ぼっちが日常アニメの主人公になる方法…アニメシリーズ『ぼっち・ざ・ろっく!』の感想です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:日本(2022年)
シーズン1:2022年に各サービスで放送・配信
監督:斎藤圭一郎
ぼっち・ざ・ろっく!
『ぼっち・ざ・ろっく!』あらすじ
『ぼっち・ざ・ろっく!』感想(ネタバレなし)
2022年は“ぼっち”の年
「ぼっち」というスラングが日本語にはあります。
これは「ひとりぼっち」の略で、主に学校など表の社会でひとりも友達がいない人を指します。基本的にはネガティブで自嘲的な意味合いで用いられ、寂しさや虚しさといった感情を伴いながら使用されるのが一般的です。他者に対して使うこともありますが、自己言及として使用されることも普通です。
なので「孤独」や「孤立」といった用語とはまた意味が微妙に異なってきます。孤立や孤独はサポートやケアがないような状況に陥っている人を指すという、社会用語的な用いられ方をするからです。
「ぼっち」は、いわゆる「リア充」といった友達が大勢いて人生を謳歌している人を指すスラングと対照的な位置づけで、これは(日本だけではないと思いますが)交友関係の多彩さで人としての評価が決まってしまうことへの…反抗というには弱々しい、劣等感の表明…みたいなものですかね…そういう社会規範が背景にあるからこそ生まれた単語でしょう。
「ぼっち」は「孤独」や「孤立」といった社会問題的な視点をあえて排除し、あくまで個人の劣等感だけで処理しようとしている言葉であり、スラングとして幅広く使えるという利便性がある一方で、支援や救済に繋がることはあまりありません。まさに「ぼっち」という用語自体が「ぼっち」です。どん詰まりですね…。
でも「ぼっち」はひとりではありません。なんか自己矛盾しているようですが、「ぼっち」当事者はひとりの状況かもですが、「ぼっち」当事者は世の中に無数に存在しているのです。日本のみならず世界中に「ぼっち」はいるので、「ぼっち」を題材にした作品もいっぱいあります。
『エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ』など海外では高評価を獲得する映画もあり、2022年はこれも「ぼっち」ドラマと言っていいでしょう、『ウェンズデー』が話題騒然となりました。
そんな2022年ですが、日本アニメ界隈でも年終盤は「ぼっち」アニメが大人気となりました。
それが本作『ぼっち・ざ・ろっく!』です。
本作は、“はまじあき”による4コマ漫画で、「まんがタイムきららMAX」にて2018年から連載されている作品のアニメシリーズ化です。
内容は趣味でバンドをやっている女の子たちを描いている日常モノ。この「まんがタイムきらら」系列でガールズバンドと言えば『けいおん!』が非常に有名ですが、『ぼっち・ざ・ろっく!』は明確に違いがであており、案外とダブらないようになっています。
まず主人公が「ぼっち」だということ。これは要の部分ですね。全体が「ぼっち」のオーラで漂っており、キラキラなガールズバンド日常アニメを自虐するような感じすらあります。そしてバンドをするにしても主な活動拠点は部活とかではなくライブハウスであり、ここもまた趣味とは言え、やや本格的な空気が漂っています。
物語自体はオーソドックスでとりわけ突出した個性があるわけでもないのですが、日常ギャグアニメらしく、ストレス無しで見やすいものになっています。同時にライブハウスのバンドものとして意外にディテールが細かく作られている面もあり、その二面性が魅力です。
そしてこの作品に欠かせない主題である「ぼっち」というキャラクター造形も、単なるギャグとしてネタにするだけでなく、最終的なタッチとしてはしっかり「ぼっち」のサポートやケアの話に持っていっており、そこも(意外と言ったら失礼ですけど)結構感心するところです。
だから本作は「ぼっち」作品だけど、ただの「ぼっち」じゃないんですよ。「孤独」や「孤立」といった社会問題的な視点をさりげなく描いているので…。
アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』のアニメーション制作を手がけるのは、『明日ちゃんのセーラー服』や『SPY×FAMILY』の「CloverWorks」。監督は『アイドルマスター SideM」の演出・作画監督を担当した“斎藤圭一郎”。脚本・シリーズ構成は『恋せぬふたり』の“吉田恵里香”です。
ぼっちな人にも、そうでない人にも、アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』は段ボール箱くらいのサイズの居場所を与えてくれる…はず。
『ぼっち・ざ・ろっく!』を観る前のQ&A
オススメ度のチェック
ひとり | :ひとりでじゅうぶん |
友人 | :友達がいるの? |
恋人 | :恋人がいるの? |
キッズ | :ぼっちでも大丈夫 |
『ぼっち・ざ・ろっく!』感想(ネタバレあり)
あらすじ(序盤):ぼっち、バンドがしたい!
幼稚園ではかくれんぼの輪に入れず、小学生では遠足で先生とお弁当を食べるしかなく、部活も入らず、放課後は即帰宅。スマホに届くのは親からのメッセージか、クーポンのお知らせだけ。
それが後藤ひとりという中学1年生の実態でした。
ある日、居間でボーっとしているとテレビで大人気バンドのメンバーがインタビューに答えており、「子どもの頃は友達もいない奴でした」と口にします。そして「バンドは陰キャでも輝けるんで」と発言。それを耳にした後藤ひとりの中で何か変わりました。
「お父さん、ギター貸して」
バンドを組んだら私みたいな人間でももしかしたら輝ける? 後藤ひとりの心に希望が灯ります。
3年後。自室の押し入れの中で虚しくギターを弾く後藤ひとりの姿がそこにありました。チヤホヤとは程遠い現状。ギターはかなり上達しました。でも中学では何のイベントも起こらず、高校生活も始まって1カ月ですが、すでに高校も絶望的です。
押し入れで作詞作曲するしかない日々。唯一の趣味と言えば、人気バンドのカバー動画を「ギターヒーロー」名義でアップすること。コメントもついており、少し承認欲求が満たされます。
でもライブがしたい…。バンドを結成したい…。けれど人に話しかけるのも無理…。
いざギターを持って教室にいけば、勝手に話題になって、誰か話しかけてくれるはずと考えますが、影が薄いせいか何も起きず。バンド少女感をだしたのに…。
私の居場所はネットだけ…と公園で落ち込んでいると、急に話しかけてくる女子高校生が現れます。下北沢高校2年の伊地知虹夏と名乗り、後藤ひとりもテンパりながら「秀華高校1年です」と目を伏せながら挨拶。
伊地知虹夏いわく彼女のバンドで今日だけサポートギターしてほしいとのことで、本来任せる予定だった子が逃げてしまったそうです。後藤ひとりが何も言わないうちに「ありがとう、さっそくライブハウスへGO!」と引っ張る伊地知虹夏。
オシャレな下北沢を練り歩き、後藤ひとりがその慣れない街の空気に呼吸困難になりそうな中、ライブハウス「STARRY」に到着。伊地知虹夏と同じバンド仲間のベースの山田リョウに紹介されます。
自分はきっと上手い、そう言い聞かせて後藤ひとりはその場で演奏してみます。しかし、思ったよりも下手だと言われてしまい、自分がひとりで弾くことしかしておらず、一緒に合わせて弾くのに慣れていないことを痛感。
現実逃避モードに突入するも、友達しか来ないからと励まされ、しかも2人はギターヒーローを知っているようで、あの演奏は凄いと褒めます。自分がその正体だと言い出せないものの、嬉しくなる後藤ひとり。
山田リョウは後藤ひとりに「ぼっち」とあだ名をつけ、バンド名は「結束バンド」だと教えてもらいます。
いざステージで演奏。楽しい。初めてのバンドの演奏に参加して、新しい充実を感じます。
見た目は惨めですが…。
ぼっちよりも、ぼっちの周りが大切に
アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』の主人公である後藤ひとりはまごうことなき「ぼっち」です。いつもピンクのジャージなどのファッションスタイルなのはだいぶ変わってますが、人前にでることを大の苦手とし、完熟マンゴーダンボール・ボディアーマーでフル装備しないと当初はライブハウスで演奏もできませんでした。
ただ、伊地知虹夏たちとバンドを組めた時点でもうシチュエーションとしては全然「ぼっち」ではないのです。たぶん学校でも「ぼっち」と見なされていないかもしれません。
しかし、後藤ひとりはとにかく「“ぼっち”メンタル」であり、その思考から抜け出せず、行動は常に歪になってしまいます。一方で「チヤホヤされたい」という強い承認欲求もある。面倒くさいです。
とは言え、本作では後藤ひとりは人畜無害として描かれ、そんなに角が立つ存在ではありません。でも冷静に振り返ると、後藤ひとりはやっぱりなんだかんだで迷惑を生じさせてしまっている面もあります。
むしろ本作で注目するべきは、「ぼっち当人をどう描くか」ではなく、「ぼっちの周りをどう描くか」が大事…ということかな、と。
『ぼっち・ざ・ろっく!』はわかりやすいですけど、“ぼっち”主人公の周りの人間の許容力を異様に高くすることで“ぼっち”主人公を成り立たせていますよね。イジメなどはもちろん、差別とかも一切存在しない…究極的に理想の世界です。親もバンド仲間もライブハウスの大人たちも観客さえも全肯定。後藤ひとりの奇行も面白いで済ましてくれます。
この作品姿勢の良さは、トラウマを煽るような要素が皆無になるということです。後藤ひとりが“ぼっち”思考を全開にしていても、嫌な感じは濃くならず、痛々しさを無邪気に笑えるものの嘲笑うほどの見下しとして行き過ぎることもない。
これはこの手の日常ジャンルだからこそできることで、表象に過度なマイナス面が生じづらいという見やすさを最大限に活かしています。
私も時々思うことですが、何らかのマイノリティを描くなら、こうした日常ジャンルの特性は大いに参考になります。変に当事者取材を基にして当事者が経験した嫌な出来事を映像で生々しく表現ばかりしていても、ある種の「フラッシュバックの映像的再現」にしかならないので、エンパワーメントに辿り着く前に「耐久力の弱い当事者」なんかはリタイアしてしまうことが少なくないんですよね。
日常ジャンルの利点を上手く活かして作品に取り込んでいる実写ドラマと言えば、同じくガールズバンドものである『絶叫パンクス レディパーツ!』がありましたが、題材は違えどかなり『ぼっち・ざ・ろっく!』の雰囲気に一番近い海外実写作品かもです。
ライブハウスは居場所、そして自己主張の場
日常モノの利点を挙げてきましたけど、逆に欠点は社会の現実が漂白されやすいということです。とくにこういうワイワイ戯れる女の子たちを題材にした日本のアニメは、表象として理想化がいきすぎなことがままあります。一歩越えればそれは単なる「“女の子”化」による消費です。
アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』も“女の子”化による消費は確かにありますが、かといって主題そのものを剥奪するほどのものではないかなと思います。本作は絵柄は可愛らしいですけど、意外にリアルを映しています。
例えば、後藤ひとりはさっきから「ぼっち」「ぼっち」と連発して書いていますし、作中でもそう言ってますけど、実態から見れば明らかに「社会適応障害」です(おそらく診断を受けることができるレベルでしょう)。日常アニメだとその社会不安障害という症状さえも透明化しかねないですが、あえてここでは言い切りましょう。
見方を変えれば、そんな社会適応障害の高校生がどうやって社会に溶け込めるかの過程を一歩一歩描いているとも受け取れます。
そこでライブハウスの出番です。教室では20~30人の生徒に囲まれることになり、それは後藤ひとりには耐えられないストレスですが、ライブハウスという教室の代替となる空間では常時関係を持つ人間の数がグっと減るので、なんとか自分で対処できる。後藤ひとりにはこの空間サイズがちょうどいいんでしょう。
本作は規範を外れた人たちの居場所としてのライブハウスやバンドを描いています。『パリピ孔明』なんかと同じですね。
伊地知虹夏も母が早くに亡くなり父親も家におらず、ライブハウスが居場所になりました。独りを好む山田リョウもライブハウスがジャストフィットしています。虹夏の姉である伊地知星歌のような大人たちにとっても同じです。高校中退のPAさんや、廣井きくりのような人も集います。みんなに合わせられることしか自分にはないのではと密かな劣等感を抱える喜多郁代も一度は離れますがまた戻ってきます。
ライブハウスはただ音楽をやるための場ではない、居場所になっているということ。そして音楽活動が自己主張の場でもあり、この2セットが実は揃っている。こうやって考えると、かなりライブハウスは社会弱者支援に貢献しているんですね。
悲しいことに行政支援乏しくコロナ禍で苦境に立たされた日本各地のライブハウス。きっと「STARRY」みたいなライブハウスもどこかで潰れてしまったところもあるでしょう。あらためてライブハウスの大切さを身に染みて感じます。
和気あいあいな作中でも、金欠の中でどこでアー写を撮るかとか、ライブハウス・バイトの収入がチケットノルマ補填に消えていくとか、貧困描写も紛れており、この業界の困窮っぷりが窺えるし…。
最終話では後藤ひとりは文化祭ライブをそこそこ成功させて(床にダイブしたけど)、何気ない足取りでバイトに向かうシーンで終わります。ささやかな終わり方ですが、ぼっちにとっては巨大な前進でした。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer –% Audience –%
IMDb
?.? / 10
シネマンドレイクの個人的評価
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日本のアニメシリーズの感想記事です。
・『ロマンティック・キラー』
作品ポスター・画像 (C)はまじあき/芳文社・アニプレックス ぼっちざろっく!
以上、『ぼっち・ざ・ろっく!』の感想でした。
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