人生の結末そのものは改宗できない…映画『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:イタリア・フランス・ドイツ(2023年)
日本公開日:2024年4月26日
監督:マルコ・ベロッキオ
児童虐待描写
えどがるどもるたーら あるしょうねんのすうきなうんめい
『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』物語 簡単紹介
『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』感想(ネタバレなし)
理解不能な信じられない事件
あなたに子どもがいるとします。あなたは自分の子どもを育てる親です。あなたとその子、親子水入らずで家庭でも仲良く過ごしていました。
でもあなたの子どもが連れて行かれます。強制的に。有無を言わせずに。親や子の意思は関係なく…。
これは犯罪ではありません。正当な手続きです。
誰がそんなことを? それは教会です。
教会? なんで? どういうこと? …たぶんわからないことだらけだと思いますが、当然です。意味不明ですから。
しかし、これが現実に起こったことなのです。そして現実はもっと意味不明でした。
そんな理解不能な信じられない事件を描いた映画が今回紹介する作品です。
それが本作『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』。
本作は19世紀にカトリック教会がボローニャに住んでいた7歳になる少年を両親のもとから連れ去り、世界で大論争を巻き起こした史実を主題にしています。「そんなことあったの?」とにわかには信じ難い話なのですが、実話なのです…。
タイトルの「エドガルド・モルターラ」はその子の名前。邦題の副題には「ある少年の数奇な運命」とありますけど、数奇なんて次元じゃないと思う…。
ちなみにその連れ去りが起きたのは1858年です。場所はボローニャで、現在ではイタリアの都市ですが、当時はまだ今のようなイタリアという国はなく、複数の小国で成り立っており、「イタリア統一運動」と呼ばれる政治情勢の中にありました。なので厳密にはイタリアではありません。
この政治的な不安定さが今回の事件の背景として重要にはなってきます。とは言え、そんなに歴史的知識は必要ないので心配せずに鑑賞してOKです。
『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』で題材となったこの事件は、あの“スティーヴン・スピルバーグ”も映画化を試みたらしいですが、今回、イタリア映画として着手してみせたのが、イタリアの巨匠”マルコ・ベロッキオ“でした。
”マルコ・ベロッキオ“は1939年にイタリアのピアチェンツァで生まれ、1965年に『ポケットの中の握り拳』で長編映画監督デビュー。その出だしから国際的に高評価を受け、作品を重ねれば重ねるほどに名監督としての地位を確固たるものにしました。
”マルコ・ベロッキオ“監督は政治的な立ち位置がかなり明白で、イタリア共産党に入党していたこともあるので、とても体制に批判的です。『夜よ、こんにちは』(2003年)や『夜のロケーション』(2022年)などイタリアの極左テロ組織「赤い旅団」を題材にした映画もあれば、イタリアのファシズム独裁者の”ベニート・ムッソリーニ”の最初の妻”イーダ・ダルセル”を描いた『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』(2009年)、さらにはイタリアの有名なマフィアである”トンマーゾ・ブシェッタ”の生涯を描いた『シチリアーノ 裏切りの美学』(2019年)と、とにかく権力者を映し出すのが好きな人です。
本作『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』も、子どもの連れ去りというショッキングな事件の背後にいた教皇ピウス9世を実質的には風刺批評するような一作とも言えなくもありません。
『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』はカンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品され、そこではとくに賞に輝いてはいませんが、イタリア国内の賞ではしっかり大絶賛。84歳のこの巨匠はまだまだ現役です。
俳優陣は、『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』の“パオロ・ピエロボン”、『甘き人生』の“ファウスト・ルッソ・アレジ”や”バルバラ・ロンキ”と、”マルコ・ベロッキオ“監督作の常連が揃っています。
題材の事件の渦中にいる子どもを演じるのは、本作でデビューの子役の”エネア・サラ”、その青年期を演じるのは、『蟻の王』で映画デビューした“レオナルド・マルテーゼ”です。
”マルコ・ベロッキオ“監督作を1度も観たこともない人でもぜひ。『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』は、保守的な宗教権力の問題に関心がある人にもオススメです。
『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』を観る前のQ&A
オススメ度のチェック
ひとり | :題材に関心あれば |
友人 | :シネフィル同士で |
恋人 | :デート気分ではない |
キッズ | :大人のドラマです |
『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(前半)
夜、ボローニャの街のある家で、男女はキスし、男は階段を降りて出かけていきました。それを見送った女性は別の部屋でふと誰かの祈りの声を耳にし、覗いてしまいます。そこには寝ている赤ん坊を前に男女が熱心に祈りを捧げていて…。
6年後、ボローニャのユダヤ人が多く暮らす地域に住居をかまえるモルターラ家。エドガルドはこの家の6番目の子どもです。遊び相手は兄弟で、家の中で走り回り、今日も元気です。寝る前はみんなでユダヤ教の祈りを捧げるのがいつものこと。
ある夜、カトリック教会の教皇ピウス9世の命を受けたという者たちがぞろぞろと家に入ってきました。父のサロモーネ(モモロ)や母のマリアンナ・パドヴァーニは、何事かと不安な顔。その来訪者は、寝ている子どもたちを呼んでくるように命じます。そしてその中のエドガルドに注目します。
そしてエドガルドを連れて行くという信じられないことを言い出します。何でも何者かにカトリックの洗礼を受けたからというのが理由らしいです。教会の法に則れば、洗礼を受けたエドガルドはキリスト教徒でない両親が育てることはできないとのこと。しかし、熱心なユダヤ教徒であるサロモーネとマリアンナには寝耳に水です。全く身に覚えもありません。
父はエドガルドがさらわれると思って焦り、窓に抱えて連れて行き、下にいる者に投げ落とそうとしますが、やはりできません。怖い思いをしたエドガルドは怯え、母の服に隠れます。
両親ももう抵抗できないと悟りました。母はエドガルドとの最後になるかもしれない夜を過ごします。父は諦めきれず直談判に足を運ぶも、無力でした。
こうしてエドガルドは強制連行されてローマに連行され、改宗したユダヤ人の子どもたちのための寄宿学校で暮らすことに決定しました。
抱えあげられ、見知らぬ人に容易く運ばれるエドガルドにはわけがわかりません。「パパ!」と泣き叫ぶも、馬車は出ていき、両親との悲しい別れを経験します。
この新しい家で、夜、布団をかぶってひとり祈るエドガルド。祈るのは以前の家でいつも口にしていた「Shema Yisrael」です。
しかし、ここはカトリック教会の世界。幼いエドガルドはまだ状況が理解できないままに、見よう見まねで両手を合わせて教会で祈り、唱えます。
その頃、両親は我が子を取り返す策を模索していました。自分たちだけでは不可能なので、ユダヤ人コミュニティや国際社会の力で世論を動かせないかと試行錯誤します。
対するこの一件の背後にいる教皇ピウス9世はエドガルドの存在を知り、寵愛するようになっていき…。
気持ち悪いグルーミング寓話
ここから『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』のネタバレありの感想本文です。
『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』はもしこれが“スティーヴン・スピルバーグ”が映画化していたらこの史実の事件を『ミュンヘン』や『ブリッジ・オブ・スパイ』のようにリアルなドキュメンタリーチックに演出してドラマを盛り上げたでしょう。しかし、”マルコ・ベロッキオ“は全く逆のアプローチで、あえてリアリティを捨てて残酷な寓話として描いており、これがまた独特の味わいになっています。
とくに権力者への風刺です。本作で権力者として君臨するのは教皇ピウス9世。第255代ローマ教皇で、31年7か月という最長の教皇在位記録を持つという、歴史上でも屈指の権力の蜜を吸いまくった人物です。
本作はこの教皇ピウス9世を遠慮なく滑稽に描きまくり、そのタッチはもはやダーク・コメディ。自分の風刺画(しかもわざわざアニメーションで動かす)を机に並べて、いじけるように憤慨したり、悪夢にうなされたり、言動が子どもじみています。
でも権力は絶対に手放したくないんですね。前述したように、当時のイタリアのあの半島はイタリア統一運動の激動期の終盤にあり、サルデーニャ王国などの小国が分散する中、それぞれに大国などの権力的な思惑が隠れており、緊張状態にありました。当時のローマ教皇庁は「教皇領」という地域を支配しており、軍事力のある大国には勝てないので戦争敗北の恐怖に怯えつつ、それでも権力維持に躍起でした。
作中でも1870年9月20日のローマ占領が映し出されますが、そこでローマのアウレリアヌス城壁にある城門「ピア門」をイタリア軍が突破し、ローマはイタリア王国の一部となります。つまり、ここであの教皇ピウス9世の権力はやっと潰れます(バチカンに引きこもるのですが…)。
その本作では終始どうしようもない”子ども大人”である教皇ピウス9世ですが、エドガルドを可愛がります。これも権力の保持というか、単に一度手にしたものを奪われたくないという我が儘な感情の発露にすぎないのでしょうけど、ただ、この映画内では、この教皇ピウス9世のエドガルドに対する行動が非常に気持ち悪い…言ってみれば「グルーミング」として露骨に描かれていました。
意味のない2度目の洗礼で大事そうに膝に乗せる特別扱いっぽさとか、かくれんぼで服の中に隠してあげるという仕草とか、ものすっごく気色悪いです。”マルコ・ベロッキオ“監督はこれらを不気味なユーモアとして描くので余計に…。仰々しくおどろおどろしいBGMとか使ったりね…。
もちろんこの演出は、『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』などで題材になっている、その後に現代で発覚する神父による児童への性的虐待事件なんかと重ねるような意図があるのでしょうけども…。
子どもの自己決定権を権力は奪いたがる
権力者はさておき、『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』はエドガルドという子どもの視点でこの社会の不条理を映し出しもします。
一貫して描かれるのは、子どもの自己決定権が奪われることです。今回は信仰の自由が対象ですが、それにとどまらず、親元にいる権利や居住の権利など、あらゆる侵害が付随してきます。
本作では、エドガルドの実家のユダヤ教と、連れ去られた教会でのキリスト教…2つの宗教の狭間に立たされたエドガルドの葛藤が滲み出ます。祈りが対比される演出が印象的です。
誘拐後にエドガルドは模倣することでキリスト教に馴染んでいきます。実に子どもらしい行為です。周りに合わせるしかできない。でもこれは本当に信仰と言えるのか?という疑問を観客に抱かせます。そもそも信仰とは自らの心から沸き上がってくるものでは…と。
実際のところ、エドガルドにとって一番大切なのはユダヤ教でもキリスト教でもなく、親と一緒にいることであり、本人はそれを何よりも望んでいます。久しぶりに再会した母親に思わず感情をだしてしまうシーンなど、辛い描写がいくつもありますが、エドガルドの中には「良い子にしていれば、いつか自分の望みが叶うのでは…」という希望があったはず。
そのエドガルドが夜に抜け出し、イエス像が動き出す幻覚を見るシーンは象徴的です。まるで疲れたような背中を見せるそのイエス・キリストは、エドガルド自身の「象徴として祭り上げられることの重荷」を表現するかのようで…。
エドガルドがこうなってしまったのは、メイドの女性が何気ない不安な心配事から洗礼をしてしまったからであり、そんな些細なことでこの誘拐を正当化できることに驚きですが、もう理屈なんでどうでもいいんですね。権力者にとっては信仰心の権威を保つのが重要なので。それは司法さえも覆せません。
最終的にエドガルドは青年になって文字どおり手懐けられた結果、命もわずかな母を改宗しようとします。本人の意思を無視して…。その行為ゆえに兄弟たちから事実上追い出されてしまいます。
「リンボ」(カトリック教会において洗礼の恵みを受けない人が死ぬと死後に行き着く場所のこと)への不安がこの事件の引き金ですが、皮肉なことに洗礼を受けたゆえにエドガルドは家族という居場所を永遠に失いました。
ラストでエドガルドの幼い頃のあのシーンが繰り返されるのがまた切ないです。
日本では本作と同じく4月に『オーメン ザ・ファースト』が公開され、こちらも保守的な宗教権力によって自己決定権が剥奪されることの恐怖を描いていたのですが、『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』は史実ベースなのでよりゾっとします。
本作の出来事、「さすがに昔の話でしょ。もうこんなことないよね」と思うかもしれませんが、現代社会でも残念ながら形を変えて起こっています。
その現場が宗教が背景にある反LGBTQです。例えば、転向療法と俗に呼ばれる「性的少数者の未成年を異性愛者に変える試み」が宗教的に推し進められていたり(ドキュメンタリー『祈りのもとで:脱同性愛運動がもたらしたもの』)、トランスジェンダー医療ケアを子どもに受けさせた親からその子を引き離すことを合法化する法案が宗教勢力からの支持を得た政治家によって推進されたり…。
権力は真っ先に子どもを管理したがる…それはいつの時代も変わりません。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 84% Audience –%
IMDb
7.0 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
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第76回カンヌ国際映画祭の受賞作の感想記事です。
・『落下の解剖学』(パルム・ドール)
・『PERFECT DAYS』(男優賞)
作品ポスター・画像 (C)IBC MOVIE / KAVAC FILM / AD VITAM PRODUCTION / MATCH FACTORY PRODUCTIONS (2023) エドガルドモルターラ
以上、『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』の感想でした。
Rapito (2023) [Japanese Review] 『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』考察・評価レビュー
#宗教 #キリスト教 #誘拐