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アセクシュアル&ノンバイナリーの私がこの社会で映画を好きになるということ

いつもは映画やドラマシリーズの感想をあてどなく自己満足に書いている私ですが、今回はちょっと違う内容です。普段はこのサイトやSNSでもそんなに自分のプライベートを明かさないのですけれど、今回は思いっきり私個人のことを書いています。なので興味ない人は全く読まなくていいものです。そこのところはご了承ください。

まずこの話からしないと始まりません。

私は「アセクシュアル」「アロマンティック」「ノンバイナリー」です。

この記事は2020年7月25日に書かれたもので、その当時の情報が掲載されています。現在と多少の事情が異なっていることがありますので、留意してください。

「アセクシュアル」「ノンバイナリー」とは?

そういきなり言われても聞きなれない言葉なのでさっぱりわからない人の方が圧倒的に多いでしょう。

「アセクシュアル(asexual)」(“アセクシャル”と表記することも)は、日本語圏では「Aセク」などと略称されることもあり、英語圏では「Ace」という略称が一般的です。アセクシュアルというのは、ざっくり言えば「性的な“attraction”(魅力)の感覚を持たない人」のことです。なお、性的に惹かれないと言っても、生殖機能を失っているとか、独身にこだわるとか、童貞処女だとか、禁欲(純潔主義)だとか、そういう意味ではないのであしからず。

詳しくは以下の『AセクAロマ部』のウェブサイトでも説明していますし、『いちばんやさしいアロマンティックやアセクシュアルのこと』(明石書店)といった初心者向けの書籍もあるので、そちらを参考にしてください。

「ノンバイナリー(nonbinary)」は、「男性でも女性でもない人など、男女二元論の枠にあてはまらない人」のことです。ほぼ同じ意味で「Xジェンダー」という言葉も日本では割と使われています。トランスジェンダーの用語の定義に内包されますが、視点は全く違うものです。英語圏では「enby」と通称で呼ばれることもあります。

ノンバイナリーとは? よくある誤解と事実
・性別は男女2つだけという規範に従わない人のこと
・広義のトランスジェンダーに含まれる(ただしノンバイナリーは全員がトランスジェンダーではない)
・日本では「Xジェンダー」という言葉でも表現される(Xジェンダーは日本独自の歴史がある用語)
・性別適合手術を受けているとは限らない
・見た目や服装などは関係ない

「LGBT」(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字)という言葉はかなり一般にも認知されてきましたが、そこに「Q」を加えた「LGBTQ(もしくはLGBTQ+)」という言葉があり、そこにアセクシュアルもノンバイナリーも含まれます。つまり、ひとつの立派な「SOGI;Sexual Orientation(性的指向)とGender Identity(性同一性)」であり、性的少数者(セクシュアル・マイノリティ)です。

ただ、アセクシュアルやノンバイナリーはかなり個々人で“ゆらぎ”があり、なかなかこれだというひとつの定義を言いづらいものですし、あえて個人の自認を尊重して定義を明確にしないところがあります。

例えば、アセクシュアルならたいてい聞かれやすい質問に「人を好きにならないの?」「セックスしないの?」「自慰は?」などがありますが、その答えは同じアセクシュアルの人でも違ってくるでしょう。恋愛感情を持たない場合は「アロマンティック(aromantic)」という恋愛的指向として呼び分けたりもしますが、これも人それぞれで用語の使い方が微妙に違うことも(「アセクシュアル」に“性的欲求と恋愛感情どちらも持たない”という意味を与える人もいて、その場合、性的に惹かれないだけの人は「ノンセクシュアル」と呼ぶこともあります)。「デミセクシュアル」という、基本的に性欲を抱くことはないものの、強い愛情や友情を持った相手に対してなど、ごく一部の場合に性的な欲求を抱くセクシュアリティもあります。ちなみに私はアセクシュアルであり、アロマンティックでもあります。

ノンバイナリーも想像以上に流動的で、中にはある日は男性、別の日は女性…のように日によって性別が変わる「ジェンダーフルイド」と自認する人もいます。とにかく多様なのです。

かくいう私も自分の性的指向や性同一性しか理解していないので、後に文献やメディアなどでいろいろ調べたのですが、思っている以上に複雑多様で、当事者なのに最初は余計にわからなくなりました。たぶん当事者ではない人はなおさら意味不明でしょうね。

私なりの言い方をするならば、立場を明解にするとすれば、アセクシュアル/アロマンティックは「恋愛や性愛を人間関係の規範にすることに違和感を感じ、それに同意しない人」なのだと思います。ノンバイナリーも同じで、「二分されたジェンダー(男女)という規範に違和感を感じ、同意しない人」と言えるのかな、と。

まあ、あくまでこれは私の考え。自己整理です。もし当事者の人はこれを読んでいても、私の考えをなぞる必要はなく、あなたの考えを持っていいのです。

“性”に悩む私を救ってくれたモノ

私が自分はアセクシュアル/アロマンティックでノンバイナリーだと自認するようになったのは大学時代でしたが、思えば子どもの頃から“ゆらぎ”を感じていました。

男の子向け・女の子向け、それぞれに特化したおもちゃが当然のようにありますが、私はどちらかに偏ることもなく、自分の好きなように選択したいと思っていました。思春期に入ると、同年代の周りが恋愛や性の話をするようになり、なぜか自分は混ざれない疎外感を強めるようになりました。

今に至るまでそれはもう思い出したくもないと消去したいほどに、たくさんの差別や偏見を受けてきたのは事実です。毎年、365日ずっと。

LGBTQは自殺率が高いと報告されていますが、私はこうやって今文章を書けているのもたまたまでしょう。どこで人生が終わっていてもおかしくはなかったと思います。

ではなぜ私はなんとか生きているのか。生存のための唯一のルートをドクター・ストレンジが見いだしてくれたのか。タイムトラベルをして過去を何度もやり直したのか。

それはもちろん違って…その答えは「映画」に出会えたからです。大袈裟抜きで私がここにいられるのは映画のおかげです。映画が自分の避難所でした。劣等感を解消する道具でした。前向きになれる希望の光でした。

LGBTQが描かれる映像作品は増えてきたけど…

多くの作品を日々鑑賞している映画好きな人は肌で感じていると思いますが、昨今はLGBTQを題材にした映画も増えています。

一例を挙げるなら、2016年には『ムーンライト』というゲイのアフリカ系アフリカ人を描いた恋愛ドラマ映画がアカデミー賞作品賞を受賞しました。2017年の同じく同性愛を描いた『君の名前で僕を呼んで』はアカデミー賞脚色賞に輝きました。

トランスジェンダーについてもドキュメンタリー『トランスジェンダーとハリウッド 過去、現在、そして』で語られているとおり、昔は酷い差別描写で映し出されていたのが、ここ最近になって一気に改善し、当事者が製作に関与するまでになりました。

このようなLGBTQを題材にした映画の急激な飛躍の背景には、当然「ダイバーシティ」の広まりがあるわけで、間違いなく大きな革新の時代を迎えていることを象徴していると私も思います。

これについては皆さんも納得でしょう。

しかし、どうでしょうか。そのLGBTQ映画の中にアセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーを扱ったものはありましたか?

今でも冷遇されている私の“性”

アセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーのキャラクターが登場した映画…。実は探せば大作でもちょっとだけ見つかります。

例えば、2019年公開の『ジョン・ウィック パラベラム』では「裁定人」という謎めいたキャラが登場しますが、このキャラはノンバイナリーで、演じている“エイジア・ケイト・ディロン”もノンバイナリーを自認しています。2009年の映画『ウォッチメン』(最近はドラマシリーズにもなった)に登場する「オジマンディアス」というキャラはアセクシュアルとして位置づけられているそうです。映画ではないですが、ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』に登場する物語に深く関わる「ヴァリス」という宦官も、アセクシュアルに見える描かれ方です。

しかし、これらのアセクシュアルやノンバイナリーのキャラクターは性にスポットをあてた描写がなく、あくまで裏設定的な扱いにとどまります。

しかも、これらのキャラクターは「浮世離れした人」もしくは「常軌を逸した変人」のような非常に偏った存在ばかりで、ある種のステレオタイプと言ってもいいでしょう。

現に、私は当事者として上記の作品の該当キャラを目にした時も、とくに自分との共感を感じる部分はひとつもありませんでした。

そうです、アセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーのキャラクターが主体的にリアルに描かれていることは、このダイバーシティの潮流の中でもほとんどないのです。

描かない?描けない?

なぜこのような事態になっているのか。私も当事者として否応なしに突きつけられる疑問です。

ゲイやトランスジェンダーは良いけど、アセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーはダメだ…なんていう排外的な差別思想でもあるのか? さすがにそれはちょっと考えにくい…。

私が推察するに、おそらく映画などの作り手は「どうアセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーを描けばいいのか」わからないでいるのではないでしょうか。

その理由を私なりに以下の6つの視点で挙げてみました。

理由①:恋愛や性愛に頼らずにドラマを作れない

そもそもストーリーを展開するにあたって、通常ではそのプロットを支える大きなパーツになってきたのが「恋愛」「性愛」「性別」でした。これは暗黙の了解。そこに疑念を挟む余地もなく…。

しかし、アセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーにはそれら規範的なものが“ない”のです。するとどうやって山あり谷ありのドラマチックなストーリーを作ればいいのかという壁にぶちあたります。代用のものはすぐに見当たらないのです。

つまり、ストーリークリエイターとなる作り手は(そして世の中は)思っている以上に既存の「恋愛」「性愛」「性別」に依存しているということ。それはダイバーシティへの意識を高めるだけではなかなか乗り越えられない依存なのかもしれません。

理由②:俳優や監督はカミングアウトしづらい

LGBTQにとってカミングアウトは容易ではありません。それはアセクシュアルやノンバイナリーも同じ。ただし、カミングアウトの障害になるものは特有の事情があります。

とくにアセクシュアル/アロマンティックの場合は厄介です。なぜなら、理由①で説明したように既存の業界では「恋愛」「性愛」に依存したストーリーが多く、ゆえにそれを“持たない”と自認するアセクシュアルは「恋愛やセックスをわからない奴」扱いされることもしょっちゅうあり、結果、雇用されづらい…ということにもなるでしょう。こんな状況ならカミングアウトしても絶対的に不利です。

明言しておきますけど「アセクシュアル/アロマンティックは恋愛やセックスをわからない奴だから、演じることも、監督も脚本もできない」という認識は完全に誤解です。アセクシュアル/アロマンティックの人の中には官能小説家だっています。ちゃんと仕事はできるのです。

理由③:視覚的なビジュアルインパクトがない

また、アセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーは見た目のわかりやすさがないのも取っつきづらいのかもなとも思います。

同性愛は、同性同士のキスや性行為など視覚的な情報で描けます(無論、それが偏見を助長する結果にもなりうるので、その表面だけを強調するのはマズいのですが)。トランスジェンダーは性別適合手術などの移行(トランジション)を主軸に描かれることが多いです。

一方で、ノンバイナリーの中にはドラァグクイーンみたいな人もいますが(『POSE ポーズ』のように)、そういう例を除けば、やはり視覚的にわかりにくいでしょう。「ノンバイナリー=中性的な容姿」とも限らないですからね。

アセクシュアル/アロマンティックに至っては視覚的にどうこうわかるものでもないです。

映像作品はどうしても見た目重視の世界。視認だけで伝わるジェンダーやセクシュアリティの方が優遇されます。

理由④:文化的もしくは商業的な波及が起きていない

LGBTQはそれが当事者にとってのメリットがあるかどうかは別にして、何らかの形で文化的もしくは商業的な世界に波及しているケースがあります。

例えば、同性愛は「BL」「百合」のようなジャンルコンテンツ(ポップカルチャー)としてファンダムを獲得しています。トランスジェンダーの人も多くの文化を構築してきました。当然ながらそれらは搾取的・消費的なものにもなりうるので、一概に“良いこと”として扱えるものでもないです。ただ、間違っているにせよ、スタートは誤解からでも“触れる”機会にはなります。

一方で、アセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーにはそういうものがほとんど乏しいです。いや、厳密にはアセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーは最近になって出現したものではないですし、昔から文化はあるはずなのですが、勢力としてまとまって可視化されるものが薄いです。アセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーと聞いて、何か文化的なものを想像できる人はどれくらいいますか?

つまり、“触れる”機会もなく、誤解を論議する場もなく、社会に関与している気配すらない。世の中に全然知られていないのは、こういう“見えない存在”になっているという背景があるからとも言えるでしょう。

理由⑤:連帯やシスターフッドが通用するとも限らない

昨今のフェミニズムやLGBTQの高まりによって、映画などのストーリーテリングにおいて「連帯」(女性であれば「シスターフッド」と呼ばれる)という新しい手数が増えました。何か大きな社会的困難にぶちあたったとき、困っている者同士で、ときに年齢や人種を越えて助け合い、声をあげ、立ち向かう。私もそういう物語の新基軸が生まれたことは素直に嬉しいですし、その手の映画も好きです。

ただし、アセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーは必ずしも既存の連帯に馴染むとは限らないとも思います。というのも、全員がそうだというわけではないのですが、アセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーの中にはそういう集団への同調を嫌う人もいて(だからこそ既存の性別や恋愛&性愛から距離を置いている)、安易に仲間に加われないこともあるからです。

さらに例えば同じアセクシュアル/アロマンティック同士でも先述したように実際はかなり差異があったりするものですから、これまた気楽に「仲間だね!」と同族連帯などできません。そもそも既存の連帯はあまり“私たち向け”になっていません。

こうなってくると昨今の物語トレンドである連帯においてもアセクシュアルやノンバイナリーは除外されがち…ということに。

理由⑥:現実社会ですらLGBTQからも仲間外れにされがち

これは上記の理由⑤にも絡むことなのですが、アセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーは現実社会での有意義なLGBTQコミュニティからも仲間外れにされがちであるという根本的な問題もあると思います。

「LGBTQ+」のイベントなどが開かれたり、そういう特集記事がメディアで組まれても、「LGBTQ+」と掲げているにもかかわらず、アセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーに関する言及はない。こういうことは私もよく経験します。中にはLGBTQ支援組織でもアセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーが蚊帳の外になっているケースすらあります。研究事例も他と比べるとはるかに乏しいです。

こんな現実の状態なら、とてもじゃないですけど、アセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーをフィクション作品内で描くなんて手が届きません。

アセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーだけでストーリーをたっぷり展開させることはそんなにも難しいことなのか…。残念ながらそのようです。

ゲイやトランスジェンダーを描くことはスタートラインに立って、今、勢いよくダッシュしていると言えるでしょう。それは本当に喜ばしいことで、私も全力で応援しています。でも、アセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーはスタートラインにすら立てていない。完全に不可視な存在。これでいいのだろうか…。

映画は好きだけど、自分の映画に出会えない

私はアセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーですけど、映画が好きです。たくさん観ます。たくさん語っています(このブログを読んでください!)。それこそ恋愛映画だって鑑賞します。

私自身、「自分は映画好きだ」と当たり前のように自負してきましたが、でもそれは他の人のような「映画が好き」という感覚と重なって“いない”のではないかと、ふと考えることがあります。

マジョリティの人たちは「これぞ自分の映画だ!」という性の一致がある作品に出会うのは難しくないでしょう。たぶん何作が観ていればきっと出会えます。けれども私はかれこれ数千の映画を観たのに、そんな体験を1度もしたことがないのです(少なくとも性においては)。

自分の中ではそれが当たり前になりすぎて違和感を持つのも忘れていましたが、やっぱりあらためて考えるとそれは変です。いや、ハッキリ言わせてもらうなら不公平だと思います。

そんな状況に置かれているせいか、砂漠を彷徨ってオアシスの幻影を見るように、私も数多の作品の中に自分の性を見いだせないか無意識に探していることがあります。

例えば、私はアニメーション映画の中ではピクサー作品の『ウォーリー WALL-E』が本当に一番に大好きなのですが、これはウォーリーというロボットが主役の物語です。そして私はこの主人公のロボットにアセクシュアルやノンバイナリーの自分を重ねているのだと思います。このロボットはそもそも性別も生殖の概念もないですし、作中では孤独の中でパートナーや仲間を求めて奮闘します。それがなんというか重なるな…と。

また、ヨルゴス・ランティモス監督の『ロブスター』という変わった恋愛映画があり、これは独身の人間は動物に姿を強制的に変えられるというある種のディストピア作品です。私は本作を観て、まるで恋愛・結婚規範に憑りつかれているマジョリティを見るようで、なんだかスカッとします。あそこまで露悪的でなくとも、最近は「女の幸せは恋愛や結婚じゃない!」「男の価値は女を手に入れることじゃない!」などとジェンダーロールを打破する映画も増えて、これも私としては相性がいいです。

他にもアレックス・レーマン監督の『パドルトン』という映画があり、二人の男性の地味な物語なのですが、この関係性が何とも言えない曖昧さです。友人にしては親密だけど、別にゲイではない。この作中では特に何も説明されない関係性を見ていると、私はアセクシュアル/アロマンティック的な性愛や恋愛に依存しない親密な関係性に通じるものがあるなと思ったりもします。

それは突然、“出会った”

そういう“ひもじさ”を誤魔化し誤魔化しで生きているような私の映像作品創作物との付き合いの歴史ですが、最近、少し大きな変化の兆しがあり、私の心は揺れています。

それは意外な方向からやってきました。海外アニメのシリーズです。

『スティーブン・ユニバース』

例えば、そのひとつが『スティーブン・ユニバース』という2013年から放映されたアニメシリーズ。

これは「ジェム」というキャラクターたちが、地球を守るべく戦うファンタジー作品です。この物語の主要キャラになるジェムたちが、見た目は女性の姿なのですがノンバイナリー的に描かれており、このキャラたちの愛をテーマにした作品にもなっています。ファミリーアニメなので、直接的な性の描写はないのですが、結構上手いこと性の多様さを肯定的に描きだしている一作です。

この『スティーブン・ユニバース』が凄いなと思うのは、本作の原作にして監督も手がける企画の立案者である“レベッカ・シュガー”。この人は企画時はまだ20代で、その若さでプロジェクトを任せられているのも凄いのですが、実は“レベッカ・シュガー”は自分はノンバイナリーだとカミングアウトしています。つまり、作り手に当事者が関与していることに…。どうりで性の描き方が非常にクィア全開なのかと納得。

私としてはノンバイナリーであると自認する人が作り手(しかも中心)に普通にいることに驚いてしまいました。そして、作り手が当事者であることのパワーをまざまざと痛感できる作品にもなりました。

『スティーブン・ユニバース』は、GLAAD(メディアにおけるLGBTQへの差別を防ぐために活動しているアメリカの組織)が毎年選定している「GLAADメディア賞」にて2019年に「Outstanding Kids & Family Programming」の部門で受賞しました。

『ボージャック・ホースマン』

そして、私が「これは私の物語かも…」と初めての感覚を抱くことができた作品も登場しました。

それが『ボージャック・ホースマン』というこちらも海外アニメシリーズで、2014年に始まり、2020年にシーズン6で完結した作品。

現実によく似た架空の世界が舞台で、『ズートピア』のように擬人化された動物たちが暮らしています(ただし、人間もいる)。絵はいかにも緩そうですが、完全に大人向けの作品で、シニカルなストーリーが好評を博し、高い評価を獲得しました。

この作品で主人公ボージャック・ホースマンの次に出番が多いかもしれない、重要な主要キャラとして存在するのが「トッド」です。彼はあるエピソードで「自分はアセクシュアルだ」と自認するに至ります。明確に自認しただけでも凄いのですが、本作がさらに凄いのは、アセクシュアルとしての自認するまでの葛藤、自認してからの葛藤がもれなくしっかり描かれているということ。単なる奇抜キャラではない、心の通った人間としての苦悩がちゃんと描写されているのです。アセクシュアルのコミュニティに勇気を振り絞って参加したり、いろいろな自分以外のアセクシュアルの人と知り合って発見をしたり、アセクシュアルな自分だけどパートナーが見つからないかと模索したり…。トークン・マイノリティ・キャラクター(カタチだけの登場で終わるLGBTQキャラのこと)じゃないのです。

これには私も、感動をとおりこして、鳩が豆鉄砲をくらったような気分になりました。だって数千の作品を観ても自分の一致するものに出会えなかったのに、いきなりポン!と現われたんですよ。ツチノコを目撃したような感じです。

この『ボージャック・ホースマン』のトッドというキャラクターが成し遂げたことは異例中の異例で、現状(※当時の話)、このキャラに続くアセクシュアルに寄り添った作品は以降も登場していないと思います(GLAADがまとめた「Where We Are on TV Report 2019 -2020」にもそう報告されている)。それくらい特異というか、マイルストーンというよりは最初の一石を剛速球でぶつけてきた一作だったのです。

『ボージャック・ホースマン』は2020年に完結したので、必然的にアセクシュアルのキャラクターが真正面から登場する作品はこの世にゼロになったことに…。このご時世でゼロですよ…。

変われる、変えてみせる

アセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーが最も経験する差別は「周縁化(marginalization)」です。要するに「無かったことにされる」っていうやつです。初めからいない者扱い…そういう状態に私も慣れきってしまっていました。映画などの創作物の世界でも同じ。私がそこにはいないのは“普通”なんだ…と。

でもそうじゃないんだ!と声を上げようと最近は思うようになりました。それはまさに『ボージャック・ホースマン』のような作品に出会えたからです。だからこの記事を書いています。

もっとアセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーを主体的に描く作品が増えてほしい。
もっとアセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーの監督が増えてほしい。
もっとアセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーの脚本家が増えてほしい。
もっとアセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーの批評家が増えてほしい。
もっとアセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーのライターが増えてほしい。

業界に変わってほしい。

そうすればその作品を観てさらに世界全体が変わるかもしれないから。

そのために私ができることがあるなら何でもします。自分のために。他の同じアイデンティティを持つ人のために。

アセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーが認められる社会への道のりはまだ遠いです。それこそフェミニズムやゲイ&トランスジェンダーなど、メインストリームになっている平等を目指す運動さえも苦戦しているのですから。それらが達成されないならアセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーなんて夢のまた夢。

でも最近はその夢を妄想するだけではない、自分にできることを見つけられる気もしてきました。

アセクシュアル/アロマンティックやノンバイナリーの作品をたっぷり見るまで私は死ねません!


最後に『ボージャック・ホースマン』からあるひとつの場面のやりとりのセリフを引用します。これはアセクシュアルをまだ自認できずに性に迷うトッドが、それを知らずに自分にアプローチしてくる昔からの知り合いの女性(エミリー)と語るシーンです。

エミリー「あなたって何ていうのかな、私のことが好きじゃないようで好きみたいよね。ゲイなの?」
トッド 「ゲイじゃない、違うと思うよ。でもストレートとも思えない、自分がわからない。どっちでもないのかも」
エミリー「そっか、でもそれでいいよ」
トッド 「そう?」
エミリー「それでいいの」

 

※「シーズン3の12話」より引用

私は映画に特別なハイレベルな要求をするつもりはないです。ただ「それでいい」と言ってくれるだけでいいんです。そうやってもっと「好き」になりたいのです。


以下は、自分の話の続き。