デイミアン・チャゼルによる20年代ハリウッドのマルチバース!…映画『バビロン』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:アメリカ(2022年)
日本公開日:2023年2月10日
監督:デイミアン・チャゼル
セクハラ描写 自死・自傷描写 人種差別描写 性描写 恋愛描写
バビロン
ばびろん
『バビロン』あらすじ
『バビロン』感想(ネタバレなし)
チャゼル監督がまたもやらかしてくれた
「昔のハリウッド映画」と言われて思い浮かべる「昔」はいつなのか。最近はもう1990年代や00年代の映画さえもクラシックのように扱われていて、個人的にはショックを受けたりもするのですが、若い世代にしてみれば90年代の映画も知らないものが多いでしょうから当然ですね。
ではもっと遡って1920年代のハリウッド映画を観たことはありますか?
そもそも映画史の話から入りますが、1890年代に映画の技術が誕生し、1900年代に『月世界旅行』など物語性を持つ映画が生まれ、1910年代に「ハリウッド」と呼ばれる映画産業が形成されていきました。そして黎明期を過ぎ去って最初の黄金時代へ突入したのが1920年代です。
1920年代当初の映画はいわゆる「サイレント」と呼ばれるもので、セリフなど音声は一切なく、登場人物のセリフが部分的に文字でコマ表示されるだけ。もちろん白黒でした。なので今とはかなり映画の見せ方も変わってきます。当時の俳優はセリフを喋る人ではなく、動きを見せる人なのです。
しかし、1920年代後半に映画界に大転換が起こります。「音」のある映画、いわゆる「トーキー」が出現したのです。1927年に世界初のトーキー映画(一部だけですけど)である『ジャズ・シンガー』が公開され、それ以降、ハリウッドはサイレント映画からトーキー映画へと瞬く間に変移していきます。こうして1930年代にはすっかりトーキー映画が主流になって逆転してしまいました。
そういう歴史もあるので1920年代のハリウッドの映画を観るのはなかなかに興味深い経験です。幸いか、すでにこの時代に公開された映画の多くがパブリックドメインになっているので(2023年時点で1927年までの公開映画はパブリックドメインになっている)、合法的に映画本編がネット上で簡単に見れたりします。最近、映画を趣味にし始めた人も、1920年代の映画に触れてみるのはどうですか?
そんな中、今回紹介する映画も見逃せません。まさに1920年代のサイレント映画からトーキー映画へと移り変わっていく時代を舞台に、激変と狂乱に翻弄される業界人たちを映し出す作品です。
それが本作『バビロン』。
とは言え『バビロン』は1920年代のハリウッドをドキュメンタリー的に丁寧に解説するような映画ではありません。むしろその逆。この時代のハリウッドを、豪華絢爛・酒池肉林・破廉恥・混沌…とにかく滅茶苦茶に過剰に映像化しており、ほとんどコメディ映画です。同時に業界の変化に振り回される人々の心情に寄り添ってもおり、なんともエモい、エモすぎる物語でもあり…。
この『バビロン』を監督したのが、あの“デイミアン・チャゼル”。2016年に『ラ・ラ・ランド』を世に送り出し、映画界の注目を集めた若き天才。『ラ・ラ・ランド』は現代のハリウッドを描いていましたが、今回は1920年代のハリウッド。しかし、『ラ・ラ・ランド』も上品そうに見えて、その内実は結構カオスな映画でしたから、この『バビロン』はそれをさらに味付け濃くした作品という感じです。
今回の『バビロン』は批評でも賛否両論真っ二つなのですが、それもそうだろうと思います。ものすごくハリウッドの古参的な保守的レガシーみたいなものを逆撫でしますからね。
“デイミアン・チャゼル”監督ってそういうところありますよね。私の勝手な偏見ですけど、ハリウッドのお偉いさんの顔色も窺わず、こんなもんだろと描き切ってしまう“デイミアン・チャゼル”監督の肝っ玉のデカさ…私は嫌いじゃないです。こういう若さこそ今のハリウッドに必要なんじゃないのかと思います。
その現在のハリウッドに波風を平気で立てていく『バビロン』に花を添える俳優陣は、“ブラッド・ピット”や“マーゴット・ロビー”といった著名俳優が真っ先に紹介されやすいですが、私としては本作の実質の主人公である“ディエゴ・カルバ”や、本作で最もクィアなキャラを演じる“リー・ジュン・リー”とかに注目してほしいです。
あと『ガンズ・アキンボ』の“サマラ・ウィーヴィング”がすごい爆笑ものの登場の仕方をしているのでそこも…。
『バビロン』は鑑賞すれば「これは実話なの? この人物は実際にいるの?」と疑問も噴出するでしょうが、そのあたりの史実との関連は後半の感想で少し整理しています。基本はフィクションですけど、実はちゃんと史実が素材になっていたりする、“デイミアン・チャゼル”監督流の、世界線が別のワールドみたいなもんですよ。
上映時間は3時間超えで長いのですが、映像的な中毒性も高いので、いつの間にかエンディングに到達している体験になるでしょう。1920年代のハリウッドへタイムスリップです。
『バビロン』を観る前のQ&A
オススメ度のチェック
ひとり | :中毒性はある |
友人 | :映画好きの人と |
恋人 | :少し長いので注意 |
キッズ | :性描写も多め |
『バビロン』感想(ネタバレあり)
あらすじ(前半):これがハリウッドだ!
1926年、カリフォルニア州の乾燥した大地。1台のトラックから男が降りてきて、マヌエル(マニー)・トレスはその運転手の男と話しこみます。ゾウを運んでくれと指示。運転手はまさか本当にゾウだとは思っていなかったので驚愕しますが、賄賂を渡して実行させます。
トラックの天井を開けて1頭のゾウを運搬。マニーも前を車で走ってロープで引っ張ります。しかし、ロープは切れてしまい、ゾウを乗せたトラックは坂道を後退。急いで後ろに回り込むも、今度はゾウが盛大に糞を放出し、大惨事。
こうしてなんとかゾウを牽引し、スタジオの重役ドン・ウォラックが屋敷で開催しているパーティの会場に持ち込みます。
ここはハリウッドの業界人が夜な夜な集ってどんちゃん騒ぎをする場。会場は欲望にまみれて混沌としていました。男も女も裸になり、狂喜乱舞し、酒を飲んでも、ドラッグに溺れても、失禁しても気にしません。
ジャズ・ミュージシャンのシドニー・パーマーの軽快な演奏で場を盛り上げる中、マニーはもみくちゃにされながら、会場の外に出て一服。
そのとき、新人女優でパーティに紛れ込もうと画策するネリー・ラロイが銅像に車を突っ込んで到着。中に入れないようなのでマニーが助けてあげます。
一方、ハリウッド随一のベテラン俳優のジャック・コンラッドは妻のイナに激しく詰め寄られ、離婚を迫られていました。しかし、ジャックは全くどこ吹く風で、立ち去った妻をよそに会場で注目を集めながら、ジェンというウェイトレスを口説く余裕を見せます。
ネリーとマニーは2人でコカインの山を前に吸いまくり、ネリーはスターを目指していることを告白し、マニーも饒舌になって映画界で名誉ある足跡を残す野望があると口走ります。
その頃、キャバレー歌手のレディ・フェイ・ジューが会場を魅了し、ジャックはフェイと話します。ゴシップ・コラムニストのエリノア・セント・ジョンはネタはないかと嗅ぎまわっていました。
ネリーとマニーは会場で踊り、妖艶に踊るネリーにマニーは見惚れ、ネリーは一瞬で会場の中でもひときわ輝きを放っていました。
しかし、すぐにマニーに仕事がまた入ります。若い女優のジャエーン・ソーントンがドラッグの過剰摂取で倒れ、病院にひっそり連れていかないといけないというのです。そこで会場にゾウを放ち、阿鼻叫喚となる中、外に連れ出します。
それを終え、このままでは将来はないと実感したマニー。けれどもネリーは映画の撮影現場に行けることになって大喜び。意気揚々と車で去っていき、それを見つめるしかできないマニーでした。
マニーは泥酔して全く動けないジャックを自宅まで車で送ることになります。家についてもジャックはハイテンションでバルコニーからプールに落ちようが気にも留めません。
滅茶苦茶ですがマニーはここが自分の夢の足掛かりになるかもしれないと感じ、明確な意思があるのかないのかもわからないジャックから一緒にどうだと誘われ、目に涙を浮かべます。
これはそんなハリウッドの激動の時代を現場で目撃した人たちの物語…。
『バビロン』は史実なのか? あの人の元ネタは?
『バビロン』を観た人がみんな気になるであろう、これはどこまでが史実なのかという点。キャラクターはほぼ架空の人物ですが、モデルになった実在の人物がたいていは存在します。
サイレント映画界のスターとして君臨しているジャック・コンラッドという男優は、当時に大活躍していた二枚目俳優の“ジョン・ギルバート”がモデルです。何人もの女性と結婚&離婚を繰り返し、“グレタ・ガルボ”と恋愛関係にあったという噂まであり、女性の話題が絶えません。そんな彼もトーキー映画へと業界が変わったことに適応できずに人気は失速。作中ではジャックは拳銃自殺しますが、元になった“ジョン・ギルバート”は1936年1月9日にアルコール中毒による心臓発作で死亡します。
“ジョン・ギルバート”がトーキー映画にでて酷評となったのが1929年の『ハリウッド・レヴィユー』。この映画ではみんなレインコートを着て歌うシーンがあり、『バビロン』でも気まずそうにしているジャックが映し出されます。そしてこれは『バビロン』のラストの『雨に唄えば』へと繋がるという非常に重要な仕掛けになっています。
新人女優でサイレント映画の終わりの時期にスターの階段を駆けあがっていくネリー・ラロイは、1927年に『あれ』で大ヒットして「it girl」と呼ばれてセックスシンボルとなった“クララ・ボウ”。父と母の関係など共通点も多いです。作中で車の運転が荒いのは『つばさ』のオマージュかな。“クララ・ボウ”もトーキー映画の波に乗れずに低迷しますが、史実では1965年まで生きます。
そのネリーの才能を現場で見い出す女性監督のルース・アドラー。彼女のモデルは当時珍しかった女性監督であった“ドロシー・アーズナー”で、1929年に監督した『ワイルド・パーティー』は“クララ・ボウ”の初めてのトーキー映画となりました。ちなみに作中でルースを演じているのは、“デイミアン・チャゼル”監督の妻でもある“オリビア・ハミルトン”です。
『バビロン』にはマイノリティな人種のキャラクターも多数登場します。これもしっかり元ネタがあります。
実質的な主人公であるマニーは、“ルネ・カルドナ”といった当時ハリウッドでプロデューサーとして活躍していたラテン系の業界人からインスピレーションを受けていると思われます。
パーティ会場で魅了するレディ・フェイ・ジューは、当時ハリウッドで話題だった中国系の“アンナ・メイ・ウォン”がモデルです。
トランペットを演奏するシドニー・パーマーは、当時は“ルイ・アームストロング”のようなアフリカ系の成功者もいましたが、おそらくもっとマイナーでロサンゼルスで活躍していた複数の人物を参考にしているのでしょう。
ダイバーシティな人間模様を自然にサクっと描くのが上手いのは“デイミアン・チャゼル”監督作のドラマ『ジ・エディ』でも証明していましたが、慣れたもんです。
ハリウッドは「音」以外にも変わってしまった
『バビロン』は冒頭のパーティからしてデカダンス(退廃的)で、次の撮影現場はもうカオス。目が追いつきません。
この前半には現場での人の死が何度も登場します。例えば、最初のパーティ会場では若手女優が太った男とあれこれしているうちに死亡(たぶん“ヴァージニア・ラッペ”という実在の女優が元ネタ)。次に群衆戦闘シーンの撮影では本当に槍で刺し殺されたエキストラがひとり。続いてネリーのトーキー映画のスタジオ撮影では熱中症で倒れて亡くなる男。
これらは前半ではギャグのように扱われており、実際に前半は非常に荒唐無稽で過剰にコミカルに描かれているのですが(サイレント映画のコメディ的な大袈裟演出になっている)、これは前振りで、観客を油断させておいて後半は一気に反転させてきます。ジャックやネリーの死という末路から暗示されるのは、このエンターテインメントの世界が常に死と隣り合わせだという危険な現実です。楽しければいいでは済まない世界があるということです。
サイレント映画からトーキー映画へと変わる過程を描きつつ、それは単に映画に「音」が加わっただけに思えますが、実際はこのただの「音」が既存の映画人の何人かを致命的に破壊していきます。「音」が凶器になるなんてすごく“デイミアン・チャゼル”監督的な皮肉ですよね。あのネリーのトーキー映画のスタジオ撮影での罵声怒号が飛び交うシーンなんかは『セッション』そのものだし…。
そして音だけじゃない。ハリウッドは別の変化も起きており、それがヘイズコードと呼ばれる検閲規制でした。これは右翼的で保守的なカトリックの人たちが推し進めたもので、ハリウッドの表現の自由が大きく後退します。
淫らな演出もダメになり、同性愛も描けなくなります。『バビロン』ではネリーのバイセクシュアルだったり、フェイのレズビアンだったり(あの2人のガラガラヘビからのキスシーンは本当にアホの極みという感じで最高に面白い)、確実に当時もいたクィアな人たちの業界での居場所は消えるわけです。
ネリーが最悪の体験をするあの嘔吐パーティは、冒頭の多種多様で煩雑なパーティと違って理路整然と上品で、白人主体で、ビジネスありきで成り立っています。あれが次のハリウッドのスタンダードになってしまった…。
今作ではネリーは主体的に自分の性を武器にして魅せるのが得意でしたが、新時代のハリウッドは『ジュディ 虹の彼方に』でも描かれてご存じのとおり若手女優を人権無視で徹底的に管理する組織体質になって、それは『SHE SAID シー・セッド その名を暴け』で突きつけられるハーヴェイ・ワインスタインの性暴力事件へとも接続するわけで…。
ネリーはそんな本当の意味で腐っていくハリウッドに中指を突き立てて暗闇へと去っていく象徴的な存在でした。
シドニーのシーンも辛いですよね。黒人らしくするために顔を黒く塗ることを強要されて、やはりこちらも去っていく…。
映画業界の未来はどっち?
そうやって終わりが見え始める中、『バビロン』の後半にこれまた異彩を放って唐突に出現するのがジェームズ・マッケイという男。“トビー・マグワイア”がヤバさをむんむん漂わせている…。
これ、どういう意味なのかとびっくりする展開なのですが、ここでジェームズが見せるあのトンネルの奥の世界は、いわゆるカーニバルのフリークショー。つまり、ハリウッドがエンタメの世界を独占する前の時代、エンタメで主流だった存在です。過去の時代に繁栄していた存在は今やアンダーグラウンドでなおも密かに蠢いている。
その光景を見てしまうマニーとしては、悪夢的でありながら、同時に「ハリウッドもこんな風に堕落する時代が来るのか?」という一瞬頭をよぎる恐怖にもなってくる…。
それでもですよ、それでもこの『バビロン』は最後の最後でまだ夢を見せてもくる。なんかもう、どっちなんだよ、“デイミアン・チャゼル”!って叫びたくなりますが、この憎たらしいことをしてくるのがこの監督の手癖なんでしょう。
この本作を映画愛云々で語ってもあまり意味ないと思いますし、そもそも“デイミアン・チャゼル”監督って、映画愛に限らず、恋愛とかそういう観念自体をそんなに過信してない気がする…。人にせよ趣味にせよ芸術にせよ何かに没頭することは狂気の入り口だという姿勢を崩していないというか…。
ラストは時代は変わって1952年。マニーは妻と娘を連れてロサンゼルスに戻り、映画館で『雨に唄えば』を見つめ、あの過去の夢想とトラウマが一気に全身にフラッシュバックします。そしてネリーを思い出しもする。またしても『ラ・ラ・ランド』『ファースト・マン』と続いて、男の顔のアップで締めですよ。
それだけでなく、ここでマニーは過去から未来までの映画史すらも垣間見るというモンタージュさえ挿入されます。これなんかは『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』と同列の前衛的なマルチバース演出みたいなもんじゃないですか。
笑みをこぼすマニーが何を観てそういう仕草をしたのかは私たちにはわかりません。でも映画業界はまだまだこの先の将来も何か面白いことをしでかしてくれるのか。そう願ってしまったら、あなたは映画ファンとして沼にハマっているということです。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 56% Audience 52%
IMDb
7.4 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
作品ポスター・画像 (C)2022 Paramount Pictures Corporation. All rights reserved.
以上、『バビロン』の感想でした。
Babylon (2022) [Japanese Review] 『バビロン』考察・評価レビュー