好きですよね?…映画『アメリカン・フィクション』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:アメリカ(2023年)
日本では劇場未公開:2024年にAmazonで配信
監督:コード・ジェファーソン
人種差別描写 恋愛描写
あめりかんふぃくしょん
『アメリカン・フィクション』物語 簡単紹介
『アメリカン・フィクション』感想(ネタバレなし)
じゃあ、どういう黒人がいいんだよ!?
映画やドラマの有名作や話題作に黒人(アフリカ系)のキャラクターが登場する。すると一部の人はこう反応します。
「黒人がでてくる意味がある?」…と。
作品内での黒人キャラクターの登場は「ポリコレの産物」だと信じて疑わぬ人たち。「黒人は『ブラックパンサー』にでてくるならわかるけど…」などと”わかってない”っぷりを露呈して宣う人たち。
アフリカ系の人たちは文字どおり「本来はアフリカにしかいないもの」と思っているのか。乱暴なスラングや、銃・ドラッグしか特徴づけるものがないと思っているのか。
それは黒人という人種に疎い日本社会特有の歪みではなく、どうやらアメリカ社会でもたいして変わらないようで…。
今回の映画はそんな浅はかな人種認識に「いい加減にしろよ!」と魂の叫びが炸裂する…そんな作品です。
それが本作『アメリカン・フィクション』。
トロント国際映画祭の観客賞(ピープルズ・チョイス・アワード)に輝き、アカデミー賞の作品賞にもノミネート。受賞は難しいでしょうが、でも私の個人的なイチオシはやっぱりこの映画です。この映画が賞のステージにあがることで、本作の皮肉が完成されるというものですから。
『アメリカン・フィクション』はどういう物語かというと、ひとりの黒人作家男性が主人公で、出版社に原稿を渡しても「もっと黒人っぽいやつがいい」と言われます。そこでヤケクソでものすごくベタベタな黒人っぽい小説を書いたら、それが大ヒットしてしまう…そんな痛烈な風刺が突き刺さるコメディです。
出版業界はもちろん映画業界まで皮肉で飲み込み、その範囲は映画を観ている観客も当然のように巻き込んでいきます。他人事でいられる人はいません。
作り手が大企業の金儲けありきの業界の価値観に翻弄され、自尊心を傷つけられ…というのは日本含めてどこでも起きていることなので共感できる人は多いと思いますが、今回は黒人差別に焦点が当たり、かなりその問題構造をつまびらかに大っぴらにします。なので黒人差別構造を理解していない人が見ると、何を風刺しているのかそもそもわからないということはないにせよ、風刺が「被害的共感」どまりで「加害的自覚」には届かないこともあるかもです。
とにかくすごくメタ的に練り込まれたプロットにはなっています。
『アメリカン・フィクション』を監督&脚本したのは、“コード・ジェファーソン”。ドラマ『グッド・プレイス』やドラマ『ウォッチメン』、ドラマ『ステーション・イレブン』に携わってきたライターであり、今回の『アメリカン・フィクション』で長編映画監督デビューとなります。
制作スタジオには“ライアン・ジョンソン”設立の「T-Street」が参加。『Fair Play フェアプレー』といい、エグイ社会風刺作品を近年は続々と送り込んできており、今や最注目のプロダクションではないでしょうか。
『アメリカン・フィクション』の主演に立つのは、ドラマ『ウエストワールド』や『ラスティン: ワシントンの「あの日」を作った男』など多彩な役をこなせるベテランの“ジェフリー・ライト”。今作の役回りは相当にトリッキーな演技を要求されますが、難なく演じ切っており、見事です。
共演は、『ネクスト・ドリーム ふたりで叶える夢』の“トレイシー・エリス・ロス”、ドラマ『インセキュア』の“イッサ・レイ”、『WAVES/ウェイブス』の“スターリング・K・ブラウン”、『フォールアウト』の”ジョン・オーティス”、ドラマ『シャークス in ハリウッド』の“エリカ・アレクサンダー”、『デッドプール』の“レスリー・アガムズ”など。
2023年は優等生的な話題作がデカかったこともあり、この捻くれた問題児の『アメリカン・フィクション』は陰に埋もれがちですが、でも2023年という今の時代を映す作品なのは間違いないです。
日本では残念ながら劇場公開ならず、「Amazonプライムビデオ」での配信となってしまいましたが、ぜひチェックしてみてください。
『アメリカン・フィクション』を観る前のQ&A
A:Amazonプライムビデオでオリジナル映画として2024年2月27日から配信中です。
オススメ度のチェック
ひとり | :見逃せない良作 |
友人 | :風刺コメディ好きと |
恋人 | :一部に恋愛要素あり |
キッズ | :大人のコメディです |
『アメリカン・フィクション』感想(ネタバレあり)
あらすじ(前半)
ホワイトボードには「THE ARTIFICIAL NIGGER」「FLANNERY O’CONNOR」と書かれています。
それを見つめるひとりの白人の学生が手をあげ、「その言葉は間違っている。差別用語だ」と指摘。しかし、教壇に気楽そうに座る黒人講師のセロニアス・”モンク”・エリソンは「これはアメリカ南部文学の講義なのだから、古風な考えや汚い言葉もでてくる。でも背景から言葉の意味は理解できるはずだ」と淡々と口にします。
耐えきれなくなったのか、その学生は感情をもらしながら教室をでていき、その後に響くようにモンクは遠慮なく声を張り上げます。
後に教員陣に部屋に呼び出されるモンク。たびたび問題発言が多く、前回は「君の先祖はナチスか?」とドイツ人に言ったこともあります。けれどもモンクは全く悪いと思っていません。
モンクは作家として最近は本を全然出しておらず、しばらく休みをとるように勧められます。実情、出版社にだした新作原稿の反応が返ってくるも、「黒人の経験に基づき、アイスキュロスの二次創作を書いた意図は?」と書かれ、モンクの鬱憤は溜まるばかり。警官に殺される若者やシングルマザーの話を書けというのかと不満を抑えるのに必死です。
結局、故郷ボストンに戻り、そこでブック・フェスティバルに参加。しかし、そこで自分が前に立った会場はしょぼいものでした。
それでも盛況な会場もありました。それは最近「We’s Lives In Da Ghetto(ゲットーに生きて)」という本を大ヒットさせた黒人女性作家のシンタラ・ゴールデンのステージです。満席で、白人インタビュアーを前にシンタラが饒舌に話しています。
「どんなに優れた作品でもほとんどはニューヨーク出身の白人男性が書いた離婚物語。黒人の物語はめったにない」「私たちの物語はどこ?と思いました。私たちのレプリゼンテーションは?」
インタビュアーも聴衆も聴き入る中、シンタラは自身の作品内の、いかにも黒人らしい口調のセリフを読み上げます。それをモンクは歯がゆく睨むしかできません。
モンクは医師をしている妹リサ・エリソンのもとに行きます。リサの運転する車で久しぶりに気軽な会話です。離婚してからまたタバコを吸うようになったらしく、くだらない軽口に笑みもこぼれます。
実家に到着。家政婦のロレインが温かく迎え、さらに「モンキー」と抱きしめてくれるのは母アグネスです。リサいわく、母は認知症の兆候が目立っているそうです。
ふと地元の本屋で自分の本を探してみます。店員に聞くと「アフリカ系アメリカ文学」の棚にありました。「この本は黒人文学とは関係ない」と文句を言い、勝手に本を移動させるモンク。目立つところにはあのシンタラの本がたくさん陳列されていました。
ある日、リサが心臓発作で苦しみだし、病院で緊急処置を受けるも帰らぬ人になってしまいます。
葬儀は静かに行われ、「死ぬならイドリス・エルバかラッセル・クロウとヤっている最中がいい」とそんなユーモアたっぷりの本人の言葉を読み上げるモンク。家を出た兄で整形外科医のクリフも参加し、遺灰を浜辺にまきます。
さて、これからどうしたものか…。
酔えば何でもいい? 有毒でも?
ここから『アメリカン・フィクション』のネタバレありの感想本文です。
『アメリカン・フィクション』は、フィクション内でも隔離される人種のような感じで、現代の商業主義の中で平然と起きる人種差別を描いています。それは露骨に人種差別用語を使うとか、雇用差別するとかじゃない、もっと仕組まれた厄介な差別の形態です。
一見すると「差別しませんよ」「多様性を支持しますよ」といけしゃあしゃあと言ってのけていても、その内実はどうしようもなく平等や差別というものを1ミリも理解していない。無論、そんな奴らですから、表層的にしかレプリゼンテーションというものもわかっていません。
今作で描かれる大手出版社や映画会社の有り様は酷いものですが、まあ、悲しいことに現実はこんなものです。
「”black enough”ではない」との“見識的”なコメントに始まり、主人公のモンクがまだわずかに教養を滲ませている「My Pafology」というタイトルさえもヤケクソで「Fuck」に変えて「これならバカでも(問題だと)わかるだろう」と思ったら、そのタイトルまで気に入ってしまうあまりにデリカシーのない能天気な企業人(白人)たち。
仲介エージェントのアーサーも「結局は酔えばいいんだ。質は関係ない」とウイスキーに例えて説明しますが、これはもうその次元ではないです。ただのアホです。ウイスキーじゃなくてエタノールをボトルに詰めて飲ませても「美味しい!売れるぞ!」って言ってるレベルです。
注意したいのは、本作はマイノリティであること、とくに黒人差別が土台となる構造を描いたものだということ。なので「私もこの気持ちわかるよ」と白人が言ったり、「ライターの仕事はみんなこうだよね」と日本で活動する日本人が言ったら「おいおい」ってなります。そういう「わかったふり」が何よりもうんざりなんだよって趣旨の物語なのですから。
ちなみにこの『アメリカン・フィクション』、“パーシヴァル・エヴェレット”著の原作があって、そのタイトルは「Erasure」といいます。これはいかにもギャングっぽい殺伐とした単語ですが、「黒人の表象の抹消」という意味でのダブル・ミーニングになっています。原作ではモンクが「スタッグ・R・リー」の偽名で書いた物語がそのまま丸ごと掲載されており、メタな構成です。映画では脚色して、最後は映画化することで、映画業界への皮肉を大幅増量しています。
ステレオタイプな売り方をしないとやっていけない黒人の悲壮感をコミカルに描いた作品として、ドラマ『ラップ・シット』なんかと並ぶものがありますね。
「お前が言うな」カウンターパンチ
そんな世間の差別無知に怒りをぶちまける『アメリカン・フィクション』の主人公モンクですが、本作は見かけほど冷笑的なプロットにはなっていないと思います。
その理由は、モンクの立ち位置にあって、彼は人種差別構造における被害者的な側面も当然あるのですが、同時に特権性も抱えているからです。
モンクのエリソン家は、大富豪ってわけではないですが、家計には困っていません。医学系の経歴があり、芸術的教養がある家庭だということは、実家に絵画などが飾ってあることからもわかります。家政婦がいたり、ビーチハウスを持っていたりと、生活に贅沢がある痕跡が序盤から窺えます。
つまり、モンクは言ってしまえば、いいところの“お坊ちゃん”であり、自分だけやってみたい文学を学ばせてもらい、寵愛を受けながら若き人生を歩んだのでしょう。
だからモンクが「黒人として扱われたくない」とボヤいたり、一部の黒人文化を低俗とみなしているのは、彼自身が上流生活を送れていたからこそです。にもかかわらず、著名な黒人ジャズ・ピアニストのセロニアス・モンクに因んだ名前がつけられているあたりからして、自己矛盾しているのですが…。
黒人でもみんな同じではありません。それをモンクは反論として自分で使うこともあれば、一方でその黒人の大雑把な括りに乗っかって利用する、ズルさをみせることもあります。
例えば、冒頭の授業風景。モンクは黒人講師という“当事者”立場を利用して学生にかなりモノを言ってますが、彼は北部のマサチューセッツ州出身の裕福な黒人です。そのモンクがアメリカ南部文学(しかもフラナリー・オコナーの「The Artificial Nigger」)を教えているってところでもうツッコミどころがあります。本場の南部黒人からすれば「お前がそれを教えるのかよ」って言われそうです(それを言われない前提をわかったうえで立場の弱い学生にだけ強気であんな発言をしているので、やっぱりあれはハラスメントでしょうね)。
しかし、エリソン家は父は家族を捨てて白人と駆け落ちし、母が認知症でフェードアウトしたことで、完全に権威を失います。没落していく上流階級…しかもそれが黒人ともなれば没落の速度はあっという間です。
そうやって微かにあった特権性さえも失ったモンクが、尊厳を捨ててステレオタイプな黒人になるしかないという展開に滑稽さとモノ悲しさが滲みます。
当事者だからこそリアルを描けない
『アメリカン・フィクション』の主人公であるモンクは、「リアルってなに?」という壁にぶち当たった人種的マイノリティの代表でもあります。こういうテーマ性は、こちらはアジア系ですが『非常に残念なオトコ』でも見られました。
当初のモンクは「古典文学などのアカデミックな作品」に関心があるようで、やむを得ず「ミーハーなブラックスプロイテーション的な作品」を書くようになり、不本意ながらヒットします。
リアルを描くなら自身の人生をもっと映した作品でもいいはずですが、それは妙に避けます。実際のところ、そこに最も手近なリアリティがあるにも関わらず…。
家族と縁を切って家を出た父、その父の不倫を知りながら家を守った母、男2人が家を出た後に家族を支えていた妹のリサ、ゲイを隠して女性と結婚して家庭圧力が薄れた今はハメを外している兄のクリフ…。とても保守的な上流黒人家庭のドラマがすでに満載です。
憧れのメイナードと結婚を決めた家政婦のロレイン、いろいろな人生を経験してきたであろう弁護士のコラライン…。他にもドラマチックな素材がいっぱいあり、作中ではそれらにもところどころでスポットライトが当たります(それもラストで映画内映画というオチがつくのでどこまで真実かわからないのですが…)。
モンクがこのリアルを避けたのは、やっぱり現実と向き合いたくなかったからなのでしょうか。
よく「当事者ならリアルを描けるでしょ?」と言われがちです。でも当事者だからこそリアルを描きにくいこともあるでしょう。それは実力とかの問題じゃなく、業界など世間がそのリアルを適切に評価してくれなかったり、歪めて解釈したり、そうした障害に当事者の作り手は直面しやすいからです。
作中でもニュー・イングランド書籍協会の審査員に多様性枠で選ばれた際に、シンタラと同席し、黒人のトラウマをネタにしている罪悪感を吐露します。意外にもシンタラもそれを感じながらも迎合(pandering)せざるを得ない自分に引っかかりを感じつつ他に道はないと諦めてもいるようで、人種的マイノリティの作り手の苦悩が見えます。
本作のラストは、これまでの全てがモンクがワイリー・バルデスピノという映画プロデューサーに提案したシナリオのようで、撮影スタジオに行き着きます。最優秀文学賞の発表会場でも「Fuck」の受賞が発表され、モンクがうんざりしてコララインのもとに戻って謝罪するロマコメか、ステージに上がるもFBIに撃たれて絶命する悲劇か…。ワイリーは悲劇を採用し、モンクは何も言いません。救いようがない業界です。
当事者性を持つクリエイターが本当に好きなように創作できる世界はあるのか。搾取ではないレプリゼンテーションの居場所はどこか。今この瞬間にそう悩んでいる人がいる…。
『アメリカン・フィクション』はフィクションのようでフィクションではないです。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 94% Audience 96%
IMDb
7.6 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
作品ポスター・画像 (C)Amazon MGM Studios アメリカンフィクション
以上、『アメリカン・フィクション』の感想でした。
American Fiction (2023) [Japanese Review] 『アメリカン・フィクション』考察・評価レビュー
#ジェフリーライト #出版業界 #映画業界