それは考えておきたい…映画『ラブ・イン・ザ・ビッグシティ』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:韓国(2024年)
日本公開日:2025年6月13日
監督:イ・オニ
DV-家庭内暴力-描写 LGBTQ差別描写 性描写 恋愛描写
らぶいんざびっぐしてぃ
『ラブ・イン・ザ・ビッグシティ』物語 簡単紹介
『ラブ・イン・ザ・ビッグシティ』感想(ネタバレなし)
同化してるよ?
2025年は『私たちは天国には行けないけど、愛することはできる』の感想記事内で、LGBTQの権利が立ち往生している韓国における女性同士の愛を描くサフィックな映画やドラマなど映像作品表象の歴史に簡単に触れながら、韓国のレズビアン映画史に加わるであろう一作が少しずつ誕生していることを紹介しました。
今回は男性同士の愛を描くゲイ表象において韓国映画史で語らないわけにはいかないであろう重大な存在感を示した作品の話です。
それが本作『ラブ・イン・ザ・ビッグシティ』。
本作は、韓国の作家“パク・サンヨン”の連作小説『大都会の愛し方』(英題は「Love in the Big City」)が原作。この本は2019年に韓国で出版され、その後に世界各国で翻訳されて、国際ブッカー賞やダブリン文学賞にもノミネートされるほどに高い評価を得ました。
主人公は韓国で暮らすひとりのゲイ男性で、恋愛や友情、家族関係、そして同性愛差別に晒されながらのさまざまな人生(20代から30代)の一面を大都市を舞台に表現した物語でした。
実はこの原作小説は、2024年にドラマ版も制作されており、そちらは原作を基本的になぞった構成になっています。
対するこの2024年の映画版はタイトルは同じでも、中身はわりと違っていて、原作に収録されている「ジェヒ」の部分を中心に脚色を加えながら映像化しているのが特徴です。
主人公は同性愛者である男性なのは変わりありませんが、そこに異性愛者の女性が2人目の主人公として加わり、この2人の友情的なリレーションシップがメインとなってきます。「ゲイ男×ヘテロ女」の友情…というテーマ性は何も目新しくもないのですけど、今回の映画版では女性の主人公のパートでは保守的な韓国社会における女性抑圧がじっくり映し出され、昨今の韓国映画界で目立ち始めているフェミニズムな味わいが濃いです。
フェミニズムと同性愛の表象が組み合わさって連動するというのは、すごく今の韓国社会を投影しているなとも思います。
ともあれゲイ映画であることには変わりなく、それが「Showbox」という韓国大手の制作で大々的に公開されるというのは大きな一歩でしょう。
しかし、その一歩は当事者にとって素直に喜べるかというとそうでもなかった事実もあり、顔を曇らせる社会の現実を突きつけもしました。
とくに本作『ラブ・イン・ザ・ビッグシティ』の宣伝は、まるで異性愛中心のロマンティック・コメディのように見せかける雰囲気になっており(実際には主人公の男女が恋愛関係になることは全くない)、そこは非常にLGBTQコミュニティから批判されました。この宣伝の問題は、日本もそう変わらず、「自分らしい生き方を見つける」「ありのまま」「普通に馴染めない」といったとても“便利”な宣伝文句が並び、ゲイの物語であることはなるべく目立たないようにされ…。
これは「映画」というメディア産業の悪い部分だと思います。本来は複雑な内容を詰め込んでいる作品を広報や受け手の感想が「単純化」し、社会に反発する姿勢を目障りなので「丸く角を削り」、想定する観客を「大多数」に設定してしまう…。それが良い映画の紹介のしかたなのだと無邪気に信じて…。
一応、言っておくと、本作はそういう「社会に迷惑かけずに同化しようよ」という行儀のいい空気感に背を向けていく映画なわけで、宣伝と映画の中身が一致しない、どうもチグハグな印象が否めないです。
韓国ではドラマ版に対して、市民団体が制作会社本社前で記者会見を開き、ドラマは「同性愛を助長し、美化するポルノ作品」だとして番組の放送中止を求めたそうです(OutWrite)。日本ではこういう露骨な反対運動は表面上目立っていないかもしれません。でも「LGBTQとか言わないで、普遍的な愛ってことで“優しく”感動させてくれるよ」というふんわりな語り口も、やっぱりすっごく気持ち悪くゾっとするものなんだということを、ちゃんとここでハッキリさせておきたいところ。
そんなこんなで私はこの映画『ラブ・イン・ザ・ビッグシティ』もクィア表象としてどうだったのかを、後半の感想では遠慮なく感じたままに書いていきます。
『ラブ・イン・ザ・ビッグシティ』を観る前のQ&A
鑑賞の案内チェック
基本 | 女性差別や同性愛差別の発言や暴力の描写があります。 |
キッズ | 控えめな性行為の描写が一部にあります。 |
『ラブ・イン・ザ・ビッグシティ』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(前半)
建物の屋上に男が階段で上がると、ひとりのウェディングドレス姿の女がタバコを吸いながら街並みに顔を向けています。しばしアイコンタクトで互いを認識する男女。2人の手首にはお揃いのタトゥーの文字が刻まれています。フンスとジェヒ、2人は2人にしか知らない特別な絆がありました。それはある昔の出来事から始まります。
数年前、大学に通っていた頃。フンスとジェヒはフランス哲学・文学の同期でした。フンスはあまり人と慣れあわず大人しく寡黙な男で、他の同期の男とも親しくはしません。ジュヒは社交的で大胆な行動をとる見るからに変わった女で、異性にもすぐに傾いてしまうので軽い女だと周りからはみなされていました。
ある夜、フンスが暗がりで男とキスをしているのをジェヒは偶然に目撃。そのときはジュヒは軽く笑いますが、酔っているフンスはふらふらしつつどこかへ消えます。
フンスは同性愛者であることを同期にも母にも隠していましたが、噂というのはどこで湧いてくるかはわかりません。学内でも男2人がホテルに行くのを見たといった話題が嘲笑的になされているのが、フンスの耳にも嫌でも入ってきます。
そのフンスに対してあの目撃の出来事以来、なぜかジェヒは気楽に接してきます。ジェヒもまたときに大学内で変な奴を見る目を向けられ、体を性的に品評され、馬鹿にされもします。
こうしてフンスとジェヒはお互いに変わり者同士ということで打ち解け合っていきます。クラブでストレスを発散し、食事をし…そんな快楽で紛らわす日々。いつの間にか、2人は同棲生活をしていました。プライベートな暮らしでも肩肘張らずに過ごせるのです。
いまだにジェヒは恋多き女で、またもやとある気に入った男性に出会い、調子づきます。一方でフンスも飲み会で吐いてしまった際に優しくしてくれた男性に惹かれ、すぐに体を重ね合います。
しかし、そんなフンスとジェヒの絆は常に順風満帆とはいきません…。
ストレートな女の曲げない人生

ここから『ラブ・イン・ザ・ビッグシティ』のネタバレありの感想本文です。
映画『ラブ・イン・ザ・ビッグシティ』の主軸である「ゲイ男×ヘテロ女」の友情。あらためて繰り返しになりますが、これ自体は特段の斬新なものではありません。むしろステレオタイプを助長しやすいので、どっちかと言えば、それありきの構図は避けたほうがいいくらいでしょう。この関係性は「男性側が女性を性的に惹かれる対象とみない」という安全性を大前提にしていますが(いわゆるゲイ・フレンド)、本来は性的指向はスペクトラムで流動的ですし、二元論を強調しすぎな対置のしかたです。個人的にはまだ「ゲイ男×ヘテロ男」の組み合わせのほうが偏見を崩す効果は高い気がする…。
正直に言って、本作はクィア表象的には見飽きたクリシェやトロープが散りばめられすぎており、結末まで含めて予定調和的なので、観る前に予想していたものとそう変わらない中身ではありました。これを「韓国が舞台なのがフレッシュだよ」というのはちょっと韓国のクィア作品を舐めすぎな気もするし…。要は結構「普通の映画」なのです。
それでも『ラブ・イン・ザ・ビッグシティ』が退屈にさせないのは、王道をきっちり作りこんでいる面白さがあるからなのだと思います。
その作り込みにおいて上手く輝いているのがあのジェヒのキャラクターでした。『アメノナカノ青空』や『女は冷たい嘘をつく』を手がけた“イ・オニ”監督が原作を読んでジェヒにびびっときたというだけあって、このジェヒは目の離せない存在感を放っていました。
序盤のジェヒは典型的なマニック・ピクシー・ドリーム・ガールという印象なのですけども、確かにその型どおりで、心を閉ざして社会に目立たないように同化していたフンスを引っ張り上げ、「他人なんて気にしないでいこう!」と道を示してくれます。
それでもジェヒが型どおりの味気ない人物像では終わらず、ここから主体性がぐいぐい盛り上がっていってくれるので安心です。
編集センスも手際よく、2人がぐんぐん意気投合していくテンポ感がユーモアとともにストレスなく流れていき、観客もあっという間にこのコンビが好きになります。
ジェヒの性格は『猟奇的な彼女』の派生を思わせますが、破天荒ですぐに人に夢中になってしまうどうしようもないロマンチストというだけでは収まりません。ジェヒが妊娠するに至る過程は性的加害を示唆しますし、大学では性的に嘲笑され、また別のところでは暴力が飛んできて…その人生は女性が受ける抑圧を例外なく背負っています。
そんなジェヒをとおして、「若い女性は好かれたり愛されたりするために“女ならこうでなければ”という枠にハマる必要はない」ということが体現されます。
最終的にジェヒはその破天荒さを取り戻して、自分の幸せをやっと手に入れる…ここはストレートに「私は私であることを曲げなかったぞ!」という気持ちよさがありました。
ジェヒを演じた“キム・ゴウン”も良かったです。最近の主演作だと『破墓 パミョ』があって、まあ、あれもあれで破天荒と言えなくもない存在感でしたけど(今作でも怨念くらいは殴り倒せそうなエネルギッシュな人物でしたが)、間違いなくキャリアの代表作になったでしょう。
映画外でも平等になるには…
ジェヒがあまりに眩しいので、逆にフンスのほうが影が薄くなってしまわないかと心配になる映画『ラブ・イン・ザ・ビッグシティ』ですが、そうなっていないところは上手いバランス感覚でした。
いくらでもゲイ・フレンドという無味乾燥なキャラクターに陥りそうでも、作り手はしっかりフンスのゲイとしてのアイデンティティに向き合い、それを隠さずに描いています。
そうは言っても原作よりは弱めではあります。原作ではもっと内面化された同性愛嫌悪がじわじわと滲んでいますし、転向療法も含めた同性愛の病理化、HIVのスティグマ化といった重要なサブトピックで主人公像を補填しており、深みがあります。
それと比べるとこの映画版は、ゲイ・セックスの性描写は抑えめですし、これでも相当に韓国社会のマジョリティ観客の顔色を窺っている作りだとは思います。だから、まあ、何と言うか、ヘテロセクシュアルに嫌われないゲイ男性の模範を守っているところはあるな、と。
それでもホモフォビアな暴力を描いたり、とくにフンス以外のクィアなコミュニティも覗けたりするので、そのあたりで最低限の満足点をキープしていたかな?
LGBTQの権利がまるで保証されない国の社会にて、劣等感に沈む若いクィアの人たちに「自分のような人が世の中には他にもいて、それでも愛されるに値する」ということを示すエンパワーメントは確保できていたでしょう。
フンスを演じた“ノ・サンヒョン”のやさぐれたゲイな雰囲気も良かったですね。こういう役柄をやりたがる人は現在の韓国社会においてもなかなか出てこないのかもしれませんが、さすがドラマ『Pachinko パチンコ』であの名演をみせた“ノ・サンヒョン”なだけはあって、見事な佇まいでした。
このフンスにジェヒが揃ったときの、何と言うか、ノンコントロールの気持ちよさが心を軽くしてくれますね。2人は差別体験を共有し、友情という枠を超えた連帯の戦友になります。それは「男女の友情は成立するか?」みたいな陳腐な論題なんて軽く吹き飛ばすものです。ラストの多幸感は戦勝祝い。
『ラブ・イン・ザ・ビッグシティ』を観ていてちょっと複雑な気持ちになったのは、信仰深いフンスの母が息子の同性愛の性的指向をずっと嫌悪して拒絶し続けてきたのですが、終盤に“ルカ・グァダニーノ”監督の映画『君の名前で僕を呼んで』の鑑賞チケットが映され、おそらくそれを見て息子を理解しようとしていたんだなと暗示させるシーン。
ここの場面、エモーショナルな味わいをぶち壊して申し訳ないですけど、「『君の名前で僕を呼んで』はあまりオススメできないな…」とは真っ先に思いましたよ。あの映画、ゲイ映画ですけど、加虐的なコントロールを主題にしているし、あまり偏見を乗り越えさせるような効果はないじゃないですか。もっと親向けのLGBTQ入門書とかを薦めたい…。
でも映画として言いたいこともわかります。映画には「偏見に凝り固まった人の心を揺さぶる力」というのがあると、作り手は信じているのだろう、と。それはフンスの作家としての進路とも重なります。
一方で、映画とはマジョリティの観客にウケることが「成功」なのだろうか…とも私は観ていて自問自答したくはなりました。それは前述した本作の宣伝問題とも繋がることです。映画で理解が深まるならそれにこしたことはないけど、その映画のために別のかたちで踏みにじられるリスクも当事者は覚悟しないといけない…。そのリスクを背負うのって結局は弱い立場の当事者でいいの?…と。
だったらマジョリティ側の制作者や批評家がもう少しリスクを勇気を振り絞って手に持つことが、本来の平等なのではないでしょうか。
シネマンドレイクの個人的評価
LGBTQレプリゼンテーション評価
△(平凡)
作品ポスター・画像 (C)2024 PLUS M ENTERTAINMENT AND SHOWBOX CORP. ALL RIGHTS RESERVED. ラブインザビッグシティ
以上、『ラブ・イン・ザ・ビッグシティ』の感想でした。
Love in the Big City (2024) [Japanese Review] 『ラブ・イン・ザ・ビッグシティ』考察・評価レビュー
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