寡黙な少女には伝えたいことがある…映画『コット、はじまりの夏』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:アイルランド(2022年)
日本公開日:2024年1月26日
監督:コルム・バレード
児童虐待描写
こっとはじまりのなつ
『コット、はじまりの夏』物語 簡単紹介
『コット、はじまりの夏』感想(ネタバレなし)
キャサリン・クリンチ、堂々のデビュー作
「場面緘黙(ばめんかんもく)」という言葉を知っていますか? 以前は「選択性緘黙」という用語も使われていたのですが、最近は使用されない傾向にあります(精神神経学雑誌)。
これはたいていは子どもが発症する精神疾患のひとつで「特定の対人的状況(典型的には家庭)では十分な言語能力を発揮するが、他の対人的状況(典型的には学校)では一貫して言葉を話さない」という状態が継続するものです。
そんな精神疾患があるのかと初めて知った人もいると思いますが、実のところ私は子どものとき、この「場面緘黙」を経験しており、がっつりその当事者でした。
勘違いされやすいですが、言語発声能力がないわけではありません。わざと喋ろうとしないわけでもありません。なんというか上手く言葉にできませんが、沈黙の魔法にでもかかったように言葉を発することができません。躊躇なのか圧力を感じているのか、それさえもわからなくなり、いつの間にか言葉無しでそこに存在することに慣れてしまったり…。
「場面緘黙」の当事者ならすごくよくわかると思うのですが、「なんで喋らないの?」と質問されるのが一番困るんですよね。誰よりも自分がその疑問を抱いているし、答えがわからないので…。
周囲からは「無口」とか「人見知り」と見なされやすいですが、「場面緘黙」は必ずしもそういう性格の問題ではなく、本人の意思や個性では片付けられない状況に陥るものです。状況しだいではケアやサポートが求められます。
今回紹介する映画はそんな私の「場面緘黙」の経験を思い出して、その重なりを考えたくなる作品でした。
それが本作『コット、はじまりの夏』です。
本作はアイルランド映画です。アイルランドがどこかわかりますか? イギリスの左のとこね(すっごい雑な説明)。
アイルランドとイギリスとの複雑な対立の歴史は『ベルファスト』などでも一部が主題になっていますし、それを寓話的に表現した『イニシェリン島の精霊』なんて映画もありました。
でも本作『コット、はじまりの夏』はそんな歴史を描く作品ではありません。ほんとにこじんまりした、田舎に暮らすひとりの9歳の少女を描いた小さなドラマです。
この少女は寡黙でほとんど喋りません。本作のアイルランド語での原題は「An Cailin Ciuin」、英題は「The Quiet Girl」となっており、この寡黙さを強調するタイトルです。
本作の主人公の少女は、学校でも家庭でも居場所を感じておらず、孤立しています。しかし、ある日から夏の間、親戚の家に滞在することになり、そこで生活に変化が訪れる…というのが主な中身です。
このプレティーンになる直前の幼い子の物語であり、その子の視点で進むのが特徴です。大人は背景としてその子の周囲に出てくるだけです。
そんなささやかな映画なのにもかかわらず、公開されるいなや大評判。アカデミー賞で国際長編映画賞にもノミネートされました(その年の国際長編映画賞の受賞作は『西部戦線異状なし』で、他のノミネート作は『アルゼンチン1985 歴史を変えた裁判』『CLOSE クロース』『EO イーオー』でした)。
とくに本作で映画デビューとなった主演の“キャサリン・クリンチ”が好評を博し、IFTA賞(アイリッシュ映画&テレビアカデミー賞)で主演女優賞を史上最年少の12歳で受賞しました(最優秀作品賞も獲得)。経験豊富な大人勢を押しのけての受賞は本人もびっくりしたでしょうね(受賞時の反応はYouTubeで見られます。可愛いです)。
この『コット、はじまりの夏』を監督したのが、アイルランド出身の“コルム・バレード”。もともとドキュメンタリー作家で、アイルランドの映画史において重要な映画『Mise Éire』公開時の大衆の様子と政治的背景をまとめた長編ドキュメンタリー『Lorg na gCos(Finding the Footprints)』(2012年)で高く評価されていました。長編映画デビュー作となる本作『コット、はじまりの夏』でいきなり世界的に大注目の監督となったので、アイルランドを飛び越えて今後の活躍も期待されます。
アイルランドでは2022年の公開でしたが、日本では2024年にやっと公開となったので、ぜひこの『コット、はじまりの夏』を忘れずに要チェックです。
なお、本作は直接的な暴力描写はありませんが、児童虐待の環境を描いたものとなっていますので、その点は留意してください。
『コット、はじまりの夏』を観る前のQ&A
オススメ度のチェック
ひとり | :隠れた良作 |
友人 | :オススメし合って |
恋人 | :感動を共有して |
キッズ | :関心あれば |
『コット、はじまりの夏』感想(ネタバレあり)
あらすじ(前半):環境が変わると…
1981年、アイルランドの田舎町。「コット! コット! コット! どこ!?」と大きな声で呼びかけられる中、当のコットは無造作な草原で、背の高めな草むらに隠れるように寝そべっていました。むくっと起き上がり、よろよろと歩きだします。
辿り着いたのは小さな家です。コットはここで家族と暮らしています。父と母、そして姉妹たち。コットは物音で質素なベッドの下に隠れるように身を潜めます。
別の時間、机に並んで席に着き、父が来るとみんなが黙ります。コットはその前から喋っていません。
学校でも同じような態度です。うつむき、休憩時間も机にいます。男子が通り過ぎた揺れで飲み物をこぼし、濡れた服でとぼとぼと廊下を歩くしかないコット。走り去ったコットは敷地の外へ行き、ひとりで感情を押し殺します。
そんな生活の中、母親がまた妊娠したため、コットは夏休み中を親戚のキンセラ家の緑豊かな農場で過ごすことになりました。そこではショーンとアイリンという中年夫婦がひっそりと暮らしているのですが、コットはよく知りません。
車で父に送られ、コットは慣れない家の前に到着。するとアイリンはしゃがんで車から降りるコットを出迎えてくれました。もじもじと立つコットを優しく声をかけ、中へと案内してくれます。
ダイニングテーブルで父と一緒に座ると、簡単な食事がでてきます。やはり父と一緒だとコットは緊張します。
その後、父は車で去っていき、その姿をじっと見つめるコット。自分は本当にここでひとりになったことを実感しますが、すぐに順応はできません。
風呂に入るように促してくれて、ゆっくり足をバスタブにつけます。アイリンは丁寧に洗ってくれ、足指まで綺麗にしてくれました。コットは身を任せるだけです。
次に敷地内の井戸を見せながら、井戸は深いので水を汲む際には注意しないとダメだと警告をもらいます。そこで溢れる水を飲ませてもくれます。
1日が終わり、綺麗なベッドに寝かせてくれました。しかし、コットはおしっこを自分で上手くタイミングよくすることができず、失敗してしまいます。それでもアイリンは怒るわけではありません。
翌朝からアイリンとずっと一緒に生活することになりました。料理、掃除、洗濯、アイロン…そんな日常の家事をこなすということもコットには新鮮です。髪を整えてもらい、身なりもまたかなり綺麗になりました。
アイリンとは打ち解けたコットでしたが、ショーンとはあまり距離を縮められていません。寝る前もショーンは「おやすみ」とは言いますが、こちらに顔を向けることはなく、素っ気ないです。
それでもコットのことを無視しているわけではなく、ショーンにも事情があって…。
寡黙になる理由
ここから『コット、はじまりの夏』のネタバレありの感想本文です。
『コット、はじまりの夏』は説明的な映画ではありませんし、9歳のコットの視点で全編が描かれるので、なおさら見える範囲が狭い作品になっています。
まずコットが暮らすあの実家。冒頭から全く温かみがなく、なんかホラー映画でも始まるのかという、ちょっと怖い空気があるのですが、そのさりげない描写から、ここでコットは実質的にネグレクトを受けているのだろうということが察せられます。
というか、おそらくあの父であるダンは、妻に対しても子に対しても家庭内暴力(DV)の態度を日常的にとっているのだろうと推察できる雰囲気です。父が家に入って来たときに、その場にいる全員に緊張感が走るというのも、その怖さが身に沁み込んでいることを浮かび上がらせます。
妻(母)のほうは状況はよくわかりませんが、妊娠しても何か幸せな気持ちになっているとか、そういう気配は微塵もなく、抵抗力を失っている感じがひしひしと伝わってきます。
アイルランドのドラマ『バッド・シスターズ』みたいに、DV男にきっちり復讐してくれるとスカっとしますが、この『コット、はじまりの夏』はそういう物語ではないのでね…。ちょっとキツイですね…。
そんな中、コットの視点で描かれるので、その目線で映るあの両親の圧みたいなものが映画ではハッキリ現れていて、すごく嫌な感じです。
最近、『ヨーロッパ新世紀』とか『理想郷』とか、陰惨な田舎モノの映画ばかり観ていたので、「うわ、今回もまた怖い田舎だよ…」と覚悟することになりましたよ。田舎恐怖症になってる…。
でもそれで終わらないのが本作『コット、はじまりの夏』ですけどね。
なお、コットは寡黙で全然喋りません。学校でもそうですし、家でもそうです。家ではたぶん父に私語でもしようものなら怒られるのでそうなのでしょうけど、親の監視がない学校でも喋らないあたり、私は自分の経験からこの姿がすごく「場面緘黙」っぽいなと思いました。
もちろんコットが実際に場面緘黙なのかはわかりません。注意してほしいのは、場面緘黙は別に児童虐待を受けたことでそうなるわけではないということ。場面緘黙はその子のニューロダイバーシティな特性に左右されることが多いと言われています。外的要因と安易に結び付けてはいけません。
つまり、コットが喋らないことと、親からの虐待的な環境に身を置いていることは別物と捉えることもできます。現にコット以外のあの家の子はわりと喋っていそうでしたし。
これは本作が単に児童虐待を描く映画というだけでなく、複層的な立場にいる子を描いていると解釈できるということです。児童虐待かつ場面緘黙だと、その子の状況は一層深刻で、助けに繋がる糸口さえもありません。とても辛いですよね。
もうひとつの寡黙
そんな状況で学校でも家でも居場所が無いコット。しかし、夏休みの間にアイリンとショーンの夫妻の家に預けられ、全く新しい刺激を受けることになります。
ここからのシーンはコットがいかに心を開いていくかという繊細な展開が続きます。安心な場所として落ち着けると認識するまでの過程を本作は丁寧に描いていました。あの家で過ごすうちにかなり喋れるようになり、質問もいっぱいできるようになっていましたからね。本当は言いたいことがたくさんあるんですよ。
言葉以外だと、おしっこの演出で心理面を表現するのも、子どもらしい着眼点です。
全てはあの夫妻のおかげ。到着したときからのアイリンの態度が今までの大人と全然違いますからね。コットにしてみれば「こんな大人が実在するのか!」と驚きだったかもしれません。
一方で、このアイリンとショーンの夫妻もまたコットとは違う心の問題を抱えていました。それが最初に浮上するのは、ショーンが搾乳用のミルキングパーラーの掃除をしている最中に、コットがいなくなってしまったとき、ショーンは血相を変えて怒ってくるというシーン。
この怒りには理由があって、それはアイリンとショーンの夫妻にはかつて子どもがいて、しかしながら、事故で亡くなってしまったのでした。堆肥用の糞尿(スラリー)を作るための肥溜め(「スラリーストア」や「スラリーピット」と呼ぶ)に沈んで死亡してしまったようなので、相当に身近な死でショックだったのでしょう。
きっとあのアイリンとショーンの夫妻もその大切な我が子の死以降は寡黙だったのではないでしょうか。寡黙だった同士が出会い、共に触れ合うことで、互いに心が癒されていく。とても静かで、でも確かなケアがなされていました。
けれどもコットは戻らないといけません。本作は先ほども書きましたが、根本的な解決を描いていないんですよね。だから苦しい…。アイリンとショーンの夫妻もコットの実家での扱われ方に薄々気づいているので余計に…。これ、下手したら新たなトラウマをこの夫妻に植え付けかねないですよ。
しかし、この映画ではこのラストにエモーショナルな場面を作っています。ショーンと一緒にやり始めた郵便受けまでのダッシュのシーンがここで活かされます。あんなの…ショーンにしてみれば嬉しすぎるでしょうよ…。
さらにダメ押しのハグからの「パパ」という呟き。後ろから追いかけている実の父に向けた言葉ではないのは察しのとおり。ええ、私は、あの父は急に出現した熊とかにやられればいいのにとずっと思いながら観てました(残念ながらアイルランドには野生の熊はいません)。
もちろん今ならしかるべき専門機関とかに通報するのがベターなのはわかりますけど…。
『コット、はじまりの夏』はアイルランド語に包まれながら、“キャサリン・クリンチ”の名演を見守りつつ、ほんのわずかなひとときでもそれを永遠に味わいたくなる…そんな体験を与えてくれる映画でした。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 97% Audience 93%
IMDb
7.7 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
作品ポスター・画像 (C)Insceal 2022 コットはじまりの夏 コット、始まりの夏 ザ・クワイエット・ガール
以上、『コット、はじまりの夏』の感想でした。
The Quiet Girl (2022) [Japanese Review] 『コット、はじまりの夏』考察・評価レビュー
#アイルランド映画 #家族