あまり自分の話はしない私ですが、とくにこの話題はしてきませんでした。でも今回は少し触れようと思います。
それは、私は実は”とある宗教”にルーツがあって、その宗教のコミュニティと触れ合う機会の多い人間だったということ。「だった」と過去形で話しているのは、今の私はほぼ完全に宗教コミュニティとは縁のない人生を送っており、別に自分自身でもいかなる宗教もアイデンティティにしていません。幸いなことに、私の周りに「この宗教をアイデンティティにせよ」と押し付けてくるような圧力は無かったので、今の人生を選ぶことができました。
そんなこんななので、あえて宗教の話題をしようとはずっと思ってなかったのですが、最近は「ちょっと宗教の話をしてもいいかな」と思えるくらいに心の整理がついてきたので、今回はこのトピックを切り口に記事を書いています。
そのトピックとは「”宗教右派”という言葉は宗教差別か?」という話題です。
最近「宗教右派」という言葉を何かと耳にするという人もいるのでは? 反”差別”など権利運動の界隈でもこの言葉は無視できないものです。でも「”宗教右派”という言葉は宗教差別だ」と言っていた人もいるような…とビクついている人もいるかもしれません。そもそも「宗教右派」ってどういう意味なのでしょうか。
わからないときは整理するのが一番いいです。
「宗教右派」とは?
「右派」と「左派」
まず「右派」と「左派」という言葉から理解しないと始まりません。よく聞く言葉で、軽々しく使われがちですが、ちゃんと意味が整理されることはあまりありません。
「右派」「左派」は政治用語で、「右翼」「左翼」とも言ったりしますが、これは「政治的スペクトラム」と呼ばれる分類のしかたです。
ある特定の社会秩序や階層構造を望ましいとみなして保持しようという政治的イデオロギーを持つことを、もしくはその政治的イデオロギーを持つ人や組織のことを、「右派」といいます。その「右派」と真逆の位置にいる場合が「左派」です。双方で極端な場合は「極右」「極左」といったりもします。
これは政治イデオロギーを二元論で分類していますが、実際はそんな単純に2つに分かれるわけではありません。
一般的に「右派」と呼ばれる人たちでも、「あるトピックには保守的で、別のトピックにはそれほど保守的でない」といった具合に、程度の差があります。「右派=全てにおいて保守的」という実態はないです。細かくみていけばいくほど「右派」の中でもいろいろな政治的イデオロギーがあります。逆に「左派」と呼ばれる人たちでも、「このトピックにだけは保守的」という人もいたりします。「右派」「左派」という言葉はあくまで漠然とした分類にすぎません。
例えば、フェミニズムにも「右派」もいれば「左派」もいますし、LGBTQにも「右派」もいれば「左派」もいます。「フェミニストやLGBTQはみんな左派」というのは事実ではありません。
「右派」と「左派」に線引きはありません。とは言え、政治の歴史から「”右派”はこういう特徴がある」といった類型化はされています。
たまに誤解している人もチラホラいますが、「”左派”が正しくて、”右派”が間違っている」とか、「”左派”が善で、”右派”が悪」とか、そんな意味合いは一切ありません。これは正誤でも善悪でもなく、何度も言いますが、政治的スペクトラムで大雑把に分類しているだけです。
宗教右派の意味
「右派」の中にもいろいろあると説明しましたが、「宗教右派」は「右派」を細かく分けたときのひとつです。その名のとおり、宗教と強く結びついた右派…ということです。
具体的には、保守的で伝統主義的な政策を強く支持する宗教の政治派閥…それが「宗教右派」と一般には呼ばれます。
勘違いされやすいですが、「宗教右派」という宗教団体があるわけではありません。宗派のことでもありません。あくまで政治運動をともなう政治的イデオロギーのひとつです。「右派」というラベルをさらに細分化したマイクロラベルです。
よく似た用語に「宗教ナショナリズム」があります。これは宗教と強く結びついたナショナリズム(国家主義)…という意味です。キリスト教の場合は「キリスト教ナショナリズム(クリスチャン・ナショナリズム)」となります。「宗教右派」と「宗教ナショナリズム」は重なりやすいですが、より政治国家に接続して宗教を基盤とした政治国家を築こうというイデオロギーに傾倒している場合は、「宗教ナショナリズム」という言葉がもっぱら用いられやすいです。
宗教右派を専門とするジャーナリストの“キャサリン・スチュワート”は「宗教ナショナリズムは、社会的運動でも文化的運動でもない。それは政治的運動であり、その究極の目標は権力である」と説明し、この問題を「文化戦争」という枠組みだけで見るべきではないと語っています(Al Jazeera)。宗教右派は政治問題なのです。
宗教に対して「保守主義」や「原理主義」という言葉が使われることがありますが、これは「宗教右派」や「宗教ナショナリズム」といった概念とは異なるベクトルの言葉です。宗教の教義をどれくらい文字どおり解釈して実践するかで、各宗派を「保守主義」や「原理主義」などと呼び分けたりすることがありますが、この分類はより各自の認識で扱いが違ってきます。
「保守的な宗教」という言い方は意味する内容が曖昧なので明示的ではありません(教義に対して保守的なのか、政治に対して保守的なのか、よくわからない)。宗教と政治を論じる際は、上記の「宗教右派」や「宗教ナショナリズム」といった言葉のほうが意味が捉えやすいです。
宗教右派の歴史
宗教と政治は異なるものという印象もありますが、歴史的に接点がありました。
アメリカでは「宗教右派」は1970年代から目立ち始めたと言われています(The Free Speech Center)。この時代は、学校への介入、反”中絶”、反”同性愛”などの論題で、「宗教右派」が精力的に政治活動を展開していきました。
ただ、1970年が最初というわけではありません。
そもそも1600年代初頭、清教徒の一団が「キリスト教国家」の夢を実現するべくアメリカの大地に足を踏み入れたことで、アメリカの建国の歴史のプロローグは始まりだしますが、これは「宗教ナショナリズム」の開始点と言えます。1800年代後半にも、プロテスタントの牧師たちはアメリカ憲法の「キリスト教国家」修正条項を主張したことがあります。1900年代初期には公立学校での進化論教育の制限を主導するキリスト教原理主義運動が巻き起こり、1925年に「スコープス・モンキー裁判」へと繋がります。
ではなぜ1970年代がよく「宗教右派」の転換点として取り上げられやすいのかと言えば、それは当時、1900年代初頭から一時的に政治の場から撤退していたキリスト教の派閥が再び積極的に政治運動に乗り出したからです。これは宗教テレビネットワークを駆使したテレビ伝道師のカリスマ性とメディア戦略が貢献したためです。メディアによって大衆への圧倒的影響力を手に入れた「宗教右派」は、宗教を政治へと拡大させました。70年代は「American Family Association」など、有力な宗教右派組織が設立されました。同時に「ヘリテージ財団」のような宗教右派を取り込んだ保守系シンクタンクも誕生し、宗教と政治が双方に癒着を深めました。
2017年から2021年まで第45代アメリカ合衆国大統領を務めたドナルド・トランプによって、アメリカの宗教右派の活動はかつてない絶頂期を迎えています。2024年にドナルド・トランプが大統領再選を目指して活動する中、「ヘリテージ財団」は「プロジェクト2025」というマニフェストを発表(Snopes)。行政をどう変えるかという計画を示したものですが、「宗教右派」の主張が多分に盛り込まれており、「キリスト教国家」の建国というかつての「宗教右派」「宗教ナショナリズム」の目指す世界の再挑戦となる具体的な政治運動の最前線となっています。
以上はアメリカの「宗教右派」の歴史を簡単にまとめたものです。
日本にも独自の「宗教右派」の歴史があります。日本での宗教右派の動きは専門家によってもいくつも指摘されています(ハフポスト)。宗教右派を動力とする政治家も政治中枢に存在しています。
キリスト教だけではありません。「ユダヤ教ナショナリズム」もあれば(イスラエルのような政治姿勢がまさにそれ)、「ヒンドゥー・ナショナリズム」、「イスラム教ナショナリズム」もあります。「宗教右派」や「宗教ナショナリズム」はどこにでもあると思っていいでしょう。
宗教差別のレトリック
何が宗教差別なのか
話を変えて「宗教差別」とは何なのかという論題に移ります。
これは「信教の自由」という言葉で説明できます。人は何にも抑圧されずに自身の信仰を実践する自由な権利があるということです。これを脅かすことが「宗教差別」です。
例えば、政府が特定の宗教を国民に押し付けて信仰を強要しようとしたり、マジョリティな宗教がマイノリティな宗教を抑圧したり…。宗教にもいろいろあり、権力とのバランスの中で、不均衡が生じています(ACLU)。
また、宗教に本来関係ないネガティブな概念を関連付けさせるスティグマを煽る言動も宗教差別とみなされるでしょう。例えば、気に入らない相手を「タリバン」と呼んだりするような行為(Them)などです。
「宗教差別」をレトリックに転用する
では「宗教右派」という言葉は宗教差別なのでしょうか。
先ほども説明したように「宗教右派」という言葉は政治スペクトラムを現した用語のひとつであり、あくまでラベルです。ニュートラルな意味で使われます。政治と宗教の関係性を論評する際に用いられているだけで、侮蔑の意図では基本は使われません。
原則的に「宗教右派」を差別用語とみなすコンセンサスはありません。実際、多くのメディア、ジャーナリスト、研究者、人権団体が、この「宗教右派」という用語を使用しています。
しかし、「宗教右派」は政治イデオロギーを示す用語である以上、当然、そこには政治的対立が生じます。ここが厄介です。
「宗教右派」という言葉は宗教差別だと主張する人たちがいます。それは主に「宗教右派」と名指しされる人たちです。「宗教右派」という用語は当人が自身で用いるラベルではありません。もっぱら他者が政治と宗教の関係性を論評する際に使います。
「宗教右派」と名指しされる人たちの中には、「宗教右派」という用語を軽蔑的とみなし、この言葉を嫌っていると表明する人もいます(Christianity Today)。
ただ、差別用語というのは単に不愉快かどうかの問題ではなく、構造的差別をともなう権力勾配の観点で議論されることも忘れてはいけません。
「信教の自由」は右派によって武器化されることがますます悪化しており、宗教が差別を正当化する道具となっています(openDemocracy)。その宗教と政治の関係を論評する以上、「宗教右派」という言葉は避けられません。ここでの「宗教右派」という言葉は宗教を批判する用法ではなく、宗教を都合よく利用する政治を批判する用法で使用されます。例えば、「Humanists UK」は「宗教右派が信仰の自由を脅かしている」と述べ、何よりも宗教差別をしているのは他ならぬ宗教右派であると警告しています。
一方で、「宗教右派」と名指しされる人たちの中には「”宗教右派”という用語は宗教差別だ」と主張することで反論します。論点が全然噛み合っていません。これは歴史的にずっと繰り返されてきました。ジャーナリストの“キャサリン・スチュワート”によれば宗教右派は「”善良な”宗教の人々が”邪悪な他者”によって脅威にさらされ犠牲者となっている」という迫害の物語を伝えると述べています(Al Jazeera)。「”宗教右派”という用語は宗教差別だ」という主張もそれに倣うものです。
この「”宗教右派”という用語は宗教差別だ」というレトリックは、「”白人至上主義”は白人差別用語だ」「”シスジェンダー”は差別用語だ」「”トランスフォビア”は差別用語だ」といった事例とほぼ変わりません。いわゆる「ホワットアバウティズム(Whataboutism)」です。
ある意味、「”宗教右派”という用語の使用は自由だ」という立場はその点においてリベラルな左派的と言えますし、「”宗教右派”という用語は宗教差別だ」という立場はその点において保守な右派的と言えるかもしれません。
今後もこうした「宗教右派」という言葉をめぐる当事者からの”政治的”反発は続くでしょう。
宗教と政治の関係を論評しよう
「いや、日本では宗教はマイノリティだから」なんて声も聞こえてきそうです。
でもそれは違うでしょう。日本は無宗教で…なんていうのは大間違いで、日本でも多くの宗教は確かな基盤を持ち、どこかしらで権力に接続しています。それを自覚しているかどうかの問題です。
神道、仏教、キリスト教は日本でも権力基盤を有するマジョリティな宗教で、政治への接点もあります。対する移民宗教、またはアイヌや琉球など先住民の信仰文化などはマイノリティな宗教として日本社会で脆弱な立場にあります。宗教の格差は歴然です。
繰り返しますが、日本にも「宗教右派」はあります。第一、純粋に信仰しているだけなんて状態はそうそうなくて、宗教と政治の接続はあるものです。
ただ、欧米と比べるとあまり論評される風潮がないように思います。研究事例も多くはありませんし、整理不足です。欧米だと宗教と政治の関係を批評するメディアやドキュメンタリーを探すのは簡単です。日本と空気が違います。
日本では「宗教右派」という言葉は2000年代にやっとメディアで用いられだし、日本についての言及は2016年以降からであるとの分析もあります(塚田 2020)。
そのため、日本社会は「宗教右派」という言葉により一層不慣れかもしれません。「宗教右派」という言葉に不快感を抱く人の中にはそういう困惑もあるでしょう。「”宗教右派”なんて言葉が流行ったら、真面目に宗教を信じている人が辛いんじゃないか」と。その懸念は理解できます。
だったらなおさら私はもっと宗教と政治の関係は論評されるべきだと思います。私のこの記事はたいしたことのない下手糞な文章ですが、そうじゃなくもっとしっかりした論評で…。論評することは宗教と社会の触れ合いの大切な一歩です。宗教と政治の関係を知るには論評が必要です。「宗教右派」という言葉も慎重に正しく使って論評できます。
一方で、冷笑はダメです。日本には「宗教ってヤバイんでしょ?」みたいな稚拙な認知で宗教を咎して満足する人たちがいますが、そういうものは論評とは言いません。それこそ侮辱です。アイデンティティを否定する論評(もどき)は差別です。「議論や論評しているだけです」というレトリックで体裁を装って冷笑をしていたいだけなら帰ってください。「宗教右派」という言葉でもそんな冷笑に使用してはいけません。
「論評する」というと「批判する=責める」だと早とちりする人もいるのですけど、そういうことでもなく、「知覚を促す」みたいなニュアンスが近いのかなと思います。冒頭で「私はほぼ完全に宗教コミュニティとは縁のない人生を送っている…」などと書きましたけど、だからといって宗教に無縁なわけではないのです。政治も同じ。信仰している宗教はないし、支持している政党もないけど、宗教や政治に無関係ではない。宗教や政治がいかに自分と社会に作用しているかを自覚するために論評は要るのです。
「宗教右派」という言葉は安易に用いることはできず、論争的な概念であることは日本でも変わりありません。でも論評してはいけないわけではありません。
宗教や政治を語ることをタブー視せず、宗教を小馬鹿にせず、信仰の自由を守り、宗教や政治と向き合うこと。難しいですけど、できることは必ずあります。
「宗教右派」という言葉を知れたら、その最初の一歩になったかもしれません。
【論文】
●塚田穂高. 2020. 戦後日本における「宗教右派」「宗教右翼」概念の形成と展開. 『上越教育大学研究紀要』第40巻第1号