「トランスジェンダー」や「ノンバイナリー」など、性同一性(ジェンダー・アイデンティティ)が保守的な社会規範と異なるマイノリティの人たちは、残念なことに日常的に偏見や差別に晒されており、それは暴力や殺人に繋がることがあります。
「National Center for Transgender Equality’s(NCTE)」の2022年11月から1年間を対象にしたアメリカのレポートによれば、暴力による死亡が53人、自殺によって亡くなった人は32人となっています(The Guardian)。「Trans Murder Monitoring」によれば、2022年10月1日から2023年9月30日までに、世界で320人のトランスジェンダーおよびジェンダーダイバースな人々が殺害されたと報告されています(Transgender Europe)。
しかし、これは過小評価とみられ、正確な数字の把握は難しいです。少なくとも言えるのは、残忍な暴力があるという紛れもない現実です。2023年10月に発表されたFBIの犯罪統計によると、性同一性に基づくヘイトクライム(憎悪犯罪)の報告数は前年比32.9%も増加しました(The Guardian)。
今回は、ここ最近に起きた重大事件の中でも、とくに10代の当事者が被害者となった2つの事件を整理しました。「ブリアナ・ジャイ」事件と「ネックス・ベネディクト」事件です。
ブリアナ・ジャイの事件
事件の概要
2023年2月11日、イングランド北西部のチェシャーで、当時16歳のトランスジェンダー女性のブリアナ・ジャイ(Brianna Ghey)さんが死亡しました(BuzzFeed)。
ブリアナさんは公園で刃物で刺された姿で発見され、未成年(事件当時15歳)の少年と少女の2人が殺人の容疑で逮捕されました(BBC)。
加害者の少女と少年は白昼堂々の公園でブリアナさんを狩猟用ナイフで襲い、頭や首、胸、背中など、28カ所を刺しました。ブリアナさんの手には防御創があり、抵抗した痕跡もありました(The Advocate)。2人は遺体を公園に隠すつもりでしたが、犬の散歩中だった人に見つかり、現場から逃走。事件の翌日、2人は自宅で逮捕されました。
ブリアナさんは鬱病に苦しんでおり、家からはほとんど出なかったとのこと。ブリアナさんと加害者の少女は2022年11月頃に知り合い、高校で出会い、メールなどでもやりとりをしていたらしく、ブリアナさんは少女を友人と認識していたようです(BBC)。事件当日もブリアナさんは一緒に公園で遊ぶものだと思っていたと考えられています。
加害者の少女と少年は当初から殺害を狙っていたようで、「殺人計画書」も見つかっています。殺害リストには5人の名が載っていたと伝えられています(BBC)。
捜査と裁判
その後、裁判が行われ、加害者の2人に満場一致で有罪判決が下されました(PinkNews)。そして加害者の少女に最低22年の終身刑、少年に最低20年の終身刑を言い渡しました(PinkNews)。
検察はまた、加害者が連続殺人犯や暴力的なコンテンツに魅了され、インターネット上でそれらを消費していたことも明らかにしました(PinkNews)。ブリアナさんの目をくりぬいて持ち帰ることを考えていたことを匂わす証拠もありました(LGBTQ Nation)。
加害者の少年はブリアナさんに対し、トランスフォビアな態度であったことが明らかになっています(PinkNews)。加害者少女とのやり取りの中で、「男のように叫ぶか女のように叫ぶか見てみたい」とコメントし、ブリアナさんのことを「it」と表現していました(The Advocate)。判事は、加害者の動機の一部にはブリアナさんのトランスジェンダーとしてのアイデンティティに対する敵意があると述べました(BBC)。
加害者の少女と少年は裁判においてもとくに反省を示すことはなかったとのこと(BuzzFeed)。
なお、加害者の少年の父親は、2024年2月に、10代の少女に対する性行為とわいせつな盗撮などの罪で15か月の懲役刑となりました(PinkNews)。過去にも同様の罪で有罪判決を受けたそうです。
社会的背景
トランスジェンダーが何らかの理由で亡くなったとき、その報道や死亡証明書などに本人がアイデンティティとしていない誤った性別が表記されることがあります。今回の事件をきっかけに、亡くなったトランスジェンダーの尊厳を死後も守ろうと、一部の議員がイギリスの「Gender Recognition Act of 2004(GRA)」という法律を改正すべきだと声をあげました(PinkNews)。
しかし、悲しいことにイギリスの政府がトランスジェンダーの命を守るために努力しているとは言い難い状況があります。2024年2月、イギリスの”リシ・スナク”首相は議場でトランスフォビアなジョークを飛ばし、“ケミ・バデノック”女性・平等担当相もこれを擁護(PinkNews)。LGBTQ団体の「ストーンウォール」は「殺害されたトランスジェンダーの子どもの悲しみに暮れる母親の前で、首相がトランスジェンダーの人々をオチとして使うのは無礼です。メディアや政治的議論の中で毎日行われているトランスジェンダーの人々への軽視と非人間化は現実生活に影響を及ぼしており、これを止めなければなりません」と述べました。ブリアナさんの父親もこの件で首相に謝罪を要求しました(PinkNews)。
ブリアナさんの母親はあの事件以来、学校向けのメンタルヘルス支援の充実を図るキャンペーンを立ち上げています(PinkNews)。また、あの事件の加害者の未成年たちが連続殺人鬼など残酷な情報を検索していたことを踏まえ、未成年を有害な情報から守る規制を訴えてもいます(PinkNews)。
そうした傍ら、反トランス側の人たちは、ブリアナさんの死はブリアナさん本人がネット中毒だったのがダメだったのだと主張し、親の監督不行き届きを問題視し、批判の矛先を被害者とその親に向けています(Xtra Magazine)。
ネックス・ベネディクトの事件
事件の概要
2024年2月8日、アメリカ・オクラホマ州オワッソで、当時16歳のジェンダーノンコンフォーミングのネックス・ベネディクト(Nex Benedict)さんが死亡しました(Them)。
事件直後の報道では、地元報道局は匿名の情報源に基づいて、死亡の前日である2月7日にネックスさんが年上の女子のクラスメイト3人にトイレで暴力を受けていたと伝え、「脳外傷による合併症」で死亡したとの可能性を提示しました(Them)。「少女のひとりが床の上でネックスさんの頭を何度も叩いていた」という情報もありました。ネックスさんも子どもが学校で喧嘩に巻き込まれたらしいと警察に当日は話していました。
2022年のオクラホマ州法によって、公立学校の生徒は出生時に割り当てられた性別でトイレを使用することが義務付けられており、学校では友人にトランスジェンダーとして「he/him」の代名詞を使用していたにもかかわらずネックスさんは女子トイレを使用せざるを得ない状況でした(Vox)。
トイレでの暴力事件でネックスさんは一時的に意識を失って怪我を負ったものの、学校関係者は医療サービスや警察を呼ばず、学校側はネックスさんを2週間の停学処分としたとのこと(Vox)。暴行した少女側に処分があったかはわかっていません。
ネックスさんは事件当日に病院で治療を受けた後に家に戻り、翌日、リビングで倒れて病院に運ばれ、同日夜に死亡が確認されました(ハフポスト)。
ネックスさんの祖母は、ネックスさんが2023年に学校でイジメを受けていたと語っています(Them)。実際、事件当日にオワッソ警察の担当官が撮影した装着カメラの映像の中で、ネックスさんは警察に対し、暴行はネックスさんと他のトランスジェンダーの友人の服装に対する長期にわたるイジメの末に起きたと語っていました(The Advocate)。
ネックスさんはチョクトー族の居留地内で暮らしており、学校では優等生だったとのことです(Them; The Advocate)。協力的なボーイフレンドがいて、ネックスさんが両親にカミングアウトするのを手伝ってくれたそうです(Vox)。
捜査と裁判
2月21日、事件を捜査しているオワッソ警察は「検死の結果、死因は外傷によるものではないことがわかった」と発表(ハフポスト)。
3月13日、オクラホマ州監察局は、ネックスさんの死は自殺であり、ジフェンヒドラミンとフルオキセチンの組み合わせによる過剰摂取によるものであるとする報告書の一部を発表しました(Vox)。解剖報告書では、身体的外傷は脳損傷には及ばなかったと説明しています(The Advocate)。
2024年3月22日、地方検事はこのネックスさんの死に関して告訴しないと決定しました(The Advocate)。
米国教育省は、ネックスさんの死の一因となった可能性のあるイジメについての調査をすると発表しました(The Advocate)。アメリカでは、連邦法の教育改正法で「性別に基づく差別」を禁止しており、アメリカ障害者法で「性別違和に基づく差別」を禁止しています(LGBTQ Nation)。
社会的背景
ネックスさんの死は、全米のLGBTQコミュニティに深い悲しみと衝撃を与え、抗議活動や追悼式が行われる中、ネット上では著名人、活動家、アーティストからのネックスさんを讃える追悼の声が殺到しました(Out)。
一方で、反LGBTQの活動も便乗して活発化しています。反LGBTQで有名なウェストボロ・バプテスト教会(WBC)は、ネックスさんが通っていたオクラホマ州の高校で抗議活動を行い、ネックスさんの死の責任は本人と家族にあると非難すると宣言(LGBTQ Nation)。この教会は、ネックスさんが故意に他の女子生徒と争い、犯罪をしたと主張していますが、そうした事実は確認されていません。
オクラホマ州は反トランスの政治的偏向で非難されており、教育長”ライアン・ウォルターズ”は以前から「radical gender theory」や「woke gender games」というレトリックを使い、LGBTQの権利を攻撃していました(Vox)。反LGBTQで有名な論者である「Libs of TikTok」の“チャヤ・ライチク”をオクラホマ州の学校図書館システムのメディア諮問委員会の委員に任命したこともあります(Vox; Prism)。事件が起きる前、ネックスさんの教師のひとりはLGBTQを支援する声明をSNSにあげていましたが、それを“チャヤ・ライチク”が「グルーミング」であると中傷し、その教師は辞任に追い込まれてもいました。この事件を受け、“チャヤ・ライチク”は多様なジェンダーの在り方を「精神疾患」と表現し、「ジェンダー・イデオロギーを根絶したい」とメディアに語っています。
今回の事件を受けて、LGBTQの若者をイジメなどから守る必要性が叫ばれています(Truthout)。少なくとも1人は支援してくれる大人がいると報告したLGBTQの若者は、過去1年間に自殺未遂を報告する可能性が40%低いという調査もあります(The Trevor Project)。今回の事件以降、LGBTQ+若者の自殺防止ラインではオクラホマ州からの通報が238%増加しました(LGBTQ Nation)。
2024年3月、ジョー・バイデン大統領はホワイトハウスから声明を発表し、ネックスさんの事件に関して哀悼の意を表明しました(The Advocate)。
1998年に大学生の”マシュー・シェパード”が同性愛嫌悪で殺害された事件があり、こちらも社会に影響を与えましたが、そのマシューさんの母であるジュディさんは、20年以上前の同性愛差別の空気と現在のトランスジェンダー差別の類似を指摘しています(Teen Vogue)。
追悼…そしてもう繰り返さないために
「ブリアナ・ジャイ」事件と「ネックス・ベネディクト」事件、いずれもジェンダー・アイデンティティに対する暴力と憎悪があり、社会に差別が蔓延していた実態があります。
差別は命を奪います。世の中に足りないのは議論ではなく、命を守るための行動です。
●『「トランスジェンダリズム(性自認至上主義)」とは?【トランスジェンダーと陰謀論】』
●『「生物学的性別」とは? その意味と定義の歴史、そして性スペクトラム』
●『「ジャンクサイエンス」とは? 陰謀論や差別に使われる科学(?)の実態』
【ネット】
●2019. Accepting Adults Reduce Suicide Attempts Among LGBTQ Youth. The Trevor Project.
●2023. Brianna Ghey murder: Teens guilty of ‘ferocious’ killing. BBC.
●2023. トランス女性が28カ所刺されて亡くなる。有罪の少年少女「反省のかけらもない」. BuzzFeed.
●2023. Teenagers found guilty of Brianna Ghey’s murder. PinkNews.
●2023. Teenagers Found Guilty in Brutal Murder of Transgender Girl Brianna Ghey. The Advocate.
●2023. Transgender deaths in US on rise with increase in anti-trans laws, report shows. The Guardian.
●2023. Trans Murder Monitoring 2023 Global Update. Transgender Europe.
●2024. Scarlett Jenkinson and Eddie Ratcliffe: Teenagers who tried to get away with Brianna Ghey murder. BBC.
●2024. Calls to LGBTQ+ youth crisis line skyrocket after death of Nex Benedict. LGBTQ Nation.
●2024. Remorseless teens who stabbed trans girl to death are going away for life. LGBTQ Nation.
●2024. Westboro Baptist Church blames Nex Benedict for his own death & will protest his school. LGBTQ Nation.
●2024. Rest in power, Nex Benedict: Tributes pour in for fallen LGBTQ+ teen. Out.
●2024. Brianna Ghey’s father demands apology from Rishi Sunak for trans jibe in front of late teen’s mother. PinkNews.
●2024. Brianna Ghey’s mum delivers emotional tribute at vigil marking one year since trans teen’s murder. PinkNews.
●2024. Brianna Ghey’s mum Esther meets with killer’s mum in ’emotional’ encounter. PinkNews.
●2024. Brianna Ghey’s teen killers named as pair sentenced for trans girl’s murder. PinkNews.
●2024. British lawmaker calls for ‘dignity in death’ for trans people after Brianna Ghey killing. PinkNews.
●2024. Father of teen boy who murdered trans schoolgirl Brianna Ghey jailed after admitting sex offences. PinkNews.
●2024. Kemi Badenoch accuses Labour of ‘weaponising’ Brianna Ghey’s murder after Starmer and Sunak clash. PinkNews.
●2024. Indigenous and queer allies mourn the death of Nex Benedict, call for solidarity. Prism.
●2024. From Matthew Shepard to Nex Benedict, a History of Anti-LGBTQ+ Violence. Teen Vogue.
●2024. Nex Benedict’s autopsy report released. The Advocate.
●2024. Nex Benedict died by suicide, says Oklahoma medical examiner. The Advocate.
●2024. Outrage after Oklahoma prosecutor declines charges in Nex Benedict bullying death. The Advocate.
●2024. President Biden addresses LGBTQ+ youth ‘suicide crisis’ in statement on Nex Benedict. The Advocate.
●2024. What Owasso police, school have said about Nex Benedict’s death. The Advocate.
●2024. Nonbinary Teen Nex Benedict Dies After Being Attacked By Peers in a School Bathroom. Them.
●2024. Our Mourning for Nex Benedict Calls Us to Action Against Transphobia and Fascism. Truthout.
●2024. The unanswered questions surrounding the tragic death of Nex Benedict. Vox.
●2024. Brianna Ghey’s legacy must be liberation—not further harm. Xtra Magazine.
●2024. トランスジェンダーの米高校生、トイレで暴行された翌日に死亡。1年近くいじめられていた. ハフポスト.