母性は獣臭がする…映画『ナイトビッチ』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:アメリカ(2024年)
日本では劇場未公開:2024年にDisney+で配信
監督:マリエル・ヘラー
動物虐待描写(ペット) 性描写
ないとびっち
『ナイトビッチ』物語 簡単紹介
『ナイトビッチ』感想(ネタバレなし)
エイミー・アダムスが吠える
子育てのやりかたは人それぞれ。その“それぞれ”は人だけではなく、動物にも当てはまります。多種多様な動物がこの地球には存在しますが、その動物ごとに子育てのしかたは違ってきます。
例えば、オオカミは群れで生活しますが、そのうちの1頭のメスが妊娠すると、そのメスは群れを離れて洞穴などで出産します。そして、まだ赤ん坊の子どもたちをある程度歩けるようになるまでそこで育てます。
では群れの他のオオカミは何もしてないのかというとそうではなく、母オオカミのぶんのご飯を持っていき、サポートします。子オオカミになると、群れに合流。今度は交代でお世話しながら、他のオオカミは狩りにでかけます。このようにオオカミは群れのみんなで協力して子育てをするスタイルです。
今回紹介する映画は、そんなオオカミの子育てについても頭の片隅に入れておくと、鑑賞体験も深みが増して変わってくるかもしれません。
それが本作『ナイトビッチ』です。
本作は作家“レイチェル・ヨーダー”の2021年のデビュー小説を映画化したものなのですが、これは非常にジャンル分けが難しいです。シリアスなドラマかと思えば、ブラックコメディでもあったり、サイコロジカル・スリラーのようになる瞬間もあれば、超常現象的なホラーがぐわっと牙をむけたりする…。
この説明だけを聞いてもチンプンカンプンだと思います。まあ、アプローチは独特ですが、要は「育児」、とくに女性のジェンダー役割における不均衡や重圧を風刺した物語になっています。それだけとりあえずわかったうえで観てもらえれば良しです。
ジェンダー・ロールの不平等やプレッシャーに押しつぶされていく女性の精神状態を描いた映画と言えば、『タリーと私の秘密の時間』などがありましたが、それと同系統ですね。
『ナイトビッチ』では、主人公は幼いひとり息子を育てる専業主婦で、この女性に何かが起こっていくことに…。このひと際目立つタイトルの意味も鑑賞すればわかります。
この『ナイトビッチ』を監督するのは、2015年に『ミニー・ゲッツの秘密』で長編映画監督デビューを果たし、『ある女流作家の罪と罰』(2018年)、『幸せへのまわり道』(2019年)と良作を続々と生み出し、存在感を急上昇させていた“マリエル・ヘラー”です。


“マリエル・ヘラー”監督が『ナイトビッチ』のようなジャンル色の濃い作品に手を出すのは意外でしたが、自身の直近の子育て経験を反映しているようです。
主役を演じるのは、最近は『ザ・ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ』や『魔法にかけられて2』に出演していた“エイミー・アダムス”。2013年に『アメリカン・ハッスル』で初めてアカデミー賞主演女優賞にノミネートされたり、2018年の『バイス』でアカデミー助演女優賞にノミネートされたり、何かと賞ステージに上がる機会は多いベテラン俳優ですが、実はアカデミー賞は獲ってないんですね。
2024年に50歳を迎えた“エイミー・アダムス”は2019年に自身の制作会社「Bond Group Entertainment」を立ち上げ、『ナイトビッチ』でも製作に関与。本作から新しいキャリアがまた始まっていくのかな?
他の俳優陣は、夫役で『スピーク・ノー・イーブル 異常な家族』の“スクート・マクネイリー”が出演。基本は“エイミー・アダムス”単独で一気に走り抜ける映画ですけども。
『ナイトビッチ』は日本では劇場公開されず、「Disney+(ディズニープラス)」で配信されることになってしまいましたが、気になる人は要チェックです。
現在進行形で育児に根を詰めて苦悩している人には、この映画は少し気が重くなるかもですが…。
『ナイトビッチ』を観る前のQ&A
A:Disney+でオリジナル映画として2025年1月24日から配信中です。
鑑賞の案内チェック
基本 | 育児に関する生々しいトラウマを描いています。猫が殺される描写もあります。 |
キッズ | 性行為の描写があります。 |
『ナイトビッチ』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(前半)
ひとりの母親がまだ言葉も覚えたての幼い子どもを買い物カートに座らせながら、食料品店を進んでいきます。近くをみれば、他の親も手のかかる子を相手に大変そうにしています。
そのとき、知り合いの女性に出くわします。母親としての日々の様子を気軽に問われますが、この複雑な感情をひと言で表現できるわけもありません。結果、口からでてきたのは当たり障りのない言葉でした。
自己表現を追求して一流の芸術家を目指していたこともありましたが、今はそれどころではありません。2歳の息子を育てる専業主婦の1日はあっという間で慌ただしく、そして孤独でした。夫は仕事でほとんど家を空けています。
食事を作り、床で無邪気に遊ぶ子を見つめながら、母親は考えます。考えても何も意味のないことを…。
同じような母親と子どもたちが集まるグループを見かけます。みんな外から見れば仲睦まじそうです。楽しく歌っています。しかし、自分の表情はぎこちないまま。他の母親からの交流の誘いにも気持ちは乗りません。そそくさと泣きじゃくる子どもを抱えて去ってしまいます。
夜、ベッドに入って本を読み聞かせるも、子どもは一向に寝てくれません。虚しく時間だけが過ぎていきます。
ある日、自分の腰あたりにやたらとふさっとした体毛が生えているのに気づきます。鏡を見てみると、目も変だし、妙に長い毛も生えているし、歯の感じもおかしい気がします。でもこれはきっと更年期か何かだろうと考えないことにします。
久しぶりに夫が戻ってきましたが、育児なんて全くしていないので、行動は雑です。今日ばかりは子どもは夫がみてくれることになり、ゆっくりしようとしますが、すぐに夫からのあれこれな質問が飛んできます。結局、自分が動かないといけません。
夫はまた仕事に行ってしまい、いつもの孤独な育児に戻ります。
近くのよく通っている公園で子どもと過ごしていると、いきなり何頭もの犬が集まってきます。リードはついておらず、飼い主がいるような感じもしません。妙に人に慣れている変な犬たちです。
別の日の夜中、家の前に無数の犬が集まっているのを目にしたような気がします。いや、あれは夢か、何か現実感が薄いです。
そして、自分の幼い頃の記憶が蘇ります。敬虔な母の姿がそこにありました。自分も母になるとはあのときは思いもよらず。あの母は私をどう見ていたのか…。
孤立と母親嫌悪

ここから『ナイトビッチ』のネタバレありの感想本文です。
『ナイトビッチ』を監督した“マリエル・ヘラー”は、2人目の娘を出産して6か月ほどが経った頃、夫は映像制作の仕事をしていて長期間離れた場所に行ってしまったそうです。コロナ禍に引っ越ししてきたこともあり、住んでいる地域に知り合いは乏しく、孤立したとのこと。「とても寂しい時期だった」とインタビューでも語っています(IndieWire)。
育児というものはまるで共通概念のように語られがちですが、実際の体験は人によって本当に千差万別で異なり、「ある人Aの経験する育児」は「ある人Bの経験する育児」とはまるで違っていたりします。
とくに母親にとってどれほど周囲のサポートが充実しているかでもその体験は別物になり、そのサポート格差はときに残酷なまでにハッキリ現れます。
『ナイトビッチ』は“マリエル・ヘラー”監督の直近の自己体験が色濃く反映されていると思われ、作中で描かれる主人公の「母親」(固有の名前が登場しない)が味わい続ける孤独がとても生々しいです。
冒頭からの無味乾燥で淡々とルーチンワークのように続く育児の光景。別にそこまで悲劇的ではないですが、喜びとは縁遠い空気。よくありがちなCMとかで描かれる温かい子育て風景はそこにはありません。
飼っている金魚に餌をあげるような業務作業かもしれません。でもこれはいくらでもコントロールできる小さな魚ではなく、“ヒト”の子どもなのです。自分がコントロールするにはやや手に余る、いやもしかしたらコントロールしきれないんじゃないかという不安がその子の成長と共に増し続ける、そんな命です。その命が…怖い? 何といえばいいのでしょうか、この感情…。
夫の無能さもリアルでしたが、本作は「母親嫌悪」ともいうべき複雑な感情の描写が印象的でした。
「母親が嫌い」という人は別に珍しくないと思いますが、その理由は「干渉してくるから」とかそういう理屈だったりします。しかし、母親になりうる女性の人は「自分が母親になることへの恐怖(実際に母になるかどうかを問わず、その可能性が沸き上がるだけでも恐怖となる)」というのがそこに絡み合ってくる場合もあるでしょう。自身の親でなくとも「母親」という存在全般に嫌悪感があるというのはそんな心理が作用していたりします。そういう意味では「母親」という属性は非常に憎まれやすいです。
それはおそらく母親当事者になっても避けられない問題で、母親自身が「母親(という概念)」に嫌悪感を持つことだってあります。内面化された母親嫌悪というのでしょうか。自分は母親なのは確かだけど、母親であることが嫌い、受け入れられない…。
その嫌悪感を家父長的社会は「母親として失格」と落伍者のように裁定したりしてきますが、その感情は別に異常でもなくて…。
『ナイトビッチ』の母親もその自身に内在する母親嫌悪に対処できず、内心でパニックになり、怯えている…そんな状況が繊細に描かれていたように思いました。
作中の主人公の母親は、母親同士のグループとも距離をとってしまいます。ゆえに孤立を深めます。すると嫌悪感がさらに増します。もっと孤立が強まります…悪循環です。
共感を退ける変化
そこで『ナイトビッチ』は「主人公が犬になる」というエキセントリックな演出が仕掛けとなってきます。
“フランツ・カフカ”の『変身』といい、人が別の生き物に変化するのは、たいていは何かの暗喩だと決まっています。作中でも神話を調べていましたが、ギリシャ神話の「ヘカベー」のように女性が犬に変身する物語は昔からありました。
今作の主人公の犬への変化はかなり表現が生々しいです。最近観た『動物界』と同じ感じでしたね。『わんだふるぷりきゅあ!』みたいに可愛らしくはいきません。
この犬への変化は何を表しているのか。ストレス反応による身体変化(体調不良)のようにも解釈できます。育児の重圧からの現実逃避ともみなせます。ときおり悪態やビンタ、夫に飛びかかるといった「やっていない」行動のイメージが挟み込まれることからは自分の中の衝動心理の発露を感じます。
私は、穏やかに神秘化されやすく、また人間らしさの象徴として尊ばれることが多い「母性」というものを、あえて荒々しく獣臭いものとして描いているのがユニークだなと思いました。
これ、最近新作を観たばかりのCG版『ライオン・キング』と真逆の描かれ方なのが興味深いです。あちらはライオンという獣が主人公ですが、子育てなどより感情的な要素を描く際は野生動物の野蛮な野生味を抑えて擬人的に切り替えて描いています。母性や父性を人間味溢れるものとして描くことで観客に共感してもらおうとしていました。
しかし、『ナイトビッチ』は逆で、ヒトの母性を人間味から遠ざけて獣らしく描き、共感を退けようとしている感じです。「母性は自然の本能です」とかではなく、獣の荒々しさであり、それは社会が規範的に管理できるものはありませんという…。
また、孤立していた主人公が犬化によって仲間ができ、孤立が解消され始めたりもします。これは前述したオオカミの生態に合わせたものでしょうが、ヒト同士の母親という枠では心理的障壁があっても、犬同士になると緩和されるという視点も面白いです。
同時に、あの犬たちは他に犬化した母親のように暗示してもいましたし、多くの母親たちが今日もどこかでそれぞれ犬化している…そんな主人公固有ではない共通項、それも人間社会の規範に影響されない世界での共通性の模索のようにも受け取れました。
動物的に振る舞うと育児がやや上手くいって楽しそうになるのも皮肉がこもってましたね。犬用ベッドで子どもを寝かせるとか、児童虐待とまではいかないギリギリのラインなのがなんとも…(でもあれくらいの年齢の子だと犬用のベッド、ちょうどいいですよね)。
『ナイトビッチ』で賛否が割れそうなのは終盤の展開で、夫とも謝罪を受け入れて関係を修復し、主人公も比較的家計に余裕があるのか、芸術活動に専念できるほどの貯えがあるっぽいです。そのため、円満すぎるという指摘も理解できます。
とはいえ、あの2人目の子どもができたと思われる中で家族団欒が描かれていそうなラストでしたが、たぶん“マリエル・ヘラー”監督はそんなにハッピーエンドのつもりで描いてはいないと思うので、最終的にはタッチの好みなのかな。個人的にはあれほどエキセントリックな仕掛けをメインに攻めていたので、そのままさらに風刺をエグくしても良かったのにとは感じました。
シネマンドレイクの個人的評価
LGBTQレプリゼンテーション評価
–(未評価)
作品ポスター・画像 (C)Searchlight Pictures
以上、『ナイトビッチ』の感想でした。
Nightbitch (2024) [Japanese Review] 『ナイトビッチ』考察・評価レビュー
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