学校は犯人を教えてはくれない…映画『ありふれた教室』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:ドイツ(2022年)
日本公開日:2024年5月17日
監督:イルケル・チャタク
ありふれたきょうしつ
『ありふれた教室』物語 簡単紹介
『ありふれた教室』感想(ネタバレなし)
学校で倫理観をチェックします
学校でときどき行われる「持ち物チェック」。主に学校に持ち込んではいけないものを所持していないかを抜き打ちで調べる検査です。
私の通っていた学校でも「持ち物チェック」が不定期に行われていましたが、基本的に学級委員の生徒が主導で実施していました。わりと生徒の自主性を尊重する学校だったので、たぶん教員が介入するのではなく、原則として生徒同士の合意形成の中で、こういうルール遵守の確認をしてもらおうという姿勢だったのだと思います。
ただ、やはり生徒だけでは対処しきれない問題もあるので、そういうときは教師が介入することは普通にありましたけどね。
今の日本の学校って何を持ってきてはいけないことになっているのかな…。もう何でもスマホで完結する時代になっちゃいましたもんね。スマホの学校への持ち込みも認められることが増え、こうなってくるとスマホの中身のチェックをする学校とかでてきているのかな?
そうなってくるとどうしたってこの疑念が湧いてきます。それってプライバシー侵害じゃないの?…と。
物理的な持ち物にせよ、スマートフォンにせよ、個人の財産です。それらを調べることはどこまで許容されるのでしょうか。警察や行政でもない教員や生徒が「やっていいこと」と「やってはいけないこと」の範囲はどこまでなのか。あらためて考えるとあやふやな話ですよね。
そうです、この問題は突き詰めると「ガバナンス」と「コンプライアンス」のテーマに行き着きます。学校という空間は「教育のため」という都合のいい大義名分で誤魔化されやすいですが、学校であってもこれらは避けられません。
今回紹介する映画はまさにそんな難題に直面し、教師も生徒も翻弄されていく作品です。
それが本作『ありふれた教室』。
本作はドイツ映画で、とある学校が舞台です(ドイツは初等教育が4年間あり、中等教育からいくつかの選択肢に分かれ、数年続きます。本作は中等学校が舞台です)。
その校内で小さな金銭の窃盗事件が多発し、たまたま新任の教師が渦中に立たされることになってしまい、しだいに騒動は収拾がつかない展開へと悪化していく…という小規模なドラマ性の濃いサスペンスです。ギスギスした嫌な空気がずっと流れる心理スリラーでもありますね。
起きることは平凡で、それこそどの学校でもあり得る話なので、日本にも当てはめるのはそれほど難しくないと思います。そのうえ、その事件はまさに社会の縮図のようになっており、普遍的な問題提起にもなっています。
本作を観れば思わず「自分だったらどういう行動をとってしまうだろうか」と考えこむかもしれません。
『ありふれた教室』を監督するのは、2017年に『Once upon a time… Indianerland(Es war einmal Indianerland)』で長編映画監督デビューし、2020年に『I was, I am, I will be(Es gilt das gesprochene Wort)』を手がけ、評価を高めてきた”イルケル・チャタク”。『ありふれた教室』はベルリン国際映画祭のパノラマ観客賞の候補にノミネートされ、さらにアカデミー賞国際長編映画賞にノミネートされました。
若手の監督ですが、この『ありふれた教室』で一気に評価が国際レベルに駆け上がったので、これはもう各国際映画祭の常連になっていくのだろうな…。
共同脚本は、”イルケル・チャタク”監督とは学校時代からの友人という古い付き合いである“ヨハネス・ドゥンカー”。イスタンブールの学校で経験した同様の出来事から着想を得たそうです。
撮影は、『エリザベート1878』などの実績じゅうぶんの“ユーディット・カウフマン”です。
俳優陣は、まず主人公を務めるのは『白いリボン』やドラマ『THE SWARM ザ・スウォーム』の“レオニー・ベネシュ”。今作での“レオニー・ベネシュ”の演技は映画の最大の見どころのひとつで、一挙手一投足が目を離せません。
その“レオニー・ベネシュ”と「タイマンを張る」という言葉がぴったりくるバチバチした演技合戦をみせるのが、子役の“レオナルト・シュテットニッシュ”。これがデビュー作らしいですけど、「本当に!?」ってぐらいの存在感を放っています。結構難しい役柄なのですが、上手く渡り合ってました。
登場人物は多いですし、他に子どもたちもいっぱいでてくるのですが、この“レオニー・ベネシュ”と“レオナルト・シュテットニッシュ”でメインは成立してます。
共演は、”エーファ・レーバウ”、”ミヒャエル・クラマー”、“ラファエル・シュタホヴィアク”など。
『ありふれた教室』を観ていると、居心地が悪かった自分の学校時代を思い出して私は気分が落ち込みましたけど、いろんな感想が見たくなる作品ではありますね。
なお、生々しいパニック発作の描写があるので、留意してください。
『ありふれた教室』を観る前のQ&A
オススメ度のチェック
ひとり | :物語に集中して |
友人 | :シネフィル同士で |
恋人 | :喧嘩しないように |
キッズ | :大人のドラマです |
『ありふれた教室』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(前半)
若手教師のカーラ・ノヴァクはこの職場となる学校に来たばかりで、良い先生になろうと張り切っていました。
ベルが鳴り、やや急ぎ歩きである部屋へ。2人の子どもがいて、すでに大人勢と向き合って会話していました。カーラも同席しながら、厄介な出来事があったことを知ります。
それは教師の集うラウンジで窃盗事件が多発していたこと。どうやらカーラの受け持つクラスの生徒の中に犯人がいるのではないかという疑惑があるようです。
普段どおりカーラは授業をします。優秀な生徒のオスカーが黒板の前で数式を解き、褒めていると、急に男性教師たちがぞろぞろと入ってきて中断されてしまいます。そして女子生徒を教室から出ていかせ、残った男子生徒は教室の前に立たされます。みんな不安そうです。
その男性教師は問答無用で生徒の持ち物を調べ始め、財布を重点的にチェックしていきます。その結果、トルコ系の生徒のアリが大金を持っていたことがわかり、教師たちは彼を窃盗の犯人として断定し始めました。
しかし、アリの両親との面会で、そのお金がアリのお小遣いだったとわかり、またも振り出しに戻ります。
カーラは平穏にまた授業を続け、子どもたちは笑顔をみせながら、思い思いに過ごしていました。カーラにとっては子どもたちの主体性を尊重するのが役目だと思っていました。
確かに授業を抜け出す子もいるし、反抗的な態度をとる子だっていますし、カーラも声を荒げてしまう瞬間もあります。それでもやはり子どもでもひとりの人間です。
そんな中、同僚が職員ラウンジの貯金箱から小銭を盗むのを目撃したカーラ。その人は何気なく小銭をとって席に戻っていました。この経験から、もしかしたら教師が犯人ということもあり得ると考えます。
そしてカーラは独断で行動にでます。自分のノートパソコンの内カメラを使い、起動させたまま席を離れ、椅子にかけたジャケットの財布を盗むものが現れるかどうかを撮影することにしたのです。こんなことをしていいのかという戸惑いが内心ではありましたが、やるしかありません。
心配しながら授業後に戻ってきて、目の前のノートパソコンを確認。ラウンジでは人の目があるので、トイレの個室にこもって動画をチェック。普段の光景が映っていましたが、ジャケットをまさぐる人物の一部が映ります。それは白いブラウスにまばらに黄色の星の模様があるデザインで…。
これは誰か、実際にラウンジを歩いて見回すと、管理事務の同僚フリーデリケ・クーンが全く同じ服でした。いつも会話する間柄です。その人はあのオスカーのシングルマザーでもありました。
この新展開にカーラはさらに思い切って穏便に事を済ませようとするのですが…。
これは不寛容ではなくルールのカオス
ここから『ありふれた教室』のネタバレありの感想本文です。
『ありふれた教室』の日本の配給宣伝では「不寛容」(しかも「ゼロトレランス」とカタカナをあてている)な世界を描いているというかたちで打ち出されているのですけど、この言い方は作品の捉え方としてやや語弊があるというか、ミスリードだなと思います。
むしろこの映画は、世の中がいかにゼロトレランスなどではなく空気に流されながら規則やルールを恣意的に解釈して運用してしまっているかを浮き彫りにさせているのではないでしょうか。
確かに本作の学校はもちろん、たぶんあらゆる組織(企業から市民団体まで)が何かしらのルールを前提にした運営をしているでしょう。それは当然です。そしてそのルールは厳格に遵守されるということになっています。それも当たり前です。
ただ、建前ではそうでも実際はどうですか…という話で…。
例えば、本作は教員ラウンジ(日本でいうところの職員室)で発生した金銭窃盗事件に端を発しますが、最初はいかにも典型的な学内調査(それもだいぶいい加減)に基づき、一部の教員勢が独断で「このクラスの男子生徒の中に犯人がいるに違いない」と決めつけてしまいます。これは日本の学校でもありがちな光景だと思いますし、要するにパターナリズムな教育しつけのやり方ですね。
しかも、ここでトルコ系の子がたまたま財布におカネがたくさんあったというそれだけの理由で犯人と断定されてしまい、人種プロファイリングの大失態をしてしまいます。ちなみに”イルケル・チャタク”監督もトルコ系移民です。
ということでこの序盤から早々にルールと言いながら支離滅裂なアマチュア探偵の失敗が連続しているわけです。
だからこそ本作の主人公であるカーラは腰を上げるハメになります。別にカーラは前のめりに張り切って犯人探しをし出したわけではありません。自分のクラスの子が教員によって屈辱的な目に遭っているのが可哀想で、子どもの立場を守るために「良い大人」として模範的に行動しなければという動機に突き動かされたのでしょう。
結果、おとり捜査的な仕掛けというややモラル的にギリギリなことをするのですが、不運なことにそこに映ったのは自分のクラスの子(オスカー)の親である職員で…。
これによってカーラは貧乏くじを引かされた感じの立場に陥り、教員からも保護者からも生徒からも責められるという、全く報われない状況で孤立します。
ここでもルールは無いに等しいというか、ルールの後出しじゃんけん的な適用の連発で、学校内におけるその場しのぎの対応が相次ぎ、肝心の細部のミスマッチなどの問題は全部カーラに丸投げです。これもよくあるやつで、ルールはあるにはあるけど、ルールを管理したり、調整したりする人やそのシステムが何も機能していない…というパターンです。
本作を観ていると「うわ、こういうことってあるな…」と深く納得ですし、こんな渦中に放り込まれたらと思うと…。いや、まさにこういう状況下に現在進行形で巻き込まれている人は普通にいるでしょうけど…。
2人にしかわからない共同戦線
『ありふれた教室』は「犯人は誰か」ということを解き明かすミステリーではありません。最後まで観ても、あの窃盗事件の犯人はわかりません。
映画の後半は表向きはまるで「カーラvsオスカー」という雰囲気になります。しかし、本来はこんな対立構図の問題ではないです。何度も言うように、ガバナンスとコンプライアンスの問題です。
実はこのカーラとオスカーは先生と生徒という立場ながら似た者同士な感じもします。ともに良心的で、真面目です。そしてカーラがおとり捜査的な隠し撮りという手段に出てしまったのと同じように、オスカーも証拠動画のあるカーラのノートパソコンを投げ捨ててしまうというアウトな行為をしてしまいます。自己対処しようとして追い込まれた経験を共有しています。
そうやって考えると、オスカーはカーラ個人に反抗しているのではなく、本質的にはカーラと同じ相手に向き合っているとも受け取れます。
終盤、カーラは退学処分を受けたにもかかわらず学校に来て席から動こうとしないオスカーに向き合い、一緒に教室で対峙します。教室に鍵をかけ、うるさい外野をシャットアウトして…。
この場面で最終的にどんな会話によってどんな結論が話されたのかは観客に見えません。ただ、ずっとすれ違ったミスコミュニケーションを散々描いてきたこれまでと異なり、この最後のカーラとオスカーの向き合いには繋がりを感じさせます。
もしかしたらこの2人は2人にしかわからない連帯を見い出せた…のかもしれません。理不尽なこの学校内の構造に一緒に異を唱えるという共同戦線が…。
ラストでは椅子から全く動かないオスカーが警察によって椅子ごと持ち上げられ、強制退去されるシーンが、まるで王様のように優雅に描かれます。これなんか非常に社会運動におけるプロテストそのものです。
ちょうどつい最近、イスラエルのガザへの侵攻に反対するアメリカの学生たちが大学に抗議して建物を占拠し、強制的に排除させられる事例があったばかりなので(BBC)、完全にこの『ありふれた教室』のエンディングと一致してました。学生と教授も連動して抗議してましたしね。
本作の海外の感想を観ていて、とくにアメリカの鑑賞者の反応が面白くて「理解できない」という声があったのです。それは校内窃盗事件の対処の件で、たぶんアメリカは「持ち物は個人で厳格に管理する」という自己責任が前提にあってロッカーで各自守るからだと思うのですが…(確かにアメリカの学園ドラマとかではしょっちゅう窃盗が起きてますよね)。
とは言え、組織内で「これはおかしい」と感じたら、やはりやるべきは「抗議」という手段であるのは共通でしょう。ルールを都合よく運用する存在が組織を牛耳っているならなおさらです。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 96% Audience 63%
IMDb
7.5 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
作品ポスター・画像 (C)if… Productions/ZDF/arte MMXXII ティーチャーズ・ラウンジ
以上、『ありふれた教室』の感想でした。
The Teachers’ Lounge (2022) [Japanese Review] 『ありふれた教室』考察・評価レビュー
#ドイツ映画 #教師 #教育