結末が意味する思春期の終わり…映画『サマー・オブ・84』(サマーオブ84)の感想&考察です。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。
製作国:カナダ(2018年)
日本公開日:2019年8月3日
監督:フランソワ・シマール、アヌーク・ウィッセル、ヨアン=カール・ウィッセル
サマー・オブ・84
さまーおぶ84
『サマー・オブ・84』あらすじ
1984年の夏、アメリカ郊外の田舎町に暮らす好奇心旺盛な15歳の少年デイビーは、向かいの家に暮らす警察官のマッキーという大人の男性が、近隣の町で発生している子どもばかりを狙った連続殺人事件の犯人ではないかと疑っていた。そして、親友のイーツ、ウッディ、ファラディとともに独自の調査を開始。しかし、想像すらもできない、言葉を失うような恐怖の現実が待ち受けていた。
『サマー・オブ・84』感想(ネタバレなし)
「1980年代」の魅力
思春期の少年少女を描く「ジュブナイル」というジャンルは常に一定の人気があります。『スタンド・バイ・ミー』や『ブレックファスト・クラブ』、『グーニーズ』など1980年代に作られたジュブナイル映画は今では名作としてファンによって世代を超えて語り継がれています。
そして、時代が進むにつれ、今度はその1980年代を舞台にしたジュブナイル作品がいくつも誕生して愛されるようになりました。『ストレンジャー・シングス 未知の世界』や『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』など挙げだすとキリがありません。
これら1980年代よりも前を舞台にした作品と、1980年代を舞台にした作品では、同じジュブナイルでも中身が変わってきます。一番の大きな違いは、いわゆるオタク的コンテンツの存在感です。例えば『スター・ウォーズ』旧三部作の公開、ファミリーコンピュータの発売など、1980年代の子どもたちにとって自分たちの趣味的好奇心を大いに刺激する、どストライクな“アレコレ”がわんさか溢れ始めた時代です。当然、影響を受けないわけがありません。
1980年代を舞台にしたジュブナイル作品が今の若者層にもヒットする理由を考えてみると、多少の登場するコンテンツが古くとも、今の自分たちがハマっている映画・ゲーム・アニメなどの源流にあるものなので、すっかり世代が違っても自分の青春と重ね合わせやすいというのがあるのかもしれません。
そんな1980年代ジュブナイル映画好きの人なら、きっと本作『サマー・オブ・84』も要注目リストに加えているのではないでしょうか(もし知らなかったらメモしてください)。
本作はタイトルのとおり、1984年のアメリカの平穏な町を舞台に、思春期真っ只中の少年たちを主人公にした物語です。この少年たちは4人なのですが、その特徴構成が、あまりにも粗雑に言うと「オタク・デブ・メガネ・不良」と分けられる、このベタさがまたいいですね。
この少年たちが町で起こっている“ある事件”に興味を抱き、追いかけていくうちにとんでもないことに…というのが大まかな流れ。
監督は“フランソワ・シマール”、“アヌーク・ウィッセル”、“ヨアン=カール・ウィッセル”という3名で、このトリオは「ROADKILL SUPERSTARS」という映像制作集団に所属するメンバー。過去に自転車版『マッドマックス』と称されて一部マニアの間でカルト的に話題となった『ターボキッド』という映画を手がけた人たちです。ちなみにアメリカで本作を配給しているのは「Gunpowder & Sky」という会社でインディーズ系作品を主に手がけるところ。
『ターボキッド』はもうとにかく相当にアバンギャルドでぶっとんだ世界観が炸裂してましたが、『サマー・オブ・84』は少なくとも表面的な部分は、既視感のある感じに収まっています。導入部分のあらすじを読んでも、“まあ、何度も観たことのあるやつだね”と思うはず。
ただ、やっぱりこの製作陣は一筋縄ではいかないメンツで、ちゃんと観客に衝撃を与える仕掛けも用意しています。非常にネタバレ厳禁な内容なので、未見の人は余計な情報詮索はしないで、さっさと鑑賞した方がいいです。このオチってやっぱり…うん、言わないでおこう(後半の感想で)。ひとつだけ言えるのは、ゲラゲラ笑える爽やかエンターテインメント!というものではない…ということですかね。
『ターボキッド』を鑑賞した方ならおわかりのように、この監督たちはグロ描写については容赦ないクリエイターなので、そのへんは覚悟してください。かなり悲惨なことになりますよ。
オススメ度のチェック
ひとり | ◯(雰囲気が好きなら) |
友人 | ◯(スラッシャー映画好き同士で) |
恋人 | △(恋愛気分は盛り上がらない) |
キッズ | △(残酷描写あり) |
『サマー・オブ・84』感想(ネタバレあり)
怪しいです、この男!
1984年の夏。この年と言えば、アメリカではロサンゼルスオリンピックが開催されていました。このオリンピックは政治的な対立のせいで、ソ連やベトナムなど東側諸国が参加をボイコットするなどして、注目を浴びていました(前回の1980年に行われたモスクワオリンピックで東側諸国の一部が参加ボイコットしたことへの報復)。
しかし、オレゴン州ケープメイの田舎町イプスウィッチに暮らすデイビーという15歳の少年にとってはどうでもいい話。今、彼が気になってしかたがないのは、地元で広範囲に起きている子どもの大量失踪事件。13人の自分と同年代の子どもが次々と消えているのは明らかに変です。
そしてデイビーにはこの失踪事件の犯人として疑っている人間がいました。それは隣に住んでいるマッキーという警官の男。まるで執着するかのように“絶対コイツが犯人だ”と脳内で確定させているデイビーは、いつもの新聞配達のさなか、マッキーと友好的に振る舞いながら、彼の家への地下室へと案内してもらいます。そこで何か怪しい空気を感じながら、施錠されたドアが気になるものの、決定打になるモノは見つけられずにモヤモヤだけを膨らます日々。
ただこの“自分の近くに極悪人(仮)がいるかも”という状況は、純真な少年にとっては「クール」なことなのでした。
独りで悩んでもしょうがないので、親友のイーツ、ウッディ、ファラデイを集めて相談するも、そんなことよりもお隣で憧れの美女ニッキーのお着換えが窓から覗けて、テンション爆上がりの少年たち。妄想エロ目線で言いたいことを言いまくりますが、ニッキー本人を前にすると無言で突っ立つしかない、ピュアチキン・ボーイズ。
そうこうしているうちに、警察から大量失踪事件の犯人を名乗る者から手紙が届いたとの発表があり、これが大量殺人事件であると判明。不吉な怖さに包まれる町。
事態は一刻を争う…なんとかマッキーが犯人であるという証拠を掴まねばと焦ったデイビーは仲間と協力して作戦を実行。マッキーの1日の行動をつぶさに監視し、ゴミ箱をアライグマよろしく漁り、車でも追跡。自分たちのできることはとりあえず意味があるかはともかく全部やっていくスタイルです。
しかし、全ては空振り。しかも、マッキーの家を窓から双眼鏡で覗いていると、マッキーもまたこちらを双眼鏡で覗いているではありませんか。怪しんでいることがバレていることに大慌てなデイビー。たぶんトランシーバーを使ったやりとりも簡単に傍受できるのですが、少年たちはそこまで気が回っていません。ミステイク&ミステイク!
ところが、事態は思わぬ展開へ。マッキーの個人倉庫を見張っていると、二代目の車を持っていることが発覚し、さらに小屋で血の付いたシャツを発見。ついに証拠を見つけたとエキサイティングする少年たちは意気揚々と親に報告。
両親に証拠を提示して、これで一件落着、自分たちは事件解決のヒーローだ…そう思いましたが、何をふざけているのかと逆に怒られる始末。結局、マッキーの家にまで親同伴で謝罪に行かせられ、モロモロを謝るデイビー。
しかしなおもマッキーを怪しいと確信するデイビーは友人との関係にヒビが入りつつも、例の地下室へ潜入。そこで見たものは…。
牛乳パックでわかる1980年のアメリカ
『サマー・オブ・84』はくどいようですが1980年代が舞台というところが非常に重要で、作中でも同年代公開の映画をオマージュしたものがいくつも登場していました。『ベスト・キッド』、『遊星からの物体X』、『スター・ウォーズ』などなど、いくつ見つけられたでしょうか。
またアメリカ特有の1980年代を特徴づけるものもありました。
例えば、牛乳パックに書かれた行方不明者のお知らせ。アメリカでは1980年代初めに行方不明児童の情報を集めるために広がった広告手法だそうです。どんな家庭でも牛乳パックを朝に冷蔵庫から取り出す際にその広告を目にしますので、効果があるだろう…という狙い。ちょうど1984年あたりで「Missing Children Milk Carton Program」という全国規模の展開が行われたらしく、当時のアメリカでは日常風景。本作でも普通に登場しますし、アメリカ版の本作のポスターも牛乳パックです。
ただ、この牛乳パック活用。1980年代だけで終わってしまいます。というのも、1990年代になると「アンバーアラート」という、もっと機能的なシステムが構築されるんですね。これは児童誘拐事件もしくは行方不明事件が発生した際、テレビやラジオなどのメディアを通じて一斉に発令される緊急事態警報で、TV番組なども中断されて行われます。日本で言うところの自然災害の避難警報みたいなものです。1996年にアンバーという名の少女が誘拐・殺害された事件を契機に導入に向けて動き出したものであり、それからずっと続いて今のアメリカでも運用されています。
なので牛乳パックに書かれた行方不明者のお知らせは、1980年代を象徴するのです。
また、1980年代とは話が少しズレますが、本作の大量殺人事件は何かモデルになったものがあるのかと言えば、明確にコレというのはないのでしょうけど、いくつかの実際の殺人事件を参考にはしているのでしょう。
例えば、作中でマッキーが所有していることが判明する「フォルクスワーゲン・ビートル」。これは実際にオレゴン州でも犯行を行った大量殺人鬼として有名な「テッド・バンディ」が保有していた車でもあります。ちなみに彼は1989年に死刑が執行されました。
『サマー・オブ・84』は日本人が観ても面白いとは思いますが、やはりアメリカ人が鑑賞してこその“わかるわかる”というアメリカの1980年代空気感があるのでしょうね。
思春期の終焉は突然に
『サマー・オブ・84』は、割と終盤までは淡々と地味に物語が進行します。『ストレンジャー・シングス 未知の世界』みたいにドラマシリーズではないので、定期的に見せ場がある展開がテンポよく用意されるわけでもありません。少年たちがやることも、かなり現実的で、地に足のついた行為ばかりで、映画的な飛躍する思い切った描写もありません。
ところが、最後まで鑑賞した方ならわかるように、ラストで非常に痛々しいゴールを迎えます。やはりマッキーが犯人であり、その事実を突き止めるも、逆に誘拐されてしまったデイビーとウッディ。しかも、ウッディは喉を刃物で掻っ切られて残酷に殺害され、デイビーも負傷する状態。結局、ウッディやファラデイとの友情はヒビが入ったまま、ニッキーも町を去り、またいつもの新聞配達の仕事に戻ったニッキーは友人を失っただけ。そして手にする新聞には「犯人はなおも逃走中」の見出し…。
はい、バッドエンドです。控えめに言わなくとも、最悪の結末です。
もしかしたら本作を、“思春期の少年たちが大冒険して事件に巻き込まれつつも最後は「青春最高、イェーイ」みたいなやつ”と思っていた人もいるかもしれないです。だったらどん底に突き落とされたでしょうね。
でも後味の悪い結末は単なる嫌み以上に、すごくアメリカ的な青春の捉え方を強く反映しているように思います。というのも、日本は青春を“ノスタルジー”として懐かしみ、“輝かしいもの”として肯定する傾向が強い気がします。『天気の子』なんてまさにその究極系です。
しかし、アメリカはどちらかといえば、青春は否定とまでは行かずとも、最後は必ず“別れるもの”として、“苦々しさ”として描くことが多い気もするのです(そうじゃないことももちろんありますが)。最近だと『トイ・ストーリー4』なんてまさに“ある時代との人生の決別”を思い切って描いた映画でしたし、やっぱり日米の差なのでしょうかね。
『サマー・オブ・84』はその思春期の終焉をこれ以上ないほど残酷に表現した映画でした。「隣にいる殺人鬼」というのは、“思春期を終わらせる存在”の象徴でもあり、こちらの意志に関係なく、奪い去ってぶち壊すものなんだ、と。そんな強力な世界の横暴に、ただの無垢な子どもが叶うはずはないのだ、と。愛にできることはひとつもないんだよ…。
でもその辛さも含めて「青春」ってやつでしょ?という本作のやけに開き直ったポージング、私は嫌いではないですし、むしろ苦々しさの方が好みなので、全然OK。
鑑賞後はなんとも重苦しい気持ちになるかもしれませんが、だからこそ今が大事だという気持ちの見直しにも繋がるものです。実際にリアルで凄惨な大量殺人事件を見聞きしてそんな体験をするよりも、それが映画鑑賞で済むなら、気楽と言えるのではないでしょうか。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 70% Audience 66%
IMDb
6.7 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 6/10 ★★★★★★
作品ポスター・画像 (C)2017 Gunpowder & Sky, LLC
以上、『サマー・オブ・84』の感想でした。
Summer of 84 (2018) [Japanese Review] 『サマー・オブ・84』考察・評価レビュー