感想は2200作品以上! 詳細な検索方法はコチラ。

「有害な男らしさ」の意味とは? トキシック・マスキュリニティを考える

有害な男らしさとは?

「有害な男らしさ」という言葉を聞いたことはありますか?

今回は「有害な男らしさ」について、簡単にですが、その意味を整理していきたいと思います。

※この記事は私が個人用に整理していたメモを多少構成を変えて修正して公開するものです。あまり専門性がなく、完全に網羅して整理もされていないのですが、それでもよければ読み進めてください。随時、内容を更新することがあります。

「有害な男らしさ」とは?

まず始めにそもそも「男らしさ」とは何でしょうか?

これは人によって答えが違ってくるもので、さまざまです。なぜなら文化・社会・宗教・政治などの背景が複雑に影響してくるからです。

とは言え、「筋力があって、強い/タフである」や、「夫である/父親である」など、伝統的なジェンダー役割に基づいたものは男らしさの定番となりやすいです。

しかし、結局は個人の考え方しだいで何でもありの概念であり、最近なんかは「“男らしい”関税」なんて言っている人も見かけましたMedia Matters。関税に男らしさってあったんですね…私にはさっぱりわからない…。

では本題です。「有害な男らしさ」とは何でしょうか?

「有害な男らしさ」という日本語は、英語の「toxic masculinity(トキシック・マスキュリニティ)」の和訳ですが、単純そうな言葉にみえて誤解もしやすいものです。

これについては「有害」とは何なのかを考えることがその意味を理解する最初の一歩になると思います。。

この「有害」とは、その当事者である男性自身に何よりも有害な悪影響が生じるということです。

例えば、以下のようなことがざっと挙げられます。

  • 「男は筋力がないといけないと考えすぎて、運動が不得意な自分を恥だと思ってしまう」
  • 「男は弱音を吐いたり、泣いたりしてはいけないと考えすぎて、辛さなどの感情を表にだせなくなってしまう」
  • 「男は恋人となる女性をいずれは手に入れないといけないと考えすぎて、モテない自分に劣等感を感じてしまう」
  • 「男は絶対に女性を好きになるものだと考えすぎて、同性に惹かれるという感情を受け入れられない」
  • 「男は群れたりせずに孤独をクールに受け入れるものだと考えすぎて、他者との協調の方法がわからなくなってしまう」
  • 「男は女性的な趣味に関心を持ってはいけないと考えすぎて、そうした対象に関心を持つ自分を否定してしまう」
  • 「男は肉体的にも精神的にも強いと考えすぎて、自身の健康の問題に気づけずに、病院にも行きづらくなる」

これら有害性は研究でも実証されています。例えば、男らしさについて最も強い信念を持つ男性は、男らしさについてより中程度の信念を持つ男性に比べて、予防医療を受ける可能性が半分しかないことを示す研究がありますVerywell Mind。男性の自殺率の高さもこの男らしさで説明されることがあります。過度な飲酒、不健康な食生活、ストレスをもたらす人間関係の継続などを助長することもあります。ある種の男らしさはまさに男性の健康や命にとってのリスクです。

この研究の蓄積を重くみて、アメリカ心理学会は『少年と男性への心理療法実践ガイドライン』を2019年に作成し、一部の男らしさの有害な影響を整理していますAPA。同様の女性版のガイドラインは2007年に発行されているので、やっと最近になって男性の心理的健康が男らしさの観点で問題視されるようになったと言えるでしょう。

さらにその「有害」というのは、周囲にも害を与えることもあります。

例えば、以下のようなことがざっと挙げられます。

  • 「男とは家長になって権力を振るうものだと考え、妻や子どもを抑圧的に扱ってしまう/部下にハラスメント行為をしてしまう」
  • 「男とは会社で働いて稼ぐものだと考え、妻には家事/育児などのケアを当然のように期待してしまう」
  • 「男にとって性欲は逆らえないものだと考え、性暴力を正当化してしまう」
  • 「男にとって家族や恋人を守るのが使命だと考え、パターナリズムや排外主義に傾いてしまう」
  • 「男にとってフェミニズムや多様性は男の存在を脅かすものと考え、差別的な思考を強化してしまう」
  • 「男にとって女性らしさは男の存在を脅かすものと考え、女性的な振る舞いをする男性やトランスジェンダー女性を攻撃してしまう」

つまり、こういう有害性を生み出してしまう男らしさが「有害な男らしさ」なのであり、どのような「男らしさ」であろうとも有害性をもたらしていないかを注意しないといけません。

「有害な男らしさ」のよくある誤解

「有害な男らしさ」はその論点を取り違えると誤解も生じやすいです。

よくある誤解として「“有害な男らしさ”という言葉自体が有害だ! 男であることを否定している!」という反発があります。これはこの概念の根本的な誤った認識に基づくものです。

「有害な男性」ではなく、わざわざ「有害な男らしさ」と言っているのは、「男性=有害」という本質主義的な批判、もしくは個人批判にならないようにしているからです。

「有害な男らしさ」があれば「有害でない男らしさ」があるという単純なものでもなく、「男らしさ」というものが有害さをもたらすその現象や作用に注目しようということです。

一部の男性は「“男らしさ”こそ“男”そのものである」「ゆえに“男らしさ”への批判は“男”の存在そのものへの批判なのだ」と結び付けようとしますが、その思考自体がまさに「有害な男らしさ」という言葉が示す有害さの典型となってしまっています。

当然ながら、これは男だけの特有の問題ではなく、「有害な男らしさ」があるということは、「有害な女らしさ」もあります。性別に限らず、特定のジェンダー規範は有害性をもたらしうるということです。

「有害な女らしさ」の例を挙げるなら、「女性とは良妻賢母であるべき」や「女性は男性よりも筋力的にも精神的にも弱い」という考え、または生殖など身体本質主義的な視点だけで女性を定義しようとするなどです。「有害な男らしさ」も「有害な女らしさ」もその性別/ジェンダーをエリート主義を前提に競争的かつ閉鎖的に認識し、排外的な言動をともなうことが共通しています。

「有害な男らしさ」という言葉は、1980年代から1990年代にかけてアメリカで流行った「神話的男性運動(mythopoetic men’s movement)」という自己啓発的なセラピーで誕生したと言われています。

すぐに社会学やフェミニズムなどのアカデミックな領域で使用され、再定義を繰り返していき、学問分野の中で定着しました。“クレメンタイン・フォード“著の『Boys Will Be Boys: Power, Patriarchy and the Toxic Bonds of Mateship』などの書籍も増えていきました。

当初は、社会との関わりの中でどう男らしさが有害に変容していくかを論じ、個人問題としても扱われやすく、ある一方では「健全な男児をどう育てるか」という教育のトピックにもなっていました。

しかし、最近は特定のサブカルチャー、とくにデジタル文化との影響で論じられることが目立ちます。2023年の『Toxic Masculinity ; Men, Meaning, and Digital Media』(“ジョン・マーサー”&“マーク・マクグラシャン”)といった専門書ではそうした今の問題が整理されています。これは2020年代になって「マノスフィア」と呼ばれる「有害な男らしさ」をアイデンティティとして固執して布教するコミュニティがインターネット上で盛況になっているという背景があるためです。現在は「有害な男らしさ」を語るにはこのマノスフィアを無視できません。

「マノスフィア」については別記事で整理することにします。

政治スペクトルとも無縁ではありません。保守派や右派(とくに極右)は「有害な男らしさ」という言葉に反発する主張をよく展開しています。先ほども紹介した「“有害な男らしさ”という言葉自体が有害だ! 男であることを否定している!」という拒絶もそうですし、「“有害な男らしさ”批判は自己責任を植え付け、男らしくあろうとすることを罰し、男であることを恥だと思わせようとしている」といった論調が常に繰り返されています(「マノスフィア」内では頻繁に観察できる主張です)。

しかし、それは「有害な男らしさ」をめぐる論点をあまりに単純化、そして扇動的に解釈しすぎているでしょう。

「有害な男らしさ」という概念は、ジェンダー本質主義からの脱却の個人的な試行に始まり、今では社会学、ジェンダー学、心理学、精神医学、教育学、芸術文化表象、さまざまな分野で多彩に論じられるほどに奥が深いものになっているのですから。

これからの男性の道

ここからはとくに男性の皆さんへのメッセージになりますが…

「有害な男らしさ」はあなたを否定するものではありません。新しい負担を強いるものでもないです。「男らしさ」とされてきたものを放棄しろという意味ではないのです。何かを奪われるわけではありません。

「有害な男らしさ」は男を責める言葉だと思っていたかもしれません。違います。男性を助ける言葉です。

「男らしさ」を剥奪されたのではなく、望まぬ「男らしさ」から解放され、もっと自由に自分を定義していいということです。

「男らしさ」の規範に紐づけずに、マッチョな身体を目指して筋力トレーニングに励むこともできるし、女性とセックスを楽しむこともできるし、バイオレンスな映画を好きに語り合ってもいい。今までと同じ日常を送れます。ただ、「男らしさ」で縛り上げることさえしなければいいだけ。新しいことを始めろと言っているわけでもないのです。

従来、男性は「男には“男らしく生きる”という一本の道しかない」と社会に叩きこまれてきました。

でも違います。「男性」として生きる人には無限の可能性があります。無数の道があるのです。

多様性の中に「男性」もしっかり存在しています。居場所があります。あなただけの道を見つけて、その多様さを称え合いながら、自分や他人を傷つけずに生きられるのは最高に幸せなことではないでしょうか。