それじゃダメですか?…映画『ロザリー』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:フランス・ベルギー(2023年)
日本公開日:2025年5月2日
監督:ステファニー・ディ・ジュースト
LGBTQ差別描写 性描写 恋愛描写
ろざりー
『ロザリー』物語 簡単紹介
『ロザリー』感想(ネタバレなし)
世間の考える「女性」に当てはまらない私
2025年4月にイギリスの最高裁判所が「平等法における“性別(sex)”という用語は、生物学的な性別を指している」という判決を下しました(PinkNews)。これはもともと保守的な女性団体が始めたもので、その団体は「女性(woman)」という用語にトランスジェンダー女性が含まれることに反対していました。
この裁判結果に女性のアイデンティティの多様さを支持する多くの人たちから懸念の声が上がっています。「女性であることは常に多様なアイデンティティと経験を包含するものです」との訴えに始まり(Stonewall)、インターセックスのような性的特徴の多様さが排除されているとの指摘もあります(OHRH; PinkNews)。
女性という存在は歴史的に常に「女性らしさ」という規範によって取り締まられてきました。ほんの少しでも世間が考える「女性」の定義からズレればたちまち酷い目に遭ってきました。その状況から抜け出す時代は訪れないのでしょうか…。
今回紹介する映画は、あからさまに女性らしくない見た目の特徴を持つ女性が、それでも女性として生き、厳しい現実の中で自分の幸せを見つけようとする姿を描く作品です。
それが本作『ロザリー』。
本作は、19世紀後半のフランスの田舎町を舞台に、そこで男性のもとに嫁ぐことになったひとりの女性を主人公にしています。それだけだと随分と平凡な男女の西欧歴史ドラマなのですが、この主人公の女性には目立つ個性があって…。
それが全身に体毛があることです。誰だって体毛くらいあるだろうと思うかもですが、そういう薄っすらな毛ではなく、結構“もっさり”と毛があり、男性並みの髭も生えています。
一般的に女性は全体的に体毛が薄いというのが性別の特徴として挙げられやすいですが、全ての女性がそうだというわけではありません。「生物学的性別」を解説した記事でも説明しましたが、女性の中には典型的な性的特徴に当てはまらない人もいます。
体毛が「通常」と認識されるよりもはるかに濃い人間は「多毛症」という言葉で病理化されてきた歴史があり、実際の原因はさまざまで一概には言えません。女性だと「多嚢胞性卵巣症候群(PCOS)」の可能性もありますし、他の背景もありえます。
この多毛の女性は歴史的に記録があり、「髭の女性」としてたびたび話題になってきたことが資料で確認できます。
『ロザリー』はそうした歴史的に確かに存在した「髭の女性」をインスピレーションとして独自の物語を作っています。
『ロザリー』を監督したのは、フランス人の“ステファニー・ディ・ジュースト”。19世紀末の実在の伝説的ダンサーと称された「ロイ・フラー」の伝記映画『ザ・ダンサー』で2016年に長編映画監督デビューを果たし、一気に注目を集めた人です。2023年(フランス本国での一般公開は2024年)の今作『ロザリー』で2作目となり、まだまだ才能は羽ばたきそうです。
主演として髭の女性を熱演したのは、“ステファニー・ディ・ジュースト”監督の『ザ・ダンサー』で俳優デビューし、その後は『悪なき殺人』や『私がやりました』でも活躍した“ナディア・テレスキウィッツ”。
共演は、『ポトフ 美食家と料理人』の“ブノワ・マジメル”、『今宵、212号室で』の“バンジャマン・ビオレ”、『私の知らないわたしの素顔』の“ギョーム・グイ”など。
髭の女性を主題にした映画ですが、広い意味ではジェンダー規範に当てはまらない女性を描いているわけで、その境遇や体験の根底にあるものは、現代を生きるジェンダー規範に当てはまらない女性(それこそトランスジェンダー女性やノンバイナリーなど)に通じるものがあります。そうした観点で観ていくのも興味深い作品だと思います。
『ロザリー』を観る前のQ&A
鑑賞の案内チェック
基本 | 差別を理由に集団から暴力を受ける描写があります。 |
キッズ | 性行為の描写があります。 |
『ロザリー』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(前半)
夜中に飛び起きるひとりの女性。息を整え、蝋燭を灯し、傍にあった男性の写真を撫でます。眠れるような穏やかな気持ちではいられません。朝日が昇れば人生で最も重大なことをするのです。
朝、ロザリーはおめかしをしながら、髭を蓄えた父の前に立ちます。父と2人暮らしでした。会話はあまりありませんが、互いにこれから何が待ち受けるかはわかっています。入念に準備し、抜かりないことを互いに確認します。
今日、ロザリーは嫁ぐのでした。相手は田舎町で小さなカフェをやっているアベルという男です。それほど身分がいい相手ではありません。それどころか借金に苦しみ持参金を切望するまでに貧しいようです。普通はそんな相手に嫁ぐのは得策ではありません。けれどもロザリーはこれしかないのでした。
持参金と共に出発し、相手先に到着します。父は緊張した面持ちで対応します。アベルは大人しいです。肝心のロザリーは姿をみせないように馬車の荷台に乗ったまま待機していました。外では猟犬たちが群がって吠えています。
ロザリーも中に招き入れられ、いよいよアベルと少し会話します。ロザリーは少なげに喋るだけで慎ましくしています。その日はロザリーは緊張しっぱなしでした。とくにトラブルは起きませんでした。この日はひとまず父と眠ります。枕の下に十字架を潜ませ、祈るしかありません。
翌日、簡単な結婚の儀が行われます。白い花嫁姿のロザリーは愛を誓い、アベルと並んで町を歩きます。これでもう引き返せません。そのはずです。
それが終わると父は足早に去ってしまい、いよいよ夫のアベルとの2人きりの生活です。
その夜、ベッドの傍で待っているアベルの前にロザリーはゆっくり歩み出て、抱かれます。ロザリーは抵抗もせずに身を任せ、アベルは服を脱がせようとします。少し躊躇して止めようとするロザリーですが、アベルは安心させ、服の前をはだけさせるも、そこにはふさっとした胸毛がありました。
ロザリーは隠す仕草で後ずさりするも、何も言いません。困惑したアベルは見間違えたかと思って、また確認。あらためてロザリーの顔をじっくり観察し、動揺を抑えます。
ロザリーの体は一般的な女性よりもはるかに毛深いのでした。顔はある程度剃っていましたが、基本的に全身がそうでした。
その夜はアベルは彼女から離れてしまい、予想された反応ではありましたが、ロザリーは朝も泣き続けます。
そんな事実が露呈したとは言え、それを知るのはこの場ではアベルのみ。2人は他人の前では平凡な夫婦として振る舞い、勘ぐられないようにします。もちろんロザリーもいつもの服装に覆われていれば、毛深さが気づかれることもありません。夫婦は緊張感を保ちながら関係を続けます。
ここでも剃刀で顔の毛を剃るのは忘れないロザリーでしたが…。
わかる人にはわかる息も詰まる極限の緊張

ここから『ロザリー』のネタバレありの感想本文です。
『ロザリー』は個人的に序盤が実は最大の見どころじゃないかと思いました。というか、この冒頭からの主人公ロザリーの「秘密」が明らかになるまでの短いパートについて、観客がどれくらいロザリーの心情を察せるかで、印象が大幅に変わると思います。
表向きの雰囲気はひとりの女性が嫁に行くというそれだけの展開です。田舎なので地味ですが、厳かに粛々と事が進むので、取り立てて変なこともありません。
しかし、ロザリー本人の内心は違います。彼女は自分が体毛が濃いことを隠しています。それがどういう事態を最悪の場合もたらすのか。
要するに、当時の女性は「嫁ぐ」というのは「夫の所有物になってしまう」わけで、全ては男性の掌の上です。もし夫であるアベルがロザリーの実際の姿を知ってしまったとき、その場で殴られるかもしれません。いや、殺されることだってありえます。生かすも殺すもアベルしだいなのです。
わざわざアベルの家に到着したとき、狩猟の場をみせることで、その死の予兆まで演出し、恐怖を視覚化させます。
つまり、あの序盤は描かれている表面上のこと以上に「命を懸けた」人生最大の危機でした。だからこそロザリーは息が詰まるほどに緊張し、神に祈るしかないわけで…。
しかも、あの父もなんだかんだで役目を終えたらそそくさと帰るという薄情さ。自分まで巻き添えで殺されるのは御免ということなのか、厄介払いできればそれでいいのか…。とにかくあのロザリーの身に降りかかっている極限の状況は著しく不公平で残酷です。
こういう境遇は当時の女性は往々にして味わっていることでしょう。個々の人生経験は違うでしょうが、結局は相手の男性が自分をどう扱うか…残念ですが命までそれに左右されてしまいます。
一方で、ことさら規範的でない女性はこのロザリーのような体験に既視感が大いにあるんじゃないかと思います。「もし私の“この一面”をこの相手が知ってしまったら、どんな反応をされてしまうのだろう…」という自分の中だけで沸々と滲み出てしまう恐怖感。無論、それは性的マイノリティの人の経験とも深く重なります。
とにかく今作においては「女性的ではない女性」が直面する恐ろしさというのが序盤だけで「もうやめてくれ」と言いたくなるほどに凝縮されていました。
もしどこかの誰かが「アイツは髭があるから男だ。体毛が証拠だ」とか言い出したら、その時点で女とみなされなくなり(もちろん規範的な男ともみなされない)、完全に人生が塞がることだってある。そうなりうる立場になったことはありますか?という話で…。
また、とくにあれですね、ロザリーは「隠そうと思えば隠せる」という状況が余計に不安感を増していましたね。
ロザリーは普段から顔の部分だけ剃っているようで、顔だけは女性らしさを身にまとえます。後は女らしい衣装で肌を出さなければ、世間はなんなく「女性」とみなしてくれます。肌を隅々まで見ることになる夫以外は…。
隠せるから大丈夫…じゃなくて、隠せてしまうから怖さが増していくという体験もまた一部の当事者には深く経験したことのあるものでしょう。
規範的でなくても生きていける世界へ
『ロザリー』は序盤で死が待っている可能性もありましたが、そうはなりませんでした。アベルは当初はギョっとしていましたが、それでもぎこちなくも受け入れてくれたからです。
このアベルのキャラクター性も面白くて、彼はどうやら戦争で体と心に深いトラウマを抱えているようで、あの田舎でも浮いています。だから妻をめとって少しでも規範的な家庭を獲得して世間に馴染もうと思ったのかもしれませんが、ロザリーの特徴ゆえにその目論見は崩れます。
でもアベルもロザリーが髭状態でみんなの前に現れるのを許します。アベルの中では「規範的になろうともがくのは馬鹿々々しい」と振り切れたのかもです。アベルとの関係性を深め合う過程はとても丁寧で良かったですね。
ロザリーの存在が他の人々、とくに田舎町の女性たちにプラスの影響を与えていくのも印象的でした。おそらくあの田舎町の女性たちはそれぞれで「自分らしさ」を押し殺して「女らしく」生きることを強要されていたはずです。それがあの徹底的に女らしくないロザリーが自信をもって生きる姿に感化され、どこか解放感を分け与えられる…。その静かな波及効果がさりげなく描かれていました。
ロザリーは自分で自分の売りを最大限に生かして写真販売ビジネスを始めたり、性的にも主体的になったりと、非常に自立的になっていきます。プロット上、単に「良い夫に巡り合えたから女は幸せになれるのです」みたいな認識にならないようにしています。
映画では後半から町の実権を握る製粉所の経営者に敵視されたことをきっかけに、ロザリーとアベルは一転してあの田舎町で迫害の対象になっていきます。
この展開は急すぎると感じる人もいるかもですが、現実社会において「女性的ではない女性」が時の権力者の一声で一瞬にして虐げられる側に転落する光景を、私はよく観測できていますし、全然おかしな展開でもないでしょう。むしろリアルです。現実にはこの映画以上にコテコテの悪者が堂々と鎮座していますしね…。
最終的に2人は死を選んだようにみえる展開がありますが(でも這い上がることもまだできる余地がある描かれ方だったけど)、こういう閉幕にしたいと考えた監督の気持ちもわからなくもないです。
ちなみに本作のロザリーの着想元になった実在の人物がいて、それは「クレマンティーヌ・デレ」という人で、1865年生まれのフランス人でした。夫とカフェを経営していたところも一緒なのですが、1900年代にカーニバルで髭女が見世物になっているのを見て、自分ならもっと髭を生やせると豪語し、それをカフェの名物看板にして、写真も売り始めたというエピソードが伝え残っています。
本作はその実人生を1870年代とやや昔に移動させて描いているわけです。クレマンティーヌはどうやら豪傑に自分らしく生きれたようですけど。
2020年代の今、悲しいことに髭のある女性にはとても息苦しい世界になってしまっています。「女性の定義」なんて振りかざしている人よりも、どんな見た目でも女性として胸を張れる人のほうがステキだと私は思います。
シネマンドレイクの個人的評価
LGBTQレプリゼンテーション評価
△(平凡)
作品ポスター・画像 (C)2024 – TRESOR FILMS – GAUMONT – LAURENT DASSAULT ROND-POINT – ARTEMIS PRODUCTIONS
以上、『ロザリー』の感想でした。
Rosalie (2023) [Japanese Review] 『ロザリー』考察・評価レビュー
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