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アセクシュアル(アセクシャル)やアロマンティックを作品で描くときの注意点とは?【もっと考えてみる編】

アセクシュアル・アロマンティックを作品で描くときの注意点2 もっと考えてみる

“基礎”の次は“もっと考えてみる”

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Ace/Aroの表象の注意点 vol.2

以前、主にクリエイター向けとして「アセクシュアル・アロマンティックを作品で描くときの注意点」を私なりに整理する記事を公開しました。まだ読んでいない人はまずはそちらに目を通してみてください。

ただ、そちらの整理記事はあくまでアセクシュアル・アロマンティックの表象で起きがちな偏見や誤解についてざっくりと説明しているだけでした。「基礎編」という感じです。

そこで今度は「“もっと考えてみる”編」ということで、アセクシュアル・アロマンティックの表象はどうしたら良いものになるのか、起きうる複雑な問題とはどんなものなのか…さらに踏み込んで整理していこうと思います。

私も色々なアセクシュアル・アロマンティックを描いた作品を見ながら、自分なりにあれこれと悩んで思案している最中であり、その思考整理も兼ねています。なので「基礎編」よりも、まとまりのない文章になっていますが、ご了承ください。

もちろん今回もここに書いている内容はガイドラインなどではありません。強制はできませんが、それでもより良い作品になればと思って公開しています。あくまで参考にどうぞ。

①トラウマ的な描写について

アセクシュアル・アロマンティックのキャラクターを描くとき、最もありがちなのは、差別や偏見に直面する姿を描写するということです。例えば、家族に「どうして恋人を作らないの?」と急かされる、友人や同僚に「どんなタイプの人を恋人にしたいか」を聞かれる、性的なアプローチを受ける…などなど。

これらは、いわゆる「Aphobia」(アセクシュアルの場合はAcephobia、アロマンティックの場合はArophobia)と呼ばれるAスペクトラムに対する典型的な偏見や誤解などに関する描写です。

確かにそういう描写こそ、アセクシュアル・アロマンティックの“リアル”なのは間違いないでしょう。実際に当事者はそういう経験をしています。

ただ、これらの表象は当事者にとって必ずしも歓迎されないこともあります。なぜならこういう描写は当事者のトラウマを刺激し、フラッシュバックなど負の影響を与えることもあるからです。

当事者の中にもこうした描写への耐性については“差異”があることをじゅうぶんに想定しましょう。これらの描写を「そうそう、こんな差別を受けるんだよね~」とわりとすんなり受容できる当事者もいます。一方で、フィクションとは言え、そんな描写を目にするだけでツライとか、中には動悸や精神的な不安定さの引き金になってしまう当事者もいるのです。

つまり、皮肉なことに、アセクシュアル・アロマンティックを描いた作品なのに、当事者には最も見たくない作品になってしまう…ということです。

とりわけさらに最悪なのが、これらの当事者にとってはトラウマ的な描写が、当事者ではないマジョリティの鑑賞者や読者にとってどう受け止められるかわからないということです。もしかしたらその描写を“笑う”人もいるかもしれません。そうなれば、当事者にとっては二重に苦しい目に遭うでしょう。創作物は解説書ではないので解釈を投げっぱなしにすることが多々あります。トラウマ的な描写に責任を持ってくれないのは時には危ういです。

トラウマ描写に対するいろいろな反応を表す図

当事者でも反応は違う

だからと言って、差別や偏見に直面する姿を一切描写するなと言いたいわけではありません。また、トラウマ描写のある作品でも楽しめるアセクシュアル・アロマンティックの当事者に問題があると言いたいわけでも当然ありません。

これは創作の際に最大限に注意や配慮が要るのでは?という話です。場合によっては、トラウマ的な描写を直接的に描かずに、アセクシュアル・アロマンティックの苦悩を投影するような演出の工夫も求められるかもしれません。それこそ創作者の腕の見せ所です。

②当事者の取材について

アセクシュアル・アロマンティックを描いた作品を作ろうと思ったとき、当事者に話を聞くなど取材をしようということで、事前に準備に取り組む人もいると思います。

「基礎編」でも書きましたが、それは基本的には良いことだと思います。あてずっぽうで思い込みだけで描こうとするよりはマシです。今はネットでも簡単に当事者を探してコンタクトできます。

しかし、この一見すると良いことに思える「当事者への取材」にも注意点があります。それは「バイアス」が生じるということです。

取材を受けるとたいていは定番の質問があります。そしてその答えも似たり寄ったりになることが多いです。本当は当事者が100人いれば100通りの在り方があるのですが、取材ではなかなかその多様さが見えてきません。主導権は常に取材する側にあり、取材者のバイアスが影響しやすいのです。

また、取材対象にも偏りが生じるかもしれません。一般的に「取材を受けることに親和的な当事者」と「取材を受けることに拒絶的な当事者」がいます。それこそ前者の当事者はトラウマ的な描写への耐性が高く、後者は低い…なんてこともあるかもです(取材を受けることに拒絶的な当事者は、トラウマ経験のせいで他者と会ったり、経験を話したりするのをそもそも嫌がるという事情もありうる)。

リサーチは良いのですが、当事者のヒアリングは極めてバイアスが生じやすいことに無頓着だと、不幸話や苦悩話などがピックアップされ、結果、作品ではアンニュイなキャラクター像にいきつき、アセクシュアル・アロマンティックのキャラは物憂げでいつも悩んでいて人間関係にも暗さが漂う…みたいになったり…。

そして、これも何よりも重要なのですが、当事者はアセクシュアル・アロマンティックであっても「アセクシュアル・アロマンティックの専門家」ではありません。なのでアセクシュアル・アロマンティックについて誤解や偏見を持っていることさえあります。

こうした理由で、当事者に取材するのもいいのですが、それで安易にリアリティを確保できた(お墨付きをもらった)と考えるのではなく、理想的には「アセクシュアル・アロマンティックの専門家」に取材してその知見を軸に作品を創作することが推奨されます。もっと言えば、後述するインターセクショナリティの関連も含めると、「アセクシュアル・アロマンティックの専門家かつレプリゼンテーションに精通した人」を考証やアドバイザーに加えるのが望ましいでしょう。できれば脚本などより密接に関与しているとなおいいですが…。

ただ、こうした「アセクシュアル・アロマンティックの専門家かつレプリゼンテーションに精通した人」はそうそう今の日本にはおらず、適切に雇用する体制も弱いので、なかなか難しいことではありますが…。

③ディザビリティ的な扱いについて

アセクシュアル・アロマンティックは性的指向や恋愛的指向であり、そういう意味では同性愛や両性愛と同じセクシュアル・マイノリティに属します。

しかし、アセクシュアル・アロマンティックを取り巻く社会における差別構造は、同性愛や両性愛とはまたかなり位置の異なるものであったりします。

よく言われるのが、アセクシュアル・アロマンティックは「ディザビリティ」と重なりやすいということです。ディザビリティというのは、いわゆる「障がい者」や「病気」のこと。つまり、健康(健常)の人が前提として設定され、それに当てはまらない人のことです。

例えば、目が見えない人、耳が聞こえない人、足が動かせない人…。

これと同様にアセクシュアル・アロマンティックは「恋愛ができない人」「性行為ができない人」と扱われてしまうわけです。

表象でそのように扱われるということは、マジョリティな観客には良くてもこんな印象を与えるでしょう。

「いろいろな人がいるよね(可哀想に…)」

結局、ディザビリティに向けられる視線は「同情」です。可哀想な人たちという扱いです。

こうなってくると、アセクシュアル・アロマンティックのキャラクターはひたすらに社会に馴染めず苦しんでいる可哀想な人として創作物内で描写されてしまいます。「恋愛をする人」の対極にいる浮世絵離れした異色の価値観を持った人物として描かれるかもしれません。

でもそれらはマジョリティな視線に基づくもので、アセクシュアル・アロマンティックは「できない人」と固定する必要は全くありません(当事者の中にはこの浮世絵離れした異色の価値観を持った人物として、自分で自分を捉えて満足している人もいたりするのでややこしいのですが…)。

例えば、ろう者の人たちは、音を主体とする世界とは異なる世界を捉えてそこで当たり前に生きているように、アセクシュアル・アロマンティックの人たちも恋愛に依存せずに他の楽しみを見つけて生きていける人間です。その可能性をいくらでも秘めています。

アセクシュアル・アロマンティックのキャラクターに対して、ディザビリティ的な「できない人」という目線を向けてそれで終わっていないか、考えてみましょう。

④恋愛伴侶規範や性愛至上主義に苦しんできた人たちとの関係について

アセクシュアル・アロマンティックの当事者たちは、恋愛して伴侶を持つのは良いことであるという「恋愛伴侶規範」や、性的な関係に至るのは自然なことであるという「性愛至上主義」に対して、嫌な思いをしてきています。

一方で、アセクシュアル・アロマンティックの当事者でなくとも、こうした恋愛伴侶規範や性愛至上主義に嫌な思いをしてきた人は大勢います。とくにこれらの概念は大半は家父長的な社会に根付いており、多くの人に影響を与えています。

なので、「アセクシュアル・アロマンティックの当事者」と「当事者ではないけど、恋愛伴侶規範や性愛至上主義に嫌な思いをしてきたその他の人」は、ある部分では同じ嫌な思いを共有しています。これらの両者は連帯できることだと思いますし、私もそれは大切だと思います。

しかしながら、アセクシュアル・アロマンティックの表象において、この両者の関係はやや注意がいるかもしれません。

というのも、これらの事情から、一部のアセクシュアル・アロマンティックを描く作品は、「当事者ではないけど、恋愛伴侶規範や性愛至上主義に嫌な思いをしてきたその他の人」から共感を得やすいです。

ただ、その「当事者ではないけど、恋愛伴侶規範や性愛至上主義に嫌な思いをしてきたその他の人」からの共感ばかりが目立ちすぎて、肝心の「アセクシュアル・アロマンティックの当事者」の居場所は無くなってしまうこともありうるからです。

「アセクシュアル・アロマンティックの当事者」と「当事者ではないけど、恋愛伴侶規範や性愛至上主義に嫌な思いをしてきたその他の人」は、共通する部分はありますが、やはり根本では違います。後者は恋愛伴侶規範や性愛至上主義を打破できればそれでいいかもですが、前者はそれ以外にもたくさんの差別を背負わされているのですから。

アセクシュアル・アロマンティックの作品を扱う際は(それが宣伝の場であれ、批評の場であれ)、「当事者ではないけど、恋愛伴侶規範や性愛至上主義に嫌な思いをしてきたその他の人」の存在ばかりが占拠し、「アセクシュアル・アロマンティックの当事者」の居心地がおざなりになっていないか、もしくは安易に混同されてしまっていないか、しっかり考える必要があるでしょう。

もちろん「恋愛伴侶規範や性愛至上主義に嫌な思いをしてきた人」の作品を作るのも大事ですけどね。

恋愛伴侶規範や性愛至上主義に嫌な思いをしてきた人々とアセクシュアル・アロマンティックの人々は部分的に重なることを示す図

同じようで同じではない

また、これに関連してアセクシュアル・アロマンティックというものを、業界では定番だった「恋愛をする物語」の定石を壊す脚本上の便利なキャラクターとして消費していないかも考えないといけないのではないでしょうか。アセクシュアル・アロマンティックを取り上げる際、「恋愛しない物語、作りました!」みたいに仰々しくその対抗馬のように祀られるのは、本当に当事者のためになるのか、熟慮しないといけないケースも案外と多いのだろうと感じます。

⑤スペクトラムについて

アセクシュアル・アロマンティックを描いた作品のいくつかを見ていると、「恋愛をする人(マジョリティな人)」「恋愛をしない人(アセクシュアル・アロマンティックの人)」という、非常に両極端な分かれ方をしていることがよく目につきます。

アセクシュアル・アロマンティックを描くなら、そうした方がわかりやすいという判断なのかもしれません。

ただ、これはこれで相当に違和感のある描き方になりえます。なぜならアセクシュアル・アロマンティックにもスペクトラムがあって、いろいろな人がいるからです。

例えば、他者に滅多に性的に惹かれないかごくわずかな性的魅力しか感じない「グレーセクシュアル」、強い感情的な絆ができた相手に対してのみ性的に惹かれる「デミセクシュアル」…他にもたくさん。

決して「恋愛するか、しないか」「性行為をするか、しないか」の二択ではないです。

当然、アセクシュアルでかつレズビアンの人とか、そういう当事者もいます。当事者でも、パートナーを持ちたいか、子どもが欲しいか、恋愛作品を好むか、性嫌悪があるか…千差万別です。

アセクシュアル・アロマンティックの当事者ではない人にだってスペクトラムはあって、いろんな人がいます。

こうした非常に両極端な描かれ方は、変に対立している構図ばかりを強調するだけで、不可視化される他の当事者もいるというマイナス面に気をつけるといいでしょう。

⑥インターセクショナリティについて

アセクシュアル・アロマンティックを描くことばかりに集中しすぎて、他の側面が雑になってしまうと、作品の評価は下がってしまうでしょう。

とくに「インターセクショナリティ」には意識を向ける必要があります。これは「交差性」とも呼ばれ、個人のアイデンティティが複数組み合わさることによって起こる問題を捉えることを指します。

例えば、比較的わかりやすいのはジェンダーです。アセクシュアル・アロマンティックであっても、男性であれば有害な男らしさのトピックが浮上するでしょうし、女性であれば女性差別は無視できません。ノンバイナリーやXジェンダーであれば、男女二元論のバイナリー規範と向き合うことになります。トランスジェンダーの人もあり得ます。

他にも、年齢、国籍、宗教、人種、民族、貧富、障がい、病気…いろいろな交差性が想定されます。それらもしっかり包括しながら描き切ることで、初めてそのアセクシュアル・アロマンティックのキャラクターがリアルに見えてくるのではないでしょうか。

正しい表象はない。でも考えることは大切

全てのアセクシュアル・アロマンティックの当事者が満足するレプリゼンテーション(表象)は存在しません。同じ表象でも「あれは良かった」という当事者もいれば、「あれはダメだった」という当事者もいます。賛否あるのが普通です。そもそも表象なんて興味ないという当事者すらもいます。

絶対に正しい表象はないのです。

ではなぜ表象についてこんなあれこれ書いているのか。

それは「表象をどうすればいいだろうか」と考えることは無駄ではないと思うからです。そのような試行錯誤は現実の社会を築くうえでも応用できますし、大切なことです。

表象にはそんな面白さがありますよね。


もっと情報を知りたいときは私が別で運営しているアセクシュアル・アロマンティックの情報サイト「AセクAロマ部」を参照してみてください。アセクシュアル・アロマンティックのに関する用語や疑問について網羅的にわかりやすく紹介しています。