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『ある男』感想(ネタバレ)…心が壊れた男性の表象の問題点も考えながら

ある男

心が壊れた男性の表象の問題点も考えながら…映画『ある男』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。

英題:A Man
製作国:日本(2022年)
日本公開日:2022年11月18日
監督:石川慶
自死・自傷描写 人種差別描写 性描写 恋愛描写

ある男

あるおとこ
ある男

『ある男』あらすじ

過去の悲しい経験を引きずっている里枝は、ある日、ふらっと現れたひとりの若い男性・大祐と出会い、関係を深める。そして新しい小さな幸せに満たされて、心を切り替えて家庭を育んでいく。しかし、その幸せをもたらしてくれた大祐は突然この世から去ってしまった。ところが、もっと驚くべき事実が目の前に飛び込んでくる。一方で弁護士の城戸は、その大祐の身元調査をして欲しいという相談を受けるが…。
この記事は「シネマンドレイク」執筆による『ある男』の感想です。

『ある男』感想(ネタバレなし)

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その名前でいいですか?

「アイデンティティ」という言葉は最近はもう頻出単語です。これは帰属を意味し、私たちが何かに帰属意識を感じれば、それがアイデンティティです。例えば、「日本人」という言葉に帰属意識を感じる人もいれば、「YouTuber」みたいな職業名に帰属意識を感じる人もいますし、「レズビアン」という言葉に帰属意識を感じる人もいます。何でもありえます。帰属していると思えるなら…。

私たちが最初に帰属意識を感じやすいのが「名前」です。たいていの人は生まれた瞬間に名前を与えられます。そして「それが私なんだ」という確固たる帰属意識が芽生えていきます。

興味深いのはこの「名前」は他人に与えられるものだということ。自分で生まれた瞬間に「私は○○である」と名乗る人はいません。名前というのは、とくに苗字は、法的な社会制度でどうつけるかを決められているので(日本は夫婦同姓で選択肢はさらに少ない)、名前は家族などの名付け親がつけると同時に、社会が名付けているとも言えます。

こうやって考えると「名前」という概念はアイデンティティになり得ると同時に、実はかなり侵襲的な存在でもあるんだなと痛感します。最近、“イーロン・マスク”が「Twitter」を「X」に変えてまたも論争を起こしていましたが(あの人は自分の子どもに「X Æ A-12」と名付ける親でもあるのだけど)、人が他者の名前をつけたり、変えたりするという行為は、とても権力を誇示するものです。

巷ではこの権力をときに「愛情」とデコレーションして表現されたりするのですが、冷静になると残酷になりうるものだとハっと気づきます。

モノや動物への名前だと一方的に名付けられるだけですが、人間だと、自分の「名前」がどうもしっくりこないと不満を抱いたりもします。「名前」が重いと感じたりも…。変えようと試みる人もいるでしょう。名前を本当の意味でアイデンティティにするのは案外と難しいのです。

今回紹介する映画はそんなことを考えてしまう作品でした。

それが本作『ある男』です。

タイトルは超シンプル。本作は、『マチネの終わりに』“平野啓一郎”による2018年の小説が原作です。それを映画化したのが、“石川慶”監督。2017年の『愚行録』で長編映画デビューしたばかりでキャリアは浅いと思っていたら、2019年の『蜜蜂と遠雷』で多くの国内の映画賞で受賞やノミネートを達成し、長編3作目となる『Arc アーク』では独創的な文学SF的世界を巧みに表現。

『ある男』も、日本映画界において異質な才能を静かに発揮する“石川慶”監督の手に委ねられたのであれば、そのクオリティは折り紙つきでしょう。

物語は、タイトルのとおり、あるひとりの男が大きな波乱を残すことでざわついていきます。説明が抽象的すぎますが、でも語りすぎると台無しになる作品だし…困ったな…。ともかくミステリー要素が強めなのでネタバレは見ないほうがいいです。

とは言え、“石川慶”監督作なので、わかりやすいエンタメ的な盛り上げで「真実はこれです!」と仰々しく描いたりはしません。その語り口は内面を傷つけずにそっと解剖するような手さばきです。全体のあらすじだけを文章で書きだしても全然面白そうに思えないのですけど、“石川慶”監督のセンスでどこまでも深みが増していく。演出の調合も味を効かせます。

俳優陣の名演も大きな見どころ。主演のひとり“安藤サクラ”の凄さはもう語るまでもない。『万引き家族』に続いて今作でも最上級の絶品です。もうひとりの主演である“妻夫木聡”も見事で、ベストアクトかもしれないですね。そしてキーパーソンを演じる“窪田正孝”。やっぱりこういう役をやらせたら抜群です。拾ってきた猫みたい…。

他にも、『焼肉ドラゴン』“真木よう子”『流浪の月』“柄本明”『“それ”がいる森』“眞島秀和”『すばらしき世界』“仲野太賀”『耳をすませば』“清野菜名”『PLAN75』“河合優実”など。

なお、本作には在日朝鮮人への差別的・侮辱的なセリフがやや多く登場するので、そのあたりは留意してください。

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『ある男』を観る前のQ&A

✔『ある男』の見どころ
★全体的に繰り広げられる俳優の名演。
★名前と帰属意識を問う物語の批評性。
✔『ある男』の欠点
☆やや淡々としているので落ち着いて鑑賞できる環境を。

オススメ度のチェック

ひとり 3.5:俳優ファンでも
友人 3.5:関心あるもの同士で
恋人 3.5:異性ロマンスも若干あり
キッズ 3.0:大人のドラマです
↓ここからネタバレが含まれます↓

『ある男』感想(ネタバレあり)

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あらすじ(前半):大祐じゃないです

里枝は家の文具店で店員をしています。泣くのをこらえるような顔で品を整理していましたが、客が来たのでレジ側に戻って、涙を引っ込めます。その客の男は商品をレジに持ってきて、里枝は淡々と会計をします。

そのとき雷鳴とともに店が停電。真っ暗になってしまいました。客の男は落ち着きながらブレーカーを指摘して、里枝はすぐにブレーカーを操作しようとします。客の男は代わりに手を伸ばし、また電気がつきます。「ありがとうございます」と里枝。客の男は傘をさして静かに店を出ていきました。

里枝が台所で料理していると、幼い息子の悠人が「おはよう」と起きてきます。里枝は机に料理を持っていき、その部屋では仏壇の前で里枝の母・初江が手を合わせていました。仏壇の前には老人の男と幼い子の2枚の写真。

悠人が友達と遊んでいると、階段前で座り込んで絵を描いているような男を見かけます。店に来ていた男です。

文具店にはまたあの男が来ていて、スケッチブックを買いにレジに持ってきます。客の気さくなおばさんに「お兄さんが絵を描いているところを見たってお客さんが。今度見せてよ」と声をかけますが、男は黙々と頷いて「見せるものじゃないです」と小声で返事するだけでした。

その男の名は谷口大祐。木を伐採する方法を先輩から熱心に学んでいました。高い木はメキメキとゆっくり倒れます。

市役所では雰囲気がどうも掴みどころのない谷口大祐がふらっと林業をやるために現れたことに疑念の声もあがっていました。旅館の子らしいということだけはわかっています。「前科持ちとか? なんか暗い感じだし」という声も。それでも擁護してくれる人もいます。そんな会話をたまたま市役所に来ていた里枝は耳にします。

里枝の店にまた大祐が来ます。すると会計の際におもむろに「これ…」と絵を見せてくれます。店も絵にしてくれています。

「もしよかったら友達になってくれませんか。あ、いや、ご迷惑ですよね。すみません」

里枝は、子どもはいるけど離婚したという今の状態を一応説明します。

「すみません。何も知らなくて…」

「名前は?」「谷口です」と名刺を見せてきます。里枝は連絡先を交換し、「いつでも絵を見せに来てください。何も買わなくていいんで」と優しく口にします。

ある日、一緒に出かけて身の上を話す里枝。息子の悠人には弟がいて、2歳の時に脳の病気で亡くなったこと。夫との別れも治療のやりかたで揉めたこと。

里枝と大祐は関係を深め、車内でキスしようとします。しかし、ガラスに映った自分の顔を見て、大祐はなぜか動揺しだすのでした。

2人は結婚し、数年が経過。悠人は中学生となり、娘のも産まれました。

ある日、大祐は悠人を職場の山に連れて行ってあげます。しかし、大祐は伐採中に転び、倒木の下敷きになって亡くなってしまいました

突然の死。葬儀の最中、谷口恭一という大祐の兄が初顔合わせで挨拶に来ます。「なんでもっとまともな生き方ができなかったのでしょうかね」と口にするその恭一。

ところが仏壇に手を合わせに行くと、「写真、置いてやらないんですね」と言われます。「置いてますけど」とわけもわからず遺影を示す里枝。

しかし、恭一は断言します。「違いますけど。大祐じゃないです。全然違う人」

ではあの人は一体誰なのか…。

この『ある男』のあらすじは「シネマンドレイク」によってオリジナルで書かれました。内容は2024/01/16に更新されています。
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日本社会の名前の呪縛

ここから『ある男』のネタバレありの感想本文です。

『ある男』は序盤の何とも言えない「谷口大祐」と「里枝」と馴れ初めから始まります。このパートからすでに絶妙な緊張感があって、心理的に目が離せません。

この谷口大祐(実際は違う。ある男「X」)は単に口下手なだけなのか、妙にコミュニケーション不慣れですが近づいてきます。市役所では「前科持ちでは?」などさっそく疑う目線が生じています。それでも里枝は信用し、惹かれ合います。

しかし、3年9カ月後の死亡事故以降、つまり、あの谷口大祐が谷口大祐でないと判明してから、人を疑えという空気が作中でさらに増します。

犯罪に関わっていたのかと里枝も疑心暗鬼になり、谷口恭一にいたっては里枝のことさえも保険金目当てだと怪しみ、後藤美涼の常連客は北朝鮮に拉致された工作員ではと陰謀めいた疑惑をぶつける…。

そして物語に深みを増す弁護士の城戸章良。彼は在日朝鮮人で、「生活保護目当てで騙す輩がいてそういうのはたいていは朝鮮人だ」などと、あからさまな朝鮮人差別を日頃耳にしています(ヘイトスピーチを取材した番組も映っていました)。

一番キツイのは戸籍交換による年金不正受給事件にてブローカーをして服役している小見浦憲男。彼はいけしゃあしゃあと「先生、在日でしょう。顔見たらいっぱつですよ」と在日朝鮮人を詐欺師扱いです。

本作では、日本社会における“名前”信仰が非常に色濃く浮かび上がります。アメリカなどの国では身元を完全に別人に変える証人保護プログラムがあったりするし、本名ではなく別名を普段使いするのが普通の国もあります。しかし、日本は世界でもほぼ唯一と言っていい戸籍制度がある国であり、名前を妙に重視します。

だからなのか、「名前を変える=反社会的行為」のようにみなされます。名前を日本風に変えている朝鮮人は不正に利益を得ているかのように非難される(実際の歴史はドラマ『Pachinko パチンコ』を参照)、それもそんな社会背景ゆえでしょう。

作中でさりげなく気になったシーンが、悠人の言葉。母・里枝に「また苗字が変わるの?」とうんざりな顔でこぼす場面があるのですが、そもそも日本では大半の女性が苗字を結婚のたびに変えるハメになっているという実態を男である悠人は無自覚です。ここでジェンダー格差も浮上します。

結局、男「X」の正体は2003年に殺人罪で死刑が宣告された小林という男の息子で、父の逮捕後は母の姓で「原誠(はらまこと)」と名乗り、その後に「曾根崎」と名前を変え、さらに「谷口大祐」になったのでした。

また、本当の谷口大祐も家族の重圧から逃げて、別人として生きようとしていたこともわかります。

「こんな人生は嫌だ、新しい自分になりたい」と双方が思っていたからこその利害の一致。「2度目の人生を精一杯生きようとする」「こうでもしないと生き直せない人がいる」…城戸章良の言葉はあの2人の動機を端的に表していますが、現実にあるのはこの言葉以上の複雑な葛藤です。

今作では家族絡みで戸籍交換をしたわけですが、インターネットで別の自分になりきったり、今はいろいろできます(『バーチャルで出会った僕ら』みたいなことも)。今の自分を捨てたいという気持ちは境遇を越えて共感しやすいかもしれません。

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心の壊れた男性のステレオタイプ

日本の名前信仰の呪縛を批評してみせた『ある男』ですが、ただちょっと残念だなと思うのは、この映画が別の存在している呪縛に作品自体が囚われてしまっていることです。

その呪縛とは「性愛に関連する規範」です。

同じようなことを『シン・仮面ライダー』の感想でも書いたのですが、この『ある男』にも同じ問題構造が見受けられます。

本作の主人公「X」は、原誠時代にボクシングジムで活動していた時にと知り合って身体を交えようとしますが、殺人鬼となった父の顔が自分に重ねるので、寸前でパニックになってしまいます。これは里枝と車内でキスする際も同じことが繰り返されます。

これらの演出は「X」がトラウマを抱えていることを示すためのものですが、別に性愛に関係するシーンだけでそれを表さなくてもいいはずです。それでもこの演出を採用するのは、「健康な男ならば性的な行為に躊躇うなんてしないはずだ」という考え方があるからでしょう。

この規範的な考え方はことさら非常にアセクシュアルへの偏見を増長するもので、いわゆる「心の壊れた男性の状態」を示すコードとしてそうした演出は映画などでは多用されやすいです。『ある男』もそのステレオタイプに陥っています。

一方で、終盤では城戸章良の妻・香織が不倫をしていることがスマホの通知から示唆されます。ここでは、女性が性的欲求を見せている状態が「不穏さ」を暗に醸し出す演出のコードとして用いられています

これは男性と女性で綺麗に逆転しています。男は性に消極的だと不健全で、女は性に積極的だと不健全になってしまう。

『ある男』は確かに総合的には高品質に練り込んでいる脚本なのですが、その一部のコードの使い方はとても古臭いもので、それに頼らなければ、もっと斬新なシナリオにできたのではないかと思ったりもしました。

ラスト、城戸章良は初対面の人にバーで谷口大祐の経歴を自分のものであるかのように語り、「僕は…」と言ったところで映画は閉幕しますが、私なら別人の人生を借りるにしても性愛規範には乗らない人間になるでしょうね。

『ある男』
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 100% Audience –%
IMDb
7.0 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
7.0

作品ポスター・画像 (C)2022「ある男」製作委員会

以上、『ある男』の感想でした。

A Man (2022) [Japanese Review] 『ある男』考察・評価レビュー