魔女になったアン・ハサウェイの大失態…映画『魔女がいっぱい(2020)』の感想です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:アメリカ(2020年)
日本公開日:2020年12月4日
監督:ロバート・ゼメキス
魔女がいっぱい
まじょがいっぱい
『魔女がいっぱい』あらすじ
1960年代、とある豪華ホテルに現れた、おしゃれで上品な美女。しかし、彼女の正体は誰よりも危ない邪悪な魔女だった。この世に魔女は実在し、世界中に潜んでいる。魔女たちは、人間のふりをして普通の暮らしを送りながら、時々こっそりと人間に邪悪な魔法をかけている。そんな魔女たちの頂点に立つ大魔女が、各地の魔女たちを一堂に集め、ある恐ろしい計画を披露する…。
『魔女がいっぱい』感想(ネタバレなし)
魔女もステイ・ホーム
2020年のハロウィンはコロナ禍の影響をもろに受けたせいで全世界的に自粛ムードで終わりました。日本も例外ではありません。近年はハロウィンが若者の間でどんちゃん騒ぎをするイベントと化してしまったことが社会問題となりつつあり、毎年「ハロウィンがどれだけ荒れるか」をマスコミもこぞって伝えようと躍起になっていましたが、それも今年は完全に沈黙。企業すらもハロウィン関連のコラボレーションがやや控えめでした。
そんなあおりを受けたのは映画も同じです。海外ではハロウィンの10月になるとホラー映画を公開するのが定番です。大衆にとってもハロウィンにはハロウィンっぽい映画を観に映画館に行くのが恒例行事。10月はホラー映画が劇場を引っ張る主役です。
しかし、世界中で仮装したモンスターよりも猛威を振るうウイルスが「トリック・オア・トリート」では済まされない事態を私たちにお見舞いしているために、もはや映画館どころではなく…。結果、多くのハロウィン向けに想定されていた映画が公開中止となり、配信に移ってしまいました。ハロウィン映画を家で観るのと、映画館で観るのでは、やっぱりイベントっぽさは後者に軍配があがるのですけどね…。
その不遇な2020年のハロウィン映画のひとつが本作『魔女がいっぱい』です。
本作はワーナー・ブラザース製作で2020年10月にアメリカで劇場公開が予定されていましたが、新型コロナウイルスの悪化するばかりのパンデミックに降参。『TENET テネット』の劇場公開の挑戦も他の映画には続かなかったようです。結局、ワーナーお抱えの動画配信サービス「HBO Max」でのネット配信に切り替えることになりました。
他のアメリカ以外の国では(状況的にOKなところにかぎり)劇場公開が行われたのですが、まあ、日本では相変わらずハロウィンの時期を外して、なぜか12月に公開です。
本作は、『チャーリーとチョコレート』『ファンタスティック Mr.FOX』『BFG: ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』など、映画にもなった原作本をいくつも手がけたイギリスの小説家“ロアルド・ダール”が1983年に執筆した「The Witches」が原作になっています。その名のとおり魔女がいっぱい出てくる話で、“ロアルド・ダール”らしいクセの強すぎる個性最強クラスのキャラクターがてんこ盛りの作品です。
実はこの原作はもう映画化されていて、1990年にジム・ヘンソンの製作総指揮で『ジム・ヘンソンのウィッチズ 大魔女をやっつけろ!』の邦題で発表されています。日本ではこちらは劇場未公開だったのですが、私はこの映画、結構好きでした。
それがまたも再度映画化の企画を立てたのが、他でもないあのファンタジーとホラーを愛する男“ギレルモ・デル・トロ”。2008年頃から計画を進めていたようですが、全く前に進まず停滞。それが2018年に急に活性化し、再始動して生まれたのが本作『魔女がいっぱい』です。
そして監督・脚本に選ばれたのは“ロバート・ゼメキス”。これはこれでちょっと意外というか。というのも“ロバート・ゼメキス”の作家性と“ギレルモ・デル・トロ”の作家性は似ているようで全然違うと思うからです。“ロバート・ゼメキス”はCGとかガンガン使うタイプですしね。“ロバート・ゼメキス”監督と言えば『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズですが、最近は過去の子ども向けCGアニメで大損害を出した失速から回復し、『フライト』(2012年)、『ザ・ウォーク』(2015年)、『マリアンヌ』(2016年)、『マーウェン』(2018年)と大人向けの作品にシフトチェンジしていました。
でも『魔女がいっぱい』を手がけたということはまた子ども向け路線に傾くのでしょうかね。
ちなみに一応、“ギレルモ・デル・トロ”は脚本と製作に名前は残っていますが、たぶんほとんど彼が作りたかった映画の要素は撤去されたのかなと思います。
あと、本作は俳優陣も話題の人ですね。大魔女を熱演するのは、確かにこの人ならノリノリで魔女になってくれそうな、“アン・ハサウェイ”です。今作では一部でバズってましたが、面妖に暴れまくっています。
他にはみんなの善人でおなじみの“オクタヴィア・スペンサー”が今回も良い人役。でも最近の主演作『マー サイコパスの狂気の地下室』では自分が魔女みたいな怪演をしていたのですけど…。
基本的に児童書原作なので、内容も子ども向けです。よほど怖いものが大の苦手でないかぎりは、子どもも観られるものです。もちろん大人も魔女に会いに来てもいいですよ。
後半の感想では過去の映画との比較や、とある炎上騒動について書いています。
オススメ度のチェック
ひとり | ◯(俳優ファンはぜひ) |
友人 | ◯(奇抜な映像を楽しむなら) |
恋人 | ◯(気楽に観れる娯楽作です) |
キッズ | ◯(怖いのが苦手だと…) |
『魔女がいっぱい』感想(ネタバレあり)
魔女は実在します!
魔女はどこにもいる。隣にも。看護士かもしれないし、先生かもしれない…。魔女は子どもが嫌いで、潰すことが楽しみ…。
そんな恐ろしい話をプロジェクターを使って子どもに語る“誰か”。その語り部は、1968年12月の物語をそのまま続けます。
ある少年はひっくり返った車から救出されます。8回目のクリスマス、この少年は両親を亡くしました。椅子に座って何もできないでいると、おばあちゃんがやってきて家に連れ帰ってくれます。
しかし、人生が一変した少年は食欲もわかずに生気を失ったように座り込むだけ。おばあちゃんは歌い踊って励ましてくれますが、無反応のまま。
ある日、おばあちゃんはネズミを少年に持ってきて「可愛がってあげてね」とペットにするように言います。少年はそのネズミに「デイジー」と名付け、一緒に暮らすように。しだいに少年は明るくなり、悲しみを乗り越えることができるようになっていきました。
ところが不意に別の不安が襲ってきます。ある店でのこと。謎の女性が少年に話しかけてきて、キャンディを差し出します。でも腕に蛇が絡まっており、明らかに危ない匂いがプンプンします。そうこうしているうちに、目を離すと消えてしまいました。
その不審な遭遇をおばあちゃんに話すと「それは魔女」と教えてくれます。そしておばあちゃんは自分の子どもの頃の話を語ってくれました。アリス・ブルーという子どものときの友達の話で、その子はあるとき突然消えました。そしてアリスに異変が起き、自分の目の前でニワトリに変身したのです。大人は信じてくれませんが、それは魔女の仕業であった…そう思ったものの当時は何もできず…。
おばあちゃんはこのままではこの少年も魔女にやられると考え、高級ホテルへ避難することに決めました。そこは白人の金持ちしかいないから狙われないだろう、と。さっそくネズミのデイジーと一緒に2人はホテルに宿泊。
おばあちゃんはホテルの部屋でなおも語ります。魔女には指が無くて爪があり、鼻の穴が子どもを嗅ぎ分けるためにでかくなるとか。大魔女(グランドハイウィッチ)が多くの魔女を支配しているとか。
そんなホテルに児童虐待防止のために活動しているらしい協会の女性たちがゾロゾロとやってきていました。支配人のストリンガーに迎えられたその一団はやけに横柄で、喋りも変です。
暇な少年はホテルを探索していると、広い部屋を見つけて入ります。すると奇怪な女性たちの一団が入ってきて、思わずステージの下に隠れる少年。
女性たちはみんな手袋と靴を脱ぎ、カツラをとります。その姿はおばあちゃんの語っていたとおり、この人たちは魔女でした。
中心で演説する大魔女は体を浮かし、「世界中の子どもを消せ」と命令します。「何か方法があるのですか」と生意気に質問してきた魔女に電撃を浴びせて消し炭にするほどに容赦ありません。方法はお菓子で誘うことであり、胸から謎の薬瓶(ポーション)を取り出し、「これでネズミに変える」と宣言。魔女たちは「天才だ」と大魔女をはやしたてます。
そこへ呑気にブルーノという少年が部屋に入ってきて、「チョコバーを6つくれるっていったよね」と魔女とは知らずにその女性たちに要求。しかし、急に震え出して服だけ残して少年は消失。もぞもぞとネズミが二本足で服から出てきました。
みんなでそのネズミになったブルーノを潰そうとする中、通気口に隠れていた少年と一緒にいたネズミのデイジーは急に「連れてくる」と喋って出ていきます。なんとデイジーも元は人間の少女。そしてこの少年までも見つかり、ネズミにされてしまい…。
お菓子をくれないとイタズラ? いいえ、お菓子なんてもらったらネズミにされる! この一大事にどうすればいいのか…。
ストップモーションの方が…
2020年版『魔女がいっぱい』ですが、最初に述べておきますけど、私の感想としてはやや挑戦心と新鮮味に欠けるな…というのが正直な結論です。
本作は1990年版の映画と比べるとどこを売りにしているのか。それは一目瞭然で、答えは「VFX」による映像です。
今回はあの魔女たちの独特の見た目といい、口が裂けたり、鼻を異常にでかくしてクンクンするモーションといい、さらにはネズミにされた子どもたちの大冒険といい、とにかくCGを多用した映像遊びが連発しており、これは1990年版の映画ではできなかった今だからこその表現です。
もう“アン・ハサウェイ”もやりたい放題で楽しんでます。1990年版のときの大魔女を演じたのはアンジェリカ・ヒューストンでこちらも凄かったのですが、“アン・ハサウェイ”はそこに自分なりの演技力をプラスしてクセを濃すぎるくらいに出しまくっています。
一方で、映像としてはどうしても斬新さに欠けるというのはあると思います。映像は綺麗ですけど、月並みのものばかり。明らかにVFX頼みすぎるような…。例えば、ネズミになってからの展開はそれこそ『スチュアート・リトル』(1999年)とかでもう観たような映像ですし、既視感があります。
それと比べると1990年版の映画は今の感覚で観てもフレッシュな映像の魅力があると私は思うのです。というのも、この1990年版はネズミをCGではなく、本物のネズミと人形を駆使したハイブリッドで表現しているんですね。この組み合わせはなかなかに他にはない味わいになっていますし、ネズミは本当にそこにいるというハラハラ感もあります。厨房でのポーションをスープに入れるシーンも、1990年版の方がどこか緊張感があって、SFXの醍醐味が詰まっています。
“ギレルモ・デル・トロ”は当初、本作をストップモーションにしようと考えていたそうで、それはまさしくジム・ヘンソンのクリエイティブを継承する狙いがあったはず。もしそれが実現できていれば本作は輝く個性を放った映画になったでしょう。
批判を受けた理由
このVFXの安易な依存は大きな問題を引き起こしてもいます。実はこの『魔女がいっぱい』は公開時に大きな批判を浴びたのでした。
2020年版の魔女たちは、「手指3本・足指は1本」というビジュアルになっています。これに関して、実際に「欠指症」という似たような状態にある当事者たちが「映画が当事者を傷つけている」としてクレームをつけました。
これは当然だと思います。「欠指症」のような人たちはただでさえ人目を気にしなくてはいけず、その理由も奇異に見られるからです。魔女だなんだとイジメられた人も普通にいるはず。
にもかかわらず本作は無邪気にもこの“指のない人”を徹底的に気持ちが悪い存在として描き、極悪の魔女扱いしているのですから。正直、言い訳のしようがありません。
結果、ワーナー・ブラザースと主演の“アン・ハサウェイ”は謝罪したのですが、これもVFXが身体障害者的要素を安易にコンテンツ化する道具になってしまうという現在の課題を浮き彫りにした者だと思います。
逆のこの正反対で身体障害者的要素をポジティブに描くのでも危ういものがあります。『スカイスクレイパー』のようにハンディキャップを抱えていることをキャラクターのスキルのようにお手軽に描写したり…。
VFXのテクノロジーのおかげで腕がないとか足がないとか、そういう身体障害者的要素がいとも簡単に映像化できるようになっている昨今ですけど、だからこそその状態にある当事者の気持ちをもっと考えるべきでしょう。そこはやはり倫理的な責任ですよね。
1990年版は魔女の描写もメイクアップによる思いきった全体変化を駆使しており、欠損にそこまでフォーカスしていません(原作では魔女は顔が虫に食べられているくらいに酷いありさま)。じっくりと議論すれば今回の映画化でも魔女のデザインで誰かを咎めることなく、奇抜で印象的な存在感を出せたと思います。
魔女は悪者でいいのか
文句を多めに書いてしまいましたが、良かった改変ポイントもあります。
まずブルーノという少年についてネズミのまま一緒に暮らすというエンディングに変更したこと。これによって魔女以外にも嫌な人間はいるし、血縁よりも愛の方が大事だという着地になっており、養子などの肯定にもつながって良いアレンジでした。
アフリカ系主人公に改変したことで、魔女が貧しい子を狙うという社会的背景も加わったのもいいですね。ただし、これに関してはもうちょっと踏み込んで描写してほしかったですけど。今は人種差別とホラーの組み合わせは鉄板となっており、良作が続々と生まれていますし、かなりレベルの高いものを求められますし…。
個人的には魔女以外のコメディ・キャラクターが欲しかったとは思います。今作でホテル支配人のストリンガーを演じているのは“スタンリー・トゥッチ”なのですが、1990年版は『Mr.ビーン』や『ジョニー・イングリッシュ』でおなじみの“ローワン・アトキンソン”です。なので1990年版はストリンガーも非常に面白おかしくユーモアを振りまいており、閑話休題なギャグとして機能していて良かったんですけど。
また、本作は身体障害者差別以外にも、「魔女」の扱い方自体に「それでいいのか?」という疑問を投げかけられるものではあります。というのも魔女は今ではすっかりファッショナブルなコンテンツになってしまいましたけど、本来は陰惨な虐殺(&女性差別)の歴史です。それが風化しているのではないかという指摘も各所であるんですね(以下の記事を参照)。
映画で魔女を描くなら、今ならもっと魔女側の視点に立てるのではないかとも思います。それこそロバート・エガース監督の『ウィッチ』(2015年)みたいに。
本作『魔女がいっぱい』と比べたらまだ『魔法少女まどか☆マギカ』の方が、魔女の史実を意識した描き方になってますよ。
“ギレルモ・デル・トロ”監督だったら魔女を安易に悪者で片づけないと思うのだけどなぁ。
ということで『魔女がいっぱい』は複雑な気持ちにさせられる映画でしたが、ネコが一矢報いる展開だったので良しとするか…(なんだそれ)。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 49% Audience 34%
IMDb
5.4 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 3/10 ★★★
作品ポスター・画像 (C)2020 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved.
以上、『魔女がいっぱい』の感想でした。
The Witches (2020) [Japanese Review] 『魔女がいっぱい』考察・評価レビュー