3者のあらすじは異なれども真実はひとつ…映画『最後の決闘裁判』の感想です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:アメリカ(2021年)
日本公開日:2021年10月15日
監督:リドリー・スコット
性暴力描写 動物虐待描写
最後の決闘裁判
さいごのけっとうさいばん
『最後の決闘裁判』あらすじ
1386年、百年戦争に揺れる中世フランス。騎士で好戦的なカルージュには妻のマルグリットがいた。そのマルグリットは夫の旧友ル・グリに性的に乱暴されたと訴えるが、目撃者もおらず、ル・グリは無実を主張。真実の行方は、カルージュとル・グリによる生死を懸けた「決闘裁判」に委ねられる。勝者は正義と栄光を手に入れ、敗者は罪人として死罪になる。男たちは激しく衝突し、観衆は見世物として群がるが…。
『最後の決闘裁判』感想(ネタバレなし)
信じない男たちの決闘を描く
性暴力の被害者を支援したければ真っ先にできることがあります。それは「believe(信じること)」です。
「Start By Believing」という性暴力被害者支援組織によれば、性暴力を受けても5人に1人しか報告せず、現実ではほとんどの性暴力事件が闇に埋もれたままになっているそうです。
なぜ報告しないのか。その大きな理由のひとつが「信じてくれないから」です。世間は性暴力被害者に冷たいです。被害の告発を素直に受け止めず、疑いの目を向け、ときに嘘と決めつける。別にそんな証拠など何もないのに、なぜかやたらと「冤罪かもしれない」と距離をとる。「証明しろ」と迫り、「騒いでいるだけだ」と嘲り、「陥れようとしている」とあげくに被害者の方を悪者扱いする。こうしたシチュエーションが性暴力被害者をさらに精神的に追い込むというセカンドレイプになっていることは、ドラマ『アンビリーバブル たった1つの真実』でも描かれているとおり。
今回紹介する映画はそんな性暴力被害者の置かれている孤立した状況を、これまた一風変わった物語構造で提示してみせるというチャレンジを試みた作品です。それが本作『最後の決闘裁判』。
本作は14世紀末のフランスを舞台にしており、実際に行われたという決闘裁判を題材にしています。ある男の妻が別の男にレイプされたと訴え、証拠不十分ということで、その決着は妻の夫である男と、容疑者の男との殺し合いの一騎打ちに持ち込まれる…という展開。今ではあり得ませんが、当時はそういう決闘で裁判の決着をつけるということがありました。この題材になった決闘裁判はフランスの歴史上の記録に残るかぎり最後の決闘裁判になったとのことで、だからタイトルが『最後の決闘裁判』なんですね。
『最後の決闘裁判』はハッキリと3幕構成になっており、被害者の夫の視点、容疑者の男の視点、そして被害者の女の視点…この3つで同じ時間軸が描かれます。この仕掛けによって性暴力事件に対する社会の認識を炙り出すというわけです。
意外なのは脚本を書いたのが、“ベン・アフレック”と“マット・デイモン”のコンビだということ。2人は『グッド・ウィル・ハンティング 旅立ち』(1997年)の脚本で大成功を収めた仲良しコンビ。俳優としてキャリアを積むようになってからもやっぱり仲は良さそうです。その2人がこんな性暴力を題材にしたフェミニズムなシナリオを手がけるとは…。正直、そういうの無縁そうだったから…。
でもここに大きな貢献をしたであろうもうひとりの脚本家が加わっています。それは“ニコール・ホロフセナー”であり、あの『ある女流作家の罪と罰』の脚本を手がけた人です。この“ニコール・ホロフセナー”を参加させるという判断は『最後の決闘裁判』のクオリティを支える柱になったと思います。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』もそうでしたけど、こうやって作品のフェミニズムな側面の補強がしたいと思ったときに得意な人の力を素直に借りるという製作の姿勢はいいもんですね。
そしてこの人も忘れてはいけない。監督を担う“リドリー・スコット”です。この題材・物語なら“リドリー・スコット”監督は適任すぎます。大得意分野ですから。『最後の決闘裁判』はものすごく“リドリー・スコット”監督らしいテイストになっており、その要所要所については後半の感想で語ることにします。
脚本の“ベン・アフレック”と“マット・デイモン”は出演もしているのですが、他の出演陣としては、性的暴行をする容疑者の男役で“アダム・ドライバー”が抜擢。“アダム・ドライバー”は作品によって良い奴だったり、悪い奴だったり、変な奴だったり、振れ幅が本当に大きいなぁ…。また、物語の重要なポジションに立つ被害者の女性を演じるのは、ドラマ『キリング・イヴ』や『フリー・ガイ』で魅力全開で人気急上昇中な“ジョディ・カマー”。ちなみに“ジョディ・カマー”は『スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け』で主人公の母親役で一瞬登場していて、その作品は“アダム・ドライバー”が悪役を演じていたので、今回の『最後の決闘裁判』ではまたも因縁が…ということに。
『最後の決闘裁判』は上映時間が153分もありますので観るのはやや大変ですけど、見ごたえはあります。それにしても日本では同日公開で『DUNE デューン 砂の惑星』もあったし、長時間大作がひしめき合っていましたね。
当然、直接的な性暴力シーンが少なくとも2回登場し、加えて被害者が非難されるようなセカンドレイプ場面もありますので、視聴には注意してください。
あと、これはあまり忠告する人はいないのですけど、思いっきり馬を虐待する描写もあるのでそこもね。
オススメ度のチェック
ひとり | :監督&俳優ファンも |
友人 | :関心がある者同士で |
恋人 | :ロマンス気分はゼロ |
キッズ | :暴力描写が目立ちます |
『最後の決闘裁判』感想(ネタバレあり)
あらすじ(前半):全て真実です
1386年12月29日、パリ。冷たい雪が降り積もるこの凍える地で、ある場所に大勢の群衆が集まっていました。異様な熱狂、その原因は今から行われる決闘裁判です。
「我らが君主フランス国王の命により、許可なく武器を持つ者は死刑に処し財産を没収する。ここに集う者のうち、剣や短剣の携帯が許されるのは国王の特別な許可を得た者だけである。決闘者どちらも馬上か徒歩で戦うこと。その者が好む武器防具を用いてよい。ただし呪文や魔術などがかけられた武器や善なるキリスト教徒に対し神や聖なる教会が禁じるものは使用を許されない。決闘者のどちらであれ、邪悪な方法で作られた武器を試合場に持ち込まぬこと。背く者は神の敵として反逆者として殺人犯として罰せられる」
試合場の周囲の観衆席のひときわ高い位置にはシャルル6世が座り、ひとり雰囲気を楽しんでいる要素。その正反対の位置には、これから戦うことになるひとりの男の妻であるマルグリット・ド・カルージュが堅い表情で立っています。
いよいよ2人の決闘者が馬に乗って登場。ジャン・ド・カルージュとジャック・ル・グリ。厳重に防具で身を固めています。
「始めよ」
その合図とともに2人は全速力で突撃し、互いに向けて武器を向け…。
始まりは、ジャン・ド・カルージュとマルグリットの出会いからです。ジャンは激しい気性の粗さとその闘争心から戦では大活躍していました。そこへ旧友の従騎士のジャック・ル・グリが訪ねてきます。2人は共にアランソン伯ピエール2世に忠誠を誓います。
そんなジャンは税金の支払いに苦労しており、財産を得る手段としてマルグリットと婚約し、持参金を受け取ることにします。マルグリットはジャンを献身的に世話しますが、戦果をあげても自分を認めてくれない世間にジャンは苛立ちます。
ある日、ル・グリとまた対面し、マルグリットを紹介してル・グリの頬にキスさせます。ジャンはル・グリの方が良い褒美を貰っていることを知り、焦ります。
そして戦地へと赴きますが、そこから帰ってくるとマルグリットが思わぬ告白をします。
「ル・グリにレイプされた」
その妻の告発がル・グリとの決定的な亀裂を生じさせ、事態は裁判に持ち込まれますが…。
男性中心の復讐劇の欺瞞を暴く
一般的に男が主人公の作品で作劇上で性暴力(被害者はヒロインなど主人公に近しい女性)が登場する場合、たいていはその主人公である男がその性暴力に怒り、相手への復讐に走ります。つまり、男のパワーアップのためのトリガー・イベントとして「女性への性的暴行」が利用されています。最近だと『宮本から君へ』なんかはまさにそのタイプで、邦画にはとてもよくあるパターンです。
こういう演出はつまるところ、「女に乱暴する奴は許さない!」という男の正義感をアピールするための代物であり、そういう物語構造の作品にとくに男性観客が満足しやすいのは「男は女を守るものである」という“男らしさ”が満たされるからでもあるのでしょう。
ただ、やはりそれは男性が女性を一方的に消費しているだけであり、レイプとは別の搾取になっているわけで、その点は大いに問題のある構造です。
『最後の決闘裁判』はその男性中心的な「女性への性的暴行」への認識に一石を投じるどころか、巨大な槍を突き刺すような作品でした。
表面上は妻への性的暴行に怒るジャン・ド・カルージュが、憎き加害者のジャック・ル・グリに復讐する…典型的な復讐劇。でも本作はそういう男性が酔いしれやすい復讐劇の欺瞞を暴く物語です。
もちろんこれは過去の話ではなく、今も続く欺瞞です。
真相はわかりきっている
まず『最後の決闘裁判』は3幕構成で同じ事件を3人の視点で観ていくという『羅生門』的なアプローチです。“リドリー・スコット”監督、『羅生門』好きそうだもんなぁ…。
ただ、宣伝には歴史ミステリーとありますけど、事件の真相を解き明かしていく謎解きはありません。答えは出ています。疑う余地もないのです。マルグリットがレイプされたことは事実。彼女が嘘をついていないことも第2幕のジャック・ル・グリの視点で嫌というほどによくわかります。
では第3幕は何のためにあるのかというと、マルグリットがル・グリだけでなく、あらゆる男性たち、もっと言えば社会全体に蹂躙されているという現実を提示するためです。
そして決闘というかたちで男たちのプライドを満たす場に利用されてしまう。そこに自分の尊厳なんてものは一切気にされることもない。だから夫が勝っても何も嬉しくない。結局は男の栄誉の糧になってしまっただけなのですから。
本作では冒頭で最初に映されるのが衣装を身に着けるマルグリットの姿で、そこにわずかに彼女なりの誇りをともなう主体性が感じられる…その演出がまたやるせないもので…。“ジョディ・カマー”の全編を通しての毅然たる表情も良かったです。
全体的に本作は、「性暴力をテーマにした基礎講座第1回」という感じであり、主に男性側が学ぶのに使われる素材みたいな印象も受けました。なのでこの題材をよく理解している側にしてみれば、物足りないというか、もっと時代的にも前に進んだ踏み込んだ描写もできたのではとも思わなくもないです。
それこそ『プロミシング・ヤング・ウーマン』とかが生まれている今ですからね。
『最後の決闘裁判』を観ると「レイプ・リベンジ」というジャンルがなぜ大事なのかわかった気もします。男性に復讐させるとろくなことにならないんですね。やっぱり当事者が復讐しないと。倫理観はさておき復讐であっても当事者に主体性を与えないと容易に男社会に消費されてしまうのです。
決闘も性行為も馬鹿馬鹿しい
そんなこんなで批評的には新しさはない『最後の決闘裁判』なのですが、個人的には全編に渡って満ち溢れている“リドリー・スコット”監督のクリエイティブなオーラがたまらなく良かったです。
そもそも“リドリー・スコット”監督はあの決闘裁判という文化自体をバカにしているというか、茶番だと思っている節があります。思えば監督のデビュー作『デュエリスト/決闘者』も決闘が題材でした。
決闘裁判というのは要するに「人間に真実は判断できない → だったら決闘させよう → 神様は正しい人の味方だから勝った方が真実だ」というロジックで一応は成り立っているものです。その論理の荒唐無稽さをあえて露呈させているのが本作で、それは冒頭の「呪いの武器を使うな」みたいな注意アナウンスでも示されるとおりです。“リドリー・スコット”監督は無神論者なので、宗教を徹底的に踏みつけてきますね。
また、“リドリー・スコット”監督は性行為自体もどんなに美化しようとも根本的には暴力的だろうと看破しているところもあって、それは初期の『エイリアン』から最近の『レイズド・バイ・ウルヴス 神なき惑星』でも、ずっと一貫している姿勢です。
それに加えて“男らしさ”の情けなさも遠慮なしに浮き彫りにします。とくに終盤の決闘シーン。本来であればカッコいい場面になりそうなところを映像的にはダイナミックでありながら、でもどこか滑稽に見せる。防具がガンガン激突して弾け飛んで露わになるのは鎧で大きく見せていただけのちっぽけな男です。
そう言えばこの本作の決闘する2人の男。解釈を変えると、あのジャン・ド・カルージュは“ベン・アフレック”演じるアランソン伯ピエール2世に好意があって、そのアランソン伯ピエール2世をめぐる奪い合いが決闘に繋がったという、同性愛的な読みもできなくはないと思うのですが、そうなってくるとあの決闘の様相も印象が変わってきますね。
今回は史実(かつ原作あり)なので“リドリー・スコット”監督も抑えた方だと思います。もし好きにしていいよとなったら、宇宙から謎の生命体が飛来してあの決闘を眺めていた人間どもを根こそぎ殺しまくるオチになっていたかな。私はそんな映画も好きですけど。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 86% Audience 79%
IMDb
7.7 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
関連作品紹介
リドリー・スコット監督の映画の感想記事です。
・『エイリアン コヴェナント』
・『オデッセイ』
・『ゲティ家の身代金』
作品ポスター・画像 (C)2021 20th Century Studios. All Rights Reserved. ザ・ラスト・デュエル
以上、『最後の決闘裁判』の感想でした。
The Last Duel (2021) [Japanese Review] 『最後の決闘裁判』考察・評価レビュー