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映画『ミツバチと私』感想(ネタバレ)…その名前で私を呼んで

ミツバチと私

その名前で私を呼んで…映画『ミツバチと私』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。

原題:20.000 especies de abejas(20000 Species of Bees)
製作国:スペイン(2023年)
日本公開日:2024年1月5日
監督:エスティバリス・ウレソラ・ソラグレン
LGBTQ差別描写
ミツバチと私

みつばちとわたし
『ミツバチと私』のポスター。子どもが森や水辺に佇む姿を映したデザイン。

『ミツバチと私』物語 簡単紹介

夏のバカンスでフランスからスペインのバスク地方にやってきて、多くの親戚に囲まれることになった8歳の子ども。同年代の他の子どもたちと一緒に何気なくこの地で日々を過ごしていた。子育てなどに追われる母もなるべく寄り添ってくれる。しかし、その子にはずっと気がかりなことがあった。それは周囲からの自分の性別の扱いであり、その子は産まれたときに名付けられた自分の名前を拒絶していた。
この記事は「シネマンドレイク」執筆による『ミツバチと私』の感想です。

『ミツバチと私』感想(ネタバレなし)

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トランス・キッズをレビューしないで

トランスジェンダーに対する偏見や差別は2024年も陰惨極まる状況ですが、とくにトランスジェンダーの子どもに対する攻撃は執拗です。

しかし、反トランスな立場の人たちと言えども、直接的に子どもを攻撃するようなことはせず(そんなことすればさすがに分が悪いですから)、その代わり「私たちは子どものためを思ってるんだよ」という態度、いわばレトリックで差別をコーティングしてぶつけてきます。

例えば、トランスの子どもに対する「ジェンダー・アファーミングケア」。「性別肯定ケア」とも呼ばれるこれは専門家の診察のもとに必要な医療ケアを保護者も含めて同意のうえで処置するもので、専門家の間でもこれはその子のメンタルヘルスの向上に有効だというコンセンサスが認められています。

しかし、反トランス派はそのケアを「児童虐待である」と歪曲し、有害視しています。中には思春期前の子どもにホルモン療法や性別適合手術などの医療措置が施されるかのような誤解を与える論調も平然とみられます。「児童切断」などセンセーショナルな言葉で不安を煽るのは常套手段です。

2024年4月10日に公表された「キャスレビュー(Cass Review)」と呼ばれるトランスジェンダーの専門家ではない小児科医がまとめた医療レポートが、反トランス界隈でジェンダー・アファーミングケアを否定する根拠としてもてはやされたりとPinkNews、知識のない人にはその手口は一見するとまともな医療見識のように見えてしまうのが厄介です。

では反トランス派が結局は子どもに何をしようとしているのかというと、ジェンダー・アイデンティティを否定し、その子を生まれたときに割り当てられた性別に縛り付けようとしているだけです。それは以前から「転向療法(コンバージョン・セラピー)と呼ばれ、最近は「ジェンダー・エクスプロラトリー・セラピー(Gender exploratory therapy)」と名前を変えつつも、要するに専門家から子を死に追い込む危険な試みだと批判されてきた代物にすぎませんXtra Magazine。そうした偏見は悲惨な事件に繋がることも…。

こんなふうに常に周りの大人の喧騒に振り回されてしまうトランスの子どもたち。こうなってしまうとその子の実生活における実像はますます見えなくなることが多いです。こうして不可視化が進み、トランスジェンダーはまるで架空の存在かのように印象付けられてしまいます。

でもそれに対抗する流れもあります。最近は、性別違和を抱く幼い子を取材した『リトル・ガール』、ティーンを卒業しようとする子を追いかけた『ジェーンと家族の物語』など、トランスジェンダーの子どもたちの実像に寄り添うドキュメンタリーもポツポツと観られるようになってきました。

そんな中、今回紹介する映画は、トランスジェンダーの子どもの実像を巧みに物語化した作品です。

それが本作『ミツバチと私』。英題は「20000 Species of Bees」です。

本作はスペイン映画で、性別違和を抱える8歳の子どもを主人公にしており、家族や社会のコミュニティとの関わりを丁寧に映し出しています。

『ミツバチと私』の監督は、今作が長編映画監督デビュー作となる新鋭の“エスティバリス・ウレソラ・ソラグレン”。バスク地方で16歳のトランスジェンダーの少年が自殺したという記事を読んだのが本作の製作のきっかけだそうですThe Guardian。そして、トランスジェンダーの子どもとその家族のための地元の支援団体に足を運び、リサーチすることになります。しかも、その自死した16歳の少年の家族がその団体のメンバーだったらしいですが、「彼らの痛みを利用して利益を得ようとしているような人になりたくない」と考え、独自の物語を考えることにしたとのこと。

こうして生まれた『ミツバチと私』は、“エスティバリス・ウレソラ・ソラグレン”監督の謙虚な姿勢と確かなストーリーテリングの上手さが噛み合って、非常に上質なトランス当事者の体験に根差した物語となっています。私もこれまで観てきたトランス・キッズのフィクションの中ではベスト級に好きですね。

主人公を演じた子役の”ソフィア・オテロ”はその繊細かつ自然な演技で、2023年の第73回ベルリン国際映画祭にて史上最年少の最優秀主演俳優賞(銀熊賞)を受賞。ちなみに主人公にはシスジェンダーの男の子をオーディションしたくないと当初から決め、「女の子」を起用したとのこと。なお、プライバシーに配慮し、起用された子がシスかトランスかは公表していません。

『ミツバチと私』はトランスジェンダーの子どもを暴く見世物な映画ではありません。あなたの眼差しを自覚させる映画です。

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『ミツバチと私』を観る前のQ&A

✔『ミツバチと私』の見どころ
★トランスの体験を的確に捉えた物語。
★露悪的ではない繊細な表現。
✔『ミツバチと私』の欠点
☆マイナーな映画なので目立っていない。

オススメ度のチェック

ひとり 5.0:じっくり味わう
友人 4.0:素直に語り合って
恋人 4.0:関心ある相手と
キッズ 3.5:子どもの感覚を育んで
↓ここからネタバレが含まれます↓

『ミツバチと私』感想/考察(ネタバレあり)

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あらすじ(前半)

ひとりの子どもが横になって目をつむっています。その隣では母のアネが話しかけていますが、話してごらんと誘っても、その子は喋りはせずに、だんまりです。

早く起きるように促し、服をベッドに投げます。今日は出かけないといけません。夏のバカンスでフランスからスペインの田舎に向かうのです。

両親は車でも口論しています。母のアネは父のゴルカと何か揉めているようですが、子どもたちには口を挟めることではありません。後部座席の真ん中に座り、肩までかかる髪をときおり手でなぞるように触るその子。赤と白のボーダーの服にオーバーオールを着ており、「ココ」と呼ばれています。

ココの両隣りは兄弟姉妹のエネコネレアが座っています。3人のぎゅうぎゅうな席ともおさらばで、次は電車です。スペインまであとは一直線。向かうはバスク地方です。

やっと到着すると、そこは親戚もいて、賑わっていました。母はいろいろ知り合いとの談笑にふけっています。人が多いのでココは少し緊張します。みんな揃ってくるのでしばらくはこうした人の視線は避けられません。

夜には焚火を囲んで子どもたち同士でお喋りです。初めての子もいます。

「名前は?」と聞かれ、ぽつりと「ココ」と呟くと、「そんなの名前じゃないよね?」と素直に疑問をぶつけられます。ココは何も言い返せません。

ある日、祖母と一緒に自然の中を満喫します。ここでは人目もなく、森の空気だけが自分を囲んでいます。ココもリラックスしていました。

けれども、その帰り道、町を歩いていると、道に座っている人たちから口々に「可愛い孫娘さんね」「孫息子でしょう」といろいろ言われます。何気ない言葉。ココはそのときもただじっとその言葉を背中に感じるしかできません。

別の日、トイレにて母が思わず「アイトール」という名前を口にし、ココはこれまでにないほどに感情を爆発させ、その名前を拒絶します。

そうやってこの休暇の日々が過ぎ去っていきますが…。

この『ミツバチと私』のあらすじは「シネマンドレイク」によってオリジナルで書かれました。内容は2024/09/06に更新されています。
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あの子でなく周囲の視線が変化する

ここから『ミツバチと私』のネタバレありの感想本文です。

『ミツバチと私』の主人公であるルシア(本人のジェンダー・アイデンティティを尊重して、この感想では以降からこの名前で表記します)は、日本語圏内の本作の紹介だとよく「ジェンダー・アイデンティティ(性同一性/性自認)に悩んでいる」と説明されがちですけど、実際に本作を観ると、ルシアの中では確固たるジェンダー・アイデンティティがあり、そんな性別の認識に揺れているわけではないように思います。

ルシアを悩まさせているのはむしろ「ジェンダー・ロール」のほうであり、社会からの「性別は男と女の2つで、生まれたときに割り当てられたものから外れてはいけない」という…いわゆる「シス・ノーマティビティ」と呼ばれる規範でしょう。

早いと2~3歳頃からジェンダー・アイデンティティの意識が芽生え始めると言われていますが、当然、ジェンダー・ロールもその年齢から理解し始めます。「女の子らしいってこういうことか」とか「男の子だとこうすることを求められるんだな」とか、そういう感覚がわかってきます。

“エスティバリス・ウレソラ・ソラグレン”監督は当事者団体の対話の中で、「変わったのは子どもたちではなかったということです。子どもたちはいつも同じままでした。変わったのは他の人の視線でした。変化するのは、私たちの子どもたちへの見方ではないでしょうか?」と、整理できたようですThe Guardian。本作はまさしく「その子の見た目」ではなく「周囲の視線」の変化を描いていますよね。

本作はこの「視線」という着眼点が的を射ているので、当事者にも納得感のある映画に仕上がっているのだと思います。余計な蛇足的批評がないというか…。よくありがちな(そしてダメなパターンでもある)性別の変化をエキセントリックなものとして描いたりはしませんし、同情でも終わらせません。

冒頭から初登場時のルシアの姿をみるだけであの子がいかにしてその視線で突きつけられる規範に向き合っているかが示されます。

まず、比較的「男の子」でも「女の子」でも着そうな中性的な服装であり、でもこれはおそらくルシアにとっての無難な妥協点なのでしょう。そして「ココ」という呼ばれ方も(人名というよりは子を呼ぶときのざっくりした言い方だそうです)、これくらいしかないというやむを得ずの妥協。唯一、髪を肩まで伸ばしているのがルシアなりの“許された自己表現”であり、何度も髪をいじる仕草からそれが本人の中で重要なんだろうなということが伝わってきます。あの髪の長さにだけルシアのジェンダー・ユーフォリアが微かに漂っている感じです。

バカンス先の田舎につくと、それはもう視線だらけの空間。当事者には相当にツラい場です。私ならずっと部屋に籠ってると思う…。

何気ない言葉に傷つき、でも子どもなので大人に反論なんてできるわけもなく、同年代の子にも上手く説明できない。もどかしさが自己嫌悪にだって繋がるでしょう。

それでも最後に自己を貫き、ドレスで人前に立とうとするも、それさえも土壇場で挫けてしまい、あげくに記念撮影ということで「見せたくない自分」を永久に記録されそうになる…。もうやめてくれという追い打ちです。

そしてエンディングがまたエモーショナルな物語的演出になっています。デッドネーミングではなく、あの子が呼ばれたい名前でその名を叫ぶ。あの瞬間の喜び。それが視聴者のユーフォリア(幸福)にも重なる。それでいい、それだけで良かったんですよね。

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ミツバチの性別規範は残酷だから

『ミツバチと私』がさらに巧みだなと感じたのは、ジェンダー・アイデンティティを描くだけにとどまらず、バスク・コミュニティを通して、シスジェンダーにも無視できないジェンダー・ロールの辛さを描いている点です。

本作の舞台はバスク地方です。フランスとスペインの両国にまたがるエリアであり、バスク人という固有の歴史を持つ民族が長年暮らしています。ルシアもバスクのルーツのようで、あの場にはたくさんのバスクの人たちがおり、営みがあります。

一般的にバスク・コミュニティは母系社会だとよく言われがちですが、それは「女が男よりも優位に立てる」みたいなものではないことが、本作では淡々と映し出されます。

本作のほとんどは女性たちが映されるのですが、皆何かしらの「女性の役割」をしている姿ばかりです。その役割を逸脱することは、この狭いバスク・コミュニティにとってやすやすとできるものではありません。

本作ではタイトルどおり養蜂が登場し、ミツバチが印象的に使われていますが、このミツバチの生態とも重なりますよね。

ミツバチも母系社会で、働きバチはみんな雌です。ちなみに、ミツバチの性別の決定は人間とは違って、性染色体では決まりません。受精卵(二倍体)から生まれた蜂はになり、未受精卵(染色体数が通常の二倍性の個体の半数になっている個体を「半数体」と呼ぶ)から生まれた蜂はになりますNature。こういう性決定のシステムを「半倍数性(Haplodiploidy)」と呼びます。

しかし、ある条件下だと二倍体の“雄”が生まれることがあります。ところがこの二倍体の“雄”は生まれるとすぐに他の働き蜂に食べられてしまい、存在できません。ミツバチの世界は性別の役割が厳格で、残酷です。

バスク・コミュニティという巣もそんな感じに見えます。ジェンダー・ロールに苦悩するシスジェンダーの女性にとっても、ジェンダー・アイデンティティを肯定されないトランス女性にとっても、この世界は過酷。それはバスク・コミュニティだけではないのも言わずもがな…。

ルシアの母はわりとルシアの意思を尊重しようと努力していますが、単独では難しいです。なんとなくあの母の中には「このコミュニティで”女でいる”ことはそんなに良いものではないのに、なんでうちの子はわざわざ”女”でありたいのか?」と根本的に引っかかってそうにも思えます。

でもルシアはそれでも“女の子”なのです。ジェンダー・ロールの押し付けや女性差別にこれから苦しむでしょう。それでも…。ルシアは“女の子”に憧れているわけではない。“女の子”の楽しい部分だけを味わいたいという選択的な嗜好願望に動機付けられているわけでもない。ただ、存在がもう“女の子”なのです。少なくとも“男の子”ではないのは確か。

そのルシアの体感を母は受け止めます。

セクシュアル・マイノリティをめぐる親と子の関係を描く映画は、それこそ日本の“是枝裕和”監督の『怪物』など最近もいくらでもありますけども、『ミツバチと私』は受け止める側の親の描写も社会構造を緻密に理解して物語化しているあたりが丁寧で、そこが好感でした。

完璧な親である必要はありません。世の中には世界屈指の億万長者でありながらSNSを我が物にしてその空間を差別的言説で満たして自分のトランスジェンダーの娘をいじめている最低最悪な親もいますけどLGBTQ Nation、そんな非道な奴にさえならなければ、それでひとまずはじゅうぶん。

その子が親の傍で安心して横になれるなら何よりも嬉しいですよね。

『ミツバチと私』
シネマンドレイクの個人的評価
9.0
LGBTQレプリゼンテーション評価
◎(充実)
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関連作品紹介

トランスジェンダーを主題にした作品の感想記事です。

・『エニシング・イズ・ポッシブル』

・『ロッコーのモダンライフ ハイテクな21世紀』

・『片袖の魚』

作品ポスター・画像 (C)2023 GARIZA FILMS INICIA FILMS SIRIMIRI FILMS ESPECIES DE ABEJAS AIE 20000スピーシズ・オブ・ビーズ みつばちと私

以上、『ミツバチと私』の感想でした。

20000 Species of Bees (2023) [Japanese Review] 『ミツバチと私』考察・評価レビュー
#トランスジェンダー