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『永遠の門 ゴッホの見た未来』感想(ネタバレ)…観客はゴッホになれる

永遠の門 ゴッホの見た未来

観客はゴッホになれる…映画『永遠の門 ゴッホの見た未来』の感想&考察です。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。

原題:At Eternity’s Gate
製作国:イギリス・フランス・アメリカ(2018年)
日本公開日:2019年11月8日
監督:ジュリアン・シュナーベル

永遠の門 ゴッホの見た未来

えいえんのもん ごっほのみたみらい
永遠の門 ゴッホの見た未来

『永遠の門 ゴッホの見た未来』あらすじ

画家としてパリで全く評価されないゴッホは、貧しい生活の中で、出会ったばかりの画家ゴーギャンの助言に従って南仏のアルルにやってくる。しかし、地元の人々の反応は冷たく、トラブルが生じるなど孤独な日々が続く。やがて弟テオの手引きもあり、待ち望んでいたゴーギャンがアルルを訪れ、ゴッホはゴーギャンと共同生活をしながら創作活動にのめりこんでいく。

『永遠の門 ゴッホの見た未来』感想(ネタバレなし)

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死後に評価されたゴッホの想い

学校時代、私は美術の授業が好きでした。他人を気にせず、ひたすらに絵を描いたりすることに没頭していればいいだけでしたから。黙々と作業するのみ。多少の友達との雑談も許されるガヤガヤ感もありましたし、シンとした沈黙を要求される普通の授業よりははるかに気楽。体育のように体を動かさなくていいので疲れない。欠点があるとすれば道具の片づけが面倒なことくらいでしょうか。なお、美術は好きでも、才能があるとは…。今思えば、先生は一体何をもって美術の科目の評価を児童や生徒にしていたんでしょうね。正直、何か教わった記憶もない…。

学校の頃の私の思い出はもうこのへんにして、本題に移りましょう。ピックアップするのは「フィンセント・ファン・ゴッホ」。おそらく最も有名な画家ではないでしょうか。

私が学校で絵を無邪気に描いているのとは違って、ゴッホ(正式にはファン・ゴッホが姓ですけど、この記事ではゴッホと表記します)のような画家はそれを職業にしているだけあって、ただの自己満足というわけにもいきません。ときに批評される対象となり、評価されなければ惨めな扱いに終わります。

ゴッホはその才能が評価されるのが非常に遅かった芸術家としても有名です。晩年になってようやく評論で認められ、死後に彼の作品の価値が急騰しました。現在では作品の中には120億円以上で落札された絵もあり、もはや桁外れすぎて庶民の私には理解のレベルを超えています。

でもふと考えてみれば、ゴッホ本人はそれをどう思っているのか…。なにせゴッホは仕事も上手くいかず、それで始めた絵も評価されず、弟に資金援助してもらいながら貧しく生活していた人間です。今の社会でもこんな人間は「社会人として落第者」とみなされるでしょう。ところが自分の死後に世間は手のひら返しで自らの絵を勝手気ままに数十億円規模で取引しているんですよ。私だったらあの世から現世に絵の具をぶちまけて嫌がらせしてやりたい気分になります。

彼の絵だけではありません。そんなゴッホ自体を描く映画もたくさん作られました。ヴィンセント・ミネリ監督の『炎の人ゴッホ』(1955年)、ロバート・アルトマン監督の『ゴッホ』(1990年)、モーリス・ピアラ監督の『ヴァン・ゴッホ』(1991年)…。そして最近となる2017年は『ゴッホ 最期の手紙』という、ゴッホの油絵タッチで全編が描かれた異色のアニメーション映画も業界を騒がせました。

さらになんと2018年、2年連続でゴッホの映画が誕生しました。それが本作『永遠の門 ゴッホの見た未来』です。

実写映画であり、“また?”という感じですが、本作はオリジナリティがしっかりあります。主観視点に限りなく近い、ゴッホの心に寄り添った伝記映画なのです。伝記といっても、ゴッホの人生に何が起こったのかという歴史を正確に映像化しているわけではないので、これを見れば史実が理解できるかというと、そうでもないです。むしろ主観的なので余計にわからないかもしれません。でもそこが本作の意図するところ。

監督は個性的なセンスが映画界で異彩を放つ“ジュリアン・シュナーベル”。彼は自身も画家で、長編監督デビュー作の『バスキア』(1996年)でジャン・ミッシェル・バスキアという画家の伝記作品を手がけ、続く『夜になるまえに』(2000年)では作家・詩人のレイナルド・アレナスを題材にしています。つまり、創作に身を捧げた者への敬意を映画に込めていることが多いです。そういう意味では、『永遠の門 ゴッホの見た未来』は“ジュリアン・シュナーベル”監督の最良を引き出せる作品ですね。今回も作家性が強烈に滲み出ています。

主演でゴッホを演じるのは名俳優“ウィレム・デフォー”です。素晴らしい役者なのになかなか賞がもらえない俳優でもありますが、本作にて、ヴェネツィア国際映画祭で男優賞を受賞、アカデミー賞で主演男優賞にノミネート、ゴールデングローブ賞で主演男優賞(ドラマ部門)にノミネート。う~ん、もっと評価されてほしい…。

他には『スターリンの葬送狂騒曲』でスターリンを演じた“ルパート・フレンド”がゴッホの弟テオドルスを演じ、ゴッホに影響を与えた画家ポール・ゴーギャンを“オスカー・アイザック”が演じています。この二人が主要な共演者。あとは“マッツ・ミケルセン”も出ていますが、出番はかなり少なめ。

アートに興味のある人、創作に身を投じている人…そんな立場の人ならゴッホと自分を重ねられる映画になっているかもしれません。

オススメ度のチェック

ひとり ◯(美術ファンは必見)
友人 ◯(芸術好き同士で)
恋人 △(恋愛気分ではない)
キッズ △(大人向けのシリアスさ)
↓ここからネタバレが含まれます↓

『永遠の門 ゴッホの見た未来』感想(ネタバレあり)

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現実と絵の狭間で彷徨う画家

パリ。フィンセント・ファン・ゴッホは絵を描いていました。しかし、ちっとも評価されません。他の仲間の画家たちと「小並木通り(プティ・ブールヴァール)」という呼び名で芸術についてあれこれ語り合ってはいますが、ゴッホはかなり浮いています。そもそも生活が困窮しすぎているゆえに、風貌からして全然違うのですが。

そこへポール・ゴーギャンが現れて、交流をするようになります。ゴーギャンも画家として生計を立てるのに苦労し、貧しかったはずですが、なんでしょうか、立ち回りが上手いんですかね。あちこちを旅し、知見を深めたゴーギャンの語る芸術論も佇まいもなんだか自信があります。

1888年、ゴッホは南フランスのアルルを拠点に活動するようになります。アルルは地中海に近い広大な土地で、歴史的には港となるので非常に重大な影響力のある場所でした。しかし、その役目はしだいに低下し、このゴッホが訪れる時代にはすっかり何もない田舎に…。今のアルルはゴッホの街として有名です。当初はゴッホを疎ましいと考えていた住人も少なくなかったのに、現在はゴッホの名で観光化しているなんて、ここにも手のひら返しが…。

ゴッホの生活は相変わらずの貧しさ。家に帰れば殺風景な部屋。寒そうに震えて手を息で温め、窓からの隙間風を止めます。おもむろに靴を脱ぎ、靴下には穴があいていますが気にせず、靴の絵を描き始めるゴッホ。彼にできるのは描くことだけ。

一方、部屋を出てアルルの外を歩くとそこは開放的な世界が広がっていました。どこまでも続く田園風景。麦わら帽子でその世界を歩き回り、横に寝っ転がり、土を肌で感じ…。キャンパスを広げて、自分の感じた全てを描きます。

ある日、野外で自由にスケッチをしていると女性と子どもたちの集団が通りかかります。「絵を描いている人がいる!」と無邪気に寄ってくる子どもたち。「根の絵を描いているの?」「根だけ?」次々質問が飛び出し、困惑するゴッホ。ちなみに『永遠の門 ゴッホの見た未来』は基本は英語で進行しますが、こういうなんてことはない住民との会話シーンだけはフランス語になるんですね。

空気を読めない子どもに邪魔されて怒るゴッホ。逃げ去る子どもたちと、変人扱いする女性。まったく…私だったら子どもに絵の具を飲ませてやりますよ…(ダメです)。ところがそれで終わらず、夜の街を歩いていたゴッホは子どもから石を投げられ、怒ってその子を追いかけ捕まえますが逆に大人たちにボコボコにされます。

病室のベッドで目覚めるゴッホ。絵を理解してくれないばかりか、暴力まで振るわれ、孤独感を深めるしかない彼の理解者は、弟のテオドルス(テオ)だけでした。

そしてついにあのゴーギャンもアルルにやってきて共同生活を開始。おっさん二人で田園を歩き、並んで立ちションをする…何とも言えないまったり感。しかし、創作となるとライバルでもあります。部屋でゴーギャンが婦人の絵を描いているところに出くわしたゴッホが、それまでも見たことがない俊敏さで自分もキャンパスを用意し、その婦人の絵を描きだすシーンは、なんかユーモラス。

でもこの二人は根本的には別の世界の人間だったのでしょうか。ゴッホとゴーギャンはしだいにすれ違っていきます。

再び独りになったゴッホ。自分は何のために絵を描くのか。生まれていない人々のための画家なのか。ゴッホの目には絵になる風景のその先の未来が見えていたのでしょうか…。

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ゴッホ体験コーナー

これまでゴッホを題材にしてきた映画はすでに列挙しましたが、『炎の人ゴッホ』に代表される狂気のアーティストという一種のステレオタイプな芸術家イメージで固定化されてしまったのを払拭するかのように、以後、作品が作られるたびに人間的に描かれるようになってきたと思います。

その最たる到達点が『ゴッホ 最期の手紙』と本作『永遠の門 ゴッホの見た未来』ではないかな、と。
『ゴッホ 最期の手紙』はゴッホという人間の人生を彼の絵として表現してしまうという、究極の客観性が全力投入された一作です。結果、ゴッホ自体が絵として作品化してしまいました。

一方、『永遠の門 ゴッホの見た未来』は真逆。ゴッホという人間の人生に徹底的に寄り添い、なんだったら観客がゴッホになれるかのような疑似的な投影を提供する、究極の主観性で作られています。

そのため、本作は映像的な特徴が非常に目立ちます。カメラがゴッホにやたらと近いんですね。まるでFPSゲームみたいな主観視点に似ています。誰かと会話するときも、二人を同じ画面内にとらえることはあまり続けず、相手の真正面顔が映し出されることが頻出します。本当に会話している気分です。

ゴッホ自身の顔の接写も多く、パーソナルスペースがゼロの状態にカメラがあるかのようです。そしてその主観視点と接写のまま、田園を探索するゴッホがただひたすらに映ります。

しかも、自然音がなくなり、BGMが強調され、その世界を映し出す映像がまるでゴッホの描く絵のような、黄色や赤みが浮き出るコントラストになっていく。さらにピントも部分部分で異なる。まさにゴッホの知覚している光景を見せてくれる映画です。なんでもレンズの上と下で被写界深度が違っている遠近両用メガネをアイディアにした、スプリット・ディオプターというアイテムを使って撮影したらしいです。

あまりにもゴッホに寄りすぎているので、実際の見たまんまの風景なのか、心象風景なのか、その区別が怪しくなるような感覚にも陥ります。手持ちカメラでめちゃくちゃ揺れる映像は若干酔いやすいですけどね。
“ジュリアン・シュナーベル”監督は過去に『潜水服は蝶の夢を見る』という、極めて特殊な視点の映画を生み出したこともありました。この作品は、重度の麻痺で体も動かせず、言葉も出せない人間が、まばたきだけで生きている姿を、主観的に描いたものでした。もちろん本当にあんなふうに見えているのかはわかりませんけど、その人だけの認知の世界を映像化することに関して抜群の才覚を発揮するのがこの監督です。
『永遠の門 ゴッホの見た未来』はゴッホになってゴッホの気持ちだけでない、創作のインスピレーションの世界を覗き見れる、不思議な追体験映画です。

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史実と違う、最大の脚色

『永遠の門 ゴッホの見た未来』は史実どおりではありません。もっといえば、曖昧な部分も多いので想像に頼らないといけないこともあるのですが。例えば、よく話題にあがる死因。ゴッホの死の真相は、病気説、自殺説とある中、今回は最近話題になった「ティーンエイジャーによるイタズラで誤射的に撃たれてしまった」説を採用しています(『ゴッホ 最期の手紙』も同じ)。

しかし、一番の史実との違いは、ゴッホの年齢でしょう。ゴッホは37歳で亡くなったのですが、作中のゴッホは明らかにもっと年上、というか老人と言っても差し支えない見た目です。演じている“ウィレム・デフォー”は63歳なので、その差は歴然。ちなみに、ゴーギャンは本来、ゴッホよりも5歳年上らしいですが、演じている“オスカー・アイザック”は40歳で、ここはほぼ史実に忠実。なので年齢が逆転しているように見えます。

なんでこんなキャスティングにしたのか。監督いわくゴッホの焦燥感を演出するためみたいですが、確かにゴッホの人生の終わりが迫っている感じは伝わってきます。いや、もしかしたらあの本作のゴッホの見た目は彼の心の姿が表出したものと解釈すればいいのかもしれないです。実年齢はまだ30代でも、心はボロボロでシワシワだった、と。

対してゴーギャンはまだまだエネルギッシュな見た目を保っている。そのため世代ギャップすら感じる、埋められない溝があるかのようです。

全体を通してゴッホはあらゆる意味でこの当時の世界から孤立して“終わり”に向かっていたことを感じさせます。

本作は主観的に物語が進行しますが、2か所だけ明確に主観ではなく、ゴッホを客観的に映すシーンがあります。

ひとつは羊を連れている女性に絵のモデルになるように頼むシーン。これは冒頭と作中で2回登場しますが、2度目の時は女性の視点でゴッホが映ります。そのゴッホはやはりみすぼらしく、不審者扱いされるのも無理はない雰囲気です。ここで女性は嫌がって抵抗するのですが、この一連の場面は、芸術の名のもとに人間が対象化されることの無自覚な暴力性を描いているとも受け取れますし、作り手の理解には至らない齟齬を描いているとも考えられます。

もうひとつは、ラスト。死んだゴッホが棺に横たわり、その周りを彼の作品で囲んでいるシーン。ここではゴッホ自身には目もくれず、絵の品評をしている人たちが映ります。これはまさに現在のゴッホの絵ばかりに大金をかけて群がる者たちを風刺しているともとれます。

『永遠の門 ゴッホの見た未来』はゴッホをただの人間に戻し、彼の絵は彼が描いたものなのだという不変の真実を突きつけました。映画もそうですが、作品ばかりに注目するのではなく、作り手のことをもっと考えてもいいのかもしれない…そんな気持ちを私も強めた一作でした。

『永遠の門 ゴッホの見た未来』
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 80% Audience 62%
IMDb
6.9 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 7/10 ★★★★★★★

作品ポスター・画像 (C)Walk Home Productions LLC 2018

以上、『永遠の門 ゴッホの見た未来』の感想でした。

At Eternity’s Gate (2018) [Japanese Review] 『永遠の門 ゴッホの見た未来』考察・評価レビュー