でもそれこそクィアかもしれない…映画『クィア/QUEER』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:イタリア・アメリカ(2024年)
日本公開日:2025年5月9日
監督:ルカ・グァダニーノ
性描写 恋愛描写
くぃあ
『クィア QUEER』物語 簡単紹介
『クィア QUEER』感想(ネタバレなし)
「クィア」の複雑な意味合い
「クィア(Queer)」という言葉は現在はLGBTQコミュニティにて性的マイノリティを指す包括的な用語として広く使われています。
もともとは侮辱的な言葉でしたが、権利運動の中でこの「クィア」という言葉を肯定的な意味として捉え直す試みがあり、今に至っています。
以上の経緯は知っている人もいると思いますが、実はこの「クィア」という言葉、歴史を振り返るとさらに複雑な背景が見えてきます。
「queer」という言葉は16世紀頃に英語圏で使われ始め、当時は「奇妙な」という意味で、精神的な異常者とみなされた人や、それ以外の不適切とされる言動の人を指していたそうです。イングランド北部には「there’s nowt so queer as folk」(人間ほど奇妙なものはない)という言い回しがあったくらいです。
それが19世紀後半になると性的逸脱の意味が加わり、20世紀初頭には性的な点で規範的でないことがハッキリわかる男性を意味するようになりました。
しかし、1950年代から1970年代にかけて「ゲイ(gay)」という言葉が性的マイノリティのコミュニティ内で普及し、「queer」という言葉の居場所は失われます。そして英語の「gay」は性的マイノリティ全般を指す(同性愛男性だけでない)のに使われたのに対し、「queer」は当時は男性同士で性行為をする男性や女性的な振る舞いの男性など男性に特化した、当事者が半分は自嘲的に自認する際に使われるものになったようです。
このように「クィア(Queer)」という言葉は思ったよりも紆余曲折があり、その時代や地域で意味が変わってきました。とくに時代が揺れ動いた1950年代は「クィア(Queer)」という言葉にとっても複雑な時期だったと言えるでしょう。
そんな1950年代に『Queer』というタイトルの小説が書かれました。
執筆した人は“ウィリアム・S・バロウズ”というアメリカ人です。この男性に惹かれる性的指向であったとされる“ウィリアム・S・バロウズ”がまた一筋縄では語れない小説家で、後に“デヴィッド・クローネンバーグ”によって映画化もされた『裸のランチ』の原作者でもありますが、『Queer』執筆時はかなりとんでもない状況にありました。
というのも妻の“ジョーン・ヴォルマー”を銃で殺害した容疑でメキシコシティで逮捕されていて、その裁判を待つ間に当時の体験をもとにこの『Queer』が書かれたのです。結局、殺人罪にならず過失致死となったのですが、“ウィリアム・S・バロウズ”の中ではこの作品はトラウマと深く結びつきすぎており、本人が原稿を30年以上封印し、出版に至ったのは1985年になってからでした。
なお、日本での最初の邦訳時のタイトルは『おかま』となっていました(今は『クィア』という題名で出版されています)。日本語の「おかま」と英語の「Queer」は上記の言葉の歴史も踏まえるとだいぶ意味が違うので、あんまり良い邦題ではない気がする…。
前置きが長くなりましたがその“ウィリアム・S・バロウズ”の極めてプライベートな作品が2024年に映画化となりました。
それが本作『クィア QUEER』です。
映画化が難しそうなのですけども、監督を手がけたのは“ルカ・グァダニーノ”監督。確かにこの人なら最適だと思います。ややこしいクィアネスでも単純化せずにややこしさをそのままに扱える人ですから。
主演に抜擢されたのは、『007』からすっかり卒業してまた今作で一気にアートハウスな世界に戻ってきた“ダニエル・クレイグ”。“ルカ・グァダニーノ”監督がストレートな俳優でもクィアにみえるように演出するのが上手いというのも大いにあると思いますが、今作の“ダニエル・クレイグ”は見事な名演を披露しています。
共演は、ドラマ『アウターバンクス』の“ドリュー・スターキー”、『アステロイド・シティ』の“ジェイソン・シュワルツマン”、『ミセス・ハリス、パリへ行く』の“レスリー・マンヴィル”など。
この『クィア QUEER』と『チャレンジャーズ』も合わせて2024年は“ルカ・グァダニーノ”監督作が2本も揃っていたのですが、アカデミー賞では一切無視されてましたね…(LGBTQコミュニティから批判される映画には賞を与えるくせに…)。
映画『クィア QUEER』は男と男のロマンスと簡単に言い切るにはあまりに複雑すぎる混乱した関係性と心理を映し出しており、ロマンチックな恋愛を観たいだけの人は困惑するかもですが、これぞ“ウィリアム・S・バロウズ”という癖の強さが溢れまくっています。
この映画における「クィア」という言葉の意味を考えながら、その奇妙な物語に触れてみてください。
『クィア QUEER』を観る前のQ&A
鑑賞の案内チェック
基本 | — |
キッズ | 直接的な性行為やヌードの描写があります。 |
『クィア QUEER』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(前半)
1950年代、メキシコの首都のメキシコシティ。アメリカ人駐在員のウィリアム・リーは、カフェで若い男性を前に座り、「君はクィアじゃない」と品定めするように吐き捨てます。
「私にはオクラホマシティに住む同性愛者(ホモセクシュアル)のユダヤ人の友人がいるんだが…」と話を勝手に始め、タバコを吹かしながらひとりで満足げに笑うリー。目の前の男性はぴくりとも笑いません。
その男と外で別れ、リーは道端に座って顔を手で覆い、気分を変えます。退屈でした。この穏やかなメキシコシティには自分を満足させるような刺激はありません。あてもなく街のバーを巡って、なんとなく目に入った若い男たちとの性行為に耽溺して時間を過ごすだけの日々。リーにとってはそれくらいしかやることがありません。
カウンターで座ってくつろごうとすると、知り合いのジョーが隣に座って自由気ままに話し出します。しかし、リーの耳には届きません。
夜、タバコを片手に路上で闘鶏をして群がっている男たちを眺めていると、通りすがりのひとりの若い男性が目に入ります。その若い男に見惚れて固まるリー。呆然と見つめるも、彼は去っていきました。目があったような気がします。
バーに戻ると、なんとあの若い男が座って、こちらに気づいた素振りをしてくれます。嬉しくておどけておじぎをするも無視されます。また目をやると、その若い男は女と座っていました。
勘違いだったのかとイラついて足早にそのバーを後にし、別のバーに移動します。その次のバーでスペイン語を話すハンサムな男が目にとまり、アプローチされます。一緒にホテルへ行き、互いに服を脱ぎ、交わります。やることをやり、男はアディオスと去っていきます。
翌日、またあの若い男が通りかかり、こちらを見ます。やはりこっちを意識してやっているのか…思わず追いかけます。
とりあえず会ってゆっくりすることになるのですが、そのユージーン・アラートンはなぜか簡単に近寄りはしません。まるでこちらを弄ぶようです。隣に座ってやっと話してくれたことで、まともにお喋りが楽しめます。
ジョーに「彼はクィアかな?」と小声で問いかけるリー。アラートンはリーを気にしてくれているようですけど、でも頻繁に女性とも一緒にいます。
そんな状態に悶々とするリーでしたが…。
ウィリアム・リーにとっての「クィア」

ここから『クィア QUEER』のネタバレありの感想本文です。
“ウィリアム・S・バロウズ”の伝記映画としては『バロウズの妻』(2000年)がありますが、『クィア QUEER』は“ウィリアム・S・バロウズ”の半自伝的小説の映画化で、それ自体がメタな構造を持ち合わせており、掴みどころがありません。本作の制作にあたっては、“ウィリアム・S・バロウズ”の専門家からもアドバイスをもらって脚色を練ったようで、この映画は相当に「製作陣のバロウズ解釈」が充満しています。
この映画を解釈するにあたって、主人公のウィリアム・リーがよく口にする「クィア」という言葉はどういう意味なのかを考えることがとても重要な気がします。
「クィア」という言葉の一般的な意味と歴史はこの記事の前半で簡単に解説しました。
しかし、どうもリーの中では「クィア」に対して自分独自の解釈があるように思えます。この1950年代は「ゲイ」や「ホモセクシュアル」、またはそれ以外にも同性愛者を軽蔑的に表現するいろいろな言葉が巷に溢れていました。序盤からこのリーは「ゲイ」や「ホモセクシュアル」といった言葉をどこか他者化しており、「クィア」という言葉で自己を表したいという心情が読めます。そして他人を「クィアかどうか」やけに評価したがります。
実際の“ウィリアム・S・バロウズ”はドラッグと未登録銃所持の容疑で警察に追われてメキシコシティに逃げてきたのですが(しかもそこで妻を銃殺するという…)、薬物依存は以前からで、さらに幼少期からオカルト好きとされ、変な奴扱いだったことが示唆されています。精神的不安定さは若い頃から指摘され、もしかしたら何かしらの精神疾患だったのかもしれません。
そんな“ウィリアム・S・バロウズ”を投影しているリーというキャラクターにとっての「クィア」は単に「男性に惹かれる」という意味だけでなく、薬物依存や精神的不安定さといった、さまざまな自身が内包する異質さへの劣等感を表現した言葉だった…そんな考察もできます。そういうのって簡単に切り離して考えられるものでもないですしね。
なのでリーにとっての「クィア」の感覚というのは、他人と共有するのが非常に難しいものだったのでしょうか。
“ルカ・グァダニーノ”監督が上手いなと思うのは、ところどころで、“ドリュー・ドロエージュ”みたいなゲイ当事者の俳優を起用した人物を配置し、リーを既存のゲイとはまた違う存在として際立たせる効果を打ち出している点。むしろストレートな“ダニエル・クレイグ”の起用が「浮いた存在」として強調させるにはうってつけになってます。
物語面だと、その自分ではどうにもならないもどかしさがあのユージーン・アラートンとの「近づけそうで近づけない」関係性に反映されていたようにも思いました。
孤独な男が他者との繋がりに飢えて生み出した、ある種の理想的な願望の存在。あのユージーン・アラートンはリーにとってそういう人間だったのかな…。
クィアを寄り添う言葉に変えた現代からの追悼
傍から見ると『クィア QUEER』のウィリアム・リーは文字どおり「おかしい奴」です。
なお、本作はメキシコシティがありきたりな西欧の偏見を滲ませずにわりと描かれていたのも良かったです(『エミリア・ペレス』がアレだったから…)。犯罪だらけの野蛮な感じではもちろんないですし、何よりも1950年代のメキシコシティのゲイ・コミュニティが穏やかに自然に再現されていたし…。1930年代にはメキシコシティ中心部にゲイ・コミュニティが形成されていたそうでなので、今作の描写は比較的リアルなんじゃないかな。
そのメキシコシティのゲイ・コミュニティでも、ひとりのアメリカ人のオッサンがやけに気取った佇まいでこじらせて徘徊している…となれば、それは浮くでしょう。絶対に噂されてる…。
後半はアヤワスカ(「yagé」などいろんな呼び名がある)という強力な幻覚作用があって先住民がシャーマニズムの儀式にも使っていた植物を見つけるため、アラートンを連れて南米へ一緒に旅することになります。これもまた旅の動機からして相当に変なコンビです。
そして、パディントンでも出てきそうなジャングルで、2人は幻覚効果で、唐突に口から心臓を吐き出すというボディホラーのジャンルがいきなり始まります。ここからはもう“ルカ・グァダニーノ”監督版『サスペリア』ですよ。コンテンポラリーダンスみたいな感じで2人の身体が一体となり、現実が置き去りになっていき…。
そこからこれまたびっくりな場面転換の後、銃による死が描かれます。とは言ってもこの死は、相手が相手だけに極めて意味深なものですが…(当然、“ウィリアム・S・バロウズ”の妻の死も彷彿とさせる)。とりあえず単純な「ゲイが不幸な結末を迎える」という定番ではないのは確かでしょう。
最後は晩年の“ウィリアム・S・バロウズ”にかなり似せた老け姿のリーが映し出され、“ウィリアム・S・バロウズ”への追悼を感じられる余韻が濃い終わり方でした。メランコリックな原作と比べても、この映画はまだ優しさがある気もしましたね。孤独だったかもしれないけど、今は孤独にさせないよ…という後世からの抱擁というか…。
現代において「クィア」は当事者に寄り添う言葉になりました。もう劣等感で自分を傷つけなくてもいいのです。
“ウィリアム・S・バロウズ”をクィアなレンズで解剖して寄り添った映画として、これ以上ない一品だったのではないでしょうか。
シネマンドレイクの個人的評価
LGBTQレプリゼンテーション評価
△(平凡)
作品ポスター・画像 (C)2024 The Apartment S.r.l., FremantleMedia North America, Inc., Frenesy Film Company S.r.l. クイア
以上、『クィア QUEER』の感想でした。
Queer (2024) [Japanese Review] 『クィア QUEER』考察・評価レビュー
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