そして他の人たち…映画『怪物』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:日本(2023年)
日本公開日:2023年6月2日
監督:是枝裕和
イジメ描写 自死・自傷描写 児童虐待描写 LGBTQ差別描写 性描写 恋愛描写
かいぶつ
『怪物』物語 簡単紹介
『怪物』感想(ネタバレなし)
日本のクィア映画史に残る“怪物”事件
一般的に日本の映画が海外の有名な国際映画祭で賞を受賞するのが喜ばしいことです。私もそう思います。素直に祝福したいです。
しかし、2023年にこの映画がカンヌ国際映画祭で脚本賞、そしてクィア・パルム賞を受賞した際、私を含め、一部の人はそう安易に言ってられない心情となりました。
それが本作『怪物』。
本作では主役の子どもたちが非規範的な性的指向か性同一性にあることを示唆する展開が後半にかけて目立ってくるように盛り込まれているのですが、カンヌ国際映画祭で公開される前に本作は日本でもマスメディアや批評家向けに限定的な試写会が行われたそうで、そこではその後半展開は伏せるように注意喚起がされたそうです(あしたメディア)。
基本的に試写会ではネタバレをしないように注意があるのはよくある対応ですが、ことさら本作は子どもたちのクィアネスが「オチ」として扱われている面が大きいこともあって、一部のLGBTQレプリゼンテーションの問題性に精通した批評家などはその時点で「これはどうなのか」と複雑な感情が沸き上がることに…。
しかし、『怪物』はLGBTQを扱う映画に贈られるクィア・パルム賞を受賞し、この映画がクィア映画だと隠しようもなくなりました。皮肉な顛末です。
私も一般公開時に観て思いましたよ。これをクィア映画だと知らずに見ることになった「クィアな体験を抱える人たち」はさぞかし辛かっただろうな、と。私はありがたいことに例の受賞のおかげで「クィアを描くらしい」と前情報を知ったうえで映画館の席についたので覚悟はできていましたから、ダメージは2分の1くらいには抑えられました。
本作がクィア・パルム賞を受賞したのは、不憫に思ったクィアの神様によるせめてもの助け舟だったのかもしれない…。だからすごく複雑な気持ちになる受賞なのです。
私がこの記事の「感想(ネタバレなし)」部分であえて本作のクィアネスにわりと詳細に言及しているのでは、私の中ではこれはネタバレではない(ネタバレにすべきではない)と考えているという姿勢表明です。だいたいそこを明かしてもこの映画が面白くなくなるわけではありません(まあ、私は本作をそもそもあまり面白いとは思ってないのですが)。
おそらく大半の人は「そんな騒ぎすぎじゃない?」と思うでしょうし、その反応の格差も例の受賞時から容易に想像がつきました(だからまた傷つく)。
しかし、クィアな人たちの中には長年にわたって映画などの表象に傷つけられてきた歴史があります。トラウマを負ってきました。なので警戒するのは当然なのです。
一応、言っておきますが、本作『怪物』だけの問題ではありません。カンヌ国際映画祭ではしばしば物議を醸す(LGBTQコミュニティからネガティブな反応を集めるという意味)映画が登場し、その映画祭内で評価されてきた過去があります。『アデル、ブルーは熱い色』(2013年)、『Girl/ガール』(2018年)、『エミリア・ペレス』(2024年)などです。
もちろん『怪物』を含め、これらの映画を大満足で好むクィア当事者もいるでしょう。ただ、作品が「クィア」であることと、それが単に「クィアの人々が好むもの」であることの線引きは極めて難しいです。前者を「クィア映画」と評しますが、後者の概念が排除されるわけでもありません。
少なくともクィア・パルム賞というのも、「良質なクィア映画に与えられる賞」という単純なものではなく、やはりその実質は「狭い文化圏内での特権のある映画人が集まって与える賞」です。
そんなこともあり、「傷つけられながら映画を愛する」という経験を積んできたクィアな人たちは(クィアな観点において)「信頼できるクリエイター」を目安にすることも多いです。
正直言って、『怪物』における監督“是枝裕和”×脚本“坂元裕二”×プロデュース“川村元気”の座組は、クィア界隈での信頼はほぼ無いです。世間的には『万引き家族』でパルム・ドールに輝いた最も世界で認められた日本監督である“是枝裕和”、『花束みたいな恋をした』で大注目の脚本家の“坂元裕二”、『君の名は。』を特大ヒットに導いた“川村元気”と、そうそうたる組み合わせかもしれないですけど、そんなの関係ありません。とくにクィアな人たちが「信頼できるクリエイター」とみなすような実績は…。
日本のLGBTQ映画史が今後整理されていく中で、たぶんこの『怪物』は問題性を象徴する「事件」として語られ続けるでしょうね。
今回の『怪物』は好みの話ではなく、レプリゼンテーションとしての評価軸の話になります。クィアネスが「オチ」として扱われている面以外にも多くの問題点がありました。
『怪物』については既に“久保豊”氏による批評(Tokyo Art Beat)や、“是枝裕和”監督と“児玉美月”氏・“坪井里緒”氏との対話(朝日新聞)といった重要な資料があり、そっちを見てもらえれば論点整理には事足りるのでぜひ読んでください。
以下の後半は、作中のようにクィアな子どもだった私なりの言葉を並べた感想の雑文となります。
『怪物』を観る前のQ&A
鑑賞の案内チェック
基本 | 直接的なイジメの描写があるほか、親による子どもへの虐待、自殺未遂、LGBTQ差別などが部分的に描かれます。 |
キッズ | 子どもにはややわかりにくいです。 |
『怪物』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(前半)
夜、消防車がサイレンを鳴らしながら街を走り抜けていきます。その先には炎に包まれている雑居ビルがありました。
シングルマザーの麦野沙織は家の窓から見下ろせる比較的近い建物で火事が起きているのに気づきます。そして小学5年の息子の湊を呼び、ベランダにでて、一緒に眺めます。
隣に立つ湊は「豚の脳を移植した人間は、人間?豚?」と唐突に呟いてきます。わけのわからない質問に戸惑う麦野沙織。そうこうしているうちに消火活動が始まります。
朝、湊は登校。麦野沙織はクリーニングで働きます。馴染みの客から「火事で全焼した建物の3階にガールズバーがあって、その店に保利先生がいた」という情報を耳にします。
帰宅した湊は風呂に入っていますが脱衣所にはなぜか無造作に切ったと思われる髪の毛がバラバラと落ちていて、麦野沙織はギョっとします。校則違反だと湊は言うものの、「また蒲田くんになんか言われたんでしょ?」と麦野沙織は心配します。
亡き父の誕生日を仏壇の前で祝い、湊は「お父さんはもう生まれ変わったかな?」と質問を口にします。
その後も、靴を片方だけ失くしたり、水筒に変なものを入れていたり、息子の奇妙な行動に振り回される麦野沙織。思春期を迎えればこんなものなのか…。
しかし、ある日、湊が帰ってこず、夜に外に探しに行きます。自転車があった場所を進むと廃トンネルがあり、そこで「かーいぶつ、だーれだ」と喚く湊を見つけて連れ帰りました。
帰りの車内で「湊が結婚して家族を持つまで母として頑張るとお父さんと約束した」と麦野沙織は話します。「どこにでもある普通の家族でいいの」
それを黙って助手席で聞いていた湊は突然走行中の車からドアを開けて飛び降りてしまい、驚いた麦野沙織は急停止します。幸い、大きな怪我ではなかったですが、湊がCT検査を受け、帰りの途中でも麦野沙織は息子の前では気丈に振る舞います。
けれども、湊は検査に異常がなかったかを気にします。「どうした? 学校で何かあった?」
すると湊は「自分の脳は豚の脳と入れ替わっているんだよ!」と叫んで走ってしまいます。追いついて誰に言われたのかを聞くと、保利先生だと湊は苦しそうに呟くのでした…。
誰のためのオチなのか
ここから『怪物』のネタバレありの感想本文です。
『怪物』は典型的な3幕構成で、麦野湊の視点となる3幕目が言ってしまえば“答え合わせ”のパートとなります。そこで真相の根底に、麦野湊と星川依里という周囲からは「少年」と扱われている2人が実は裏で交流を深め、それにとどまらず互いに惹かれ合っていると思われる描写が映し出されます。
星川依里はもともと学校で一部の児童からイジメられていたようですが(その理由は不明なものの、女子と一緒にいることが多いため、「お前、女子?」と揶揄われるシーンがある)、父も依里のその非規範的なセクシュアリティを嫌悪し、それを矯正しようと振舞っていること(女子が好きだと言わせるシーンなど)が示唆されます。
麦野湊も後にイジメの対象となり、「お前、星川のこと好きなの?」と同級生から嘲笑う言葉を向けられる中、母を含めて周囲が無自覚に押し付けてくる規範的な男らしさに適合しない自分に苦しんでいる姿が描かれます。
それでも麦野湊と星川依里の2人の関係性は特別となり、ラストは互いに“今”を肯定して飛び出します。
私の本作に対する最初に思った感想は「3幕目だけしか描かれないならまずまずのクィア映画になったのに…」でした。あくまで“まずまず”ね…。
問題は本作が3幕構成であるということで、脚本家としてはそこにプロットの捻りをだしたかったのでしょうけど、完全にクィアのレプリゼンテーションとしては逆効果。
意図したいことはわかります。『怪物』というタイトルからも察せられるように、人は自身のレンズを通して他者を安易に”異質”にみなしてしまうということ。それは性的マイノリティに限らず、あちこちでいろいろな対象で起きているということ。
ただ、これだと「見え方によって正義は異なる」的なネットとかでよく寵愛されているレトリックそのものに陥りやすいですし、何というか、SNSっぽい方便なんですよ。“是枝裕和”監督は言葉が切り抜かれて独り歩きしやすいSNSが嫌いなことをよく公言していますが、この映画はそれを風刺したい部分もあるのかもしれませんが、結局、この映画自体がそのSNS的な有害な構造をかなり強引に論破しているだけというか…。
とくに2幕目でメインで描かれるホリセンこと保利という教師のキャラクターなんて、ヒムパシー欲求を満たすためだけにいるような設定のキャラです。相当にツッコミどころの多い強引なプロットの力技で二面性を描いています。
最近はこの手の日本映画がほんとに増えているのですけど、こういう語り口に「社会を風刺してみせた」と満足してしまうことを、映画芸術に関わる人たちはもっと警戒しないといけないと思います(風刺ではなく芸術表現だと繕っても同じです)。ただでさえ、今の日本社会は政治家もメディアもそんな安直な論調で社会の問題点を捉えた気になって、いろいろなものをこぼれ落としているのですから。
本作がクィアネスが「オチ」として扱われているというのは、もっと具体的に言えば、クィア当事者のためのオチにはなっているとは言い難いから余計にマズいです。
本作のラストは「最も見落とされている子に救いを」と言わんばかりのトーンですが、この子たち自身の主体性は排除されていたと思います。それよりも大人たちの「子どもを守りたい」という願望のほうが悪目立ちしており、例の保利先生の「ごめんね、先生間違っていた。なにもおかしくないんだよ!」という叫びといい(あんな外で大声で喚かれるの、私がクィアな子ども時代にされていたら恐怖でしかないけど)、「誤解されていた本当は良心的な男」を強調する演出に使われているだけです。
それは往々にしてこの映画の製作者たちが「私たちはクィアな子どもの味方です」と形式的に言いたい気持ちだけが最後に乗っかっているようにもなっていて…。
個人的には麦野湊と星川依里には「謝ればいいと思ってるのか!」といい加減な大人たちに罵声を浴びせる権利くらいあると思ってますけど…。
子どもにクィアネスの主体性はないのか
『怪物』は何かと子どものクィアネスの主体性の軽視が鼻につきます。
“是枝裕和”監督って、フィルモグラフィーを観ていても子どもの描写は非常に上手いと私も思っていましたし、本作でも子どもたちの掛け合いや仕草の演出は効果的でした。ただ、その“是枝裕和”監督でさえも子どものクィアネスを描くのは下手なんだなぁと実感しました。基本が上手いのもあって、ピンポイントの下手さがより際立っていましたね。
本作を製作するにあたってLGBTQの監修をつけたらしいですが、その監修者からは「この年齢の子だと性的指向や性同一性の認識はまだ早い」みたいなアドバイスがあったとの情報もあります(Tokyo Art Beat)。だからやけに本作でもセンシティブな扱いにとどまっているのかな。
これも一応は書いておきますけど、科学的には「子どもは2~3歳くらいで自分の性的指向や性同一性を認識し始める」というコンセンサスがあります(もちろん何歳で認識するかは人それぞれです)。自己受容の旅は人生で常に続きますが、子どもだからといって判断力がないとみなす考え方は「親の権利」的な保守的な育児論と変わらないです。
別に『ビッグマウス』くらい振り切れとは言いませんが、10歳~11歳の子なら相当に主体的になれるでしょう。しかも、スマホ世代の子ですよ。いくらでもネットで調べれば、日本語の肯定的なサポート情報もでてくる時代なのに、なぜかあの子たちは近辺の大人の言葉だけに振り回されてしまっていて、プロット上の都合を感じさせます。スマホが身近に無い時代を描いているならまだわかるのですが…。
結果、子どものクィアネスの主体性は薄いゆえに、プロットとしてクィアネスがセンセーショナルに浮き上がってしまっていました。
別にクィアのみならず、『怪物』は結構あらゆる要素がショッキングさを醸すための演出に利用されています。車からの飛び降りによる交通事故、父による虐待、保利の自殺未遂、土砂崩れの被災、ガールズバーもそうです。それらを当事者のケアを意識して掘り下げはしません。これらは3幕構成で観客という部外者を翻弄するための仕掛けでしかないです。本作におけるクィアネスはそれらプロットの装置のひとつでした。
怪物本人に表象を書かせてほしい
クィアと“怪物”という概念は切っても切り離せない歴史があります。
トランスジェンダーの歴史家である“スーザン・ストライカー”が1994年にエッセイ『My Words to Victor Frankenstein Above the Village of Chamounix』で整理し(Them)、最近もドキュメンタリー『Queer for Fear: The History of Queer Horror』でまとめられているように、一部のクィアの人たちはホラー作品にでてくるホラーアイコンにステレオタイプとエンパワーメントを同時に見出してきました。
これは「見え方によって正義が異なる」的なネットの中立風の論調とはまるで違う批評性です。私たちは「恐怖」と扱われ、それに「恐怖」してきたが、でも「恐怖」をポジティブに取り込むこともできるという…自己受容と社会運動の延長です。
ドラマ『チャッキー』なんかはその表象の歴史と当事者体験をとても巧みにプロットに組み込み、主体的な子どものクィアネスを軸にして、クィア当事者にとっても魅力的な物語を展開していました。
これはクィアのレプリゼンテーションについて理解があるからこそのクリエイティビディです。本作『怪物』はそのクィア表象の歴史に根差すという前提意識が乏しく(知りさえしていないのか)、狭い映画文化圏の中で称賛される(ときに当事者を消費する)映画技巧に依存しきりでした。
あらためて『怪物』の件で思うことですが、LGBTQの考証をつけるにせよ、ちゃんとレプリゼンテーションの専門家じゃないとダメですね。LGBTQ支援団体程度では活動はしっかりしていても、レプリゼンテーションについては普通に素人だったりしますから。
そしてLGBTQを主題にする映画を作るなら、監修で済ますのではなく、クィア表象に精通した人を脚本家に加えるとか、そういうことをしたっていいはずです。怪物本人に脚本を書かせてください。怪物本人に演技させてください。
クィアな批評家ももっといてほしいです。前述した今回の『怪物』のクィア視点批評でも一部の批評家が矢面に立たされてしまい、誹謗中傷を受けやすくなっていました。クィアな批評家の数がもっと増えればひとりに負担がかかることを減らせますし、業界にクィアの視点を意識づけさせる力にもなります。
クィア表象はベテランが挑戦する新境地とかではありません。独特の熟練が問われる領域で、表象のすぐ隣には現実を生きる当事者の健康や生命が存在します。だから表象は社会運動にもなりえます。その覚悟が要ります。
日本はまだこの段階ですと突きつけられたようで、一部の人たちをガッカリさせることになった『怪物』ですが、いつか「いや~…昔は問題になった有名監督の映画とかあったんだよ」と昔話風に語れるといいんですけどね。
シネマンドレイクの個人的評価
LGBTQレプリゼンテーション評価
×(悪い)
関連作品紹介
第76回カンヌ国際映画祭の受賞作の感想記事です。
・『落下の解剖学』(パルム・ドール)
・『関心領域』(グランプリ)
・『PERFECT DAYS』(男優賞)
作品ポスター・画像 (C)2023「怪物」製作委員会
以上、『怪物』の感想でした。
Monster (2023) [Japanese Review] 『怪物』考察・評価レビュー
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