石川慶監督とケン・リュウの施術コラボレーション…映画『Arc アーク』の感想です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:日本(2021年)
日本公開日:2021年6月25日
監督:石川慶
恋愛描写
Arc アーク
あーく
『Arc アーク』あらすじ
『Arc アーク』感想(ネタバレなし)
ケン・リュウと石川慶が繋がって
人間には倫理観というものがあり、これが社会を築くうえでの絶対不動の柱となります。その倫理を厳守することで「何が良くて、何が悪いのか」を判断し、社会を健全に保とうとするのです。もちろんこの倫理が絶対に正しいとは限りません。ときには修正することも必要でしょう。でもそうやって少しずつ変更を加えながらもやはり倫理は人類の繁栄に欠かせないものであり続けます。
その倫理観に絶大な影響を与えているのが死生観です。「生」があれば「死」もある。私たちは「生」の世界を主な舞台として設定しているので、「死」に対する忌避や恐怖が生まれ、「生」の世界をより一層豊かにしようと努力します。
でもその「死」が無くなったとしたら? 人間はいずれ死ぬ…という基本的な絶対に揺るがないと思っていた軸さえも消え失せてしまったら?
そんなことがあるわけないという考えはとりあえず置いておいて、もしそうなったと仮定したら、人間の倫理観はどうなってしまうのでしょうか。きっと人間社会はかつてないほどに激震することになるでしょう。
今回紹介する映画はそんな「死」の概念が希薄になってしまった架空の世界を静かに描くSF作品です。
それが本作『Arc アーク』。
「死」が無くなると言っても『Arc アーク』はもう少し現実的な方向性でその世界を描いています。そもそも今の人類は「死」を遠ざけることに成功していて、その方法が医療の発達による寿命の延長です。自然界の動物と比べて私たち人間は寿命が格段に延びました。『Arc アーク』はその延命がさらに発展し、「老化しない」、つまり「不老不死」が実現した…という世界観設定になっています。
この『Arc アーク』は原作が何よりも特筆できて、原作は中国系アメリカ人の“ケン・リュウ”が手がけた短編「 円弧(アーク)」なのです。“ケン・リュウ”と言えば、SF界隈では超有名な人物で、2012年に短編作品「紙の動物園」でネビュラ賞とヒューゴー賞と世界幻想文学大賞の短編部門で受賞し、一気に注目を集めます。その自身の創作だけでなく、語学を活かして中国のSF小説の英訳者としても積極的に仕事をこなし、あの“劉慈欣”の長編SF「三体」を英訳し、中国SFをワールドクラスに引き上げた立役者でもあります。
その“ケン・リュウ”の短編「 円弧(アーク)」を長編映画化するのはとても難しいことだと思うのですが、その挑戦を見事にこなしてみせたのが“石川慶”監督でした。
2017年の『愚行録』で長編映画デビューしたばかりでキャリアは浅いと思っていたら、2019年の『蜜蜂と遠雷』で多くの国内の映画賞で受賞やノミネートを達成し、なんかもう突然降って湧いたかのような異才の登場に理解が追いつかない感じ。
“石川慶”監督は明らかにこの同調圧力強めな日本映画界において異質な存在であり、よくこんな業界から“石川慶”監督みたいな尖ったクリエイターが出現したなといまだになぜこんなことが起きたのか私はよくわかってないのですけど…。
その“石川慶”監督の長編3作目となる『Arc アーク』もやはり“石川慶”監督にしかできない作品だなと強く実感させられます。思いっきりアート型のSFで、一般受けは正直しないでしょうし、地味です。日本の配給は馬鹿の一つ覚えみたいに「エンターテインメント!」って煽るだけなのですが、いわゆる一般の観客が連想するエンタメとは違います。ド派手なCG映像のオンパレードなんてないし、近未来と言ってもあくまで普通の日本の風景です。でもそこがいいんですけどね。
本作は“ケン・リュウ”も製作総指揮に入っているとのことで、本当に本格的な映像化です。
この難題な作品に向き合う俳優も大変だったと思いますが、その期待にこちらも才能で答えていました。主人公を演じるのは『累 -かさね-』『居眠り磐音』『記憶屋 あなたを忘れない』の“芳根京子”。もうひとりのキーパーソンを演じるのが『オー・ルーシー!』の“寺島しのぶ”。さらに『ドライブ・マイ・カー』でも絶妙な役回りで名演を見せた“岡田将生”、『宇宙でいちばんあかるい屋根』の“清水くるみ”、『ねことじいちゃん』『花束みたいな恋をした』の“小林薫”など。
気難しそうな雰囲気を漂わす映画ですけど、硬派なSFが好きなら楽しめるのではないでしょうか。
オススメ度のチェック
ひとり | :硬派なSFが好きな人は |
友人 | :SF語りができる友達と |
恋人 | :ロマンス要素は薄め |
キッズ | :子どもにはわかりづらい |
『Arc アーク』感想(ネタバレあり)
あらすじ(前半):もはや死は不要です
17歳のリナは目を覚まします。隣には新生児が横で泣き声をあげています。外に出たリナは小さな灯台がある砂浜に立ち、空に手を伸ばし…。
19歳になったリナは、夜の街の小さな世界でダンスをしてなんとか生きながらえていました。しかし、この世界は冷たいです。ダンサーたちがパフォーマンスを披露した後、次はリナの番ですが、意地悪なダンサーのひとりに紐を踏まれてよろめきます。
リナはパフォーマンスをせずに観客の中へ進み、ひとりの飲み物を勝手に飲み、コップを割り、踊りだします。客を突き飛ばししつつ、ダイナミックに踊り、感情を爆発させるようにダンスで表現。そしてそのままその建物を出て、夜の路地に座り込みます。
するとそこに1台の車。降りてきたのはさっきの建物の上階の特等席から眺めていた女性です。
「なに」「あなたの若さに価値がある。興味があったらここに来なさい」
そう言って名刺を渡してきました。エマというのがその女性の名で、企業の偉い人らしいです。
やることもないのでリナはその女の会社へ足を運びます。社内では人間が不思議な姿で鎮座しており、これは芸術品なのだろうかと触ってみると…。
「全部本物。骨も内臓もちゃんと入ってる。死んだときのまま永遠に止まっているだけ」
エマがやってきて加南子という社員に指示をして施術をみせてくれます。遺体のボディにボルトを埋め込み、血を抜いていき、防腐処理を施す。「プラスティネーション」というらしいです。
「その人の人生の痕跡がボディには残っているから」
そう言ってエマは自らが独特の動きで紐を引っ張り、ボディにポーズを付けます。
「エマは天才。エマにしかできない特別な儀式ね」「もし本気でやるつもりなら明日また来なさい」
リナは次の日も向かい、ここで働くことに。「言葉じゃなくて行動で示す。それがここのルール」
こうして手伝いながら施術の方法を学ぶリナ。ボディを洗う作業では、リナは手袋をとり、素手で触ってしまいますが、加南子に「素手で触らないで!」と怒られます。
リナは独自のセンスで感覚を掴んでいき、エマの動作を身につけていきます。
エマは「死体なんてただのモノよ」「人はなぜプラスティネーションを望むと思う?」「抵抗。死への抵抗」「死体を徹底してモノと捉えることで悲しみや恐怖から解放される」とその意味を語ります。
エマは最愛の女性を失ってから、この施術に打ち込むようになったようです。
ある日、ひとりの少年がリナが作った手を見ていました。「この手はすごく雄弁ですね。この作者には才能があります」とその少年は妙に知った口調で静かに批評。「僕はいずれこれとは違う方法で死を克服しようと思っています」「生きながらにして時間を止めたいと思っているんです」
そう言い放ち、去っていたその少年はエマの弟の黒田天音。この会社もこの天音が引き継ぐことになるのだとか。
そして天音は会社の経営だけでなく、世界を揺るがすとんでもない革新をもたらしていき、それがリナの人生を大きく変えることに…。
死は完全に消失したわけではないからこそ
「死」が無くなる…『Arc アーク』では「死を克服する」と言っていましたが、その方法はいくらでも考えられます。
現実的に今実行されているのはコールドスリープで、鮮度の高い死体をそのまま冷凍保存して、医療技術が発展した未来に何らかの処置で復活するというもの。生き返る保証はありませんが、まあ、現状で最も不死に近い行為です。後はトランスヒューマニズムのように人体をサイボーグ化したり、データ化して、生物学的な肉体を捨てるというのも選択肢になってくるのかもしれません。
少し変化球なものだと、『ザ・ディスカバリー』みたいに「死後」の世界が解明されて「死」そのものが怖いものではなくなってしまう…ということになれば、それはそれで死を克服したも同然ですね。
この『Arc アーク』では2種類の方法が提示されます。
ひとつはエマが進める「プラスティネーション」。これは死体をリアルなままに保存する技術で、現在時点で似たような方法はあります。不死というよりはお墓と同じ、遺族にとっての慰めになる対処という感じです。
ただ、本作ではそのプラスティネーション最終段階でポーズ付けをするという作業があり、それがやたらとアクロバティックな荒業で大胆に行われるという映画ならではの見せ場があります。このへんはポーランドで芸術を学んだ“石川慶”監督らしいというか、コンテンポラリーダンス的な要素で上書きすることで、ひとつの芸術品みたいになっていました。
2つ目が天音の編み出したテロメア初期化細胞を人体に流し込んで老化しない体にするという「ストップエイジング」。リナはその最初の不老不死の人間となり、記者会見では「不死を得た人類は生きる意味を見出せるのでしょうか」という質問に「それはこれまでの人類にとって…と訂正されるでしょう。不死を否定するプロパガンダです。これからは私の生き方でそれを証明していきます」と言ってのけます。
この2種類の不死への探求の方法がある意味では反発し合う中で、人は死というものとより一層向き合わないといけなくなります。別に死なないわけではありません。致命傷を受ければ死ぬでしょうし、殺人で命を落とすかもしれない(自殺が増加したと作中ではニュースが流れる)。死が一切消えたわけではないですが、それでも死が身近ではなくなりました。
この死が全く消失したわけでもなく、微妙に選択の自由が残されている状況こそが、『Arc アーク』の曖昧の物語のバランス感覚を保持しているようにも思います。
135年かかって克服したのは…
『Arc アーク』は不老不死の実現で社会がパニックになっていく姿をスケールたっぷりに描くわけではありません。一応は少しだけ描かれています。不老不死の反対デモとか、あのいかにも日本っぽい情けない空気の記者会見とか。それでもそこがメインではない。作品のスタンスとしてそんな社会派サスペンスドラマを展開する気はゼロです。
『Arc アーク』で主に描かれているのは人間の倫理的な葛藤でした。
これも“石川慶”監督らしさなのか『蜜蜂と遠雷』でも特定の才能を持つ人しか到達できない領域を映像化していましたが、『Arc アーク』でも同じ。技術によってもたらされてしまった世界の変化と、人間ひとりの知識や思考が乖離してしまい、どうやったらついていけるのか、そこにオロオロとしてしまう。
作中でプラスティネーションを依頼する人の面談の様子が映されるのですが、その会話の生々しさ。そこには三者三様の「死」への向き合い方があり、それぞれが必死に自分を納得させています。
リナは才能保有者としてその新たな死生観の時代を先導しているような余裕を見せていましたが、実際はやっぱりひとりの人間。ましてや彼女は17歳で幼子を見捨ててしまい、その後悔に囚われています。誰よりも自分自身が「死」を処理しきれていない…。
また『Arc アーク』はジェンダー視点も滲み出ているなと感じました。とくに天音はリナに結婚を申し込むのですがそこでかなりベタな家族主義の恋愛伴侶規範がリナを包み込むわけです。それに対して「それでいいの?」と投げかけるのが女性同士のパートナーシップを持っていたエマであるというのも意図的な対置なのでしょうし…。けれどもそんな世間では社会の基盤みたいな顔をしている家族主義も脆いもので、天音は不老不死処置をしてもこの世を去る。
89歳のリナとなってからの白黒世界では「天音の庭」という島が舞台になり、未来要素皆無のようなのどかな日本の地方風景が広がり、時代が逆行しているかのごとく錯覚を受けるのも印象的です。
ラストは利仁という高齢となった息子との和解を経験し、135歳となったリナは死を選ぶことに決め、3世代の女性がそこに揃う。「死が生に意味を与えるなんて昔の人が作ったでっちあげだよ」なんてケロっと口にする若いハルにはわからない、闘ってきた女性たちの苦悩の継承。不老不死の実現はたぶん社会におけるジェンダーの格差にも影響を与えるでしょうしね。
ここでリナを演じるのが“倍賞千恵子”というのは最後の最後でズルい隠し玉でしたね…。でも砂浜で手を伸ばすオープニングと対になるパワフルなラストシーンで完全に映画を閉めていくあの演技力。やはりタダモノではなかった…。135年かかって克服した何かがきっとそこにはあったんだろうな…。
私は不老化は望まないけど、不労(不労所得)化はしたい…。永遠に生きられるけど永遠に働くことにもなるなら最悪じゃないですか…。
ROTTEN TOMATOES
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IMDb
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シネマンドレイクの個人的評価
作品ポスター・画像 (C)2021映画「Arc」製作委員会
以上、『Arc アーク』の感想でした。
Arc (2021) [Japanese Review] 『Arc アーク』考察・評価レビュー