音楽を途絶えさせはしない…ドラマシリーズ『ジ・エディ』の感想&考察です。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。
製作国:アメリカ(2020年)
シーズン1:2020年にNetflixで配信
監督:デイミアン・チャゼル、ウーダ・ベニャミナ ほか
ジ・エディ
じえでぃ
『ジ・エディ』あらすじ
フランスのパリでジャズクラブを経営するエリオットは、長年の相棒であるファリドと一緒にこのクラブを軌道に乗せるべく頑張ってきた。自らの音楽を奏でるバンドをプロデュースし、気合いはじゅうぶん。ところが予想外の不幸がこのクラブに降りかかる。突発的な暴力、家族との不和、友人たちとの亀裂、夢にかけるプライド。音楽への情熱はどこへ向かうのか…。
『ジ・エディ』感想(ネタバレなし)
どんな苦境でも演奏は絶対にやめない
まるで誰かがミュートボタンを押してしまったように世界中のライブハウスから音楽が消えてしまいました。世界的なパンデミック=コロナ禍の影響によって甚大な影響を受けているのは映画館だけでなく、音楽との出会いの場であるライブハウスも同じ。それらの多くはかつてない広範な経営的危機に陥っています。
「SaveOurSpace」といった支援キャンペーンが日本でも実施されていますが、まだまだ関心は足りていません。そもそもライブハウス文化は時代の変化に押されていたという現状もありました。今や音楽はポータブルオーディオプレイヤーからネットのサブスクリプションサービスでいつでもどこでも大量に聞けるのが当たり前に。それにバーチャルなキャラクターがネット空間でパフォーマンスするご時勢です。わざわざライブハウスに足を運ぶ人は減っているのかもしれません。
でも音楽の文化を下で支えてきたのは間違いなくライブハウスのような場所。あのアーティストだってこの音楽文化がなければデビューしていなかったかもしれない。だからやっぱり守らないといけませんよね。
そんな街に息づくライブハウスに人生を賭ける人々を描いた海外ドラマシリーズを見れば、ツラい出来事で弱ってしまった音楽への情熱を再始動するパワーをもらえるでしょう。
そこで今回オススメするのが本作『ジ・エディ』です。
本作はフランスのパリを舞台に小さなジャズクラブを経営する主人公とそこで演奏するバンドたちの人間模様を描く音楽ドラマです。リミテッドシリーズながら全8話で1話あたり約60分もあるのでかなりの大ボリュームですが、毎話流れてくる演奏シーンに聞き惚れているとあっという間に時間が過ぎるので、そんなに体感的には長く感じないと思います。ミュージカルではありませんが、演奏は濃厚にたっぷり聴けるので期待してください。また、音楽活動を揺るがす事件も起きたりして、クライムサスペンスのような様相も見せつつ、目が離せない緊迫感もあるのも見どころです。
『ジ・エディ』を特筆する際はこの監督の名が冠について語られることが多いです。それは『セッション』や『ラ・ラ・ランド』で一躍映画界にその名を轟かせた若き天才である“デイミアン・チャゼル”監督です。やはり音楽映画において類まれなる才能を発揮してきた“デイミアン・チャゼル”監督がドラマシリーズを手がけるとなると注目する人は当然いるでしょう。
ただ、この『ジ・エディ』では“デイミアン・チャゼル”はあくまで1話と2話の監督を手がけるだけで、全話を監督しているわけではありません(製作総指揮にはクレジットされている)。ちなみに他の監督もマニアの目を惹きつける人がいます。例えば、長編監督デビュー作の『ディヴァイン』で圧倒的な評価を得た“ウーダ・ベニャミナ”監督、2005年の『Marock』でムスリムとユダヤ教の二人の恋愛を描いて話題となったモロッコ人の“ライラ・マラクシ”監督、ドラマ『ニュースルーム』『シックス・フィート・アンダー』を手がけた“アラン・プール”監督です。
では『ジ・エディ』は誰の企画なのかと言うと、最近だと『ワンダー 君は太陽』の脚本を手がけたことで有名な“ジャック・ソーン”です。『イントゥ・ザ・スカイ 気球で未来を変えたふたり』の脚本も担当していました。もともと劇作家としてのキャリアが豊富で、例えば「ハリー・ポッターと呪いの子」の舞台も手がけたり、器用な手腕を持っている人物です。『ジ・エディ』では全話の脚本をコントロールし、多くの登場人物が出てくる群像劇を上手く見せています。
出演陣も要注目。まずメイン主人公を演じるのは『ムーンライト』でも称賛された“アンドレ・ホランド”。
『COLD WAR あの歌、2つの心』で絶賛されて賞を総なめにした“ヨアンナ・クーリク”(今作でも美しい歌声を披露してくれます)。
『ヘイト・ユー・ギブ』などで名演を見せ、若者からの支持もアツい“アマンドラ・ステンバーグ”。
『ある過去の行方』でも好演をしていた“タハール・ラヒム”。2011年の『The Source』という作品でカンヌのステージに立った“レイラ・ベクティ”。他、多数。とにかく人種的なバラエティが豊かで、これまでにないアンサンブルを見せてくれ、それが音楽にも反映されているのが心地よいです。
どんなに苦境に立たされても私たちには「音楽」しかないからこの演奏は絶対にやめないぞ!…という不屈の意志を感じる『ジ・エディ』。まさに今のご時世にぴったりな作品ではないでしょうか。
オススメ度のチェック
ひとり | ◯(俳優ファンも音楽ファンも) |
友人 | ◯(音楽愛のある友達と) |
恋人 | ◯(ロマンチックな物語です) |
キッズ | △(大人のドラマです) |
『ジ・エディ』感想(ネタバレあり)
不協和音に揺れるパリのジャズクラブ
フランスのパリの一角にあるジャズクラブ「The Eddy」。小さく目立たないその場所では今夜も定番のバンドが歌と演奏を奏でています。
この「The Eddy」を切り盛りしているのはエリオットとファリドという二人の男。エリオットは作曲など音楽のプロデュース面に専念し、ファリドは経営的な業務を全て担っていました。今夜は少しエリオットは緊張して内心では落ち着きがありません。なぜなら大物レコード会社のフランク・レヴィが来ており、上手くいけば自分の手がけたバンドの音楽が高く評価され、次のステップに進めるかもしれないからです。クラブの外に出たフランク・レヴィをわざわざ出待ちして「このバンドは化ける」と念押しするエリオット。
一方、演奏終了後、楽屋では歌手のマヤは落ち込んでいました。少し調子がでなかったらしく「明日はもっとよくなる」と慰められるマヤ。実はマヤはエリオットと関係が悪化しており、ファリドはマヤに「エリオットを忘れろ」とも言葉をかけます。みんながバラバラに帰っていきました。
誰もいなくなったクラブ。ひとりピアノを弾き始めるエリオット。そこへ集金の男たちがズカズカと来て、問答無用で殴られてしまいます。事情がわからないのでおカネ関係を任せていたファリドの家へ行くと彼はおらず、その妻アミラに手当してもらいます。
翌朝、ファリドいわく心配するなとのことですが、なんだか5000ユーロほどの大金のやりとりがあったらしく心配です。
エリオットは空港へ行き、娘ジュリーを迎えます。ニューヨークにいる妻とは諸事情で別れており、なにか荒れているジュリーを落ち着かせるためにこのパリに寄越したようです。途中でバイクが動かなくなり、しょうがないのでマヤのもとでシャワーを借りに行きます。父とマヤとの関係を気にするジュリーですが、二人には二人の揺れ動く関係性がありました。
ファリドは家で子ども二人を相手に戯れます。普段はクラブに付きっきりであまり家にいないようです。
エリオットは何か不審な存在が気になっており、追跡されているような気がしていました。怪しい男を追いかけてみるものの逃げられてしまいます。
今日の夜もまたクラブでバンド演奏がありますが、直前になってもマヤは来ません。エリオットはマヤのアパートへ行って呼び掛けるものの返事はなし。これではどうしようもないのでファリドが歌うことになり、自分の目指した音楽が理想どおりにいかないことにエリオットはイライラしていました。
クラブが閉店したその夜、ゴミ出しをしていたファリドは謎の人間に襲われます。早朝、エリオットに電話をきて、病院へ直行。そこにはショックで茫然自失なファリドの妻アミラがおり、ファリドは帰らぬ人になってしまいました。
せっかく二人三脚で頑張ってきたのに相棒を失ったことでエリオットは絶望します。しかし、いまやエリオットにはあのクラブしか残っていません。意地でも続けるしかない。またマヤのもとへ向かったエリオットは歌ってほしいと懇願。
その夜、悲劇的な事件の現場となったクラブは最初は客は全然来ません。ところがちょっとずつ増え、しまいにはかなりの客が押し寄せいっぱいになり、かつてない大盛況に。不幸中の幸いか、ファリドがくれたチャンスなのか。マヤは歌を披露し、盛り上がります。
けれどもそれで終わりません。どうやらファリドはギャング相手になにやら危ない行為に手を染めていたようで、ファリドが持っていたという偽造紙幣を渡せと使いのジブコという男がエリオットに迫ってきます。ひとりでこの問題を抱え込むことになり、パニックになりながら奔走するエリオット。一方で娘のジュリーやバンドメンバーにもそれぞれの人生の苦悩が浮き彫りとなり、ときに互いに交差していくことに…。
自分の音楽を奏でる。そんな普通のことを続けるのはなぜこうも難しいのか…。
音楽があるから生きられる
『ジ・エディ』は各話のタイトルがキャラクター名になっていることからもわかるように、各話で全員ではないですがそれぞれの登場人物が掘り下げられていき、物語の深みを増していきます。
まず主人公のエリオット。彼はニューヨークからパリにやってきてクラブを通して自分の音楽を表現する挑戦をしていました。実はニューヨークにいた頃は妻アリソン(かなり裕福)とは険悪だったようで、すでにマヤと関係があったようです。そして息子のフレッド(ジュリーの兄)を亡くしたことで、気持ちに大きな変化が起きたのか、はたまた逃避したくなったのか、娘ジュリーも置いてマヤとともパリにやってきた…という流れのようです。非常に音楽に全てをなりふり構わず捧げており、ときに狂気的な一面を見せるのが、“デイミアン・チャゼル”監督が好きそうなキャラですね。
第2話のサブタイトルになるのは、そんなエリオットの娘で16歳のジュリー。彼女は天真爛漫な振る舞いをしますが、かなり重い過去を抱えています。母の次の相手(義父)に体の関係を迫られ、しかも母は義父を選択。一種のネグレクトに遭っているような状態です。そのせいか愛に飢えており、クラブで小金を稼ぐシムという若い男に近づき、かなり一方的に肉体関係を求めたり、はたまたドラッグに走ったり、行動は不安定。パリの高校にも馴染めず、孤立するばかり。そのジュリーもシムとの間で本当の愛を見いだし始め、クラリネットや歌を通して自己を表現するようになります。
第3話のサブタイトルになるのは、エリオットの相棒にして突然の暴力で命を奪われたファリドの妻であるアミラ。夢に猛進する夫を献身的に支える妻という枠どおりの人生を送ってきたアミラは、その中心を失い、足場がぐらつくように困惑。息子アダムと娘イネスを抱えながらどう生きるべきなのか、模索することになります。喪失感に直面しつつも、同時に男性社会からの解放という状況にもさらされる、二面的な揺らぎがありますね。
第4話のサブタイトルになるのは、バンドメンバーでコントラバスを弾くジュード。彼はドラッグに依存していた過去があり、今もメタドンによる治療を継続中。ヤクをやめられないことに苦悩し、「子どもの頃に思い描いた人生とは大違いだ」と涙する。他人の幸せは自分とはかけ離れている。そんな彼を拾ってくれたのもあのクラブでした。
第5話のサブタイトルになるのは、エリオットが好意を寄せるバンドのシンガーであるマヤ。彼女は自分の人生の岐路に立たされます。親の反対もありながらエリオットについてくる決断をしたマヤですが、男に従属するばかりでそこに自立的な喜びはありません。そんな中で大物シンガーのコーラスにならないかと持ちかけられるチャンスが…。
第6話のサブタイトルになるのは、クラブでお手伝いをしているシム。彼はクラブ以外でも物売りで働くなど貧しい生活を支えています。父は死に、母は出ていき、今は祖母との暮らし。そんなその祖母もガンでいつ亡くなるかもわからず、メッカに連れていきたいのでカネをため、ときに運び屋の危ないこともする。そんなシムにも音楽への情熱があり…。
第7話のサブタイトルになるのは、バンドのドラムを担当するカタリナ。作中の途中で脱退してしまうのですが、彼女は父の介護をしながら姉と生活していました。しかもその父はかつては暴力をふるっていた相手。それでも面倒を見なくてはいけない“家族”という呪縛。そしてカタリナはファリドが手を染めた行為を知るという秘密も抱えていて…。
つまり『ジ・エディ』に登場するキャラクターたちは、皆が各々の人生の歪を背負い込みつつ、音楽だけが自分を解き放つ逃げ場になっているという共通点があります。音楽はただの趣味に傍から見ればみえるかもしれない。でも彼ら彼女らにとっては生きる上で欠かせないものが音楽なんですね。
音楽は多様性をつなぐ
『ジ・エディ』の面白いところは多様な人種が混ざり合ったあのジャズクラブの雰囲気です。別にダイバーシティを意識して優等生的にそういう設定にしているわけでなく、そもそもパリってああいう人種が複雑に織り交ざった地域性があるというのは、各種のパリを舞台にした映画を観ているならお分かりだと思います。
ましてや本作では“ウーダ・ベニャミナ”や“ライラ・マラクシ”がメガホンをとっているわけで、多様な人種の交流を描くのは抜群に上手いです(そういう手腕を期待しての起用なのでしょうけど)。“デイミアン・チャゼル”監督だって、『ラ・ラ・ランド』でロサンゼルスのエンタメ業界の街の多様な人種感をさりげなく背景では描いていましたから、そこのところは手慣れているのでしょう。
とくに『ジ・エディ』は中東系の描写が際立ちます。ファリドの死を追悼するべく、遺体を水で清める「グスル(沐浴)」のようなイスラム教の風習が描かれ、その葬儀に非ムスリムの人たちも普通に参加する。こういう日常は実際にはあるのに作品ではあまり描かれてこなかったので新鮮です。
シムもアラブ系で、その民族性をバックグラウンドにした音楽活動をしていたり、『ジ・エディ』は多様な人種をそのまま音楽に昇華させているのも自然でいいですね。結果、作中内の演奏はジャズを中心にしつつ、とてもバリエーションがあります。
もちろんパリの黒人音楽文化への目配せも忘れません。このへんはジュリーが良い意味で素人っぽさがあるので導入係になってくれます。アミラはジャズに興味があまりなかったり、それぞれがそれぞれの受け入れがたいものを持っているけど、「音楽」という点では共通している。自然と体を躍らせれば、歌い出せば、あとは人種も年齢も性別も違うみんながひとつになれる。
ファリドの葬儀の後にクラブのみんなで思い思いに演奏して悲しみを忘れるように騒いだり、ラストにクラブを失っても音楽は失わないと確認し合うようにみんなで夜の街で演奏し合うくだりとか。
ありきたりな言い方で申し訳ないですけど、音楽っていいなと再確認できるような作品でした。音楽、めちゃくちゃ大事じゃん!っていう、ね。
それでいて極端にエモーショナルに悪目立ちせずに、ほとんど毎回音楽演奏とともにエンドクレジットにスッと入っていくさりげなさもいいです。
話の主軸にあるギャング絡みの事件の部分はやや強引な面もあったのですが(でも警察の無能さはパリにおける公共への信頼のなさを反映しているのかも)、同じ空間で音楽を奏で聴くという文化が危機に瀕している今、この『ジ・エディ』は心に染みわたるものがありました。
音楽は人生の必需品。不安な世界にて人と人とを繋ぐ架け橋です。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 68% Audience 85%
IMDb
6.5 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 7/10 ★★★★★★★
作品ポスター・画像 (C) Fifty Fathoms, Atlantique Productions
以上、『ジ・エディ』の感想でした。
The Eddy (2020) [Japanese Review] 『ジ・エディ』考察・評価レビュー