界隈では話題沸騰だった「ユリイカ2020年9月号 特集=女オタクの現在」を読みました。個人的には2020年に読んだ「オタク」&「ジェンダー」を扱った書籍の中でもダントツで読み応えのあるもので、とてもたくさんの刺激をもらいました。

印象的だったのは多くの筆者が各々で「女オタク」とは何かをその呼称の是非を含めて自己批判的に論じていたことです。あらためて思うことですが、社会的な抑圧や偏見があるゆえにか、女性は自分のジェンダーを自問自答することで未来を切り開いてきた歴史があり、こんなオタク的なニッチな分野でもそれが垣間見えました。

一方でやっぱり考えるのは、じゃあ「男オタク」はどうなんだということ。男性は逆に社会的なマジョリティゆえに自分のジェンダーをあえて見つめることをせずとも生きてこられた存在であり、自己批判が大きく不足しがちです。

そこで私もどっぷり属している映画ファンのコミュニティを例に、ちょっと独り言で考えてみようかなと思います。というのも「男性中心的な映画ファン・コミュニティ」というものに対して、その弊害を頻繁に実感するからです。『82年生まれ、キム・ジヨン』で描かれたような「無自覚に差別をばらまく男性」が、映画ファンの世界でも少なくありません。それは何も最近になって目立つようになってきたわけではなく、昔から根底に存在していたものなのですが…。

それを少しでも可視化したく、国際男性デーを良い機会に、この文章を書くことにします。

作品の感想を言っているつもりでも…

映画ファンのコミュニティでは「映画鑑賞」以外だと「映画の感想」を語っていることが多いです。というか、もっぱら感想を語り合っているだけと言っても過言ではないでしょう。

感想は何を言っても構いません。作品を褒めるのも批判するのも自由です。個人の言論の自由であり、表現の自由でもあります。しかし、だからといって全てが許容されるわけではないということも事実です。誹謗中傷は当然ながらアウトです。

一方で誹謗中傷とまではいかないにしても、感想の中にその人の性差別意識が無自覚に滲み出ているケースがあります。感想というのはその人の本音を映し出す鏡であり、上手く綺麗事で隠したつもりでも、差別的な本心がポロっと出てしまうものです。これは誰でも気を付けないといけないのですが、男性の場合は女性差別が漏れることが頻出しがちです。

例えば、以下のような事例をピックアップして整理してみました。

①「女の強さを描くのはいいけどさ~」

昨今はジェンダーの多様性を重視することを映画業界も意識するようになったことで、女性主体の映画が増えつつあります。『ワンダーウーマン』や『キャプテン・マーベル』など大作も登場し、それらはいわゆるフェミニズムを下地にしています。

そうした作品に対して感想を主に批判的に語る際、いちいち枕詞のように「女の強さは描くのはいいけどさ~」「フェミニズムが大事なのはわかるけども~」と前置きする男性がいます。別に女性主体の映画であろうと自由に批判してもいいのですが、なぜそんな前文を付け加えるのか。そんな煩わしいことせずとも普通に「ストーリーが面白くない」とか「撮影や音楽がイマイチ」とか、批判すればいいのに…です。男性主体の映画を語る時にこんな口調になる人はほぼいません。

おそらくそれらの背景には「本心では素直に女性が主体になることを楽しめていない」もしくは「とにかくなるべく角が立たないようにしつつも女性的部分に石をぶつけてやりたい」という感情があるのでしょう。「女」と直接言及するのは気が引けたのか、「現代的な価値観のテーマを描くのはいいけどさ~」「多様性もいいけどさ~」と言い換えるケースもあります。

②「女といえども犯罪はダメだよ~」

犯罪(もしくは非行)を描く映画は今も昔も無数に存在します。人気のジャンルと言えるでしょう。

そんな犯罪映画、もしくは作中で非行が描かれるものに対して、一部の男性映画ファンは主体が女性であるとやたらと否定的な反応をすることがあります。女性キャラクターが犯罪をしていたり、何らかの不正行為をすると、それは法律を守っていないから悪い事だと説教し始めるパターンです。犯罪とまでいかなくとも、ちょっとでも女性キャラクターが反社会的な行動をとると、すかさずササっとやってきてバツマークをつけようとします。ルールやマナーを教えようとするのです。

一方で、男性キャラクターがそのような行動をとった場合、多くの男性映画ファンはなぜか好意的です。ヤクザやマフィア映画などでは顕著ですが、「男の美学」「社会への反抗」などと称賛したりします。ダブルスタンダードです。

③「女が下ネタをやるのはちょっとな~」

映画では性的に下品なネタを描くことも多いです。

そんな中、映画内で女性キャラクターが自ら下ネタなどの下品な言動をすることを嫌う男性映画ファンがいます。女性が下ネタを男性に向けることもあれば、自虐的にやってみせることもありますが、いずれも嫌悪感を示すのです。共通しているのは女性が主体的に性的ジョークをしているということ。

もちろん下ネタが苦手な人は普通にいます。ただし、ここで留意したいのは、女性主体の下ネタを嫌う男性は、例えば、覗き見だとかパンチラだとか「男性が女性を性的に扱う描写」に関しては何気なく消費することを平然と受け入れているという点です。それどころか、その「男性が女性を性的に扱うこと」に関しては表現の自由として熱心に正当化する言動さえしていたりします。ここでもダブルスタンダードです。

④「女を出すには理由がないとダメだ」

映画業界ではジェンダーバランスを意識するようになり始め、女性キャラクターの登場が増えたり、男性だったキャラクターが女性に変わったりすることも目立ち始めました。

こうした情勢に対して「女性キャラクターを出すには理由がないといけない」と論じる男性もいます。要するにストーリー上の納得できるだけの根拠がいるという主張です。もっと言えば「この俺を納得させてみろ」という図々しい態度とも言えます。ここでもなぜか異様に女性に対して厳しい注文が飛んできます。

しかし、そもそも女性がどんな姿で映画で登場しようとも根拠づけはいらないはずです。なぜなら女性はこの世界に当たり前に存在しているのですから。

⑤「結局は美人だから上手くいくんだ」

女性主体の映画において、女性がキャリア的な成功をおさめる姿を描くものは定番のひとつです。フェミニズムの観点からもロールモデルになってくれます。キャリアとまではいかなくても、映画内で女性がささやかな幸せをゲットする描写も、別に普通のことです。

けれども、これに対して「美人だから成功しただけ」「容姿が綺麗だからチヤホヤされている」といったコメントが男性から投げ込まれることがあります。こうした感想を持つ男性は、その人自身、女性を「容姿」でレッテルを貼ることしかできずにいます。いわゆる「ルッキズム」です。

⑥「あそこがエロかった」

「生足ばかりをずっと見ていました」「胸の谷間がたまらないですね」「スカートから覗くパンツは生命力を意味するエロスだね」「レイプシーンは正直興奮してしまいました」

映画の感想という“てい”なら女優などを対象にセクハラ文章を書いてもいいと思っている男性もしばしば見られます。普段は堂々と公でそんなことを言えないぶん、ブログやSNSで発散しているつもりなのかもしれません。でもこれはスポーツ選手を性的な目的で写真を撮るべく集まる輩と全く変わらないでしょう。

映画とポルノは違います。また、その映画が意図してエロティックなシーンを用意したのか、そうでないのかを明確に線引きできないこともありますが、性的コンテンツとしての意図がないと明確にわかるシーンもあります(作り手の問題も多分に関係してきますが)。そんなシーンなどにエロの目線で公衆に感想を流す行為は問題が多いです。

女優は演技をしているだけでセクシャルな扱いを受ける同意はしていません。感想紛いのセクハラを書く人はそのセクハラ文章をネットに垂れ流されて他の女性がどれほど嫌な気分になるか気にも留めていません。

「これは感想だから!」はセクハラをなかったことにできる魔法の言葉ではありません。中には考察という形でさも高尚にセクハラをデコレーションしている人もいますがバレバレです。

誤解しないように強調しておきますが、観客が女優に性的に興奮するのは自由です。頭の中で何を考えようとも自由です。それを文章などで性的客体化して公に流すのが問題だということです。

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女性にこんなことを言っていないか?

映画ファンのコミュニティには当然のように女性もいます。異性同士で交流することも日常茶飯事でしょう(ネットの世界では相手の性別は見えてこないことも多いですが…)。

その中で、男性の映画ファンが女性に映画ファンに接する際も、性差別意識が無自覚に滲み出ているケースが発生します。

例えば、以下のような事例が挙げられます。

①「女性なのに…」「女性が観るべき…」

「女性なのにそんな映画、観るの?すごいね~」…こういう言葉は珍しくありません。これとは真逆のパターンだと「これは女性が観るべき映画ですね」というオススメの定番文もあります。

つまりこの言葉の背景には、世の中には「女性向けの映画」というのがあって、それを女性は観るべきだし、観るのが普通であろうという他者が勝手に決めた固定観念があります。

そして、それにあてはまらない作品の趣味をしている女性を「“女らしくない”変わった人」というカテゴリーに入れてしまっています。また、そういう女性向けの映画を選ばなかった女性を「俺たちの仲間」として歓迎する男性も少なくないです。

②「女性だからその視点で…」

女性が映画の感想を語っている際に、「女性だから“○○○”の視点で映画を評価できるんだよね。自分には無理だな~」などと相槌を打つ男性がいます。「育児」とか…。

これは男性側にしてみれば、女性らしい着眼点を評価し、褒めているつもりです。この変化形として、「女性監督だから~」「女性脚本家だから~」というパターンもあります。

しかし、それはそもそも女性特有のものなのでしょうか。子育ては男性だってできますし、たいていのことはジェンダーに関係ないはずです(平等かどうかは別にして)。あまり乱用するべきではない言い方でしょう。

③「女性は男を見ている!」

「イケメンが出ていれば見るんだよね~」「この男優の裸にドキっとしたでしょ」

これらの女性の映画観客に向けられがちな、あられもない言葉。これに関してはハッキリ言えます。セクハラです。だいたい女性が男性しか注視していないという発想は、異性愛規範に憑りつかれた偏見ですし、脚本など他の視点で映画を評価できないと見なしていることにもなり、単にバカにしています。

また、男性同性愛映画(世間一般ではゲイと言わずBLとしてふわっと表現される)を、女性向けのコンテンツ扱いするなど、女性差別とホモフォビアが入り混じる場合もあります。

④「こういう女は嫌い?」

「この映画に出てくるこの女は嫌いなんじゃない?」

こうした男性からの女性への囁きは、言ってしまえば「女の敵は女」という偏見に基づく「女vs女」構図を煽っているだけです。「女はモテる美人を憎んでいるに違いない」「女もフェミニストみたいな声を上げる女がうざいでしょ?」などと言って背中をさすってきますが、そうした言葉をかける男性は女同士の戦いをニヤニヤと見物したいというのが本心です。

女性がどういうキャラクターを好きかどうかは、本人が決めます。男性に諭される必要はありません。

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なぜそんなことを言うのか?

上記の男性の映画ファンがやりがちな無自覚な女性差別。あくまで一例ですが、見かけることは頻繁にあります。なぜこんなことを言ってしまうのか。

簡潔に言えば「ミソジニー」だからに他なりません。

映画の感想がいつのまにかただの「マンスプレイニング」と化しています(男性が女性に上から目線で説教すること)。ご意見番や辛口評論家のつもりかもしれませんが…。直接的な差別主義者ではなく、中立きどりの冷笑主義者(「どっちもどっち」が口癖の人)もいるでしょう。

さらに「インセル」の存在も無視できません。これは「モテない、性経験がない、容姿が悪いなどの理由から、自分は負け組だと勝手に劣等感をこじらせて排外的・攻撃的になる人(主に男性)」で、昨今、問題視されています。こうしたインセル男性は、反フェミニズムや反ポリコレの傾向を強く示します。

また、女性が性的な下ネタを言うことに嫌悪感を持つ男性について、その背景には「男性が性的に見られることに我慢ならない」、つまりホモフォビア的な動機があると分析する人もいて、なるほどなと思いました。女性差別と同性愛差別はかなり密接に結びついているのは専門家も指摘済みです(ドキュメンタリー『男らしさという名の仮面』を参照)。

とにかく「映画は男性のものである」という大前提があまりにも長い間、コミュニティに根を張りすぎてしまっているのも影響しているでしょう。

もともと男性は「女性は当たり前のように男性のために尽くし、アピールするものだ」と思っている節があります。それと同じ構図で、映画に出てくる女性も、いや映画という存在自体が男性の需要にも答えるべくあって当然だと認識している男性も多いです。まさか男性観客を総スルーするなんてありえない、この俺たちを満足させないなんて作品として欠点じゃないか…。無論、そんな考えは自惚れでしかないのですが…。

女性主体の映画はもちろん女性に向けて第一に作られており、「恋愛映画だけが女性の領域で、あとのジャンルは全部男性のもの」なんて考えはもう通用しません。男性だって市場のターゲット範囲外になることがあるのです。「強い女を描いてもいいけど、俺たち男の気分を害したら、マイノリティによるマジョリティ差別だからね」なんて論外です。

映画への語りは聖域ではないし、映画は男性のものではない。この当たり前を認めることが共通理解のスタート地点です。

“男性の”映画ファン=マジョリティ

こう指摘されると「自分は差別していない」と言い張る人は必ず出てきます。でも、この世に差別と無縁な人間なんていません。男性であれば女性差別するし、異性愛者であれば同性愛差別をするし、シスジェンダーであればトランスジェンダー差別するし、アロセクシュアルであればアセクシュアル差別をしている。大事なのはその自分の中にある加害者としての一面に自覚的になることです。

じゃあなぜ男ばっかり…。それは残念ながら今の社会では「男性」が圧倒的なマジョリティだからです。マジョリティというのは数が多い多数派という意味ではなく、特権を持った支配層だということ。そしてマジョリティは自分を疑いません。映画でも同じ。男性の映画ファンはピュアな感想を言っていると思っていますが、そこに染み込む差別意識から目を背けがちです。

自分は「映画ファン」ではなく、「男性の映画ファン」であり、つまり「男オタク」だということ。だからもしかしたら「男」であるゆえにバイアスがあるかもしれない。それを考慮していないと、自分は客観的かつ俯瞰的に作品を評価できていると思い込みやすいです。

そもそも「女性」をテーマにしたものを評価するだけの知識もないことが多いです。強い女が描かれればフェミニズムだ、エンパワーメントだと安易に言ってしまう程度の感覚だったり。だから男性で女性をテーマにした作品を正確に評価するには、女性がそうするよりもはるかに難易度は上がるでしょう。場合によっては専門書を読んだりしないといけないし、少なくとも自分の中のジェンダーバイアスに対抗できるくらいの知識がいります。それは「外国語を学ぶ」並みに大変だと思います。日本というろくにジェンダー教育をしていない国で育った人間には骨の折れることです。

だったら「女」も同じじゃないか(女は男主体の映画を評価できない!)と思うかもしれませんが、前述したように男性はマジョリティなのでそこは非対称性があります。問題は性別ではなく、マジョリティとしての自覚があるかどうか。「自省」です。その自覚さえあれば、男性でも女性主体の映画を冷静に批評したり、男性監督が女性主体の映画の良作を生みだしたり、実際に普通にできています。

男性の映画ファンとして有害性を出さないために、自省する以外の食い止める方法と言えば「多様性」です。もし映画好き同士で集まる時、ちょっと考えてみるといいのです。そもそも参加者が男ばかりとか、企画・発言するのは男だけとか、異性愛やシスジェンダーだけとか、そうなっていないか。少なくとも多様性はマジョリティの暴走を止める抑止力にはなるはずです。

男だけの集まりが必ずしもホモ・ソーシャル化するとは限らないです。でもその男だけの状態でホモ・ソーシャル化を防ぐには、よほど超高度な知識と精神を持った人にしか無理な難易度であり、一般的には多様性を確保する方が手っ取り早くホモ・ソーシャル化を防止できます。

ただし、女性さえ加えればよいという発想も危険です。その女性は男性的マジョリティの思考に従順になっているだけなら、なんの意味もないのですから。

単に日常の趣味の延長で男たちが集まるならまだしも、ブログだったり、動画だったり、本だったり、何かしらのメディアで情報発信しているなら、なおさら気を付けないといけないこと。これはファン・コミュニティに限らず、メディアも批評家も、映画の製作陣でさえも同じだと思います。

男性だって嫌ではないですか

男性の映画ファンの肩身は狭くなるのしょうか。いいや、それは違うでしょう。フェアになるだけです。下駄をはかされることもない、ごますりもない、接待もない、正真正銘の対等です。マジョリティに属していた映画ファンにとってフェアとは作品を純粋に楽しめる場ができるということです。

これからの世の中、女性視点の女性主体の映画ばかりが溢れかえっていくわけではないです。男性を描く映画もちゃんとあります。ホモ・ソーシャルやインセルのおぞましさを描く映画はこれまでいくつもあったし、逆に既存の男らしさ(マスキュリニティ)を脱して男性ジェンダーを見つめ直す映画もどんどん作られています。とくに後者の映画の存在は大事です。男性が多様性時代を生きるうえでの拠り所になるのですから。

そもそも男性の映画ファンだっていい加減、旧時代的な男らしさに疲れていませんか

男の映画仲間がやる“女をくさす”トークに付き合うのにうんざりしていたのではないか。女優を性的に見るのが男なら当然という空気が内心は嫌だったのではないか。

性差別発言を平気でする奴がファン・コミュニティで偉そうにふんぞり返るのには許せなかったのではないか。作品を女性蔑視でしか語れない相手に愛想笑いで仕方なく相槌を打っていたのではないか。

男の映画ファンは男っぽく映画を語らないと仲間を作れないと思ってきたのではないか。男っぽくない映画を好きだと言いづらい雰囲気に苦痛を感じなかっただろうか。アニメなど男社会の中でも下層と見なされる趣味をちらつかせると、男社会上位層に小馬鹿にされるような視線が苦しかったのではないか。

あなたが映画の感想を述べる時、作品について厳しく批判しないといけないとか、読者を惹きつける考察を書かないといけないと思っていないだろうか。もしかしたらそれは無意識のうちに男らしさを証明することと同化していないだろうか。みんなが口にする話題作に“あえて批判できる”自分は男らしいと考えているとか、SNSのフォロワー数や、動画の再生数、ブログのアクセス数で、男らしさが認められた気分になっていないだろうか。典型的なマッチョイズムな映画をとりあえず褒めるのは男として当然だと盲目的に思っていないだろうか。それで自分の男らしくない部分が補充されると思っていないだろうか。

デートで映画を観た時、女性の恋人相手に映画のうんちくを語って強がってみせようとしなかっただろうか。逆に自分は映画館デートする相手なんていないと劣等感に沈んで愚痴を言ったり、映画館にいるカップルを敵視したりしていないだろうか。

映画を観ることが男らしさを証明し続ける無限耐久マラソンのようになっていないか。映画愛はいつのまにか男らしさにすり替わっていないだろうか。

映画の感想や魅力を語るのに「男らしさ」の拳を振り上げる必要はありません。この男らしさの押しつけに声を上げるべきは女性でもなくフェミニストでもない、男性たちです。男を真っ先に救えるのは男。

自分の弱さを素直に口にしてみよう、過去の失敗を語ってみよう。男が女から教わるのは何も恥ずかしいことじゃないです。映画を語る時に強がる必要はない。見た目も気にしなくていい。タフに見せるためのマスクはとりましょう。

もちろん男が救われるだけでは意味がありません。加害者意識を忘れずに。

映画をもっと楽しめる環境のために

こういうことを書けば必ず反論がしつこく飛び出すものです。「いや、だったら女だって…」「なんで俺たちばかり…」と。

自分に批判を向けられたとき、とりがちな行動は2つ。「徹底的な反発」もしくは「劣等感に浸ること」。でもどっちも必要ありません。何よりも自省を求めています。冒頭でも書きましたが、それが男性には足りない自己批判そのものです。この記事も説教ではなく自省のために書いたものです。

この記事では便宜的に男女論に基づいて書きましたが、世の中の性別は男性と女性だけではありませんから、実際はもっと複雑です。女性やノンバイナリー(Xジェンダー)であったとしても「男性的加害性」を有することはあると思います。いかなるジェンダーでも中立的な立場にいる人はひとりもいません。「男vs女」を煽りたいわけではなく、自分の中のマジョリティな加害者的側面を自覚しようという話です。それが繰り返しますけど映画ファンの男性にはよく欠けているということ。

何も劣等感に沈むことはないです。男性であることは罪ではないし、恥でもないですから。

ジェンダーを問わず、映画をもっと楽しめる環境を一緒に作ろうという提案です。

映画作品はアップデートが進んでいます。映画ファンもアップデートしないといけません。映画の感想を語るのもいいですが、たまには自分のジェンダーについて厳しく批評するのもよいのではないでしょうか。

今こそ愛している映画から学ぶべきときです。