子ども向けアニメで同性愛を描けるまで…アニメシリーズ『アドベンチャー・タイム』の感想です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:アメリカ(2010年~)
シーズン1~10:2010年~2018年に配信
総監督:ペンデルトン・ウォード
恋愛描写
アドベンチャー・タイム
あどべんちゃーたいむ
『アドベンチャー・タイム』あらすじ
人間の文明が栄えていたのは、はるか昔の話。今のウー大陸では個性豊かな存在が好き勝手に暮らしている。その中でヒーローになることに憧れている“人の子”フィンは、相棒であって体を自由自在に変化できる犬のジェイクと一緒にいつも大冒険をしていた。たくさんの仲間がいるので毎日飽きることはない。そんなアドベンチャー・タイムはいつまでも続く…。
『アドベンチャー・タイム』感想(ネタバレなし)
2010年代は子ども向けアニメの変革の時期
2010年代以降、ディズニープリンセスは「新世代プリンセス」へと突入し、あれこれと今の時代に合わせた模索をしている…。そんな話を各作品の感想で私は書きました。
一方で、そのディズニーの「新世代プリンセス」は必ずしも時代の最先端を走っているとは言えないと私も思います。やはりディズニーは世界的大企業ということもあって、どうしても保守的です。革新的なパラダイムシフトをポンと引き起こせるわけもなく、探り探りになってしまいます。そんな姿勢にモヤモヤを抱く人も少なくはないでしょう。
そうした中、時代を先駆的に駆け抜けた「プリンセス」を挙げるとしたら、私なら間違いなく本作を指さします。それが本作『アドベンチャー・タイム』です。
本作は2010年から「カートゥーン ネットワーク」で放送されたアニメシリーズです。放送から大人気となり、2010年代を代表する「カートゥーン ネットワーク」の看板作品になりました。大勢に愛されたことでシリーズはずっと続き、2018年に完結を迎えました(2020年にスペシャル版が作られたりしていますが)。
なぜこの『アドベンチャー・タイム』を取り上げたのかというと、本作は子ども向けアニメ作品が「ジェンダー」というものとどう向き合ってきたのか、その歴史を語るうえでの象徴的なサンプルになるからです。
まずそもそも「子ども向けアニメ」というコンテンツは映像作品の中でも最も保守的なものです。なぜならレーティングがどうしたって厳しいですし、それゆえに表現への圧力がかかりやすくもあります。そのためジェンダーの描写においても極めて無難な“スタンダード”しか描けないことが通常でした(その反動で海外の大人向けアニメは本当にやりたい放題をしまくる傾向がありますけど)。
2010年から始まった『アドベンチャー・タイム』も例外なくとても標準的な世界観とキャラクターを持った子ども向けアニメ作品でした。“初期の頃”は…。
そうです、初期の時点ではそうだったのですが、それから年数が経過し、シリーズを重ねていくうちに作品のジェンダーの描き方が変化していったんですね。その過程が本作は非常にわかりやすいのです。
おりしも2010年代というのはジェンダーの在り方が大きく揺れ動いた時期でもありました。MeTooなどの第4波フェミニズムが活発化し、LGBTQを含めたダイバーシティの認識も普及しました。まさに激動の10年です。2010年代の始めと終わりでは価値観がひっくり返っていると言ってもいいぐらいに。
『アドベンチャー・タイム』もその世界の奔流に意図的か無意識なのかはわかりませんが、多大な影響を受けており、それが結果、作品をより魅力的にさせた事実があります。『アドベンチャー・タイム』は熱狂的なファン・コミュニティを成熟させただけでなく、アニー賞やエミー賞にも輝くなど、あらゆる方面で評価される2010年代のトップ・アニメーション作品となりました。
『アドベンチャー・タイム』で示される「子ども向けアニメ」の変革。そのひとつの試金石になったのが「子ども向けアニメで同性愛を描けるかどうか?」でもありました。そしてその渦中に立つのが本作に登場する「プリンセス・バブルガム」というキャラクターです。
後半の感想ではそうした論点を軸に『アドベンチャー・タイム』を私なりに考察しています。作品をさらに深掘りしていく捕捉として、気になる方は読んでみてください。
オススメ度のチェック
ひとり | ◎(アニメ史を学ぶなら必見) |
友人 | ◯(大人もファンになれます) |
恋人 | ◯(互いに夢中になれるかも) |
キッズ | ◎(子どもは楽しいシリーズ) |
『アドベンチャー・タイム』予告動画
↓シーズン1の第1話の公式配信です。
『アドベンチャー・タイム』感想(ネタバレあり)
冒険の最初はスタンダードなメンバー
『アドベンチャー・タイム』は「ウー大陸(Land of Ooo)」という場所が舞台で、マッシュルーム戦争と呼ばれる核戦争によって人類文明が荒廃してから1000年たち、なぜだかそこに魔法が誕生して、ヘンテコな生物たちが繁栄し始めた世界です。いわゆるポスト・アポカリプスですね。その世界観の歴史は話数が進むごとに徐々に明かされ、そこも物語の面白さです。
世界観はずいぶん奇抜ですが、本作の主要キャラクターとその立ち位置は実はオーソドックスです。
まず主人公の「フィン」。彼を主軸にした少年成長ストーリーです。どうやら唯一の人間の生き残りらしく、珍しい存在扱いされています。そのフィンは犬の「ジェイク」と一緒にヒーローになるために冒険をしながら日々を過ごしています(といっても大きな目標があるわけではなく、子どもの冒険ごっご遊びに近いですが)。
そんなフィンに対してヒロイン的なポジションとして登場するのが「プリンセス・バブルガム」です。彼女は人ではなくキャンディでできており、何かの魔法的な力で生命を宿したキャンディです。最初は荒廃した世界で独りぼっちでしたが、やがて自らの知恵と技術でキャンディ・ピープルという同種の生命を作りだし、キャンディ王国を建国するまでになります。
バブルガムはフィンにとっての「ちょっと年上のお姉さん」的な立ち位置で(実際はバブルガムは数百歳なのだけど)、思春期のフィンはそんなバブルガムに好意めいたものを抱いています。
フィンにジェイクがいるなら、バブルガムの相棒的な存在として「レディ・レイニコーン」というキャラがあり(ただし一緒にいるシーンは案外と少ない)、このレディ・レイニコーンはジェイクのガールフレンドで、後に子どもまで生まれます。
つまり、明らかに当初は「フィン ⇔ バブルガム」というカップリングを公式が前提にしているんですね。
バブルガムはよく「アイスキング」というキャラクターに誘拐されそうになり、それをフィンが助けるのが定番です(なんかスーパーマリオのクッパみたい)。
バブルガムはピンク色でキャンディのようなお菓子を素材にしており、これら要素から推察するまでもなく、あからさまに女の子向けに作り上げたキャラです。
このように『アドベンチャー・タイム』の土台になるキャラクターたちは、ステレオタイプなジェンダーロールそのままでスタートしたのでした。
先駆的で身近なプリンセス
ところが物語が進んでいくと、ステレオタイプは徐々に崩れ始めます。
まずバブルガムはフィンとはくっつかないんですね。あくまで良き年上でのお姉さん的ポジションのままです。そしてフィンはバブルガムを諦め、失恋に落ち込みつつも、フレイム・プリンセスという別のキャラと交際することになります(結局こっちも別れるけど)。
ではバブルガムは何をするのかと言うと、王国を治める統治者としていろいろな葛藤に向き合っていくことになります。つまり、ディズニーの新世代プリンセスも直面する“統治者としての責任”です。
このバブルガムはそもそもで言えば、統治者というか、あのキャンディ王国を住人までゼロから作りだした、もはや神に近い存在です。愛情をもって国民と接しているのですが、最初は平然と監視体制を配備していたり、やや強権的な側面も目立ちました。
バブルガムには「科学者」としての一面もあり、そこもプリンセスとしては新鮮です。魔法よりも科学を信じており、科学に熱中しすぎてよく徹夜もしています。個人的にはその科学愛がややマッドサイエンティストの域に到達しかけているシーンが好きです(製造したキャンディ・ピープルの扱いが雑)。
やがて突発的な選挙の勃発で予想外の敗北をし、王国を追われてしまったりと、いろいろな経験をしながらも、バブルガムはプリンセスとして成長していきます。
従来、プリンセスは「女の子の憧れの存在としてただそこに鎮座していればいいだけ」という典型的な華やかさオンリーな役割しか与えられてきませんでしたが、バブルガムはそんな単純にはとどまりません。
第136話「Bonnibel Bubblegum」で明らかになりますが、もともとバブルガムは女の子だった時期に孤独すぎて自分に似た存在を創造し、それがプリンセスになるきっかけになります。それってなんというか、リアルな女の子がプリンセスに憧れる本来の動機そのままだとも思います。
バブルガムは、ジェンダーロールに縛られることなく、それでいて現実の女の子の憧れをそのまま反映しており、かつ統治者としてのリアルな問題とも向き合っている…こんな両立をしてみせているプリンセス・キャラクターはそういないのではないでしょうか。
子ども向けアニメに同性愛は不適切?
そしてプリンセス・バブルガムに欠かせないもうひとつの要素、それはロマンスです。
バブルガムはフィンからの好意も、アイスキングからの好意も、それどころか他の求婚者さえも、全て跳ね除けており、統治と科学に没頭しています。
そんなバブルガムの重要なキーパーソンになるのが「マーセリン」というヴァンパイア女性のキャラクターです。
この2人が最初に絡むシーンとして出てくるのは第23話「Go with Me」で、映画にバブルガムを誘いたいフィンが、気を引くために女心のわかるマーセリンの助言を聞くが全部失敗するというエピソードです。ここでマーセリンに対するバブルガムの反応はなぜか冷たいのですが、マーセリンはバブルガムを「Bonnibel」と呼ぶんですね(ボニベル・バブルガムが本名らしい)。
犬猿の仲なのか、フレネミーなのか、よくわからないですけど、この時点で何かある感じはする関係性です。これを一部のファンは妄想を働かせてカップリングにして楽しんでいたりしました。こういう2次創作はよくあることなので、別に特筆するものでもないです。
マーセリンはフィンに対して「あんたとは付き合えない(恋愛的意味で)」と断る場面があったり、映画のキスシーンが気に入らないフィンと一緒にはしゃぐ場面がもあったり、妙に異性関係に距離を置くのもその妄想を後押ししたかもしれません。ちなみに後にマーセリンにはアッシュというカレシがいたことが判明します(記憶改変して復縁を迫る嫌な奴だけど)。マーセリンは赤い色を吸うので、そこもバブルガムとの相性の良さを想像させますしね。
ファンがざわついたのは第32話「What Was Missing」です。ここでマーセリンはバブルガムへの対抗心のような複雑な感情を「I’m Just Your Problem」という曲で歌います。しかも、マーセリンがあげたTシャツをパジャマにして大切しているとバブルガムは話したり、明らかにこの2人には過去に何かあったと匂わせるのです。
このエピソード放映によってファンに火がつきます。バブルガムとマーセリンは同性愛(レズビアン)であり、これは公式設定なのではないだろうか、と。
その論争はヒートアップする中、公式で製作陣の一部がその同性愛解釈を後押しする発言をしたことでますます激化します。
しかし、製作総指揮のフレッド・セイバートや原案のペンデルトン・ウォードが、その騒動に対して「騒がせて申し上げない」的な回答をし、どちらとも支持しない(要するに中立という名の消極的否定による火消し)をしたことで論争は一旦は沈静化します。
なぜこれがここまで論争になるのか。それは「子ども向けアニメでLGBTQを描写することはタブーだから」です。少なくとも保守的な人はそう思っています。大人向けの映像作品では当時はLGBTQを描くのは普通にありましたが、子ども向けアニメでは全くあり得ないことでした。子どもにはLGBTQは「見せてはいけないもの」だったんですね。
だから製作陣もああいう事態の収拾をしたのでしょう。でもLGBTQ当時者には全く解せない話です。私たちは子どもに有害なのか?ってことになりますから。実際この『アドベンチャー・タイム』の製作陣の対応に対して批判の声をあげたLGBTQメディアもありましたし、多くのファンも残念に思ったでしょう。
少なくともこの2011年~2013年あたり、この時期では「子ども向けアニメで同性愛を描写するのはふさわしくない」という認知が優勢だったというひとつの証左になる一件です。
結末はハッピーエンド
確かに『アドベンチャー・タイム』のマジョリティな製作者は「子ども向けアニメにおける同性愛」をそこまで熱心に向き合うほどのものでもないと思っていたかもしれません。
でも全員がその考えで一枚岩だったとは言えないでしょう。なぜなら本作のストーリーボード、そして本作を象徴する曲たちを作詞しているのがあの“レベッカ・シュガー”だからです。
“レベッカ・シュガー”と言えば、後に『スティーブン・ユニバース』という作品を企画・監督し、子ども向けアニメにおけるLGBTQ描写で革新的一歩を刻みます。そしてその際、自分がバイセクシュアル&ノンバイナリーであるとカミングアウトしました。
“レベッカ・シュガー”が『アドベンチャー・タイム』の第32話騒動時にスタジオ内で自分のセクシュアリティにオープンだったかどうかは知りませんが、おそらく彼女はあのバブルガムとマーセリンの同性愛にまんざらでもないか、もしくは後押ししていたのではないかと思わせますよね。当時者として、作り手として、世間の規範にクリエイティブで密かに戦っていたのだろう、と。彼女以外にも当時者はいて、実はさりげなく連帯していたかもしれません。
こういう内なる反抗が実を結んだのか、2010年代後半になると状況は変わり、『アドベンチャー・タイム』内にも変化が起きます。
バブルガムは例のマーセリンからもらったTシャツの匂いを満足そうに嗅いだり、その描写はどんどん露骨になり、第101話「Varmints」では王国を追い出されて小屋暮らしをするバブルガムのもとにマーセリンがやってきて、語り合います。「マーシー」「ボニベル」と呼び合う2人は本当に親密で、どうやらバブルガムが王国の統治に専念するようになり関係が離れたらしいこともわかり、やがて2人の間にわだかまりは消え、寄り添い合う姿が描かれていました。
ここまでくると同性愛であることを誤魔化す気もないんだなと思うレベルの描写です。
そして最終話「Come Along with Me」にて、2人のキスシーンが描かれ(その直前の会話もすっごく良いのだけど)、エピローグで2人は仲良く同棲している姿が描かれて、物語は幕を閉じます。
もうあの数年前の論争はなんだったのかという話ですよ。この作中での自然な祝福。でもこんな多幸感溢れるシーンを見てしまうと、過去の騒動はどうでもよくなってきますけどね。
当事者の子どもたちのために
とにかく2018年、『アドベンチャー・タイム』は「同性愛を描けない子ども向けアニメ」から「同性愛を描ける子ども向けアニメ」へと進化したというわけです。その道のりは平坦ではなかったし、意図された努力の結果なのか、世相に流されたのか、それはあやふやです。
でもハッキリ言えるのは、マジョリティに隠れていた当事者が一歩一歩と前に出ることで「クィア・アニメーション」の最初の1ページを作ったということです。
2010年代後半に子ども向けアニメにおいても「クィア・アニメーション」の歴史が始まりました。先ほど挙げた『スティーブン・ユニバース』の他にも、『シーラとプリンセス戦士』、『アウルハウス』などクィア・アニメーションが続々誕生しています。
これは凄いことだと思います。なぜなら子どもたちは物心ついたときからLGBTQが当たり前にある世界の作品に囲まれるようになったのですから。そんな環境で育った子どもたちがどんなふうに社会に影響を与えるか、想像するとワクワクします。
と同時に作品の在り方、とくに2次創作との付き合い方は完全に変わったなとも思います。これまでLGBTQは「BL」や「百合」というジャンルで2次創作でしか描いてはいけないものかのような扱いになってきました。少なくとも2次創作が主流でした。しかし、今は本家と2次創作の境がほぼなくなり、ファンの期待に答えることが第一になってきた印象が強いです。このおかげでクィア・アニメーションは誕生したと言っても過言ではないかな、と。
子ども向けアニメにLGBTQが登場するのはポリコレに配慮したからではないのです、ファンが望んだからです。もっと言えば目の前にいる視聴者を想定したら当然の帰結なのです。だってLGBTQ当事者である子どもたちはそこにいますからね。
もちろんそう単純に楽観視もできません。世界的にはLGBTQを禁止とする国もあるため、グローバルに展開する作品ではいまだにLGBTQ描写は躊躇されてしまっています。でもこればかりは相互作用だと思うのです。アニメが社会を変え、社会がアニメを変える。この“変える力”を信じていくしかありません。
全ての子どもたちのため、子ども向けアニメが世界を変える“冒険の時”はまだまだ最初のダンジョンをクリアしたあたりです。
— 追記 —
あと、今回は同性愛を軸にしたかったのでバブルガムの話ばかりしましたけど、『アドベンチャー・タイム』で私が一番好きなのは「BMO」なんですけどね。BMOについていっぱい語りたい…。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 100% Audience 93%
IMDb
8.6 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 8/10 ★★★★★★★★
作品ポスター・画像 (C)Cartoon Network Studios アドベンチャータイム
以上、『アドベンチャー・タイム』の感想でした。
Adventure Time (2010) [Japanese Review] 『アドベンチャー・タイム』考察・評価レビュー