黒人でノンバイナリーで誰よりも先駆者だった…ドキュメンタリー映画『私の名はパウリ・マレー』の感想です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:アメリカ(2021年)
日本では劇場未公開:2021年に配信スルー
監督:ジュリー・コーエン、ベッツィ・ウェスト
私の名はパウリ・マレー
わたしのなはぱうりまれー
『私の名はパウリ・マレー』あらすじ
その人は歴史の中で見過ごされてきた。法における先駆者であり、その思想はルース・ベイダー・ギンズバーグの男女平等を求める闘いや、サーグッド・マーシャルの公民権論にも影響を与えた。黒人として、またノンバイナリーとしても重要な人物であるその人がなぜこれほどまでに歴史の陰に隠れてしまったのか。その名はパウリ・マレー。パウリが、私たちにどれほど大きな影響を及ぼしたかを振り返る。
『私の名はパウリ・マレー』感想(ネタバレなし)
名も知られていなかった先駆者
2021年10月、何かとハッキリ物言うことでおなじみのアフリカ系アメリカ人俳優でゲイでそしてジェンダー・ノンコンフォーミングなファッションでも有名な“ビリー・ポーター”が、巷で人気の若手白人俳優“ハリー・スタイルズ”を非難するコメントをしていて話題になりました。その理由は“ハリー・スタイルズ”がドレスで「Vogue」の表紙を飾ったため。もともと“ハリー・スタイルズ”はジェンダー規範にとらわれないファッションをすることですっかり定着していたのですが、そうしたポジションさえも白人に奪われてしまうことへの“ビリー・ポーター”からの批判でもありました。
どんな業界でもそうですが、そこには先駆者(パイオニア)がいます。先駆者というのは大変な苦労をしてきたものです。そしてたいていは何かしらのマイノリティだったりします。時代が経過してしまうとそんな先駆者の存在は忘れられ多数派の存在に上書きされがちですが、やはり常にその偉大な存在に敬意を払うべきですね。
今回は“ビリー・ポーター”よりもはるかに前から存在していた黒人でクィアな人物で、時代を切り開いてきたにもかかわらず、その存在があまり公にはクローズアップされてこなかった…そんな人を主題にしたドキュメンタリーを紹介します。
それが本作『私の名はパウリ・マレー』です。
パウリ・マレー。おそらくそこまで名の知れた人物ではないでしょう。初めて聞いたという人もいるはずです。一体何をした人なのか。実はかなり歴史的な出来事に貢献しているのです。
詳細はドキュメンタリーを観てもらうとして、このパウリ・マレーが存在しなければ現在のアメリカの姿はあり得なかった…そう言い切ってもいいくらいに偉業に関わっています。
あのアメリカの男女平等やLGBTQ平等に法の世界で大きく寄与した“ルース・ベイダー・ギンズバーグ”でさえもパウリ・マレーから影響を受けたと公言するくらいに。
ではなぜそんなパウリ・マレーの名は知られていないのか。それはパウリ・マレーは黒人であり、女性として生まれ、それでいてノンバイナリーなジェンダーの感覚を持っていたことと関係していて…。
そんな話がこのドキュメンタリー『私の名はパウリ・マレー』では語られていきます。もう亡くなっている人物ですが、『私の名はパウリ・マレー』ではパウリ・マレー自身が残した膨大な資料と音声テープ、そして関係者の証言で、この歴史の荒波にかき消されていたパウリ・マレーをすくい上げる…そんな一作です。
この貴重なドキュメンタリーを手がけたのは、“ルース・ベイダー・ギンズバーグ”を題材にしたドキュメンタリー『RBG 最強の85才』を監督した“ジュリー・コーエン”と“ベッツィ・ウェスト”の2人。あの人を題材にしたのだがら次のこの人だろうということなんですかね。実際、“ルース・ベイダー・ギンズバーグ”について調べている中でこのパウリ・マレーの名を知り、興味を持っていったそうです。あの2人でさえもパウリ・マレーを知らなかったのですから、おそらく相当に認知度は低く、学術的業界の人くらいしか知らないんでしょうね。
ちなみに“ジュリー・コーエン”&“ベッツィ・ウェスト”監督は2021年はもうひとつドキュメンタリーを作っており、それはアメリカの料理家のジュリア・チャイルドを題材にした『Julia』です。
偉人というのはどうも凡人には遠い存在のように思えてしまうものですが、このパウリ・マレーは親近感を湧きやすいかもしれません。とくにクィアな人にとっては。主流派のコミュニティに属することができず、どこか孤立しつつも自分のできることを地道にやり続けたパウリ・マレー。
私はパウリ・マレーと重ならない部分の方が大きいくらいですが、ノンバイナリーな葛藤面は非常に共感できますし、なんだか遠い過去にもうひとりの自分を見つけたような気分です。
『私の名はパウリ・マレー』、日本では劇場公開されずAmazonプライムビデオでの配信になってしまったのですけど、ぜひとも関心がある人は視聴してみてください。
『私の名はパウリ・マレー』を観る前のQ&A
A:Amazonプライムビデオでオリジナル映画として2021年10月1日から配信中です。
オススメ度のチェック
ひとり | :LGBTQ作品として必見 |
友人 | :興味ある者同士で |
恋人 | :パートナー関係も描く |
キッズ | :勉強になる良作 |
『私の名はパウリ・マレー』予告動画
『私の名はパウリ・マレー』感想(ネタバレあり)
これほどの実績…なぜ知られていないのか
「これほど重要な人物の名がなぜ知られていないのか」
パウリ・マレーの親族で遺言執行者だったカレン・ラウス・ロスは、パウリ亡き後に本人の部屋にあった大量の書類を、女性史関連の資料が集まるシュレジンガー図書館に保管します。パウリは何も語っていなかったそうで、その親族さえもパウリの文書を初めて読んで驚きます。
例えば、1940年、パウリ・マレーは伯母の家でイースターを過ごすための移動中、南部の隔離政策に遭遇し、バスの席を移動しなかったために逮捕されていました。そしてその理不尽を訴えて裁判で闘ったことがあったのでした(結果は負けた)。
これは歴史を知っている人には驚きです。なぜならこの15年後にローザ・パークスという黒人女性が全く同じことをして、「公民権運動の母」と呼ばれるほどに歴史を動かすことになるからです。てっきりローザ・パークスが最初にその行動を起こしたと思っていたら、まさかその15年も前に同じ行為で社会の差別に声をあげた人がいたなんて…。じゃあ、なんで全米有色人種地位向上協会はパウリ・マレーを再度でもいいから闘いの表舞台へ取り上げることはしなかったのか。
また、1941年には法律を学ぶためにハワード大学へ。そこには後に歴史的偉人となるサーグッド・マーシャル(アフリカ系アメリカ人として初めて合衆国最高裁判所判事になった人物。『マーシャル 法廷を変えた男』で映画化もされました)も同期でいました。しかし、授業で手を上げても無視される。それは性差別とも戦いであり、“ルース・ベイダー・ギンズバーグ”が同じ目に遭う何年も前から(『ビリーブ 未来への大逆転』でも映画化)パウリ・マレーは対決していたのでした。じゃあ、なんでパウリ・マレーは伝記映画を作られないのだろうか。
さらに1943年、人種差別が色濃い食堂で抗議の座り込みをやってみせたこともありました。百貨店F.W.ウールワースにある軽食堂で、白人だけに認められていた席に黒人大学生が座り込みをして、大きな人種差別廃止運動の中心へと変わっていったのはその17年後の1960年。パウリの方が先取りで席に座っていたのです。
さらにさらに1954年、人種分離した教育機関は不平等であると認めた画期的な「ブラウン対教育委員会裁判」ではパウリの書いた論文が匿名で利用され、この裁判の勝利の後押しになっていました。全ては男たちの実績になってしまいましたが…。
これほどの実績があるのに、なぜパウリ・マレーは…なんで、どうして、その理由は…。
パウリ・マレーのジェンダーの揺らぎ
その理由はパウリ・マレーのアイデンティティにあったのではと本作では説明されます。
パウリは1910年にメリーランド州のボルチモアで生まれますが、幼くして母が死に、父は病で倒れ、親戚のいるノースカロライナ州のダラムに移り住みます。パウリの家系はいろいろな人種が混合していたそうで、親族の中には肌が白いので白人として暮らしている者もいました。パウリは中途半端な肌色のせいで、白人にも黒人にも仲間扱いされない不遇な環境に身を置きます。
大学はニューヨークのハンターカレッジに行きますが、カネもなく貧乏で、しょうがないので貨物列車に飛び乗って放浪生活。当時は男装をしていたそうで、これは女性の旅ゆえに身を護る意味もあったと指摘されています。
ただ、パウリはこの頃から「私の中身は男性だ」と悩み始めていました。小さい時からワンピースが嫌いで避けていたそうですけど、大人になるにつれジェンダーの葛藤は膨れます。といっても当時はジェンダー・アイデンティティなんて言葉もない時代。病院に行っても肯定感なんて得られません。当時、親しくしていたペグもパウリを男性とは見られずに関係は終わってしまい、ショックを受けます。ホルモン治療で治るのではないか、停留精巣ではないかなどと、必死に苦痛の原因を求めながら…。
パウリのジェンダーはわかりません。自認するという概念も当時はないですから。もし現在にパウリがいたらどんな自認をしたでしょうかね。トランスジェンダーか、ジェンダー・フルイドか、ノンバイナリーか…。とにかくパウリの苦しみは現在のジェンダー・ノンコンフォーミングな人たちの葛藤と類似しています。
ちなみに代名詞(pronouns)ですが「Pauli Murray Center」の見解によれば、パウリの初期の人生では「he/she/they」を、晩年では「she」を使うことで(本人の意思は不明ですけど)外部としては統一しているようです。
パウリのこのジェンダーの揺らぎは明らかに本人の社会的孤立に繋がっています。親しい人からも距離を置くようになり(伯母のポーリーンだけは例外で「ボーイ・ガール」と呼んでくれたというエピソードが心に染みる)、キャリアにおいても黒人で女性というだけでハンデなのにさらに理解されない苦しみを秘めて生きる辛さ。どうせ誰に言ってもわかってもらえないと自分の心の扉を閉じる。
私も同じノンバイナリーとして共感が深く突き刺さり、もう何も言えない…。
コミュニティに属せずとも…
作中でも言ってましたが、パウリ・マレーは何においても「中間」ゆえに孤立した立場に追い込まれます。
おそらく黒人コミュニティの中にもすんなり入れなかったのでしょう。『ユダ&ブラック・メシア 裏切りの代償』でも描かれたブラックパワー運動のやりかたに納得いかず、距離を置いてしまったり。やっぱり当時のそういう活動も人種はさておきそれ以外はマジョリティな構造を持っており、インクルージョンは今ほどないですからね。
トランスジェンダーのコミュニティにも入りづらかったはずです。そもそもパウリは「男性かも」と悩み始めたのは若い時代で、それ以降は「女性」として生きることにしていたようですが、それでもそういう今のノンバイナリーだったら受け入れてくれるような“揺らぎ”を、当時のトランスジェンダー・コミュニティは受け入れるほどに柔軟ではなかったのも現実です。パウリにはああいうノリというか空気は合わなかったでしょうし…。
それでもパウリが凄いのは自分の主張を貫き通し、どんな権力相手でも声をぶつけたこと。
「対話」というと日和ったやりかたに思えますが、パウリのそれはアグレッシブな対話です。エレノア・ルーズベルトと文通してバトルしたり、アメリカ自由人権協会(ACLU)にも「人種問題に取り組め」と意見したり、とにかく自己主張に躊躇いがありません。
人種や性別の区分は恣意的だとわかっていたからこそ、その「中間」の立場から物申す。そういう社会の規範に当てはまらない人のパワーはやっぱり世の中を動かせる。それを身をもって証明していました。
人生の後半でもパウリは独身でしたが、レニーという女性と文通・面会し、カップルのように支え合ったとのこと。そんなパウリの論文は死後、2020年にアメリカのLGBTQ権利の獲得に寄与します。「アメリカよ、独立宣言したとおりの国になれ」といったパウリの言葉にまた一歩近づきました。
私たちは自分の足で立っているのではありません。その立っている場所は誰かの歴史によって作られた土台です。LGBTQ当事者なら、いや当事者でなくても、パウリ・マレーという人物の名は永遠に記憶にとどめておくべきなのでしょう。私たちが先駆者にしてあげられる唯一のことです。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 95% Audience –%
IMDb
6.2 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
作品ポスター・画像 (C)Amazon Studios 私の名はパウリマレー
以上、『私の名はパウリ・マレー』の感想でした。
My Name Is Pauli Murray (2021) [Japanese Review] 『私の名はパウリ・マレー』考察・評価レビュー