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『迫り来る嵐』感想(ネタバレ)…犯人も結末も雨に流される

迫り来る嵐

犯人も結末も雨に流される…映画『迫り来る嵐』の感想&考察です。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。

原題:暴雪将至
製作国:中国(2017年)
日本公開日:2019年1月5日
監督:ドン・ユエ

迫り来る嵐

せまりくるあらし
迫り来る嵐

『迫り来る嵐』あらすじ

1997年。小さな町の古い国営工場で警備員を務めるユィ・グオウェイは、泥棒検挙で実績をあげ得意になっていた。ある日、近所で若い女性を狙った連続殺人事件が発生。刑事に憧れるユィは勝手に捜査を進め、死体が発見される度に事件に執着していくが…。

『迫り来る嵐』感想(ネタバレなし)

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新たな中国版“殺人事件”ノワールの名作

2019年もスタートし、日本にとっては「年号が変わる」という、人生でも1、2回体験できるかどうかくらいのビックなイベントが待っています。お祝いムードで新年の始まりを過ごしたいところですが、残念なことに元日早々から凶悪な事件が起こってしまいました。東京・原宿で起きた車が暴走して人を数人轢いた事件。捕まった容疑者の男は無差別殺人を計画していたと報道されています。

真の動機についてはこれからの捜査と裁判で明らかになることを願いますが、こうした殺人事件が起こるたびにメディアでよく行われるのが犯人分析です。なぜこんな凶行に及んだのか…性格か、心理状態か、家庭環境か…。いろいろな視点で議論されますが、捜査やメディアが行う犯人分析はたいてい狭いスケールです。

もっと広いスケール、例えば社会との関わりで論じることもできるはずです。無論、犯人は悪くない、社会が悪いと言いたいわけではありません。ただ、社会や時代が生み出した闇が発露した結果が“凶悪な事件”につながると考えてもいいはずです。被害者や加害者といった二元論を超越した、一つの現象として…。

そんな神話的ともいえる解釈で殺人事件すらも描けるのが「映画」というフィクションの強み。これまでもそうしたとくに“社会や時代の変化”と関連させた作品が多数作られてきました。昭和から平成へ変わる切れ目に起きた事件を描く『64 ロクヨン』2部作や、韓国が軍事政権から民主主義へ切り替わる激動の時期に起きた事件を描く『殺人の追憶』など、どれも単なるサスペンスやミステリー以上の独特の“重さ”があるものばかりです。

そして本作『迫り来る嵐』は、“社会や時代の変化”と関連する殺人事件ノワールの中国版ともいえる、新たな方向からのズシンとくる一作です。

表面的な雰囲気は韓国映画『殺人の追憶』に似ています(もちろんストーリー展開やオチは全然違いますよ)。しかし、何よりも特筆すべきは舞台となった中国の時代性。描かれるのは1997年。1989年にご存知天安門事件が起き、中国の民主化運動は活発化。その流れに続く1990年代の中国は経済成長が進んだものの、当然その裏では経済格差も進むわけで、国の大きな激変期でした。そこの地に暮らす庶民たちにも多大な影響があったのは言うまでもありません。直接的にも、間接的にも、心理的にも…。

その時代性が本作にどう絡んでくるかは実際に鑑賞して確かめてもらうとして、個人的には中国映画も素晴らしいクオリティの社会派映画を新たに生み出してきたかと舌を巻きました。いやぁ、『オペレーション:レッド・シー』みたいなプロパガンダ全開映画が生まれる傍ら、こんな時代風刺映画も生み出せるのか…。凄い二面性だな…。

しかも、監督の“ドン・ユエ”という人、本作が初監督作らしいですからね。なんだ、ただの天才か…。

とりあえず言えることは絶対にネタバレ厳禁だということ。あまり検索で調べたりせずに、ノワール系が好きなら迷わず見に行くべきです。できれば雨か雪が降っている日に鑑賞するとなお良しです。

↓ここからネタバレが含まれます↓

『迫り来る嵐』感想(ネタバレあり)

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普通すぎる主人公…その意味

『迫り来る嵐』はいろいろと語りたいところがたくさん出てくる映画ですが、ひとまず俳優陣の素晴らしさに言及しておきましょうか。

主人公ユィを演じた主演の“ドアン・イーホン”。失礼ながらこの俳優を意識してちゃんと見たのは本作が初めてだと思うのですが、見事でした。

このユィが殺人事件の犯人を追っていくというのが本作の物語の本筋ですが、重要なのはユィは別に刑事でも探偵でも兵士でもない、ただの工場の雇われ警備員だということ。しかも、特別に秀でたスキルがあるわけでもなく、正直に言えば凡人そのもの。さらにその存在自体さえ、作中の最後にはあやふやになっていくような情報も提示される。まるで水たまりに映った誰かの顔のような、個としての実体のなさが印象に残ります。

もちろんこれは「どこにでもいるような人物が、時代の性質しだいでいかに影響を受けるかを描くことで、その時代をむき出しにし、その社会の精神性みたいなものを浮き彫りにしたい」と語る“ドン・ユエ”監督の明確な狙いあってこそなのですが。

役者にしてみれば、こんな「The 普通」な人物を演じるのは大変だと思うのです。でも、“ドアン・イーホン”はこれ以上文句ないぐらい完璧に体現していました。

冒頭、工場近くの草原で発見された無残な遺体を捜査する警察のそばに、やけに自然にのこのこと立ち入ってくるユィ。それを普通のことのように流すジャン警部をはじめとする警官。この時点で「あ、これは現場保存もする気ゼロだし、真面目に捜査する気ないんだな」と思うわけです。でも、ユィはといえば、勝手に遺体の写真まで撮っちゃったりして“探偵ごっこ”に夢中。リアル「名探偵コナン」ですよ。実写にするとすごい非常識人だなぁ。

そんな自称“名探偵コナン”状態のオッサンが、暴走に暴走を重ねてた結果、考えうる限り、最悪の犠牲と虚しさに自ら突っ込んでいく。“ドアン・イーホン”のどんな田舎にでもひとりはいそうな普通っぷりが余計に痛々しさを底上げしていましたね。

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普通にとどまるしかないヒロイン

そのユィの恋人という立ち位置になっているイェンズ。彼女を演じた“ジャン・イーイェン”がまた素晴らしい。

“ジャン・イーイェン”という女優さん、もとはアイドルグループだったらしいですが、確かにそのキャリアの片鱗を上手く活かしたキャスティングだったのではないでしょうか。

つまり、彼女の人生が詳細に明らかになることは作中ではないですが、あのイェンズは輝けるだけの美貌を持ちながらも、あの田舎の町を脱するまでのチャンスは手に入らず、夜の仕事のような“範囲”におさまるしかない…そんな女性です。

だからユィと付き合っている…というか付き合うしかないのでしょう。だって、ユィなんて「100点満点で120点出せるような男」じゃなく、むしろ「平均点以下の男」ですよ。そんな男とイェンズは、本来、釣り合わなそうじゃないですか。それでもイェンズはそんなユィに希望を夢見て、身を託すくらいしかできない。

そして、裏切られてからの絶望です。ユィの探偵ノートを見てしまってからの、彼にまたがり、キスからの、顔を横に背け、自分の写真を見せる一連のシーン。切なく、恐ろしい場面でした。イェンズがどれだけユィという凡人に期待せざるを得なかったかという切迫した心理を鑑みれば、彼女の最期も心に刺さります。

酸いも甘いも嚙み分けて、人生に不本意ながらも着地点を見いだした女性。色気や美貌を無駄遣いするような停滞した日々を送る女性。“ジャン・イーイェン”だからこそのハマリ役だったと思います。彼女の他のフィルモグラフィーもチェックしたくなりました。

他にもジャン警部を演じた“トゥ・ユアン”、ユィの部下リゥを演じた“チェン・ウェイ”と、全体的に素朴な役柄が染みるようなキャラクターが多かったですね。やっぱりひたすらインフレしまくる暴力描写と罵詈雑言の応酬が特徴の韓国映画と違って、中国映画は奥底にある人間味がじんわり際立つ感じがたまらないです。

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雨、雪、未来への不安

物語のラスト、時代は経過した2008年。一応、真相は明らかになります。あの殺人事件の犯人は既に死亡していて、ユィが線路まで追いかけたフードの男がそうだったということ。その追走劇のすえに、犯人は車に轢かれて死亡。結局、ユィはそのあと“存在しない犯人”を探していたのでした。

しかし、犯人の動機は不明ですし、素顔も明らかにされません(ずっとフードを被ったまま)。まあ、これは監督の「好きに考えてね」ってやつなのでしょうけど、だったらお言葉に甘えて好き勝手に妄想を垂れ流すなら、私は本作は全てユィに始まり、ユィに終わる映画だと思います。

そもそも最初からユィは犯人らしきフードの男と同じような格好で登場するシーンが何回かあります。なのでユィが真犯人なんじゃないかと観客のミスリードを誘発しています(イェンズに近づくあの男はフードではなく傘をしている)。でもユィはあの無残な遺体となった女性たちを殺していない。でも、終盤、無実の男を八つ当たりのように殴る。それもフードを被った状態で凶行に及びます。

要するには作中のユィの一連の行動を見ていると、実は犯人もそうだったのではないかと重ねることも不可能ではない、そんな構図です。ユィは犯人ではないけど、犯人と心理は同じ。もちろんピタリと一致はしないでしょうけど。

ユィの「承認欲求」と呼ぶには稚拙すぎる暴走、リストラなどの社会からの放置、イェンズという身近な愛への黙殺…全てがどう「事件」につながったのかはわかりません。そのメカニズムなんて心理学者とかが勝手に解明していればいい。でも起きたことは事実。最後はその事実しか残らないんですね。

2008年のユィの出所後、ジャン警部が車椅子状態で言葉も話せないほどの変貌だというのもショッキングです。ジャンが国家権力の一抹を担う存在だと考えれば、この展開も非常に意味深なのではないでしょうか。既存の権力者の最弱は廃人となり、かつてのあの国家の威信を掲げていた集会場は廃れ、権力構造は消えた…わけなく…。

本作の邦題や英題は「嵐(Storm)」という言葉を使っていますが、原題は「暴雪将至」で、要するに寒波が来るという意味(実際あの時期に中国は寒波に襲われたそうです)。作中ずっと降り注ぐ土砂降りの雨、表彰式での偽の雪、ラストの本物の雪…どれも全てを意思に関係なく流して埋もれさせるものです。解体して跡形もなく消えた工場のように、何もかも消えて次に進む時代。もう主人公たちは主人公じゃないのです。過去の人です。じゃあ、過去になった人はどうすればいいのか。

序盤に警察の車がエンストしたときはユィが押せば良かっただけでした。でもラストで起きたバスのエンストはどうすればいいのでしょうか。肥大化した中国を押せるような人間はもういません。

『迫り来る嵐』
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer –% Audience –%
IMDb
6.5 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 7/10 ★★★★★★★

(C)2017 Century Fortune Pictures Corporation Limited

以上、『迫り来る嵐』の感想でした。

『迫り来る嵐』考察・評価レビュー