もうあの箱は片づけるから…映画『遠い山なみの光』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:日本・イギリス・ポーランド(2025年)
日本公開日:2025年9月5日
監督:石川慶
動物虐待描写(ペット)
とおいやまなみのひかり

『遠い山なみの光』物語 簡単紹介
『遠い山なみの光』感想(ネタバレなし)
被爆者の苦悩を語り継ぐ
「日本には今、核兵器の恐ろしさをわかっている政治家がいないのではないか」と切実に訴えたのは、長崎県内の被爆者4団体に所属するひとりでした(朝日新聞)。軍国化を進め、非核三原則さえも見直す可能性をチラつかせる高市政権を前に、戦争の悲惨さを伝えてきた被爆者の思いは踏みにじられています。日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)の代表は「核兵器が使われた時、どうなるかリアルに想像できるのか。この国の多くの政治家たちはほとんど勉強してない。戦争被爆国の自覚を持っていない」と厳しく批判しています(しんぶん赤旗)。
正直、原子爆弾を落とされた国なのに、その国民に核兵器の取り返しのつかなさが理解してもらえないなら、もう世界の伝えるのは到底無理なんじゃないかと無力感を感じます。
でも諦めるわけにはいきません。被爆者が高齢で続々と亡くなっている中、それを語り継ぐのは、「日本」に生まれた私が、唯一と言っていいくらいに「日本人」の帰属意識を感じる事柄でもあります。
今回紹介する映画は、戦後の日本の被爆者の女性が抱えてきた苦悩が寡黙に映し出される作品です。
それが本作『遠い山なみの光』。
本作はあの“カズオ・イシグロ”の初の長編小説(1982年に出版)の映画化ということで、これだけでもじゅうぶんに特筆性があります。
長崎出身で、母が原爆投下時に被爆したので被爆二世にあたる“カズオ・イシグロ”は、この『遠い山なみの光』にて自分と母の人生を半分投影するかのような物語を綴り、その作家性を確立しました。
本作の物語は、戦後まもない1950年代の長崎と、1980年代のイギリスを行き来する構成で、あるひとりの女性とその娘の人生が語られていきます。
かなりメランコリーな語り口で、盛り上がりはないというか、一見すると何を映したいのかも不明瞭なのですが、先ほどから言及しているように、戦後の日本の被爆者の女性が抱えてきた苦悩が巧妙に込められたプロットになっています。
この『遠い山なみの光』を監督する大役を任せられたのが、“石川慶”。2017年の『愚行録』で長編映画監督デビューを果たし、『蜜蜂と遠雷』(2019年)、『Arc アーク』(2021年)、『ある男』(2022年)、『不都合な記憶』(2024年)と、独自の実力を披露してきた“石川慶”監督であるならば、確かに“カズオ・イシグロ”作品にぴったりです。脚本も“石川慶”が手がけています。“石川慶”監督もさすがに“カズオ・イシグロ”作品の映画化は最初は躊躇したらしいですが…。


『遠い山なみの光』で主演するのは、“広瀬すず”で、今作は“広瀬すず”が最も得意とする役どころだったのではないでしょうか。
共演は、“二階堂ふみ”、“吉田羊”、“松下洸平”、“三浦友和”、“カミラ・アイコ”、“渡辺大知”など。
今こそ被爆者の体験を語り継ぐためにも『遠い山なみの光』をぜひどうぞ。
なお、物語の展開上、重大なネタバレが存在する作品なので、本作について鑑賞前に調べる際は注意してください。
『遠い山なみの光』を観る前のQ&A
鑑賞の案内チェック
| 基本 | 被爆者差別の言動のシーンがあります。また、猫を殺す描写があります。直接的ではないですが、自死を示唆する描写も一部にあります。 |
| キッズ | 大人向けのドラマです。 |
『遠い山なみの光』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(序盤)
1952年、長崎。地元で起きた幼児刺殺事件が新聞の一面になっており、これで3人目であり、中渡川で今度は女児の遺体が見つかったと書かれています。
その新聞を眺めつつ、緒方二郎は妻の悦子が用意した朝食を食べながら、「しょっぱすぎる」とこぼします。ここは長崎に建つ団地。二郎は悦子のお腹に手をあてて、産まれてくるであろう我が子の誕生を期待します。
夫が出勤すると、悦子は自分の小物を入れている編みかごを開けつつ、映画雑誌をめくります。そして窓から見える景色に目を向けます。その瞳には、あるひとりの女性がアメリカ兵らしき男と会っている姿が映り…。
1982年、イギリス。悦子は静かな田舎に暮らしていました。娘のニキがロンドンから来ており、悦子が長崎にいたころの白黒の写真を漠然と眺めていました。悦子はこの独りで暮らしている家を売るつもりでしたが、ニキは思い出があるのにあっさり売ることにやや理解できませんでした。
2人で料理しながら、昔話に花を咲かせます。話題にでるのは景子のこと。悦子が最初に産んだ子で、もうこの世にいません。その事実を知る者はほとんどいません。
作家のニキは自分の家族のルーツをたどる記事を書くように急かされており、実は母の家に戻ってきたのもそれが理由です。テレビではグリーナム・コモン女性平和キャンプでの軍のミサイル配備に対する女性たちの抗議が報道されており、ミキも取材していました。
ニキは母に長崎での話を聞こうとします。母は若い頃は長崎にいたのです。「今こそ語るべき」と促しますが、母は「そんなこと、誰も読まない」とあまり話したくない口ぶり。
けれども、悦子は長崎の頃の知り合いだという女性の夢をみていることを口にし、それについて語り始めます。
1950年代の長崎で、悦子はある子どもを見かけます。その少女は他の子にいじめられており、その子は妊娠した猫を気にかけていました。
その子の家についていくと、橋の向こうの掘っ立て小屋に案内されます。そこに暮らす佐知子、その子どもの万里子は、戦争が始まる前から住んでいるらしいです。
そして「フランク」という名のアメリカ兵と交際しており、一緒にアメリカに渡るつもりだと言います。佐知子は仕事が欲しいらしく、悦子は紹介してあげることにします。
そんな中、家に二郎の父が来ます。元教師なのですが、最近は教え子だった松田重夫に「終戦とともに去るべき」などとかなり厳しいことが書かれたらしいです。
悦子は佐知子と万里子の2人と交友を深めていきますが…。

ここから『遠い山なみの光』のネタバレありの感想本文です。
本当に水に沈めたかったのは…
ネタバレせずに詳細な感想を語ろうとするとどうしてもわざとらしくボヤけた抽象的な文章になってしまうので、ここからは核心のネタバレに触れます。
『遠い山なみの光』は映画でもラストにハッキリと明示されるように、「佐知子=悦子」であり、「万里子=景子」です。
いわゆる「信頼できない語り部」のスタイルですが、これは小説から映像作品へ翻案するとき、どうこの仕掛けをみせるかを演出的に再考しないといけません。その点、“石川慶”監督は“カズオ・イシグロ”の原作の空気感をしっかり映像で表現してみせていたと思います。
オチが唐突に最後にサプライズとして提示されるわけでもなく、ちゃんと冒頭から伏線が張り巡らされています。編みかごの中身からして、悦子と佐知子の興味関心が一致していることが察せますし、何よりも団地からみえる眼下の町並みやその町を歩いているときの日常の妙な違和感です。
たぶん日本の当時をよく知らない外国人とかが本作を観ると「日本の美しい風景だね」みたいなオリエンタリズムで評価してしまうかもですけど、この1952年の長崎ならば原爆投下の爪痕がまだ生々しく残っている時期です。しかし、本作はそうした直接的な描写は不自然なまでにありません。まるでAIが「綺麗な日本の風景」をノスタルジックに生成したかのような感じになっています。
しかし、隠せないものもでてくる…。それが冒頭で新聞に書かれている連続する幼児殺害事件。これは作中で悦子に対して「被爆したら妊娠や出産に影響がでる」と言及されるように、そして佐知子と万里子が被爆者嫌悪の言葉を一瞬向けられるように…確かにあの時代の長崎にて静かに広がっている「不安」が滲み出たものとも言えます。
蜘蛛を捕まえ食べようとする万里子だったりと、その不吉さはどんどん増し、極めつけは佐知子が子猫を箱に入れて水に沈めて殺そうとするシーンです。ここは猫が直接描写されないのがまた演出して効いています。つまり、子猫はメタファーであり、実際に殺したかったのは…という話。例の川で見つかった幼児の遺体の報道がここにきて重なります。
ロープウェイで悦子と佐知子が語り合うシーンも、一見すると解放感のある気持ちのいい場面ですが、本作の中では最も切ない感情が見え隠れします。「女はもっと目覚めなきゃ。希望ならたくさんある」といくら強気に宣言しても、無かったことにできない自身の身体に刻まれた現実があるわけですから。
映画では役者の演技力も合わさってその苦悩がより生々しく伝わります。
沈黙の7年間の苦悩
『遠い山なみの光』のオチは単に驚かせるためだけのものではなく、むしろそのオチの中身より、「なぜこうした回りくどい方法で描いているのか」を考えてみると、悦子の心情に迫ることができると思います。
要するに本作が映し出しているのは、あまりにも残忍すぎて語り継ぎたくもない戦時中・戦後直後の体験であり、日本社会の抑圧の中で「語ること」を許されてこなかった女性の被爆者の苦悩です。直接的に描かれないのはそうできない空気そのものを表していると言えます。
戦後直後の悦子は日本に生きる女性として「良妻賢母」になる道しかありません。「これ以上幸せにはなれないくらいに」と自己表現してみせますが、現実の悦子は粗野な夫の二郎に合わせているだけです。
この女性の抑圧に加えて、本作では被爆者としての苦しみも交差してきます。
問題は被爆の健康面の問題性というのは、戦後直後は被爆者自身もよく理解しておらず、世間の認知が広まったのは、1954年のビキニ環礁での水爆実験以降で、この水爆実験にて第五福竜丸の事件が発生し、放射線の人体に対する恐ろしさが突き付けられました。
つまり、作中の1952年時点では原爆投下(1945年)から7年が経過しようとしていますが、その7年間を被爆者たちは「自分たちの身に何か起きている気がする」と漠然とした健康の不安を抱えつつも、声をだせずにいました。
一方で1952年はGHQが長崎を含む日本全土から撤退し、日本の主権が回復した年でもあります。占領の状態からついに新しい日本が始まるぞと意気込みたいところですが、民主主義にはまだほど遠い…。それを痛感している若い世代の代表として、作中では松田重夫が登場し、自分の教師(二郎の父)に日本国の加害責任を問うシーン。ここで二郎の父は「日本は原爆に負けた」とレトリックを述べますが、原爆は軍国主義の責任逃れの言い訳にしか使われないのがまた虚しいところです。
こうした希望の見えない日本だったらこそ、そのトラウマと現在進行形の呪いから離れるために、悦子はイギリスへと渡ったのかなと察することができます。しかし、イギリスも理想の地ではなく、いろいろ厳しい現実が待ち構えていたのでしょう。イギリスに渡った悦子は漫然と同化しようとするも、アジア系としての浮いた存在として生きてきたはずです。
その人種の側面は娘のニキもよくわかっています。アジア系には居づらいイギリスの空気を肌で実感し、現在のニキも妊娠の悩みを別のかたちで抱えています。
ニキは母から「移民」としての定番の物語を聞き出すつもりだったのでしょうが、実際は移民どころではない、とんでもない闇を垣間見てしまいます。
本作はそういう意味ではもはやホラーです。しかし、後味はそれほど暗くはありません。
1982年のイギリスは作中でも触れられる「グリーナム・コモン女性平和キャンプ」(『Rebel Dykes』でも触れられる)があった年。第二波フェミニズムの最終期です。
被爆二世のニキは母の苦悩を背負いすぎることをせず、自分なりの道で未来に進み始めます。これはいわゆる世代間トラウマに対する、とても前向きなラストだったと思います。
シネマンドレイクの個人的評価
LGBTQレプリゼンテーション評価
–(未評価)
以上、『遠い山なみの光』の感想でした。
作品ポスター・画像 (C)2025 A Pale View of Hills Film Partners 遠い山並みの光
A Pale View of Hills (2025) [Japanese Review] 『遠い山なみの光』考察・評価レビュー
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