ホン・サンス監督が撮りたいと言うのなら…映画『あなたの顔の前に』の感想です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:韓国(2021年)
日本公開日:2022年6月24日
監督:ホン・サンス
あなたの顔の前に
あなたのかおのまえに
『あなたの顔の前に』あらすじ
『あなたの顔の前に』感想(ネタバレなし)
2020年代に入って好調のホン・サンス監督
2020年代に入ってから、“ホン・サンス”監督が好調です。
“ホン・サンス”監督についての説明は…まあ、もういいでしょう。韓国を代表するベテラン監督であり、自主制作的なスタイルをずっと貫いているスタンドアローンなクリエイターです。1996年の初監督作『豚が井戸に落ちた日』以降、どんどんと作品を生み出し続け、ほぼ年に1作以上のペースで創作活動を常時稼働しています。独特の作風もあって、ファンも根強いです。
その“ホン・サンス”監督ですが、もともと国際的な評価が高い人物でしたけど、2020年代になってからその実績がさらに積みあがっています。
2020年公開の『逃げた女』はベルリン国際映画祭で銀熊賞(最優秀監督賞)を受賞。監督としてのキャリアは頂点です。
それで終わらず、2021年の『イントロダクション』では、ベルリン国際映画祭で銀熊賞(最優秀脚本賞)を受賞。さらに2022年の『The Novelist’s Film』では、ベルリン国際映画祭で銀熊賞(審査員グランプリ)を受賞。なんでしょうか、この怒涛の受賞連発。まあ、ベルリン国際映画祭に贔屓されているだけかもしれないですけど、でもこんな連続して賞に輝きまくる監督も多くはないわけで…。
ただ、なんとなく気持ちもわかる気がします。このコロナ禍を経験してしまった私たちの社会は、どうもすっかり人疲れ・社会疲れのようなものを引き起こし、自然と既存の人間関係から少し離れて、自分の在り方を静かなところで見つめ直したいなと思ってしまう…そんな空気も濃くなったのではないでしょうか。
そんな今だからこそ、“ホン・サンス”監督作品のあの最小構成で人間関係をただただ写し取っていく作風は心に染みることがあって…。ごりごりのエンタメも、強烈な問題提起も見たくない。とにかく今は平穏が欲しい…。そういう気分になるときもありますよね。だからちょっとしたリラクゼーション・セラピーみたいなものですよ。
“ホン・サンス”監督は今になって映画業界で持ち上げられているのはそういう背景もあるのかもですね。
その“ホン・サンス”監督、実は2021年はもう1本の映画を作ってもいました。それが本作『あなたの顔の前に』です。
『あなたの顔の前に』も“ホン・サンス”監督らしい肌触りの映画です。登場人物もいつものようなかなり抑えめ。今回はひとりの中年女性が単独で主人公となっています。その女性は、どうやらアメリカから韓国に戻ってきたようで、妹の家に一時的に身を寄せています。そんな主人公が過ごすたった1日の出来事を描く、コンパクトな物語です。
“ホン・サンス”監督作品を知っている人になら言うまでもないのですが、『あなたの顔の前に』も主人公である女性の内面が観客には明らかにされない中で、その自然体をそのまま撮るかのようなカメラの立ち位置で、ほんのわずかに主人公の感情がこぼれ出るのを見逃さない。“ホン・サンス”監督的な人間観察の嗜好が垣間見える作品になっています。
たぶんコロナ禍の最中に撮影したのだと思いますけど、まあ、“ホン・サンス”監督作品はパンデミックでも全然影響ないシンプルイズベストで構成されていますからね。全くお構いなしです。
本作『あなたの顔の前に』では、“ホン・サンス”監督の公私にわたるパートナーである女優の“キム・ミニ”は出演はしていません。でもプロダクションマネージャーを務めているそうです。そりゃあ二人三脚で仕事くらいはしていて当然なのでしょうけど。
今回の主演に指名されたのは、韓国映画界ではかなりベテランとして実績のある女優の“イ・ヘヨン”。この“イ・ヘヨン”を起用しているという点が、実は結構意味のある部分だと思うのですが、それを語りだすと長くなるので、後半の感想で…。
共演は、『それから』など“ホン・サンス”監督作でも最近の常連になりつつある“チョ・ユニ”、“クォン・ヘヒョ”、“キム・セビョク”など。
なお、日本では本作『あなたの顔の前に』の公開日である6月24日は、同じく“ホン・サンス”監督作の『イントロダクション』も劇場公開されます。双方ともに同じ監督作でも雰囲気は変わっていますし、それぞれの上映時間はそんなに長くないので、2本立てではないですけど連続で鑑賞しても楽しいのではないでしょうか。
もちろん過去の“ホン・サンス”監督作を観てみるのもいいものです。作品数は多いですが、動画配信サービスなどで観やすいものから手を付けていけばいいと思います。
オススメ度のチェック
ひとり | :監督作が好きな人は要注目 |
友人 | :静かにドラマを楽しめる人と |
恋人 | :デート向きではない |
キッズ | :大人のドラマです |
『あなたの顔の前に』感想(ネタバレあり)
あらすじ(前半):夢はまだ教えない
眼鏡の女性、サンオクがソファに座って、ため息をつきながら、ノートのメモを見つめます。何かを書き記していきますが、表情は物憂げ。
次に寝ている別の女性の隣に身を近づけ、コップを持ち、黙って見つめます。その後は、ソファに寝転んで、眼鏡は外し、コップとノートとペンは机に置いて、時間を潰します。
起きてきた妹のジョンオクは「久しぶりね」と話しかけてきます。「あまり嬉しくない」とサンオクは他愛もなく言い、見つめ合って笑い合う2人。
ジョンオクは「夢を見た。いい夢だと思う」と語ります。「どんな夢?」「今、話したらダメ。いい夢は12時を過ぎてから話すものよ」…サンオクはそれでも聞き出そうとするのですが、とにかく不思議でいい夢だったらしいです。宝くじを買いたいとジョンオクはこぼします。
家にいても他にすることもないのでジョンオクは食事に誘います。姉のサンオクに痩せすぎだと揶揄いながら、良い店があるらしいです。
サンオクは立ち上がり、着替えるために衣服を眺めます。キャリーバッグを開けると、ぐちゃぐちゃの服がでてきて、それを広げます。
2人は外で軽食をとります。「こっちに来て飲んだ中で最高のコーヒーよ」とサンオクはご満悦。「ここに住めばいいのに」とジョンオク。「どうしてアメリカに?」と聞いてもサンオクは話に明確には答えず、「ここに住みたい。この近くに家があったらいいわね」と語るのみ。
「新築マンションを今から見に行きましょう」とジョンオクは言います。ジョンオクの分譲マンションは今は2億ウォンも値上がりしたそうで、ジョンオクは「2億ぐらいあるでしょう。それを頭金にしてローンを組んだら?」と気軽に提案。
サンオクはしばし考え込み、「持ち家はないし、貯金もない、ほんの少しだけ」と答えます。
「どうやっておカネを稼いだの?」のジョンオクが聞くと、お酒の小売業で常連客が多かったのだとサンオクは口にします。
ジョンオクは「姉のことを何も知らなかった自分が恥ずかしい」と言い、「逆に私の人生を知っている?」と聞いてくると、「私を残して勝手に行ったくせに。あの時、どんな気持ちだったかわからないの?姉さんが急にいなくなって腹が立ったわ。知らない男と駆け落ちだなんて」と声を張り上げます。
「姉さんは今回はなんで帰ってきたの?」と聞かれ、「ただ来たの、会いたくて。あなたやスンウォンに」とサンオクは呟くだけ。スンウォンはたったひとりの甥です。
姉妹は歩きます。綺麗な花の前で自撮りをしようとしますが、上手くいきません。すると通りがかりの道行く人に撮影をお願いします。写真撮影後にその通行人は「あの…俳優さんでは?」とサンオクを見て訊ねてきます。「昔は俳優でしたが、今は違います」「お綺麗ですね」
そんな出来事もあった後、ジョンオクは「テレビに出ていたのは1回なのにね。また俳優をやれるんじゃない?」と姉をおだてます。
そう言えば、まだジョンオクの見たという夢はまだ教えてくれていません。
サンオクもまた肝心なことは喋っていませんでした。
他人だけど他人じゃない
『あなたの顔の前に』はずっとサンオクの視点で進行します。
この主人公の背景は徐々に説明されます。アメリカから突然韓国に戻ってきたこと。あまり家族にはその生活を話しておらず、頻繁に連絡を取っていたわけでもないこと。以前は女優をしていたこともあったこと。
キャリーバッグの中身がぐちゃぐちゃなのは、そういう性格なのか、それとも急いで咄嗟の行動でこっちに帰省してきたのか。観客にだけ聞こえる祈りの言葉からは、信仰深いこともわかりますが、何に対して祈っているのか。
表向きは落ち着いているように見えるサンオクですが、その内側はかなりこんがらがっているのが察せます。
そして真っ先に登場する他者が妹のジョンオク。姉妹の物語となるわけですが、2人の関係性は生々しくリアルです。疎遠だったのでしょうけど、互いのことはわかっている。そして食事のシーンではジョンオクがかなり感情を露わにする展開もありますが、その後はまたのんびりした空気に戻る。この独特の空気感。
最近の韓国映画だと『三姉妹』を彷彿とさせる、他人だけど他人じゃないみたいな間柄です。
この妹との時間を過ごした後は、甥のスンウォンと出会ったり(大人ですけど無邪気で慕ってくれている)、元の住んでいた家に足を運んでみたりする。
“ホン・サンス”監督の定点観測のようないつもの感じで、サンオクの行動が切り取られていくも、内側の感情はやすやすと見せない。静かながらも緊張感もあります。
イ・ヘヨンという俳優について
『あなたの顔の前に』の主人公であるサンオクを演じたのは“イ・ヘヨン”。この“イ・ヘヨン”を知っているかどうかで、この映画の主人公の印象も変わってくるくらいだと思います。
日本ではそんなに出演作が観やすい状況にないので名も知られていないのかもですけど、韓国映画界ではベテランです。
“イ・ヘヨン”は1962年生まれ。父親は映画監督の“イ・マニ”で、韓国映画史に大きく貢献した人物。1963年の監督作『The Marines Who Never Returned』は朝鮮戦争を描き、当時は大注目されたそうです。
“イ・ヘヨン”の方はというと、非常にカリスマ性が高く、女優としてはかなり前衛的な作品や役柄で活躍したことで注目を浴びました。例えば、1988年の『Sa Bangji』という主演作はよく特筆され、これは李氏朝鮮の時代に実在したインターセックスとされる人物を描いたもので、バイセクシュアルな関係性を築いており、映画でもそう描かれました。
他にもファム・ファタールでエロティシズムを主体的に取り込むような時代を先取りした演技を見せ、そのパフォーマンスは高い評価を得ます。
しかし、1990年代前半から映画界とは距離ができてしまい、本人は海外に行ってしまったそうです。スランプだったみたいですが、その“イ・ヘヨン”がカムバックを果たしたのが、2002年の“リュ・スンワン”監督の『血も涙もなく』。以降は演劇で主に活躍していたみたいですが、最近になって映画界やドラマ業界で続々と再始動して出演しており、おそらく今後はその名前は日本でも話題にでまくると思います。
要するにそんなブランクもある凄い俳優としての含みをこの“イ・ヘヨン”は持っているわけで、それがなんとなく『あなたの顔の前に』内のサンオクとメタ的に重なる気もしてくる。もちろんこれは“ホン・サンス”監督なりの女優の実人生をフィクションとしてオーバーラップさせる遊び心かもしれませんが、そういう楽しさをサラっと提供するあたりも上手いですね。
このサンオクが全くのかつての“イ・ヘヨン”のカリスマ性のあるオーラを感じさせない、素の状態でだらんと映像に映されるのもなんだかとても“ホン・サンス”監督らしい…。
映画なんてこんなもの
で、この内情が見えない『あなたの顔の前に』のサンオクですが、終盤にしっかり真意が告白されます。
監督のソン・ジェウォンと面会した際に、あなたで映画を撮りたいとアプローチされ、「長くは生きられないんです」と自分の余命を告げます。サンオクがずっと心に抱えていた苦悩、アメリカから韓国に戻ってきた理由が見えた瞬間です。
そこでの監督のあの辛そうな反応、「一緒に短編映画を撮りませんか。明日にでも」というひたむきな熱意。ああ、これはそういう展開なのかと観客もここでシンクロする。王道と言えば王道な起承転結の「結」を見せられているのかと思ったら…。
ラストのまさかの「最初から実現できない約束でした」オチ。“ホン・サンス”監督の皮肉というか、映画というパワーにそんな過度に期待もしていない、この明け透けな態度。やっぱり大物だ…。あの韓国映画界のベテラン女優である“イ・ヘヨン”を主役に持ってきて、こういう映画を撮れてしまうのが“ホン・サンス”監督の凄さだなと思いました。ここで失望を通り越して豪快に笑い転げる“イ・ヘヨン”の演技も実に“イ・ヘヨン”らしい振る舞いだったり…。
世の中、「映画の力って凄いんだ!」という語りが多くなりがちですけど、「まあ、映画なんてこんなもんですよ」という程よい現実を教えてくれるこの『あなたの顔の前に』みたいな映画もやっぱり必要ですね。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 91% Audience –%
IMDb
7.1 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
作品ポスター・画像 (C)2021 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved
以上、『あなたの顔の前に』の感想でした。
In Front of Your Face (2021) [Japanese Review] 『あなたの顔の前に』考察・評価レビュー