エイリアンは恋愛実況を見る…映画『見えざる手のある風景』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:アメリカ(2023年)
日本では劇場未公開:2023年に配信スルー
監督:コリー・フィンリー
自死・自傷描写 恋愛描写
見えざる手のある風景
みえざるてのあるふうけい
『見えざる手のある風景』物語 簡単紹介
『見えざる手のある風景』感想(ネタバレなし)
エイリアンが社会の中心に
2023年12月20日、アメリカにて「国家宇宙会議(National Space Council)」が開催れました。これはここ近年は毎年開かれているもので、宇宙開発に関わる主要人物が集って、アメリカの宇宙政策を議論する会合です。
とは言え、2023年はそんなに新しい議題はなく、「アルテミス計画」と呼ばれている月面着陸の新プロジェクトの詳細な進捗も何も更新されていません。2020年代後半には再び人間を月に立たせるつもりのようですが、まだ道筋は固まっていないようです。
中国やロシアも独自の宇宙開発計画を進行中ですが、おそらく腹の探り合いの状況なのでしょう。莫大な資金を投じる価値はあるのか、どれくらい優先事項とすべきか、相手の出方を見ながらのスタート地点での睨み合いが静かに起こっています。
こんなふうにやっているうちに、ひょっこり知的な地球外生命体が私たちの星を来訪してきたらどうするんですかね? 政治のトップの反応が気になる…。
そうです。それが起きないとは断言できません。人類は自分たちに決定権があると思い込んで生きていますが、人類より高度な文明を持ったエイリアンが現れたら、そんな実のところ何の強固さもない自信満々の優越感は脆くも崩れ去ります。
そうしたらどんな社会になってしまうのでしょうか。人類社会内での優位性がエイリアンの指先ひとつで決まってしまう世界、想像できますか?
今回紹介する映画はそんな歪な世界をシュールかつ皮肉たっぷりに描いたブラックコメディなSFディストピアです。
それが本作『見えざる手のある風景』。
原題は「Landscape with Invisible Hand」。原作があって、児童書から10代向けの本を執筆する作家“M.T. アンダーソン”の2017年の小説です。すでに有名な作家だったこともあり、今回はこの出版の2017年時点で、映画化権の購入交渉が行われていたようです。
そして映画化の権利を獲得したのは「Plan B Entertainment」。その後はしばらく音沙汰なしでしたが、2023年に映画が公開となりました。
物語は、地球外生命体であるある種族が地球に飛来し、それが当たり前に認知された近未来を舞台としています。ドラマ『インベージョン』みたいにエイリアンに侵略されていく過程をリアルに描いていくわけではありません。エイリアンが人間社会の在り方を大きく変え始めた初期の時代を映し出しています。
別に『インデペンデンス・デイ』や『バトルシップ』のようにこのエイリアンと激しく戦闘して主権争いをすることもないですし、『E.T.』みたいに密かに友好を深めていくこともありません。
エイリアンという異物の存在はありますが、描いているのは私たち人間社会の変わらぬ歪さ。愚かで不条理なこの社会の構造です。この映画はシュールなストーリーテリングでそんな世界を批評していきます。
なのでちょっとマニアックなSFですが、そういうタイプの作風が好みなら見逃せない一作です。
『見えざる手のある風景』を監督し、脚本も兼任するのは、2017年の『サラブレッド』で長編映画監督デビューを果たした“コリー・フィンリー”。2019年には『バッド・エデュケーション』で高評価を受け、キャリアも順調。ドラマ『WeCrashed スタートアップ狂騒曲』のエピソード監督も務めていました。
どの作品でも倫理観スレスレ(もしくは逸脱している)…そんな人物を捉えており、“コリー・フィンリー”監督の得意分野になっていましたが、今回の『見えざる手のある風景』は少しリアルから離れたディストピアSFなので、新しい挑戦となります。
俳優陣は、ドラマ『ボクらを見る目』の“アサンテ・ブラック”、ドラマ『イエローストーン』の“カイリー・ロジャーズ”、ドラマ『アフターパーティー』の“ティファニー・ハディッシュ”、ドラマ『真相 – Truth Be Told』の“ブルックリン・マッケンジー”、『リアリティ』の“ジョシュ・ハミルトン”、『チェリー』の“マイケル・ガンドルフィーニ”など。
奇妙キテレツな『見えざる手のある風景』ですが、日本では劇場未公開で「Amazonプライムビデオ」でひっそり配信されているだけなので、関心あればウォッチリストに追加しておいてください。
ヘンテコなエイリアンを見たいなら望みは叶います。
『見えざる手のある風景』を観る前のQ&A
オススメ度のチェック
ひとり | :奇妙な世界が好みなら |
友人 | :SF好き同士で |
恋人 | :関心あれば |
キッズ | :大人向け風刺 |
『見えざる手のある風景』感想(ネタバレあり)
あらすじ(前半):世界が変わった後
2036年、ハンボルト通り204。ここにあるごく普通の家にて、その庭先で座って空を眺める若者、アダム・キャンベル。近くで庭いじりするのはアダムの妹のナタリー(ナット)です。
ナタリーに「手伝って」と言われますが、アダムは菜園には興味ないそうで、「宇宙からの機械製の肉のほうがいいの?」と言われても知らんぷり。「ママが落ち込んでた。職探しで何かあったの?」と聞かれますが、アダムは答えません。キャンパスを前に「来た」と呟いて絵を描き始めます。その空には巨大な空飛ぶアパートのようなものが…。
学校に登校します。「ヴァーヴを学んでよりよい世界に」という張り紙が掲示されており、授業では可愛らしいアニメーション解説が始まります。
「初コンタクト前の生活の大変さを覚えているだろうか。人間は人生の大半を労働に費やす。基本的な必需品を生産するために。環境を破壊している。早く介入すべきだった。だが1953年から艦隊が偵察してきて人間がよそ者を受容するには時間が必要だとわかっていた。しかし、5年前の今日ついに上陸したんだ。締め出そうとした政府もいた。けれどもビジネスリーダーは富の創出と産業の効率化の好機だと考えた。人間はついに新たな繁栄を迎えた宇宙に加わった」
人類はヴァーヴというエイリアンと数年前に遭遇し、このヴァーヴの文化や技術を基に社会を再構築することに決めました。
教室では年配の先生が「今後はヴァーヴの文化と歴史を学ぶ」と告げ、お払い箱になった先生は皮肉しか言えません。
アダムは美術の授業で気になっていたクロエ・マーシュに話しかけます。クロエの家庭はヴァーヴの登場で家計に苦しむことになり、車中泊やモーテルなどで転々としているそうです。そう身の上を喋りながら学校を出ると、後ろの看板の前で先生が銃で自殺します。「HAPPY FIRST CONTACT」と書かれた看板は血に染まっていました。
警察が現場整理するのを見守りつつ、アダムはクロエを家に誘います。
クロエの父と兄と共に、みんなで食事。「キャンベルさん、ありがとう」とクロエの父はお礼を言いますが、空気は決まずいです。
アダムの母ベスはいつまでも泊められないとアダムにこっそり忠告。でもアダムは楽観的です。
クロエから「週末に宝探ししない?」と言われ、ヴァーヴに認められたエリートだけが住める浮遊エリアから落下してきたモノを拾って集めます。アダムの父はヴァーヴの仕事を断り、今はカリフォルニアにいるはずでしたが、音信不通です。
アダムは恥ずかしそうにしながらも、クロエを描いた絵をみせ、関係が深まった2人はキス。
そんな中、クロエからある提案をされますが…。
人間社会はあっけなく支配される
ここから『見えざる手のある風景』のネタバレありの感想本文です。
『見えざる手のある風景』はヴァーヴというエイリアンによって社会が一変した地球を舞台にしています。
ここで重要なのがこのヴァーヴは非常に全体主義的な思考や文化を持っており、人類がその価値観に迎合すると決めてしまい、半ば無抵抗に統治されてしまっているということ。
このヴァーヴは言ってみれば、ヒトラー体制のナチスとそっくりです。もしくは長期的に政権を牛耳ってきた保守政党みたいなもの…。
ヴァーヴは既存の人間社会の格差構造をさらに拡大し、恩恵を受けられる者とそうでない者に二極化させました。しかも、その仕事の在り方は極めて官僚主義的で、無慈悲です。福祉や人権みたいな概念はありません。
加えて、シャーリー(人間には発音しづらいのでとりあえずこう呼称される)の息子がキャンベル家に居候として(実際はベスの夫として)家にいつくのですが、そこでは典型的な保守的家庭を好み、それを実行することにこだわります。人間放送基準委員会があったりするのもメディア規制という意味で保守性と合致します。
このヴァーヴを受け入れたのはビジネスリーダーだと序盤で説明されますが、「さらなる自由や発展」を掲げながら、蓋を開けてみれば社会は混沌を増し、残酷な上下関係が作られるという構図はまさに現在も見られる風景ですよね。ましてや今は“イーロン・マスク”がこのヴァーヴみたいなことをやってみせていますから。技術で大衆を依存させてコントロールし、誰の何に褒美を与えるかどうかを自分のさじ加減で決定し、実質的に支配者になるということ。そして私たちはその力に抗えずに、日常の中でいつの間にか従ってしまっているということ。
本作が面白いのはその人類をあっけなく支配してみせたのが、ビジュアルからして恐ろしいエイリアンではなく、カニみたいな一見するとマヌケに見える見た目のエイリアンだという点です。手をカシャカシャとこすってコミュニケーションをとるなど、攻撃性は見当たりません。「こんなやつらに人間は屈してしまうのか」という人類の威厳を嘲笑うかのような皮肉なトーンになっています。
後半でアダムが学校の壁面に描いた絵がヴァーヴに評価され、公式アーティストとして超高額報酬で雇われます。でも実態はヴァーヴを讃えるようなプロパガンダの絵を描かせられるだけで、アダムはその屈辱に耐えられず、家に戻ります。
映画の最後は芸術が支配に抗うためのものだと静かに示していました。
貧困と恋愛は隣り合わせ?
『見えざる手のある風景』は主にアダムとクロエという2人のティーンエイジャーの視点を軸にしていますが、この2人は自分たちの恋愛を実況してヴァーヴに見せることで、視聴者を集めて報酬を稼ごうとします。
本作の原作者である“M.T. アンダーソン”は、2002年の『フィード』という小説でも、頭に埋め込んだコンピューター・チップによって全てが管理されてしまうようになった社会を風刺していたのですが、この『見えざる手のある風景』は「ノード」という小さなデバイスをおでこ横にくっつけることでヴァーヴのネットワークにアクセスできるという、さらに風刺が増量しています。
恋愛実況配信するくだりは、現在の多くの若者が自分のプライベートをネット上に曝け出すことでおカネを稼ぐしかなくなっている貧困を浮き彫りにしているとも言えます。貧困になってしまえば恋愛すらも稼ぐ道具に用いるしかなくなってきてしまう現実…。
ただ、この風刺は狙いとしてはわかりますけど、やや穴の多い社会風刺ではあるなとも思います。
そもそも恋愛コンテンツなんて人間社会に溢れかえっている中、あのアダムとクロエの恋愛模様がそんなバズるほどに人気になる要素はどこにも見当たらないように感じるし…。絶対にポルノコンテンツのほうが大人気になるでしょう。
あと、本作はこの設定からしてアセクシュアル・イレイジャーなところが否めないかな、と。
ヴァーヴは無性生殖をするので恋愛文化というものがないと説明されます。それに対して「愛(love)」は人間的な現象であるという対比で、この恋愛実況配信が成立することになっています。
そうなるとやっぱり本作は人間はみんな恋愛するのが当たり前…みたいな立ち位置に立っていることになりますよね。逆に恋愛をしないという存在を本作は「エイリアン」として扱っているのですから、それはもうアセクシュアル当事者にしてみれば自分たちが異物扱いされているも同じです。
私はこの物語の導入を持ち出すなら、ヴァーヴに対して「人間は恋愛する人もいれば、誰にも恋愛的に惹かれない人もいるし、その恋愛のしかたも多様なんだよ」とその人類のダイバーシティを提示することで、ヴァーヴの(自分が上位だと思っている)文化に揺さぶりをかけるという展開のほうが面白かったのではないかなと思うのですが…。
それに恋愛を実況配信することと貧困を結び付けて書きましたけど、一方で現実ではセックスワーカーなどは単に「可哀想な存在」ではなく、その仕事に誇りがあったりする人もいるわけで…。やっぱり大事なのは人権の保護です。
本作は、人類側はこのヴァーヴに何を訴えていくのかという方向性が曖昧なままに幕を閉じているところもあって、前半の風刺の切れ味が活かされていないのが残念。「ものすごい恋愛配信が見たいか? じゃあこの権利を保障しろ!」と焦らしながら交渉していく展開もあったらスリリングだったんじゃないかな。
まだまだ弄ればいくらでも面白くできそうな世界観なので、惜しい一作でした。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 72% Audience 50%
IMDb
5.9 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
作品ポスター・画像 (C)Metro-Goldwyn-Mayer Pictures ランドスケープ・ウィズ・インビンシブル・ハンド
以上、『見えざる手のある風景』の感想でした。
Landscape with Invisible Hand (2023) [Japanese Review] 『見えざる手のある風景』考察・評価レビュー