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アニメ『ゆびさきと恋々』感想(ネタバレ)…障害者フェティシズムの世界のその先

ゆびさきと恋々

障害者フェティシズムの世界のその先を指さす…アニメシリーズ『ゆびさきと恋々』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。

英題:A Sign of Affection
製作国:日本(2024年)
シーズン1:2024年に各サービスで放送・配信
監督:村野佑太
恋愛描写
ゆびさきと恋々

ゆびさきとれんれん
『ゆびさきと恋々』のポスター。主要キャラ7人が揃ったデザインで、中央に主人公が座っている。

『ゆびさきと恋々』物語 簡単紹介

聴覚障害がある女子大生の糸瀬雪は、ある日、困っているところを同じ大学の先輩である波岐逸臣に助けてもらう。耳が聴こえず手話が日常の当たり前である雪にも動じることなく、自然に接してくれる逸臣は、海外旅行に頻繁に出かけるほどにコミュニケーションに慣れていた。そんな新しい世界をたくさん知っている逸臣のことが、初対面のときから雪は目が離せなくなり、心をときめかせていく。
この記事は「シネマンドレイク」執筆による『ゆびさきと恋々』の感想です。

『ゆびさきと恋々』感想(ネタバレなし)

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手話は文化であり、言語であり…

私は歌などの動画を見ることがほとんどないのですが、最近、日本ではTikTokなどのSNSにて、歌唱に手話のような手振りを混ぜ合わせたスタイルが流行っているらしいです。それをしているのは、基本的に普段は手話利用者ではない人たち(”ろう者”ではなく聴者)です。

こうした手話歌の流行りについて、ろう者(デフ)当事者の間で批判の意見もあがっています日本財団ジャーナル。手話を知ってもらえる機会になると肯定的に受け止める人も一部ではいますが、主な否定的反応としては「手話がパフォーマンス化してしまっている」とその手話の文化としての存在意義が失われていることを危惧する声が多いです。

非当事者にしてみれば、手話は手を動かしている「仕草」としか見なしていないかもしれませんが、実際は手話はれっきとした「言語」であり、非当事者がよくやる身振り手振りの仕草とは全然違うものです。

しかし、社会で圧倒的に多数を占める聴者であるマジョリティの人たちは、なかなかその手話の言語としての世界を知る機会もありません。

メディアで描かれる物語がそれを伝える入り口になればよいですが、それは上手くいくのでしょうか。そんなことを考えつつ、このアニメもみるといいのかもしれません。

それが本作『ゆびさきと恋々』

本作は、”森下suu”という漫画家ユニットによる『デザート』で2019年から連載している漫画が原作。耳の聞こえないろう者の女子大生を主人公とした物語で、そんなヒロインが聴者の男性に恋をしていく恋愛モノです。

特定のディサビリティを抱えた人(世間的には「障害者」と呼ばれる。それは望ましい表現ではない)と、とくにディサビリティを抱えていない人(世間的には健常者と呼ばれる。それは望ましい表現ではない)が、カップリングを成すタイプの恋愛ジャンルは定番のひとつです。

このカップリング構成が好まれるのは、おそらくアロフィリア的な気持ちよさを視聴者に届けやすいからなんだと思います。「アロフィリア」というのは、異なる他者と見なされるグループのメンバーに対する個人の強い感情を指します。要するに、相手の他者性に惹かれ合うということです。

『ゆびさきと恋々』もその点では非常にベタな構図です。ろう者と聴者の双方の視点があり、相互理解が描かれます。

とは言え、漫画原作のものをアニメ化するのはこの業界ではあまりによくある流れではありますが、それが手話を主題にしているとなると難しさが浮上します。

というのも、アニメーションは作画が要になってきます。一般的に作画のコストを抑えるために、どれだけ動きを省略できるかがいつも製作上では試されます。顔のアップを多用したり、逆に遠くの俯瞰で描いたり、そうして口や手など最も作画を求められるシーンを減らす…そんな工夫がいろいろなアニメでも見て取れます。

しかし、手話や口語を表現するには、手や口を精密に動かさないといけません。いつもの業界で慣習化している省略表現ではダメです。結果的にこの日常モノの恋愛作品ではなかなか見ないレベルで、作画のきめ細かい動きを要求されることになり、製作は大変だったと思います。

アニメ『ゆびさきと恋々』の制作チームは、その難易度の高い表現に応えるべく、作中でもしっかり手や口の動きを表現しており、その点においては手話文化への誠実な姿勢を感じます。少なくとも手話はパフォーマンスや振り付けなどではなく、その当人にとっては生活に密着した感情を伝える言語であることを前提にしています。

それ以外はどうなのかという話は、後半の感想に回すとします。後半もあれやこれやと書いているんでね…。

こういう作品を「いや~、ドキドキしました!ときめきました!」みたいな感じで楽しむのももちろんいいとは思うのですが、私はもっとディサビリティの表象の観点でみつめる考え方に触れていきたいなと日頃から思っているので、自分でも自分の思う範囲での感想を書いています。

なお、あくまでアニメ版で描かれた範囲での感想になっています。

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『ゆびさきと恋々』を観る前のQ&A

✔『ゆびさきと恋々』の見どころ
★手話の文化や言語を知る入り口になる。
★ディサビリティ当事者の恋愛が対等に描かれる。
✔『ゆびさきと恋々』の欠点
☆ステレオタイプな表象の問題は多少目立つ。
☆社会構造の非対称性まで深く描いてはいない。
日本語声優
諸星すみれ(糸瀬雪)/ 宮崎遊(波岐逸臣)/ 大塚剛央(芦沖桜志)/ 本渡楓(藤白りん)/ 逢坂良太(波岐京弥)/ 東山奈央(中園エマ)/ 畠中祐(伊柳心) ほか
参照:本編クレジット

オススメ度のチェック

ひとり 3.5:表象に関心あれば
友人 3.5:恋愛モノが好きなら
恋人 3.5:異性愛ありき
キッズ 3.5:キスくらいまで描写
↓ここからネタバレが含まれます↓

『ゆびさきと恋々』感想/考察(ネタバレあり)

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あらすじ(序盤)

大学生1年の糸瀬雪は街並みの中を歩きながら、音もなく舞い落ちる雪をスマホで撮影していました。カシャっとシャッター音が鳴った後、また歩き出します。

乗客の会話、ヘッドホンから漏れる小さな音楽音、スマホの振動音…そうした雑然とした男が充満している電車。車内アナウンスが次の停車駅を知らせます。そこに乗っていた糸瀬雪は可愛いワンピースが安く買えたことにご満悦で、SNSを見ると友達の藤白りんが写真をあげていたので「いいね」を押します。

ふと、外国人らしき人が肩を叩いてきて、何やら喫茶店を紹介する雑誌を指さして話しかけています。もしかしたら場所を知りたいのか。糸瀬雪は両手を合わせて「ごめんなさい」の感情を伝えようとしますが、相手に意図は伝わっていません。

そのとき、ひとりの男性がその外国人と話してくれました。ちゃんと会話できているようです。どこかで見た人だと思ったら、藤白りんと同じサークルの人だと思い出します。

糸瀬雪は耳の補聴器をみせて、手話で感謝の意を伝えます。スマホであらためて伝えようとすると、口の動きを読めるかと聞いてきて大雑把な手ぶりとハッキリした口の動きで「さっきの人は日本語がペラペラだった」と言ってきます。

続いてその男性はまじまじとこちらを見てきます。その男性は頭にポンと手を乗せて、次の駅で降りていきました。ホームに立った彼は「また」と口の動きで伝えて去っていきます。初対面であそこまで自然に接してくれたことで糸瀬雪の心の中にあの人が強く印象に残りました。

翌日、講義後、藤白りんにあの男性のことを訊ねます。波岐逸臣という名でよく海外旅行に出かけているそうです。藤白りんに指摘されて「これは憧れなのか。恋なのか」と考えます。

その後、逸臣のいとこである波岐京弥が店長をしているカフェバーに行こうと誘われ、自分も波岐逸臣の連絡先を聞こうと頑張ることにします。

さっそく夜に藤白りんとそのバーに。波岐逸臣がそこにいました。うつむいていると手のひらで顔をこちらに向けさせられ、何か飲むかと聞かれます。

波岐逸臣は語学に多才のようで、客の外国人にも慣れています。自分には何語かもわかりません。私の知らないいろんな世界を見てきた人だと痛感します。いつの間にか藤白りんは波岐京弥との連絡先交換に成功したようです。

結局、連絡先を聞けず店を出ると、波岐逸臣が送ってくれると言います。そのまま一緒に雪が舞う中、歩きます。少し先を歩く波岐逸臣。後ろからのバイクの接近に気づき、肩を引き寄せてくれます。手を握られて一緒に歩いてくれることになり、急な展開にドキドキする糸瀬雪。

思い切ってスマホで連絡先を聞き、交換できました。波岐京弥は「いいよって手話でどうやるの?」と手話に関心がある様子。

ある質問をスマホのメッセージでぶつけます。

「世界は広いですか?」

「すげぇ広い」と返信があり、「俺を雪の世界に入れて」と続いて返ってきました。

糸瀬雪は嬉しくなり、思わず大振りで喜ぶ動作をします。自分の溢れんばかりの気持ちが伝わりすぎたかもしれない…。

この『ゆびさきと恋々』のあらすじは「シネマンドレイク」によってオリジナルで書かれました。内容は2024/05/06に更新されています。
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ろう者のキャラに声を追加する影響

ここから『ゆびさきと恋々』のネタバレありの感想本文です。

全米ろう協会が発行した「メディアのろうコミュニティ描写をめぐるガイドライン」というものがあり、日本語訳もでているのですが、そこでも強調されているとおり、表象における当事者の関与は大切です。

『ゆびさきと恋々』の原作漫画も、手話文化に精通している人に監修してもらい、作品を作り上げていったそうです。作品のテーマで全面に打ち出されているのは「言葉の伝わる力」であり、漫画という限られた表現でもそれを示せるように凝った技法が駆使されています。例えば、主人公の糸瀬雪は聴者相手でも口の動きを読み取ってコミュニケーションしていますが、それが上手くわからない場合は、ふくだしのセリフの文字が薄くなったり、反転したり、サイズがランダムになったりして、その読み取りにくさを表現しています。

そうした練られた漫画表現を全くスタイルの違うアニメーションにそのまま置き換えることはできません。漫画は視覚情報に依存しますが、アニメは動画なので加えての情報を追加します。そこが表現のバリエーションになるのですが、問題は本作はろう者を扱う以上、音の演出を盛り込めばそれはもっぱら聴者を楽しませる表現にしかならないことです。

アニメ版において、糸瀬雪は音声でナレーションしたり、手話も音声化して表現することもあるなど、その本人の能力とは違ってよく「声」で喋ります。声優による声がつくので、脳内思考という感じでは収まらず、明確に声のキャラづけが追加されます。糸瀬雪の声は、音調高めの控えめな声色になっていて、本作では他にも女性キャラは複数いますが、その中でも突出して大人しめな声のトーンです。

手話の意味は字幕で表示されますし、クローズドキャプション(CC)も備わっているので、ろう者でもこのアニメは楽しめないということはないと思いますが、糸瀬雪が聴者的なキャラクター性に傾いた感じは否めません。ただでさえ、本作には中途失聴者であるまどかというキャラが登場し、そのまどかは多少拙いものの言葉を発せる能力があり(当事者ではない声優の演技なのもありますが、かなり聞き取りやすい声)、それに対して糸瀬雪はすごく流暢に作中では「声」で喋っているので、なんかチグハグです。

漫画だと文字表現であれば読者のイメージで膨らませる自由さがあり、それはキャラ自身の脳内思考と一致するのでいいのですが、アニメで声がつくとそういう仕掛けにはなりません。

あえて糸瀬雪の感情を手話だけで表現してみせるような挑戦は、アニメではやらなかったのは、いろいろな事情を考えてのことかもしれませんが、もったいない感じもあります。別にろう者でなくとも言葉を発しない主人公は、結構アニメ作品でもチラホラいますし、無理難題なことではないと思うんですけどね。

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障害者フェティシズムのその先を指さす

『ゆびさきと恋々』は、ろう者の女性でも、定番の恋愛ストーリー(センチメンタルでピュアなラブストーリー)を味わってもいいんだというコンセプトがあるのだと思いますし、それはそれでとても有意義だと思います。

本作はディサビリティを「世界の広さ」と解釈し、異なる世界を持つ者同士の異文化コミュニケーションとして丁寧に描いていました。

糸瀬雪は、生まれつきのろう者であり、補聴器をつけていますが音のない世界が日常です。幼稚園から高校までろう学校にいて、同級生は4人。本作はそんな糸瀬雪が、まるで狭い世界に閉じ込められたプリンセス(『塔の上のラプンツェル』的な)のように位置づけられ、実質、プリンセス・ストーリーです。恋愛にも疎く、そんな恋を知らぬ糸瀬雪が、恋を知っていく物語でもあります。

糸瀬雪の王子様的なポジションとなる波岐逸臣は、日本語のほかに英語とドイツ語ができるトリリンガルで、国際サークル所属で、頻繁に単身で海外に行ったり、躊躇しないコミュニケーション能力の持ち主。糸瀬雪のようなろう者でなくとも、世界を広げるような存在でしょう。本作ではこの波岐逸臣はかなり理想化された男性像を体現しています(男性に対しても有害な関係を作らない)。「言葉が通じた瞬間が嬉しい」という本質的なコミュニケーションの快楽を通して、2人の相思相愛にフラットな説得力を与えています。

とは言え、少し気になるのは、糸瀬雪のキャラクター性でしょうか。

一般的な傾向として、何らかのディサビリティを抱えた女性を設定するとき、あるステレオタイプを助長するケースがあります。それはディサビリティが「か弱さ」と重なり、「守ってあげないといけない」という庇護欲を駆り立てる存在になってしまうことです。言うなれば「障害者フェティシズム」とでもいうべき、消費的な対象にされがちです。

本作の糸瀬雪はそうならないように主体性を持って描こうとはしており、一定のラインは下回っていないのですが、それでもやっぱり人畜無害な小動物っぽい愛くるしさを全面にだしているので、消費はしやすい表象ですよね。

デフネス(Deafness)を描く作品では、『CODA コーダ あいのうた』やドラマ『エコー』のように当事者の主体性を相当に強く打ち出しているものが多く、逆に言えばこうでもしないとすぐさま消費されやすいので、その抵抗とも言えます。日本作品だと『ケイコ 目を澄ませて』『映画 聲の形』はまだ『ゆびさきと恋々』よりも抵抗感がでていましたね。

『ゆびさきと恋々』は、その糸瀬雪を「聴覚障害」という他者化した概念で包んでしまう危うさを示す存在として、幼馴染の芦沖桜志がいます。彼は「いっそ安全なところにいてくれれば」と糸瀬雪に対して思ってしまうあたりで、パターナリズム&エイブリズムを滲ませるのですが、最終的に手話通訳士を目指していきます。その職業になるならなおさらそのパターナリズム&エイブリズムは改善していってほしいものですが…。

本作は糸瀬雪と波岐逸臣の関係性を「尊い」みたいなマジックワードで理想化をいくらでもできますし、その関係性から「優しさ」「思いやり」で回収されるリスクは内在しています。

忘れてはいけないのは、異なる世界にいるといっても「非対称」だということです。マスクをしている人では口が読み取れない、車内のアナウンスが聞こえない、バイトを見つけづらい…それらの小さな困難の数々は糸瀬雪だけが経験するもので、それは社会構造のせいです。

糸瀬雪の世界は本当に狭いのか、狭いように見せているのは何なのか、王子様に出会えなくても世界は平等であるべきでないのか…考えることはいくらでもあります。

そこまでの認識に到達してやっと聴者にとってこの作品は「入り口に立たせた」と言えるのではないでしょうか。

『ゆびさきと恋々』
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シネマンドレイクの個人的評価
6.0
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関連作品紹介

日本のアニメシリーズの感想記事です。

・『薬屋のひとりごと』

・『葬送のフリーレン』

作品ポスター・画像 (C)森下suu・講談社/ゆびさきと恋々製作委員会 指先と恋々

以上、『ゆびさきと恋々』の感想でした。

A Sign of Affection (2024) [Japanese Review] 『ゆびさきと恋々』考察・評価レビュー