ジョニー・デップが水俣病を撮る…映画『MINAMATA ミナマタ』の感想です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:アメリカ(2020年)
日本公開日:2021年9月23日
監督:アンドリュー・レヴィタス
MINAMATA ミナマタ
みなまた
『MINAMATA ミナマタ』あらすじ
1971年、ニューヨーク。かつてアメリカを代表する写真家と称えられたユージン・スミスは、現在は意義を見失って酒に溺れる日々を送っていた。そんなある日、アイリーンと名乗る女性から、日本の熊本県水俣市のチッソ工場が海に流す有害物質によって苦しんでいる人々を撮影してほしいと頼まれる。そこで彼が見たのは、苦しむ子どもたちの姿や、葛藤しながらも激化する抗議運動、そして大企業の傲慢な権力だった。
『MINAMATA ミナマタ』感想(ネタバレなし)
水俣病がハリウッド映画化
新型コロナウイルスと日本の戦いも「第5波」に突入。シーズン5「オリンピック・スペシャル ver.」ですね(全然嬉しくない)。その第5波の主要な猛威は通称「デルタ株」と呼ばれるウイルスの変異株です。ウイルスは変異するという最強の特性を持っており、今やこの変異との対戦になってきています。
このデルタ株は以前は最初に検出された場所にちなんで「インド株」と呼ばれていました。しかし、国や地域の名前が使われることで偏見や差別が生まれる懸念があるために、WHOの指示もあって呼び名がギリシャ文字に変更(日本では従わないメディアもありますが…)。イギリス株は「アルファ株」に、南アフリカ株は「ベータ株」に、ブラジル株は「ガンマ株」になっています。最近では「イータ株」「ラムダ株」「ミュー株」など続々と新参者も乱入し、変異株の「スーサイド・スクワッド」状態になってきました。
名称問題。コロナはいいとして、昔の病名なんかは地域名などがそのまま使われたままのケースが多いです。今さら変えるのも手遅れですからね。
そんな地名のついた病名で日本のものでありながら世界的に有名な病気があります。日本人なら学校で習ったであろう、あの病気。「水俣病」です。
熊本県水俣市にあるチッソ水俣工場が工業廃水を無処理で水俣湾に排出する行為を継続的に行い、結果、有毒なメチル水銀が魚介類の食物連鎖によって生物濃縮。これらの魚介類が汚染されていると知らずに摂取した熊本県および鹿児島県の広い範囲に暮らす住民の一部に「メチル水銀中毒症」が発生。いわゆる公害です。この一連の症状を水俣病と呼ぶようになりました。なので名前に「水俣」とありますけど、水俣市だけの被害範囲ではないんですね。
これは世界で最も有名な公害病となり、環境学などの教科書であれば、世界どこでも掲載されています。公害を学ぶなら水俣病が出発点となる最初の1ページです。
その水俣病、当初からその問題性が世界的に認知されていたわけではありませんでした。その認知の決めてとなったひとりの功労者がいました。それがアメリカの「ウィリアム・ユージン・スミス」という写真家です。そして今回の紹介するアメリカ映画はまさにその写真家を描く一作、タイトルはズバリ『MINAMATA ミナマタ』。
まさか水俣病を大々的に描く最初の大作映画がハリウッドから誕生するとは思わなかった…。しかも、主人公となるウィリアム・ユージン・スミスを演じるのはあの“ジョニー・デップ”ですよ。『パイレーツ・オブ・カリビアン』のときはどっちかと言えば海を汚すのにも無頓着そうなキャラを演じていたのに、今回はガラっとイメージを脱ぎ去ってシリアスに演じています。でも私は“ジョニー・デップ”が伝記映画で真面目に熱演している姿も好きですけどね、『エド・ウッド』とか。
ただ、最近の“ジョニー・デップ”はキャリアが揺れています。『パイレーツ・オブ・カリビアン』系の飄々とした変人スタイルが飽きられていたというのもありましたが、決定打になったのは婚約者のアンバー・ハードとのDV騒動。そのDVのなかなかに衝撃的な言動が暴露され、裁判で敗訴したことで、すっかり“ジョニー・デップ”は映画のキャラのように孤立気味に…。
この『MINAMATA ミナマタ』も少なからずその余波を受けており、2020年には完成していたのですが、アメリカではまだ公開されていません。ただ、配給のMGMがAmazonに買収されてしまったのでもう“ジョニー・デップ”の問題でもなくなってきているのですが…。
“ジョニー・デップ”以外の俳優の話もしましょう。舞台のほとんどが日本なので当然日本人キャストもたくさん。まずは“真田広之”と“浅野忠信”(すっかり定番の2人)。そして“國村隼”(こちらもハリウッドでは定番になりつつある)。他にも『沈黙 サイレンス』の“加瀬亮”、『アースクエイクバード』の“岩瀬晶子”、さらにウィリアム・ユージン・スミスの妻であるアイリーンという重要な役を『ばるぼら』の“美波”が演じています。
監督は多才な芸術活動をしている”アンドリュー・レヴィタス”。音楽は“坂本龍一”です。
『MINAMATA ミナマタ』ほど日本人が観ないでどうするという作品もないですから、俳優どうこう以前になるべく多くの人に足を運んでもらいたいものです。歴史を忘れないためにも。
オススメ度のチェック
ひとり | :俳優の名演を堪能 |
友人 | :歴史に興味ある者同士で |
恋人 | :ロマンスはほんのり |
キッズ | :勉強として学べる |
『MINAMATA ミナマタ』感想(ネタバレあり)
あらすじ(前半):真実を見逃すな
1971年、ニューヨーク・シティ。W・ユージン・スミスは赤い光に照らされる現像室で写真を見ていました。しかし、決心します。「ライフ」の会議室に突然現れ、「ライフ」誌以来最高の写真家だったスミスは、もう辞めると編集者のロバート・“ボブ”・ヘイズに告げます。小切手すらも破り捨てて決別、部屋を出る彼はこれがキャリアの区切りとなるはずでした。
やることがなくなったスミスは、機材は全部売り、家で独りの時間を過ごします。アルコールを飲むしかできません。
そこにドアのノック。アイリーンという女性が訪ねてきます。日本語翻訳者で富士フィルムの男性の通訳としてやってきました。富士フィルムの宣伝になるセリフを言ってほしいとのことで、そう言えばそんな仕事を受けていました。カラーでは撮らないと主張するスミスに「でも契約です」とアイリーンはたじろぎません。そんなアイリーンに気を許し、少しバーで飲みます。
一方のアイリーンはある狙いを抱えており、おもむろに切り出します。それは日本のある場所で今起きていること。「チッソ」という会社が有害物質を海に垂れ流しており、それが原因と思われる症状で苦しんでいる住民がたくさんいる…世界の注目が必要だ…。
スミスは興味なしで家から追い出します。資料だけ渡されてアイリーンは帰ります。でもスミスは気になってしまい、夜中にその資料を徹夜で見ると、もう心は部屋に引きこもっていられませんでした。
翌日、ライフ社へ。編集長のロバートに話を持っていき、開口一番「行かせてくれ」と懇願。写真家としての強い意思が込められていました。
こうしてスミスはアイリーンとともに日本の熊本県へ。駅から降りて到着したのは水俣。工場の巨大な煙突からモクモクと煙が噴き出ており、ひっそりと静まり返った町です。
お世話になる民家へ。慣れない日本食に恐る恐る。マツムラ・タツオは話しづらい中で言葉を絞り出します。「あの子は宝です。みんなでアキコの面倒を見ているんです。私はチッソでトラック運転手をしている。養うのも厳しい」…重々しい空気。症状があるアキコの写真を撮らせてほしいとお願いするもタツオの回答は「勘弁してください」と頭を下げて断られるだけでした。
朝早く、外へ。静かな平穏な光景。子どもたちが水辺で戯れており、漁港らしく魚も並んでいます。住人の日常をカメラにおさめていくスミス。
活動家のキヨシを紹介され、被害者は注目を嫌がっていると教えられます。それでもチッソは患者のことを考えておらず、チッソの前には住人が集まって抗議していました。抗議の先導者であるヤマザキ・ミツオが自分の身体をゲートに縛り、責任を認めろと声を張り上げます。
この異国の地で、スミスの写真家としてのジャーナリズムが少しずつ燃え上がり始め…。
寄り道はしない
ハリウッドがアジアを描くとなるとどうしても日本人として「大丈夫か?」と身構えてしまうのですけど、この『MINAMATA ミナマタ』は想像以上に誠実に作られており、寄り道しない実直な作品でした。
例えば、W・ユージン・スミスとアイリーンの関係。作中では「あれ、そういう関係だったの?」と思ってしまうくらいに説明的描写無しで2人の愛情がさりげなく提示されるだけでしたが、実際は水俣に来た時から2人は婚約関係にあり、かなり駆け足で関係を構築しているんですね。でも本作はそんな2人のロマンス部分をベタベタと過度に描くことはしていません。
一方でアイリーンをないがしろにしているわけでもないです。スミスの添え物になるようなことはなく、むしろこの取材の功績はアイリーンとの共同の成果なんだということを強調するような構成になっており、とくにラストの歴史に残る1枚の写真を撮るシーンは2人の共同実績として明確に描写されていました。要するにアイリーンをロマンスのお相手として位置付けるのではなく、対等な仕事人として並べている。とてもフェアです。
また、スミスは第2次世界大戦時は戦場カメラマンで、実は沖縄戦では日本軍の攻撃で巻き添え食らい、重傷を負っているんですね。本作ではそれが序盤のフラッシュバックと、一瞬服がはだけた時に見える肌の傷跡で示されます。でもものすごい控えめな描写です。つまり、その気になればもっと日本に対するトラウマみたいな側面を強調して、“対アジア”的な感情を仕掛けに使うこともできたわけですが、そうもしていない。そこも冷静な姿勢だと思います。
おそらくこれらの誠実な作りになっている理由は、存命のアイリーン・美緒子・スミスがいるからこその配慮でもあると思いますが…(この映画も彼女の協力無しには作れないでしょう)。
それでもハリウッドがアジアを描くうえで、アジアを消費するような扱いになっていないというのは希少でした。
ヒーローではなく目撃者として
『MINAMATA ミナマタ』が寄り道をせずに何を描いたのかと言えば、W・ユージン・スミスが当事者とどう向き合ったかという部分です。
スミスは当初は水俣のコミュニティに信用されていません。表向きは“おもてなし”されていても、それは日本の礼儀であり、本心とは限らない。それはスミスもわかっています。
対してスミスの内面でも、自身の写真家としてのキャリアの誇りが消えかけていることもあって、この仕事にもなかなかエンジンがかかりません。
しかし、少しずつ少しずつ両者が歩み寄っていくことで相乗効果が生まれ、それはやがて権力を動かすようになっていきます。
ここでスミスを過剰にヒーローに持ち上げていないのもいいですね。ホワイト・セイバー化することはなく、あくまでスミスは写真を撮ることに徹し、実際の現場のヒーローは抗議して声を張り上げた当事者に焦点があたる。
もちろんこの『MINAMATA ミナマタ』はドキュメンタリーではないので、水俣病をめぐるかなり長い闘いの歴史を把握するにはかなり情報不足です。本作を見ても断片的なことしかわからないと思います。地元の当事者だけにフィットした視点がないと、その苦悩は伝わらないでしょう。そういう意味ではこの映画もスミスが覗くカメラの視点でしかこの水俣病を見ていません。
やっぱりこういう社会問題題材となれば、当事者目線の方がインパクトもストーリーの牽引力も強いですからね。『タクシー運転手 約束は海を越えて』なんかを観るとよくわかりますが。
それでもそんな第3者による断片的記録であっても世界に訴える力はあるということを、この映画自体が後押しするような作りになっており、だからこそラストの1枚に無言のパワーがあることは誰でもわかります。
歴史が歪められる今の時代だからこそ
『MINAMATA ミナマタ』をめぐる水俣病当事者の想いは複雑でしょう。風評被害はもちろんのこと、この出来事は人間の闇というものを嫌というほど見せつけられるものでした。村社会、生命倫理へのタブー、権力の底知れぬ怖さ…。忘れたいのも無理はありません。
しかし、今の時代、そうも言ってられないのも事実。風化というだけではありません。現在は歴史を好き勝手に歪めるような輩が平気で跋扈しているのです。もしかしたら水俣病なんて全部デマカセだったと言い張る人間がインターネットで支持を集めるかもしれません。いや、もうそうなっているかもしれません。病気や障がい者は皆殺しにしようと言い張るような人間もいて、実際に大量殺人が起きるような日本社会です。
だから、この映画はやっぱり必要なんだと思います。歴史は歴史。動かせぬ1枚だということを。
悲しいのは水俣病を題材にした大きな映画が日本では誕生していないということ(『水俣 患者さんとその世界』や『水俣一揆 一生を問う人々』みたいな記録映画はある)。水俣病の命名は1957年、それから60年以上も経つというのに。いまだに大企業や政府などの権力に対して日本の映画業界は忖度しているのか…。『MINAMATA ミナマタ』という形でアメリカが手がけたという事実を、私たちはしっかり受け止めないといけないと思います。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 71% Audience 92%
IMDb
7.8 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
作品ポスター・画像 (C)2020 MINAMATA FILM, LLC
以上、『MINAMATA ミナマタ』の感想でした。
Minamata (2020) [Japanese Review] 『MINAMATA ミナマタ』考察・評価レビュー