日本はキスを特別視しすぎじゃない?…映画『アリスとテレスのまぼろし工場』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:日本(2023年)
日本公開日:2023年9月15日
監督:岡田麿里
恋愛描写
ありすとてれすのまぼろしこうじょう
『アリスとテレスのまぼろし工場』物語 簡単紹介
『アリスとテレスのまぼろし工場』感想(ネタバレなし)
岡田麿里が爆発すれば不可解な現象が起きる
世間には「青春に戻りた~い!なんだったら青春をずっと味わっていたい!!」と願う大人はどれくらいいるのだろうか…。
私はそんな気持ちになったことはないのですが、それを「自分は青春を楽しめなかったからだ」と卑屈に考えそうに一瞬なってしまいますが、それも違うような気がします。仮に青春の時代に戻れてもいざどういう体験ができるのかわからないという不確定要素に怯えているだけじゃないかなとも思ったり。
そう、青春は常に不確定、いや不安定。毎日が何か変わってしまうかもしれない選択肢に溢れています。変わらぬ日々を過ごしていたと感じるならば、それは変わっていることに気づかなかったか、はたまた変わったことを忘れたか…。どうしたって変わりますからね。あの10代の頃は。身体的変化も、心の変化も…。
しかし、今回紹介する映画の世界は大変なことが起きています。変化の止まった町で変わることができなくなった10代の若者たちがメインで描かれるのです。
ああ、『名探偵コナン』のことか…とは思わないで…。確かにあの世界も全然成長もしない謎の1年のループを繰り返してますけども…。
今回紹介する映画はもっと不可解な現象に見舞われているのです。
それが本作『アリスとテレスのまぼろし工場』。
本作は、地域の顔となっていた製鉄所が突然の爆発事故を起こし、不可解な現象が発生するところから始まります。それはただの爆発ではなく、現実離れした影響を町に与えました。町に誰も出入りできなくなったばかりか、時まで漠然とした時期で止まってしまい、住人はこの世界に取り残されて「変わらない」日々をずっと過ごすしかなくなったのです。
物語はそうなってしまった町で暮らす中学生を主人公にしており、いわゆるセカイ系のジャンルですね。しかし、セカイ系としてはなかなかに歪です。セカイ系は常に尖りたがる傾向がありますが、この『アリスとテレスのまぼろし工場』も個性全開で尖っています。
それも監督・脚本・原作が“岡田麿里”というところで説明がつくのかもしれません。
“岡田麿里”は相当にいろいろなキャリアをすでに歩んでいるじゅうぶんなベテランと言っていいレベルのクリエイターです。2000年代初期からさまざまなアニメ作品のシリーズ構成・脚本を担当していましたし、『泣きたい私は猫をかぶる』のようなアニメ映画だったり、『ONI 神々山のおなり』のような日本を超えた製作体制のシリーズだったり、『暗黒女子』(2017年)、『先生!、、、好きになってもいいですか?』(2017年)、『惡の華』(2019年)といった実写映画でも脚本を手がけていたり…。
たぶん職人シナリオライターの仕事が完全に板についているのでしょうね。なので案外とあちこちに名前が転がっている人…“岡田麿里”。そんなイメージもあります。
しかし、“岡田麿里”は自己流の癖の強い作家性も秘めている人物でもありました。それが開花したのが、2011年の『花咲くいろは』や『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』というオリジナル作の成功。これで一気に頭角を現しました。
その後、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』の製作陣とは、『心が叫びたがってるんだ。』(2015年)といい、『空の青さを知る人よ』(2019年)といい、世界観創造に大きく寄与してきました。
そして“岡田麿里”は2018年に『さよならの朝に約束の花をかざろう』で監督としてさらに踏み出し、自分の作家性を爆発させました。「こういうのを作りたいです」というクリエイティブが溢れまくっていましたね。
それから2作目の監督作となった『アリスとテレスのまぼろし工場』。今回も作家性は以前よりも充満しているのでは?というほどの濃密さで、“岡田麿里”は天井知らずです。
私もこの映画を劇場で観てそこで初めて知ったのですけども、“中島みゆき”に主題歌をしてもらっているんですね。この気概からして尖ってるなって感じですよ…。
『アリスとテレスのまぼろし工場』はいかにも考察させにかかっている感じもある映画ですが、後半の感想では私は何も明晰な考察とかはしてないので、そこはあしからず。
『アリスとテレスのまぼろし工場』を観る前のQ&A
オススメ度のチェック
ひとり | :作風が気になるなら |
友人 | :アニメ好き同士で |
恋人 | :異性ロマンスあり |
キッズ | :やや難解に混乱しやすい |
『アリスとテレスのまぼろし工場』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(前半)
見伏という地域に住む中学3年の菊入正宗は自宅でラジオを聴きながら友人たちと狭い部屋でコタツを囲んで夜に受験勉強をしていました。他愛もない時間です。
そのとき、爆発音がします。窓の外に見えるのは遠くで炎上して煙をあげる製鉄所。この町のシンボルのような場所です。そしてまばゆい光が…。すると夜の空が割れているような光景が広がり、煙が生き物のように蠢き、空のヒビを塞いでしまったのでした。
この出来事からこの見伏は変わってしまいました。一見すると何も変化が起きていないようにも思えます。
菊入正宗もいつもの男子友達とバカみたいにふざけあって日常を過ごし、学校での日々を過ごしています。少し女っぽい容姿のせいか、それを友達に揶揄われることもあります。別に男性が好みではないですが、女性が好みであっても、好きな女性はいません。友達の中では一番に調子のいい笹倉大輔は、体育の授業をしている女子たちを性的に眺めて楽しんでいました。とくに佐上睦実はその対象です。でも菊入正宗は佐上睦実が好きではないと自分に言い聞かせます。
見伏はあの製鉄所爆発事件以降、山崩れと海流で外部との接続が完全に絶たれ、季節も進まず、一切の変化を拒んだかのように止まってしまいました。ここでは菊入正宗はひたすらにこの今を過ごし、変化しないことを求められます。それも慣れ切ってしまいました。これが普通なこと…。進路票ならぬ自分確認票も何度書いたことか…。
正宗の叔父である菊入時宗もたまに家に来て夕食に混ざります。製鉄所の従業員ですが、今の製鉄所は勝手に機能しているので、ほとんどすることはないようです。
別の日、校舎を見上げると佐上睦実が屋上から見下ろしており、おもむろに自分のスカートをまくりあげて下着をみせてきます。何かを察知した菊入正宗は急いで屋上へ駆け上がり、先ほど少し騒ぎになっていた園部裕子の上履き紛失の件に彼女が関わっていたことを知ります。意味もなく女子同士で上履きを取り合うことをしているのかと問うと、退屈だからであり、男子と変わらないと口にします。
佐上睦実の義父は現在の製鉄所を仕切っている佐上衛という男で、この現象の理由はバチがあたったせいだと演説し、町は彼の言いなりになっていました。
菊入正宗は怪しい佐上睦実に強引に誘われて、製鉄所に連れて行かれます。その第五高炉は神事のように祭られていましたが、そこにはもっと異彩を放つ存在がいました。
まるで野生児のような佐上睦実にどこか似ている気もする少女がひとり駆け回っているのです。それは一部の人だけが知る存在で…。
歪なセカイ系を置き去りにして
ここから『アリスとテレスのまぼろし工場』のネタバレありの感想本文です。
『アリスとテレスのまぼろし工場』はテンプレなセカイ系の構図を持っています。世界の運命を握る男女の若者がいて、その奇跡的な力や協力、はたまた愛によって、世界は救われたり、もしくは世界の常識が変わったり、大きな変化を生み出す。“新海誠”作品のように現在でも最も日本で人気のジャンルのひとつです。
同時に『アリスとテレスのまぼろし工場』は“岡田麿里”らしさが詰まりに詰まっている作品でもあります。“岡田麿里”作品は、何かしらの不思議な現象が現実の日常の中で起き、それに巻き込まれる群像劇のスタイルも多いです。そして、その中心には何かの理由で成長が固定化された少女(例を挙げるなら『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』や『さよならの朝に約束の花をかざろう』など)、または不可思議なアイコン的なキャラクターがいて、物語にミステリアスさを引き立てます。
『アリスとテレスのまぼろし工場』はセカイ系という広いスケールの中で、これらの要素がだいたい揃っており、菊入正宗・佐上睦実・五実の3人を軸に世界が揺らいでいきます。五実は後に菊入正宗と佐上睦実の娘である菊入沙希だと判明するので、若干のタイムトラベル要素も混じり合いながら、世界観は混迷しています。
タイトルの「アリスとテレス」の部分がそのまま古代ギリシャの哲学者「アリストテレス」の名前になるとおり、そして作中でも「エネルゲイア」(アリストテレスが提唱した概念)などやたら意味ありげに(それも特段その言葉が機能することもなくあくまで意味深さをだすためだけに)借用するあたりも、なんだかセカイ系らしい考察を煽っている感じが…。
それはさておき、あの見伏で起きている現象はなかなかに豪快です。時間停止とまではいかない、社会の停滞とも言うべき、「変化のない」世界の出現。生命には何の問題もないけど、大きい長期スパンでの身体的成長は止まっているらしく、とくにあの妊娠したままの女性とかは地味にエグいほどに可哀想でしたね。あのさりげない人物の設定は完全にホラーでした。
本作はこの異常現象の世界がわりとあっさり住人に馴染んでいく理由を、日本らしい保守的空気とともに映し出します。以前の自分と変わっていないか毎回確認を要求されるなど、抑圧が事務化されているのも怖いですし、その習慣を押し通したのが神社に属する佐上衛だというのも日本っぽさがありました。
純潔信仰がそのまま青春の不変化と重なり、若者たちに圧し掛かるというあたりも、日本の宗教観がでています。
最終的に列車が世界からの脱出のルートになるというのも田舎まで電車大国の日本らしいところ。こういう「電車×セカイ系」は『終末トレインどこへいく?』でもみましたけども、日本人の感覚だと遠くまで行き来できる身近な乗り物の一番のイメージはやっぱり列車なんでしょうね。
恋愛は若き衝動?
『アリスとテレスのまぼろし工場』はこれも“岡田麿里”作によくありがちな傾向ですが、後半にかけてかなり大技で風呂敷を閉じようとします。
終盤のサスペンスがわかりにくいのは本作の欠点ではあるなとは思いました。そもそもあの世界のタイムリミット的なものがあるのか、あるとしたらそれはどうわかるのか、観客にそこまで視覚的に伝えられないので、作中の人物が勝手に大騒ぎしているようで、どうも観客は置いてきぼりを食らいます。
佐上衛の狙い、菊入時宗の狙い、菊入正宗の狙い…それぞれが交錯する点も整理しづらいです。佐上衛は悪役になるほどにキャラクターとして深みもなく薄っぺらいので、さっさと退場して、もっとシンプルに「間に合うか間に合わないのか」のサスペンスをみせるほうが良かったかな、と。せっかく列車を大舞台にするのですし、サスペンスをだそうと思えばいくらでもできますから。
そしてもうひとつの気になる部分は、キスを象徴的に配置するプロット。これは別に本作だけの評価ではなく、日本社会全体に思うところではあるのですが、日本はどうもキスを特別視する慣習があるように感じます。例えば、欧米だと結構キスはありふれていて、キスしてからその人が好きかどうか考えるとか、別にキスは途上のコミュニケーションにすぎない感じでもあります。一方で、日本はキスは恋愛が成熟したことを示すひとつのゴールとして認識されやすいです。
『アリスとテレスのまぼろし工場』も後半で描かれる菊入正宗と佐上睦実のキスシーンが大きな転換点になります。ただ、まあ、キスしかしてないんですけどね…。もちろんキスする際に横倒しで被さるようにしたり、序盤からの揶揄いの演出を重ねたりして、セクシャルな雰囲気は最大限だそうとはしているのですが、いかんせんキスだけなので…。
これは日本の一般公開される映画のレーティングとかを考えると、この程度が描写の限界なのだというのもわかります。貞操観念を振り切ろうと志すプロットなんでしょうけど、むしろ逆に結果的に妙に貞操観念の滲み出る映画にはなってしまった感は否めません。日本国外の人が観たら余計にそう思うでしょう。
『アリスとテレスのまぼろし工場』と極限的に対比関係にある映画を挙げるなら、“ヨルゴス・ランティモス”監督の『ロブスター』を思い出しますね。『アリスとテレスのまぼろし工場』は恋愛は若き衝動(キスはその象徴)と捉えていますが、『ロブスター』は恋愛は社会や文化の形成した仕組みと捉えて、恋愛自体をカルトみたいに描いていますから。非異性愛的なものを大雑把にカルトっぽくしている『アリスとテレスのまぼろし工場』とは真逆です。
私だったらあの変化しない見伏も、変化する他の世界でも、どちらも願い下げかなとは思いました。
シネマンドレイクの個人的評価
LGBTQレプリゼンテーション評価
–(未評価)
作品ポスター・画像 (C)新見伏製鐵保存会
以上、『アリスとテレスのまぼろし工場』の感想でした。
Mabaroshi (2023) [Japanese Review] 『アリスとテレスのまぼろし工場』考察・評価レビュー
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