるとそれはスティグマでしかないわけで、すごくセンシティブな問題なのです。

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教育ではできないエンパワーメント

どうして『17.3 about a sex』では原紬というキャラクターを「恋愛嫌い」的に強調したのか、それはわかりませんが、察するに映像作品ゆえにわかりやすいインパクトが欲しかったのかなと思います。

例えば、作中で原紬が映画館デートした青木康太にキスされてしまい、その後で生垣に吐くという描写があります。あれも私はあまりよろしくない描写だなと思う部分です。

なぜならLGBTQ作品において「吐く」という描写には負の歴史があり、当時者が嫌な思いをしてきたNG表現だからです。たとえアロセクシュアル相手であろうとも吐くという行為を(ましてやSOGI題材の作品で)描写に使うのは良いことではないでしょう。もちろんキスが嫌で吐きたくなるアセクシュアルの人もいます。でも大事なのは「事実かどうか」ではなく「作品で描くべきかどうか」です。せめて口を拭うとかその程度でも物語上の果たす役割は変わらないはずです。

どうしても絵的なインパクトがほしいゆえにLGBTQの描写は誇張されがちです。トランスジェンダーなら悲劇的な死を遂げるとか、そういうように。でもLGBTQは大袈裟に誇張せずとも描けますし、そうあるべきでしょう。

一応、本作の作り手もそれに認識していると思われ、高校の先生でなぜかSOGIに詳しい城山奈緒が「アセクシュアルって言っても本当にいろいろなタイプの人がいるし一概には言えないのだけど」と語っています。でもそう言っているわりにはただフワフワした話しかしておらず、全然固定的なイメージを拭い去るだけの説得力ゼロなんですよね。そもそもあの先生や朝日悠のような“教える側”ポジションの人はただ一方的に説明者になっているだけで味気ないです。

これはまさに性教育の欠点かもしれませんね。知識は述べられるけどそれ以上の効果がない。ステレオタイプの助長を防ぐ簡単な方法は、アセクシュアルのキャラを複数登場させることです。でも尺や予算の都合でそれが無理なこともあるでしょう。だったらロールモデルになる実在の人物を作中で取り上げるのもよいのではないでしょうか。

世界で活躍するアセクシュアル当事者はいます。

例えば、作家兼イラストレーターの「Alice Oseman」はヤングアダルト作品を手がけており、中には恋愛モノも描いています。

モデル兼活動家である「Yasmin Benoit」は、有色人種という別のマイノリティを抱えつつも、その存在感は自信に満ち溢れパワフルです。

サイエンス・ジャーナリストである「Angela Chen」は、アセクシュアルの視点からジェンダー論/セクシュアリティ論を展開し、知的で革新的な分析を提示しています。

他にもAceスペクトラム(アセクシュアル関連に属する当事者)で創作or学術活動をしている人は結構いて、日本では知られていませんが、実に多様です。

そしてこういうロールモデルの人たちから原紬のような彷徨える当事者はパワーをもらえるわけで(私もそうでした)、これこそエンパワーメントというやつです。

作中の原紬もこんな先人に出会えて前向きになれるといいなと思います。

アセクシュアルの人はカミングアウトするだけが人生ではありませんし、いつも暗く沈んでいたり怒っているわけでもありません。普通に人生を満喫できるのです。そして何にでもなれます。

アセクシュアルの生きる姿はまだまだ知られていないだけ。

『17.3 about a sex』自体は何度も言いますがとても良いドラマでしたし、作る意味を感じるものでした。個人的には第3話『女子が経験人数多いのってダメなの?』がお気に入り(しんみりしすぎない明るさがいい)。

まだまだポテンシャルを秘めている『17.3 about a sex』、シーズン2に期待したいですね。

『17.3 about a sex』
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer –% Audience –%
IMDb
?.? / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 6/10 ★★★★★★

作品ポスター・画像 (C)Abema ドラマ173 17.3アバウト・ア・セックス

以上、『17.3 about a sex』の感想でした。

17.3 about a sex (2020) [Japanese Review] 『17.3 about a sex』考察・評価レビュー