鯨の魂は引き裂かれる…映画『52ヘルツのクジラたち』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:日本(2024年)
日本公開日:2024年3月1日
監督:成島出
自死・自傷描写 DV-家庭内暴力-描写 児童虐待描写 LGBTQ差別描写 恋愛描写
ごじゅうにへるつのくじらたち
『52ヘルツのクジラたち』物語 簡単紹介
『52ヘルツのクジラたち』感想(ネタバレなし)
日本社会で声を共有する弱者
これは完全に私の主観で何の統計上のデータとかがあるわけでもないのですけど、最近の日本の小説にて「トランスジェンダー」の言及(当事者の登場人物も含む)が目立ってきているような気がします。とくにもとからクィアな作品を得意とする作家ということでもなく、おそらく近年の話題のトピックだからという理由での採用なのかなと思われる傾向が多い感じです。
まあ、良くも悪くもトランスジェンダーに関する報道はこの数年で日本でも格段に増えましたし、こうやって副次的に創作での登場が増えるのは自然の流れでしょうか。その表象の質はピンからキリまでですけども…。
小説での表象が増えたということは、連鎖的に映像作品の表象でもややラグがありながらも増え始めるということになります。ベストセラーになった小説は映像化されることが多いからです。小説と映像だと表象としての伝わり方がまるで違ってくることもありますので、どうなるのか気にはなります。
今回紹介する映画も、トランスジェンダーの表象がある小説が映像化されたものです。
それが本作『52ヘルツのクジラたち』。
原作は、『カメルーンの青い魚』や『コンビニ兄弟—テンダネス門司港こがね村店—』などを執筆してきた“町田そのこ”の2020年の小説です。20代後半に専業主婦から小説家として花咲いた人で、この『52ヘルツのクジラたち』は本屋大賞を受賞し、ベストセラーで多くの人々に読まれ、代表作となりました。
物語は、ひとりの20代の女性が主人公で、児童虐待や家庭内暴力など劣悪な人生を経てきた彼女を通して、声をあげられない者たちが手を差し伸べ合って生存しようとする姿をリアルに描いています。
タイトルの「52ヘルツのクジラ」というのは作中でも軽く説明されるのですが、あるクジラの逸話に由来しています。 1989年に「52Hz」という珍しい周波数で鳴くクジラの声が研究者によって検出され、にわかに注目されました。というのもそのあたりを回遊するクジラは、シロナガスクジラ だと10~39Hz、ナガスクジラだと20Hzが一般的なため、そのクジラに該当しなかったのです。研究者は何らかの異常個体か雑種ではないかと考えているようですが、他のクジラに声が聴こえないので「世界一孤独なクジラ」と哀愁たっぷりに呼称されるようになりました。実際のところ、この52Hzのクジラは複数個体いるようで、普通に生存しているので、別に孤独でもないようですが…。
このクジラについては2021年に『The Loneliest Whale: The Search for 52』というドキュメンタリーにもなっています。
話を戻して、この小説『52ヘルツのクジラたち』が2024年に映画化され、監督を手がけたのは、もとは脚本家で、『八日目の蟬』(2011年)や『ソロモンの偽証 前篇・事件 / 後篇・裁判』(2015年)で話題となり、その後も最近だと『いのちの停車場』(2021年)、『ファミリア』(2023年)、『銀河鉄道の父』(2023年)などを監督した“成島出”。
映画『52ヘルツのクジラたち』の脚本は、『ロストケア』の“龍居由佳里”が手がけています。
主人公を演じるのは、あちこちに引っ張りだこの若手俳優の“杉咲花”。2023年には『市子』でも酷い家庭で生きてきた役を演じていたので、なんだか辛い目に遭っている姿ばかり最近はスクリーンで観ている気がする…。
後半の感想では、映画『52ヘルツのクジラたち』のトランスジェンダーの表象にとくに注目して、それらがどういうふうに当事者の現実性とフィクション性の間で作用を生んでいるのかを考えてみたいと思います。
『52ヘルツのクジラたち』を観る前のQ&A
鑑賞の案内チェック
基本 | 生々しい児童虐待の描写、男性から女性への家庭内暴力の描写、さらにはトランスジェンダーへの差別の描写、自死の描写が含まれます。 |
キッズ | 上記の描写があるので、保護者の注意が必要です。 |
『52ヘルツのクジラたち』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(前半)
20代の三島貴瑚はお茶を用意し、高低差のあるウッドデッキの下で外作業している2人の男性に声をかけます。ここは大分県の海辺の町です。窓から見えるのは広々とした海でした。
工務店の作業員の若いひとりが「風俗をやっていたって本当ですか?」とぶしつけな質問を口にします。もうひとりの作業員の村中真帆は迂闊な発言をすぐに叱ります。どうやら東京からこの家にふらっとやってきた彼女を怪しんで、地元で噂になっていたようです。この家には似たような境遇の芸者あがりの人が以前に住んでいたと。実はその人は祖母でした。
三島貴瑚は海を間近にしながら、座ってイヤホンをつけます。隣に「アンさん」と呼ばれる人物が座ります。「きなこはいつだって可愛いよ」とそのアンさんは語り、「じゃあなんで私を置いてひとりで行っちゃったの?」と三島貴瑚は寂しそうに呟きます。
隣には誰もいません。そのとき、どしゃぶりの雨が降り、三島貴瑚は苦しみだして地面に倒れます。そこへ髪の長い汚れた痣だらけの子どもがゴミの傘をさしてくれます。
三島貴瑚はありがとうと言って、その子に声をかけます。その子は喋らず、家もわかりません。しょうがないので家に案内します。
家で上着を脱ぐ三島貴瑚。腹に刺し傷があります。一方でその子の全身には痣が無数にありました。その姿を指摘すると、その子は上半身裸のまま飛び出してしまい、行方がわからなくなります。
翌日、町であの子を探し回っていると、村中真帆が車で通りかかります。例の子に心当たりがあるようで、その子の母である品城琴美がバイトしているという定食屋に誘ってくれます。
その品城琴美は博多でアイドルみたいなことをしていたそうですが、シングルマザーで出戻ってきたとのこと。子どもは学校にも行かせずに家に閉じ込めているらしいです。
店の外で品城琴美に子どものことを丁寧に尋ねますが品城琴美は「私は子どもなんていない」と激昂し、飲み物をぶちまけて、去ってしまいます。
いきなりの状況に直面した三島貴瑚は自分が子どもの頃を思い出します。母の新しい結婚相手や母本人から虐待を受け、母はそれを放任し、可愛い顔でいれば殴られないと言っていたこと。その母の主張を、何もわからなかった子どもの自分はそのまま受け入れていたこと。
現在、三島貴瑚の家でまたあの子がやってきます。「ありがとう、よく来てくれたね」と優しく声をかけ、寂しい時に聞く声があるとイヤホンを片耳だけ渡します。
それはあるクジラの声。52ヘルツで鳴くクジラの声でした。
「辛かったね。あなたの声、私には聞こえたから」「私にも私の声を聴いてくれた人がいたんだよ」
そしてまた過去を思い出し…。
家族の呪いの海を泳ぐクジラたち

ここから『52ヘルツのクジラたち』のネタバレありの感想本文です。
『52ヘルツのクジラたち』は、社会における多様な犠牲者を描き、それらの被害者性を背負う者たちが寄り添う姿を映し出し、社会的抑圧を描いているものの、表面上は非政治的で、事を荒立てない静かな共助を描くにとどまる…というタイプのよくある作品です。被害者性を背負う者をトラウマ面を強調して描く作品も多いですが、今作のタイプはトラウマティックな映像もありつつ、複数が支え合う姿に重きが置かれます。
これまでこのタイプの作品では、児童虐待、家庭内暴力、貧困などが定番でしたが、最近はそこに性暴力、介護などの社会問題が追加され、さらに性的マイノリティも肩を並べるようになったのが今の日本社会での認知度を物語っています。
本作の主人公である三島貴瑚は幼少からネグレクトな家庭に育ち、暴力とマインドコントロールが当たり前で、高校卒業後はヤングケアラーとして寝たきりの義父に従事するだけの日々を送っていました。
その後は牧岡美晴と岡田安吾の手助けで、一時は好転するも、今度は職場の上司である新名主税と交際するようになると、次はこの男が三島貴瑚を支配し、DVなどの加害を加えるようになって…。
「家族っていうのはときに呪いになる」と岡田安吾が語るように、呪いから脱してもまた新たな呪いが降りかかる。個人の努力だけではこの負の連鎖から脱せません。
作中でかなり嫌な母親として印象を残す品城琴美だって、彼女なりの負の連鎖を経験してあの状態にあるのかもしれません。
その品城琴美に育てられた「52」と三島貴瑚らに呼ばれることになる子ども。その子を救うべく、三島貴瑚はかつて自分を助けてくれた岡田安吾の寄り添い方を引き継いで実践することに…。
前述した「52ヘルツのクジラ」をこの日本社会で“声をあげることのできない”孤独な人々の比喩として用い、センチメンタルでありながら、現実社会の問題を直視するストーリーテリングは堅実でした。
個人的に良かったのは、介護に苦しんでいた三島貴瑚や、虐待を受けていた52の件で、ちゃんと社会支援の制度やサービスを利用する姿も描いていたところですね。こういうのは映画では無視されがちですが大切なことだと思います。
同情されないといけないのか
続いて『52ヘルツのクジラたち』のトランスジェンダー表象の話に移りますが、良かった部分としては、何よりもトランスジェンダー男性である岡田安吾を演じているのが男性俳優である“志尊淳”であり、キャスティングでの致命的な問題は無かったということ。基本中の基本ですが、大事なのでね…。もちろん当事者キャスティングが理想ではあったかもしれませんが…。
そしてそのトランスジェンダー男性である岡田安吾のキャラクターも、トランスジェンダーのアイデンティティを侮辱的に描くようなことはしておらず、基本は人間性をともなっています。
一方で、悪かった部分…というか全体として岡田安吾のキャラクター描写はそのプロット上の活用や展開も含めて、ステレオタイプなトロープの詰め合わせのようになっていたのが非常にずっと気になりました。もう「トランスジェンダーのトロープを全部入れ込みました!」ぐらいのつるべうちなんですよ。
最初の岡田安吾が三島貴瑚を颯爽と助けてくれる前半の出番は、完全に典型的な「マジカル・クィア」です。
後半は、岡田安吾がトランスジェンダーであると、ジェンダークリニックの診察カードやホルモン療法をする姿で観客に提示されるのに始まり、決定的には新名主税によるアウティングで明らかになります。「オチとしてのセクシュアル・マイノリティの発覚」の型どおりです。
しかも、母親の目の前でアウティングされるという相当に醜悪な事例となっています。
そしてここからはひたすらに陰惨なトランスジェンダー当事者の不幸が続き、「Trans Tribulations」をなぞっていきます。
最終的には岡田安吾は自死をし、「Bury Your Gays」でそのキャラクターの出番は幕を閉じます。主人公の人生の未来を支える魂となるだけです。
この描写が根本的に間違っているわけではないですし、現実の日本社会におけるトランスジェンダー当事者でもこういう悲痛な境遇にある人もたくさんいます。非現実的な描かれ方ではありません。
しかしながら、全体として「同情」が優先され、その描かれ方はマジョリティ側にとっての都合のいい「可哀想な人」にとどまっています。
こういう表象を観たときに、性的マイノリティ側として思うのは、「やっぱり同情されないとみんな作品に寄り添ってくれないのかな」と感じてしまうことですかね。ただでさえ現実のトランスジェンダーは差別のせいで敵意を向けられやすいです。敵視されないための同情という安全策になりかねません。
今作ではトランスジェンダーである岡田安吾も家庭の呪いを強調して描かれており、他の例えば『片袖の魚』で映し出されたように職場とか日常の偏見はほぼ描かれておらず、実在感は薄いです。今の日本でトランスジェンダーであることは実際はかなりさまざまな社会のあれこれと密接に交差・衝突するもので、本来はもっと多彩に描けます。

そしてその苦しみを乗り越えてサバイブしていく当事者として描くこともできたはずです。それにジェンダーを肯定される(ユーフォリア)を豊かに描くのだってできますし…。
大型のクジラの寿命は70年や80年にもなります。創作の中のトランスジェンダーだってそれくらい長生きしてもいいじゃないですか。
シネマンドレイクの個人的評価
LGBTQレプリゼンテーション評価
△(平凡)
関連作品紹介
トランスジェンダーに関するドキュメンタリーの感想記事です。
・『ジェーンと家族の物語』
・『ウィル&ハーパー』

作品ポスター・画像 (C)2024「52ヘルツのクジラたち」製作委員会
以上、『52ヘルツのクジラたち』の感想でした。
52 Hertz Whales (2024) [Japanese Review] 『52ヘルツのクジラたち』考察・評価レビュー
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