私たちの”Joyland”を探して…映画『ジョイランド わたしの願い』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:パキスタン(2022年)
日本公開日:2024年10月18日
監督:サーイム・サーディク
セクハラ描写 動物虐待描写(家畜屠殺) 自死・自傷描写 LGBTQ差別描写 性描写 恋愛描写
じょいらんど わたしのねがい
『ジョイランド わたしの願い』物語 簡単紹介
『ジョイランド わたしの願い』感想(ネタバレなし)
パキスタンのトランスジェンダーの今
世界中に歴史がある性的マイノリティの人たち。今回はパキスタンのLGBTQの事情について触れていきましょう。
パキスタンは南アジアの国で、東にインド、西にアフガニスタン、南西にイラン、北東に中華人民共和国があり、かなり独特の立ち位置にあります。「パキスタン・イスラム共和国」が正式名であることからもわかるとおり、国民のほとんどがイスラム教徒です。
そのパキスタンでは、刑法で「自然の秩序に反する性交」が犯罪とされており、同性愛行為も処罰の対象となります。この法律が存在するのは、パキスタンがイギリス領インド帝国下だった頃に制定された法のせいであり、要するに植民地支配の名残です。
性的指向の差別を禁止する法がないパキスタンですが、性同一性(ジェンダー・アイデンティティ)の差別を禁止する法は存在するのが意外に思うかもしれません。2018年にトランスジェンダーの権利を保護する法律が制定され、国内の当事者は性別適合手術などの医療ケアはもちろん、公的書類に自分の性同一性の性別を明記できます(男性・女性以外でも良し)。雇用者のうち一定をトランスジェンダーに割り当てる決まりもあります。人権省ではトランス女性の人が主要な役職に任命されるなど、当事者主体の政策も進んでいます。単純に比較しづらいですが、部分的にははるかに日本よりもトランスジェンダーの人権が整備されていると言えるでしょう。
これは『モンキーマン』の感想でも説明しましたが、パキスタン含む南アジアの地域では、昔から「ヒジュラ(hijra)」と呼ばれる、出生時に男性とみなされた女性的なアイデンティティを持つ人々が認知されてきた歴史があるためです。いわゆる「第3の性別」として語られ、欧米や日本で言うところのトランスジェンダーやインターセックスに該当する人たちが含まれています。パキスタンのウルドゥー語圏では「ヒジュラ」は軽蔑的な意味合いが強いので、「カワジャ・サラ(khawaja sara)」と一般に呼ばれるそうです。
ではパキスタンのトランスジェンダーの人々は安心して暮らせているのかというと、そう楽観視はできず、残念ながら差別は社会に巣くっており、国内の保守的な宗教右派からの敵視に晒されています。
今回紹介する映画は、そんなパキスタンのトランスジェンダー女性を主役のひとりとし、パキスタンのトランスジェンダーと関わりの深い文化も映し出す作品です。
それが本作『ジョイランド わたしの願い』。
本作は、パキスタンのラホールという都市で暮らす男性、その妻である女性、そして男性と知り合うことになるトランス女性…この3人を主人公にした物語です(パキスタンでは「トランスジェンダー」という言葉も法律の名称になるくらいに一般浸透しているようで、先ほど書いたカワジャ・サラの文化を土台に「パキスタンのトランスジェンダー」が成り立っています。なので今作のキャラクターも「トランスジェンダー」という言葉でこの記事内でも説明することとします)。この3者が国内の保守的なジェンダー観(家父長制)の抑圧をもろに受けていく姿が映し出されます。
最近だと『花嫁はどこへ?』という映画がインドの保守的なジェンダー観(家父長制)の抑圧を描き出し、印象的でした。あちらと比べると、パキスタン映画の『ジョイランド わたしの願い』はもっと悲劇的で、現実の救いのなさが際立つ後味です。
2022年に完成していた『ジョイランド わたしの願い』はその内容ゆえに、本国パキスタンでは保守系勢力の反発を受けて政府から上映禁止命令が出されるも、なんとか一部は撤回されました(3つのうちの2つの地域で禁止令は解除されたもののパンジャーブ州では解除されていないとのこと:Vogue)。2022年の第75回カンヌ国際映画祭ではパキスタン映画として初めて出品され、「ある視点」部門審査員賞とクィア・パルム賞を受賞。監督は、本作が長編デビューとなる新鋭の“サーイム・サーディク”で、これはパキスタン映画史でも大きな偉業だと思います。
また、製作総指揮には、人権活動家でパキスタン生まれの“マララ・ユスフザイ”、さらにパキスタン系イギリス人の“リズ・アーメッド”も名を連ねています。信頼の布陣だ…。
私もずっと「観たい映画」のリストの上位に本作をメモしていたのですけど、2024年に日本でも劇場公開されることになりました。
今年の見逃せないフェミニズム&クィア映画の一本ですので、ぜひどうぞ。
『ジョイランド わたしの願い』を観る前のQ&A
オススメ度のチェック
ひとり | :隠れた良作 |
友人 | :題材に関心ある同士で |
恋人 | :やや悲劇性が強いけど |
キッズ | :性描写が少しあり |
『ジョイランド わたしの願い』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(前半)
パキスタンのラホール。歴史あるこの都市には多くの人々が息づいています。それぞれの建物には家があり、その家の生活がありますが、ある家にはラナ家の次男であるハイダルがいました。
ハイダルは白い布をすっぽり被り、家をゆっくりと歩いて、幼い女の子たちを驚かせて遊びに付き合ってあげています。この女の子たちは、ハイダルの兄サリムとその妻ヌチの娘です。
次男であるハイダルはムムターズという妻がいて同居していますが、子どもが産まれていません。そのうえ、今、ハイダルは失業しており、メイクアップアーティストの妻ムムターズが家計を支えている状況でした。
この家の状態に苛立っているのは厳格な父のアマヌラです。早く仕事を見つけて男児をもうけるようにプレッシャーをかけられていました。ハイダルはそのもう車椅子に普段は座っているほどに足腰が弱っている父に全く逆らえません。
ある日、ヌッチが4人目の娘を出産した際、一緒に病院に行ったハイダルはそこで血まみれの服でとぼとぼと廊下に現れ、茫然と座る女性を見かけました。異様な光景に思わず釘付けになりますが、何も言えませんでした。
仕事探しをしていると知った友人からハイダルはバックダンサーの仕事を紹介されます。いざ行ってみて、やってみるも見よう見まねでどうにかできる感じはせずにその場を去ろうとします。
しかし、そこで出会ったのはあの病院で血まみれの服でいた女性です。彼女の名はビバ。ダンスパフォーマンスをしている中心ダンサーのひとりでした。何か運命を感じ、ハイダルはビバのリハーサルにバックダンサー仲間として、ダンスの経験はほとんどない中、必死に習得しようとついていきます。
ビバの属する華やかなショービジネスの世界は大盛況。女性が中心となり、喝采を受けています。客の大半は男たちで大盛り上がり。お気に入りのパフォーマーを見つけては熱狂しています。ビバはここで成功を目指していますが、競争は激しいです。劇場支配人とのいざこざも絶えませんし、周囲の男からの嫌がらせも受けます。
息子が仕事を見つけたことを知り、父のアマヌラはもはや用済みと言わんばかりにムムターズに仕事を辞めるよう命じ、ムムターズは失望します。この家では家長であるこの父の存在が絶対であり、誰も意に反することができません。
一方、ハイダルはダンスの練習に精を出し、ビバとも親しくなっていきます。そんな中、なぜ病院で血まみれの服で立っていたのか、その理由も本人の口から聞くことができます。
ハイダルとビバは心を通わせ、関係は深まっていきますが…。
女性差別とトランス差別の交差点
ここから『ジョイランド わたしの願い』のネタバレありの感想本文です。
『ジョイランド わたしの願い』はパキスタンの保守的な社会に苛まれる三者三様の人物が描かれ、その人生が重なり、すれ違っていく…そんな人間模様が繊細に描かれていました。
まずムムターズ。よくある一般家庭の妻なのですが、ラナ家では「男児をはやく産め」と重圧をかけられ、自身でおカネを稼ぐ行為すらも取り上げられることになってしまいます。排他的で保守的な社会での日常生活という点では、ムムターズの境遇は最も日本と既視感を得やすいかもしれません。
作中ではムムターズの自慰も描かれ、それは女性の自発的な性というものが根本的に否定されている現実を生々しく映し出します。
ムムターズとヌチが2人で遊園地の乗り物で発散して楽しむ姿がまた切ない…。
そのムムターズがついに男児を妊娠したとわかり、彼女の口から「逃げ出したい」という言葉が漏れるも、それは真面目に受け止められることもありません。その後にムムターズは遺体で発見され、おそらく自殺と思われる中、葬儀が行われます。この終盤の何が悲しいかって、あの追悼の空気のいくらかはムムターズの死ではなく跡取りの男児が死んだことへの喪失感で占められているのだろうなと察せられるところ。ムムターズの苦しさをわかっている人はどれくらいいるのかという話です。
そしてもうひとりの女性であるビバ。ムムターズはおそらくシスジェンダーなのかなと思われますが、ビバはトランスジェンダーです。
そのビバが働いているあのダンス・パフォーマンス。あれは「ムジュラ(Mujra)」という伝統的な踊りで、その歴史は「ムガル帝国」の時代にまで遡ります。古典舞踊を発展させたもので、上流階級の人たちの娯楽として親しまれました。
現在、このムジュラはパキスタンでは大衆芸能として息づいていますが、その様子はドキュメンタリー『Showgirls of Pakistan』(2020年)を観るとよくわかります。『ジョイランド わたしの願い』でも登場したように、3mくらいのスタンディが本当に道にいっぱい並んでいてなかなかな光景です。
大衆芸能として庶民に親しまれているのですが、保守的な勢力はこのムジュラを「下品」などと蔑んでおり、低俗とみなす視線も少なくないようです。
このムジュラの業界にはトランスジェンダー女性もパフォーマーとして参加しており、作中のビバはそのひとり。
しかし、ビバが直面するのはダンスを成功できるかという競争だけでなく、トランスフォビアもです。セクハラも受けるし、一方で女性から排除されることもあります。作中では、地下鉄に乗っているときに年配の女性から男扱いされ、追い出されそうになるという「女性スペースからの排除」の嫌がらせに遭う姿も。まさしくトランスミソジニーですね。他のトランス女性が殺される事件も経験しており、ヘイトクライムの怖さも生々しいです(殺人は今も起きている問題です;PinkNews)。
そんなビバはハイダルという理解者に出会い、ロマンチックな関係を築こうとしますが、これも上手くいかず…。
話自体は苦しさで溢れていましたが、ハイダルを演じた“アリーナ・カーン”(トランスジェンダー当事者で、ミス・トランス・パキスタン2023に選ばれたこともある)の見事な佇まいがエンパワーメントを自然に放ってもいました。
このムムターズもビバも保守的な社会では「真の女性」とみなされません。男児を産まない女は真の女ではないし、出生時に男性と割り当てられた奴は真の女になれない…そう勝手に決めつけてきます。女性差別とトランス差別の交差点をこれ以上ないほどにハッキリ突きつける映画でした。
モノ言えぬ男性も孤立を抱える
『ジョイランド わたしの願い』のもうひとりの主人公であるハイダル。このキャラクターの苦悩は一見するとわかりづらいのですが、それは全くモノ言わないからです。苦悩を吐露しようともしません。それこそ男性的な抑圧のよくある状態なのですが…。
ハイダルは妻であるムムターズにも寄り添っており(その結婚も終盤で描かれるように見合い結婚ながら相手の同意をとるなど尊重で成り立っている)、表面的には仲睦まじいように思えます。
しかし、どこかハイダルは保守的な社会が理想とする「男」にはなれません。かといって保守的な社会は良くないという反抗心でそうしているわけでもない…。何がそこに引っかかっているのか。
作中ではハイダルがゲイであることが暗示されます(当人はヘテロセクシュアルとして生きようとしているからこそ女性的なビバに強く惹かれるのでしょうか)。それはビバとのセックス時により顕著に際立ち(お尻を向けて受け身の姿勢をとる)、ビバは女性として扱ってほしいので侮辱と受け取り、関係を拒絶してしまいます。
ハイダルがムムターズと子どもがいなかったのも、同性愛者ゆえだったのかもしれませんし、同じバックダンサーの男たちにノリでああだこうだと絡まれる姿も屈辱に耐える当事者の虚しさと重なります。
パキスタンでは同性愛行為は完全に違法なので、公言できるはずもありません。耐えるしかないのです。だから作中のハイダルはどっちつかずの態度でずっと行き詰っているのですが、救いようもなく観ていて辛いですね…。
ちなみに“サーイム・サーディク”監督もゲイの当事者とのこと。
ハイダル、ムムターズ、ビバ…3人を苦しめているのは同じ保守的な社会そのものなのに、3人が連帯し合うことはできません。あまりにも手を取り合える状況にない…。それこそ保守的な社会には都合がいい、各人の孤立というものがあって…。
“サーイム・サーディク”監督によるパキスタン社会のジェンダー構造の分析は細部まで精密で、物語として巧みに表現されていました。何よりも「日本と同じところが多すぎる…」と思ってしまったのが、偶然ではないわけで…。
パキスタンも日本も規範の外に飛び出したい人が自由に生きられる世界に早くなってほしいです。
シネマンドレイクの個人的評価
LGBTQレプリゼンテーション評価
◎(充実)
作品ポスター・画像 (C)2022 Joyland LLC
以上、『ジョイランド わたしの願い』の感想でした。
Joyland (2022) [Japanese Review] 『ジョイランド わたしの願い』考察・評価レビュー
#パキスタン映画 #ゲイ #トランスジェンダー